第10章:世界を動かす手

1. 運命の糸を紡ぐ者


8月上旬、東京は猛暑の中にあった。「Memories Eternal」の中央制御室では、大城戸将人が巨大なホログラム画面の前に立っていた。画面には、リアルタイムで変化する世界地図が映し出されていた。


「各地域の数値を表示」将人の声が静かに響く。


瞬時に、世界中の様々なデータが地図上に浮かび上がった。経済指標、気候変動予測、社会不安指数など、人類の未来を左右する無数の要素が、複雑な相関図として可視化されていた。


将人は操作パネルに向かい、慎重に指示を入力し始めた。「アフリカ中央部の紛争地帯、シミュレーション開始」


画面上で、該当地域が拡大表示される。複雑な計算が瞬時に行われ、様々な未来の可能性が次々と表示されていく。


「驚異的だ...」中村綾子が小声で言った。「これなら、あらゆる未来をここで選択、決定できる...」


将人は無言で頷き、さらに指示を続けた。「南米の経済危機、対策シナリオ分析」


再び、画面上のデータが目まぐるしく変化する。数分後、最適な対策案が表示された。


「これを各国政府に提案すれば、危機を回避できる確率は97.8%」高橋拓也が報告する。


将人の目に、満足げな色が宿った。しかし、その奥には何か別の感情も垣間見えた。


「次は...」将人が言いかけたとき、警告音が鳴り響いた。


「異常です!」鈴木美咲が慌てて報告する。「中東地域で予期せぬ変動が...」


将人は素早く状況を把握し、冷静に指示を出した。「緊急対応プロトコルを実行。各国首脳への通達を準備」


研究チームが必死に対応する中、将人の頭の中では別の思考が巡っていた。


「この力で、千紗、君の夢はかなう...次は...」


しかし、すぐに彼は我に返り、現状に集中した。


数時間後、危機は回避された。研究チームからはほっとした溜息が漏れる。


「見事な対応でした、先生」綾子が感嘆の声を上げた。


将人は静かに頷いたが、その表情には達成感と共に、何か深い思いが宿っていた。


「これで、世界はまた一歩、安定に向かった」将人が言った。「だが、まだ道のりは長い」


その言葉の裏の意味が解る人物は、もはや彼のそばにいなかった。彼にまっすぐに意見し、本音を言い合える人物は、先日、プロジェクトから抜けていった。


制御室を後にする将人の背中を、チームメンバーたちが見送る。彼らの目には、尊敬の念と共に、僅かな不安の色も浮かんでいた。


外では、夏の陽が燦々と照りつけていた。世界を左右する力を手にした将人の挑戦は、新たな段階に入ろうとしていた。



2. 理想郷の設計図


8月中旬、夜も更けた「Memories Eternal」の研究室。大城戸将人は、青白い光に照らされた顔を上げ、千紗の写真を見つめていた。


「千紗...君の描いた理想の世界を、必ず実現させる」


将人は静かに呟くと、再びホワイトボードに向かった。そこには複雑な社会システムの設計図が描かれていた。世界平和、貧困撲滅、環境保護...千紗が生前語っていた理想が、科学的な方程式として具現化されていく。


深夜、研究チームを緊急招集した将人は、新たな計画を発表した。


「我々は、シミュレータの力を使って、積極的に世界を導いていく」


チームメンバーたちの間でざわめきが起こる。


「先生、それは倫理的に...」中村綾子が懸念を示す。


将人は冷静に答えた。「綾子君、我々には人類を正しい方向に導く責任がある。これは操作ではない。最適な選択肢を提示するだけだ」


議論は白熱したが、最終的にチームは将人の意見に従った。


翌日、初めての大規模な社会介入実験が始まった。制御室は緊張感に包まれていた。


「シミュレーション開始」将人の声が響く。


画面上では、世界中の様々な指標が変化し始める。紛争地域での和平交渉の進展、環境保護政策の採択、新たな教育システムの導入...。


「信じられない」高橋拓也が驚きの声を上げる。「これほど迅速かつ大規模な変化が...」


実験は予想を遥かに超える好結果をもたらした。チームメンバーたちは歓喜に沸いた。


しかし、将人の表情には喜びと共に、何か深い思いが宿っていた。彼の脳裏では、理想世界の構築と千紗を取り戻すという二つの目標が交錯していた。


「このままのペースで行けば、10年以内に世界の主要問題の80%が解決される」鈴木美咲が報告する。


将人は静かに頷いた。「よし、次のフェーズに移行しよう」


その言葉に、チームメンバーたちは一瞬戸惑いの色を見せた。しかし、誰も質問する勇気はなかった。


夜遅く、一人研究室に残った将人は、再び千紗の写真を手に取った。


「もう少しだ、千紗。君の描いた世界が実現する。そして、君のいる世界線も...」


外では、満月が静かに輝いていた。世界を変える力を手にした将人の野望は、誰にも止められないところまで来ていた。そして、その孤独な背中を支える者もまた、存在しなかった。


もはや彼を止められれるものはこの世界に誰もいないのかもしれない。



3. 激変する世界の鼓動


9月上旬、秋の気配が感じられ始めた東京。「Memories Eternal」の影響下で、世界は驚くべき速さで変化していた。


大型スクリーンには、世界各地のポジティブな変化を示すニュース映像が次々と映し出されていた。


「アフリカ中央部の紛争、停戦合意に達する」


「南米の経済危機、劇的回復の兆し」


「地球温暖化対策、画期的な技術革新で前進」


中村綾子が驚きの声を上げる。「信じられません。人類がこれまでどれだけ努力しても解決できなかった問題をこんなにあっさりと...」


大城戸将人は静かに頷いた。「予想通りだ。我々のシミュレーションから導き出される回答は、間違いない。かつて予測できなかったリスクすら、予測可能になった」


貧困地域での生活改善、紛争地帯での和平交渉、環境回復の様子が次々と報告される。世界は、かつてない速度で理想へと近づいていた。


しかし、この急速な変化に戸惑う声も聞こえ始めていた。


「これほど急激な変化は自然なものなのか?」ある政治家のインタビュー映像が流れる。


「AIが人類の運命を決めているのではないか」経済評論家の懸念の声も上がっていた。


将人はこれらの声に冷静に対応した。「我々は最適な選択肢を提示しているだけだ。最終的な決定は人類自身が下している」


そんな中、シミュレータの予測に基づく新たな政策や技術革新のニュースが次々と報じられた。


「新エネルギー政策、世界各国で一斉採用へ」


「AIによる個別最適化教育、学力格差の解消に貢献」


メディアの取材に応じる将人の姿が映し出される。彼は慎重に言葉を選びながら、変化の意義を説明していた。


「我々の目標は、全ての人々が平等に幸福を追求できる世界の実現です」


しかし、カメラには映らない所で、将人の表情には複雑な影が宿っていた。


研究所に戻った将人を、佳奈が待っていた。


「将人くん、世界は確かに良い方向に向かっているわ。でも...」


将人は佳奈の言葉を遮った。「わかっている。だが、これは必要なプロセスなんだ」


佳奈は心配そうに将人を見つめた。「浩介のことは...?」


将人の表情が一瞬曇った。「彼の選択だ。我々には我々のやるべきことがある」


佳奈はため息をつき、静かに部屋を出て行った。


一人残された将人は、再び千紗の写真を取り出した。


「千紗、君の理想の世界はもうすぐだ。そして、君のいる世界線も...」


外では、秋の風が強く吹き始めていた。世界は確かに理想へと近づいていたが、その過程で失われつつあるものにも、誰かが気づく必要があった。しかし、もはや将人の側にはその「誰か」は存在しなかった。



4. 深まる溝、離れゆく心


9月下旬、「Memories Eternal」の会議室では、緊迫した空気が漂っていた。倫理委員会との激しい議論が数時間に及んでいた。


「大城戸博士、あなたの技術は確かに世界を変えています。しかし、それは同時に人々の自由意志を奪っているのではありませんか?」ある委員が厳しい口調で質問した。


大城戸将人は冷静に答えた。「我々は単に最適な選択肢を提示しているだけです。最終的な決定権は依然として人々にあります」


「しかし、その『最適』とは誰が定義するのですか?」別の委員が食い下がる。


将人の目に、一瞬だけ迷いの色が浮かんだ。しかし、すぐに打ち消すように言葉を続けた。「それは科学的に算出された結果です。個人の恣意的な判断は介在していません」


会議室を後にした将人は、一人研究室に戻った。窓の外を見つめながら、彼は深く考え込んでいた。


その時、哲学者が人々の自由意志とシミュレータによる誘導の矛盾を指摘した言葉が頭をよぎる。「人間の本質とは、選択の自由にあるのではないでしょうか」


そこに、佳奈がノックもせずに入ってきた。


「将人くん、世論調査の結果が出たわ」


佳奈が差し出した資料には、シミュレータに対する人々の意見が集計されていた。賛成派と反対派が拮抗する複雑な状況が示されていた。


「人々の意見が割れているわ。これをどう扱うの?」佳奈の声には心配の色が滲んでいた。


将人は深いため息をついた。「世論など当てにならない。人々は往々にして短期的な利益に目を奪われる。我々は長期的な視点で人類の未来を見据えなければならないんだ」


佳奈は驚いた表情を浮かべた。「将人くん...」


将人は高層ビルにある研究室の窓の外を見つめたまま続けた。


外にはエネルギー問題が解決した平和で繁栄した年が広がっているが、彼の眼にはそれは映っていなかった。


「佳奈、君には理解できないかもしれない。でも、これは必要なプロセスなんだ。人類のため、そして...」


彼の言葉は途切れたが、佳奈には分かっていた。千紗のため、ということを言おうとしたのだと。


佳奈は何か言いかけたが、結局黙ったまま部屋を出て行った。


一人残された将人は、再び千紗の写真を見つめた。


外では、秋の風が研究所の窓を叩いていた。そして、彼の葛藤を理解できる存在の不在がどのような結果を生むのか、それは誰にもわからない。



5. 千紗への想い、現実の狭間


10月中旬、「Memories Eternal」のシミュレータが世界に与える影響が日に日に大きくなる中、社会の反応も複雑さを増していった。


世界各地で、シミュレータの是非を巡るデモが勃発していた。東京の国会議事堂前では、支持派と反対派が激しく対立していた。


「人類の未来を守れ!」「大城戸博士に感謝を!」


支持派の声が響く一方で、


「自由意志を返せ!」「AIに支配されるな!」


反対派の怒号も激しさを増していた。


SNS上では、さらに激しい議論が展開されていた。


「大城戸将人は人類の救世主だ!」


「彼は独裁者になろうとしている。危険すぎる」


賛否両論が渦巻く中、科学界からの評価も分かれていた。スウェーデンでは、大城戸将人へのノーベル賞授与が決定。しかし同時に、ある科学者グループからは批判的な声明も発表された。


「シミュレータは人類の進化を促進する画期的な発明である」


「しかし、その力の集中は極めて危険であり、厳重な管理体制が必要不可欠だ」


政府要人との秘密会談も頻繁に行われるようになっていた。ある日の深夜、大城戸は防衛省高官と極秘の会談を行っていた。


「大城戸博士、貴方の技術は国家安全保障の観点からも極めて重要です。政府としても全面的にバックアップしたい」


大城戸は慎重に言葉を選びながら応じた。「ありがとうございます。しかし、この技術は特定の国家のためではなく、人類全体のために使われるべきです」


連日のメディアの取材攻勢に、大城戸の表情には疲労の色が濃くなっていた。


そんな中、佳奈との会話は彼にとって唯一の安らぎの時間となっていた。


「将人くん、無理しすぎないで」佳奈の優しい声に、大城戸の表情が和らいだ。


「ああ、ありがとう佳奈。君がいてくれて本当に助かる」


大城戸は一瞬、千紗のことを思い出し、胸が締め付けられる思いがした。しかし、すぐに気を取り直し、モニターに向かって新たな指示を入力し始めた。


外では、秋の嵐が近づいていた。世界を変える力を手にした男の挑戦は、さらなる試練を迎えようとしていた。



6. 孤独な頂点に立つ者


10月下旬、東京の夜景が煌びやかに輝く頃、大城戸将人は「Memories Eternal」本社最上階のペントハウスオフィスに一人佇んでいた。窓から見下ろす夜景は、彼のシミュレータによって日々変化を遂げる世界の縮図のようだった。


将人はワイングラスを手に、静かに夜景を眺めていた。豪華な調度品に囲まれた広大なオフィスとは対照的に、彼の表情には深い孤独の色が宿っていた。


ふと、大学時代の記憶が蘇る。


「ほら、将人!この論文見てくれよ」


「もう、浩介ったら。私たちの卒論の締め切りはもうすぐなのに」


「二人とも、こっちに来て。お弁当、作ってきたの」


浩介、佳奈、そして千紗。楽しげに語り合う四人の姿が、まるで目の前に浮かび上がるかのようだった。研究への情熱を分かち合い、未来を夢見ていた日々。


将人は深いため息をつき、現実に戻る。かつての仲間たちとの思い出と、今の孤独な生活。その落差に、胸が締め付けられる思いがした。


豪華な部屋に、将人の足音だけが寂しく響く。


深夜0時を回ったころ、世界中の要人たちとのビデオ会議が始まった。


「大城戸博士、貴方のシミュレータのおかげで、我が国の経済は劇的に回復しました」


「環境問題の解決に向けて、大きな一歩を踏み出せました」


「平和維持活動が、かつてないほどの成果を上げています」


次々と称賛の声が上がる。しかし、将人の表情は硬く、疲れの色が濃かった。


「皆様、ありがとうございます。しかし、これはまだ始まりに過ぎません。我々にはまだやるべきことが...」


会議が終わり、将人は鏡に映る自分の姿を見つめた。世界を動かす力を手に入れた科学者。しかし同時に、誰にも本当の気持ちを打ち明けられない孤独な男。


「これで良いのだ」将人は自分に言い聞かせるように呟いた。「人類のため、そして千紗のため...」


その時、スマートフォンの着信音が鳴った。画面には「佳奈」の名前。


「将人くん、大丈夫?」佳奈の声には心配が滲んでいた。


「ああ、問題ない」将人は平静を装って答えた。


「浩介が心配してたわ。あなたのこと...」


将人は一瞬言葉に詰まった。「...伝えておいてくれ。私は大丈夫だと」


電話を切った後、将人は再び窓の外を見つめた。世界は確実に良い方向に向かっているように見えた。しかし、その世界を導く立場にいる将人の心の中は、孤独と葛藤で満ちていた。


外では、秋の風が冷たく吹き抜けていた。世界を変える力を手にした男の孤独な挑戦は、新たな局面を迎えようとしていた。そして、その孤独を本当に理解し、心配する二人の存在が、まだどこかにいることを、将人は故意に考えないようにしていた。



7. 幻影の愛、現実の重み


11月初旬、「Memories Eternal」の最深部に位置する特別実験室。大城戸将人は、最新の仮想現実技術を駆使して作り上げた空間の中に立っていた。


「再現プログラム、起動」


将人の声に応じて、空間が変化し始める。そこに現れたのは、生前の千紗そっくりの姿をした仮想存在だった。


「将人くん、お帰りなさい」


千紗の声に、将人の胸が締め付けられる。


「千紗...僕は...」


将人は現実の千紗との記憶と、目の前のシミュレーションを比較しながら、苦悩の表情を浮かべる。完璧に再現された外見と声。しかし、どこか本質的なものが欠けているような違和感。


「将人くん、世界はどうなってる?みんなは幸せになれた?」


千紗の問いかけに、将人は複雑な表情を浮かべる。


「ああ、世界は良くなっている。戦争も貧困も減った。でも...」


将人は言葉を詰まらせる。世界を変える力を持ちながら、最愛の人を本当の意味で取り戻せない矛盾に苦しむ様子が、その表情に浮かび上がる。


突然、千紗の言葉が蘇る。「みんなの幸せになれる未来を」


将人はハッとする。「そうだった。千紗、君はそう言っていたんだ...」


仮想空間を抜け出した将人は、決意に満ちた表情でモニターに向かう。世界地図が映し出され、無数のデータが流れている。


「まだだ。もっと世界を...みんなを幸せにしなければ」


将人は新たな指示を入力し始める。その目には、以前にも増して強い光が宿っていた。


その時、研究所の別室で、浩介と佳奈が話し合っていた。


「将人が何をしようとしているのか、わかってきたよ」浩介が静かに、しかし力強く言う。


佳奈は心配そうな表情で尋ねる。「一体、何を...?」


浩介は深いため息をつき、説明を始める。「あいつは、シミュレータを使って現実世界そのものを書き換えようとしているんだ。千紗のいる世界線を見つけ出し、そこに到達しようとしている」


佳奈は息を呑む。「でも、それは...」


「ああ、危険すぎる」浩介が頷く。「でも、あいつにとっては、それが千紗を取り戻す唯一の方法なんだ」


二人は重苦しい沈黙に包まれる。外では、冬の足音が近づいていた。将人の決意と、それを心配する二人の思い。世界の行方を左右する戦いが、静かに、しかし確実に始まろうとしていた。

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