第8話 電話

 私のブログにはプリンのことばかりが載るようになった。

 

 自分で作ったプリンを撮影して、掲載する。

 ブランデーを入れたもの、グラニュー糖の代わりに黒糖を使ったもの、ゼラチンで作ったもの。過去の記事を読み返しては、このプリンを安永さんと食べた日に話した事柄を思い出し、その度に食べ物と記憶の密接な繋がりをひしひしと感じずにはいられなかった。


 今日は水曜日だ。

 

 今回はアーモンドの風味をつけた優しい味のするプリンを作ってみた。時計を見ると午後五時を少し過ぎている。そろそろ出掛ける準備をしなければと思っていたら、携帯電話に着信があった。


「安永です」


 連絡先は交換してあったが、実際に掛かって来たのは初めてだった。電話越しに聞く安永さんの声は硬さを帯びていて、私は嫌な予感がした。


「電話なんて珍しいですね」

 

 務めて明るい声を出そうとしたが、妙に上擦った声になってしまう。


「今日はアーモンドのプリンを作ってみたんです。安永さん、アーモンドは大丈夫でしたか。て、作る前に確認しろって話ですよね。アーモンドとプリンって意外な組み合わせに思われるかもしれないですけど、実は結構合うんですよ」


 何か話をしなければと思った。そうしないといけない気がした。

 でも安永さんはそんな私をそっと制するようにして、言った。


「妻が、亡くなりました」


 え、と言ったつもりが声にならなかった。


「昨晩、病院から連絡が来て」


 その先の言葉を待ってみたけれど、聞こえるのは深く長く吐く息の音だけ。

 生と死が入り混じる病院の廊下で、ひとり静かに目の前の出来事をただ見詰めている安永さんの姿を想像して、私は「そうですか」と言ってみたものの、その先を何と続けていいのか分からなかった。お互い無言のまま、通話画面の秒数だけが増えていく。沈黙を破ったのは安永さんだった。


「申し訳ない」


 毎日病室へ行くことを止めてしまい『申し訳ない』。

 妻が亡くなったばかりなのに、別の女性と話して『申し訳ない』。

 こんなことを考えるような情の薄い男で『申し訳ない』。


 安永さんの「申し訳ない」は、私に対するものではない。

 この1年の間、私と話すことで安永さんの中で動いて、話して、笑っていた安永さんの奥さんへ向けたものだ。

 私はそのことに胸が痛んだけれど、同時に「安永さんを返さないといけない」と思った。少なくとも、今は。


「私のことなど気にしないで、今は奥様のそばにいてください」


 私の言葉に「ありがとうございます」と答えた安永さんは、「落ち着いたら改めてご連絡します。本当にすみません」と言い、通話を切った。 

 私は携帯電話を握ったまま、プリンが眠っている冷蔵庫を見た。

 

 安永さんの奥さんが亡くなった。

 会ったことはもちろん、顔も名前も知らない安永さんの奥さんが。

 自ら選択しない限り、人は死ぬタイミングを選べない。

 だからといって、どうして水曜日に。

 そう考えてしまう自分のことを、私は心底嫌になった。

 

 安永さんの家で過ごした大半の時間は、奥さんの話ばかりしていた。

 優しく柔らかく微笑む安永さんを作って来たのは奥さんとの温かな日々であって、私と出会ってからのことではない。

 私はこの時になって初めて、自分が安永さんの奥さんに嫉妬していたのだと気が付いた。


 安永さんと笑いながら奥さんの話をすることは、きっともうない。

 それどころか、今後安永さんに会うことすらないかもしれない。

 

 私はその場に座り込み、午後六時が早く過ぎてしまえと強く目を閉じた。

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