第10話 悪魔に魂を売った弟

 一流ピアニストが舞台に上がって演奏が始まる。ムソルグスキーの展覧会の絵だった。聞いたことのあるメロディから始まる。途中は難解で、いつもなら寝てしまう。今日は律がどんな初恋をしたのか悩んで、集中できず、でも結局、最終的にはうとうとしてしまった。

 また最終、曲の良く知っているテーマ部分が現れた時には起きた。それで律が軽く笑ったような気がする。

「とってもよかったね」と言うと、ちゃんと鑑賞できないことを知っているように優しく微笑まれてしまった。

「ご飯、食べに行く?」

 もう遅い時間だったけど、軽く食べることにした。駅前の夜遅くまで開いているカフェに入った。夜遅いというのにそこそこ賑わっている。そこで私の気になっていた律の初恋話を聞こうと思ったけど、いざ、聞こうと思うとなかなか言い出せない。メニューを何度も捲る。

「何? もじもじして」

「律の初恋は?」

「初恋? 内緒」

「緑ちゃんじゃないの?」

「あー、違う。あの子はまぁ…可愛いからいいかなぁって」

「律は蛙化現象はなかったんだ」

「基本、男は下心が優先されると思うよ」

「下心優先」

「男はそんなのが多いから…莉里はなかなか恋人できないかもね」

「下心優先って言うけど、でも少しは好きなんでしょう?」

「うーん。好き? それがどういうものかって分かんないけど、まぁ、かわいい子だったらいいかなぁ」

「いいって?」

「付き合っていいってこと」

 可愛い弟はすっかり擦れてしまった。


 思い返せば、律が中学校に入った頃にはちょっと距離があった気がする。それでも私は嬉しくて、お弁当の日は私がレンチンした冷凍食品のおかずを詰めたお弁当を持って、学校へ行ってくれたのに…、となぜか裏切られたような気持ちになった。

「じゃあ、たくさんの人とお付き合いしたの?」

「うーん。まぁ、少なくはないかな。音楽の世界って女の子多いし。そろそろ注文しよう?」

 フライドポテトとワインを頼んだ。律も夜遅いし、今夜はもうピアノは弾かないからとワインを飲むことにした。

「後、ステーキも」と私が言うと、律が苦笑いした。

「ポテトが増えるよ」

「じゃあ、ムール貝」

「同じだけどね」

 ムール貝もポテトの付け合わせがマストなのだ。結局、ムール貝とポテト増量になった。

「莉里は一人だけ?」

「え?」

「恋人」

「…う…ん。でもフランスで見つけるから。それで帰らないから」

「恋人探しに来た?」

「そういう…わけじゃ」


 日本に帰りたくなかった。いや、日本じゃない。あの家に帰りたくなかった。私は父も母も嫌いじゃない。嫌いじゃないけれど、息がつまりそうなあの家に戻りたくない。


「まぁ、そういう子もたまにいるけどね」

「え?」

「ビザのために結婚とか」

「…そうなんだ」

「焦らず変な人に捕まらないようにね」と言って笑った。

 もう目の前の弟がその代表のように思えてしまう。

「律は…今、恋人いるの?」

「いないよ」

「え? あ…私がいるから、恋人呼べないか」

「今、丁度タイミング良くて…。今は仕事頑張りたいし。付き合うの…面倒くさくなって。結構、お腹いっぱいで」

「お腹いっぱい?」

「数をこなしたら、なんか、誰と付き合っても同じに思えてきて」

 私の可愛い弟は綺麗な顔をして、恐ろしい悪魔に思えてきた。

「…律、そんなこと言わないの。きっと合う人がいるよ」

 ちょっと悲しそうに笑って「慰めてくれてありがとう。莉里はいつもそうやって、優しくしてくれる」と言う。

「でも節度は考えて」

「だって、向こうから来るし、断るのもかわいそうかなって」

「律」と思わず声を上げてしまった。

「何?」

 律が首を傾げながら私を見た。

 何も私が偉そうに言えることはない。

「性病だって…心配…だから…その…不特定多数とは…」

「特定多数だから大丈夫」と笑った。

 私は姉として、律の周りの女性に謝り続けなくてはいけないかもしれない、と思ってため息をついた。

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