第1話

「だめだよ、りんちゃん。よそ見してちゃ危ないでしょーが」


優しく窘めるような声音が聞こえて、ハッと顔を上げる。


自分が呼ばれたわけでもないのに、つい反応してしまった。


あまりにも勢いよく顔を上げてそちらを見たので、気が付いた男性が目をぱちぱち瞬いてわたしの顔を見つめる。


きょとんとした顔から一転して、憎めないようなイタズラ顔をしたかと思うと、視線でわたしを示したあとに「キミも、りんちゃん?」と尋ねてきた。


本来彼から呼ばれていたであろう女性も、不思議そうな顔をしてこちらを振り返る。


真っ黒で大きく見える瞳は、まるで夜を背負ったようで、真夜中のような綺麗な女性だな、と思った。


反対に、明るく輝く髪の男性の方は真夏の日差しのような髪色をしている。


──なのに、ふたり並ぶと昼と夜がまったく逆のように感じてしまう。


彼らの雰囲気だろうか。


容姿はひどく明るいのに、妖しく口角を歪める彼のほうに深い闇を感じた。


失礼な表現をするならば、病んでいそう、というか、狂気が潜んでいそう、というか。


ほんの少しだけ、倫太郎と似たものを感じた。


「みーくん、急に話しかけたらびっくりすると思う」


不思議な雰囲気だった。


人見知りなのか、態度はそれほど柔らかいわけではないのに、何故か安心感を得られる女性の声。


彼女が制すように男性の腕を軽く掴んだ。


「ごめんなさい。気にしないでください」


ふっと優しい目をして、彼女がそう言ってくれた。きゅうっと心臓がときめいて、顔が赤くなる。綺麗な人、素敵な人、そんなふうに思う自分が信じられなくて、どきどきした。


「なーに。りんちゃんが謝らなくてもいいじゃーん」


瞬間、女性から見えない位置に立って、男性が険しい顔を浮かべる。


めらっと燃えたものに非常に覚えがあった。

倫太郎がよく見せる目だ。


どうやら男性の方は自分の方から話しかけて来たくせに、彼女が私を構ったので私に嫉妬したらしい。


しかし、倫太郎と違って表情を隠すのが得意なようだ。


「……みーくん?」


彼女が名前を呼ぶ。


「はーい。ごめんね?急に話しかけて」


彼はすぐに笑みを浮かべて、深い感情を仕舞い込んだ。


というのも、女性の方が何かを察知したのか、男性を一睨みしたからだ。


女性が見たときにはすっかりニコニコ顔ではあったが、彼女はすんなり誤魔化されるような人ではないらしい。悩ましげに溜め息を吐き出して、諦めたように私を振り返った。


「ええっと、……名前がりんさんでした?」

「あっ、はい。凛音と言います。つい、反応してしまって……こちらこそ、すみません」

「へぇ〜りんねちゃん。かわいー名前だね」

「ありがとうございます……?」


全然思ってなさそうだ。

紙より薄っぺらい言葉に聞こえる。


どうしてだろう。

笑顔だし、声に抑揚もきちんとあるのに、なぜ、そう感じるのだろう。


毛ほども興味がないけど、とりあえず社交辞令として言いました、という内心が透けて見える。軽薄な言葉に苦笑しか出ない。


「あ、あの、お名前はりんさんとおっしゃるんですか?」

「いえ、私は鈴に子供の子ですずこ、と読みます。鈴の字からリンって彼が呼んでいるだけで……」

「あ、そうなんですね!素敵ですね」


彼しか呼ばない愛称のようなものだろうか。

そういう特別なものがあるのは、非常に羨ましい。


倫太郎はすぐにお前お前と呼ぶので、特別な呼び方には多少の憧れがある。


羨ましそうな顔をして返事をしてしまった私に鈴子さんは真顔になる。


「……す、素敵?素敵ですか……?」


ええ……と少し引いたような顔をされてしまったので、慌ててしまった。


ちょっと恋する乙女みたいな言葉だったかもしれない。自分でも口が滑ったなとは思ったけれど、嘘でもないのでとりあえずは頷いた。


「私の彼は私のことをお前って呼ぶことも多いので、特別な呼び方があるのが素敵だなと思って」

「ああ、そういう……そういうことでしたか。お前って呼ばれるのは嫌ですか?」

「うーん……嫌というよりも寂しいかもしれません」


普段からもっと名前を呼んでくれたらなとは思うけれど、呼びたくない理由がなにかあるのだとしたらそれはそれで、お前のままでもいいかなと思う。


聞いたことがないので、どう思っているのは知らない。


「……なにその会話。まだするの?」

「みーくんが急に話し掛けるから始まったんだけど、そのあたりどう思う?」

「ごめんなさい」

「謝る相手を間違えてると思うなぁ」

「……りんねちゃん、ごめんね」

「えっ、いや、大丈夫です……」


気まずい。


なんというべきか、鈴子さんはまだ普通の感じがあってそれほどに戸惑わないのだが、みーくんと呼ばれた男性の方は明らかに浮いていて動揺してしまう。


顔が整っていて派手な容姿をしているし、動作や態度が堂々としていて芸能人のようなオーラがあった。


そんな人が鈴子さんの背後に守るように立っていて、だいぶ圧の強い守護霊というか、そんな感じに思える。


なにも悪いことはしていないはずなのに、ピリッとした空気を感じた。


謝られているのだが、気持ちは微塵も篭っていなさそうだ。



そんな彼の後ろから、倫太郎が歩いてくるのが見えた。


今は絶対に来てほしくないなと思ったけれど、倫太郎は私がふたりと話していることに気が付いて足早に近付いてきた。


トラブルは嫌だなぁと思いつつ、倫太郎にまず状況を説明しようと目線を向けた──が。


「誰?知り合い?」


倫太郎は私と視線を合わせることなく、鈴子さんと対峙してしまった。


背後のみーくんと呼ばれた男性が瞬時に警戒態勢に入る。


「待って、倫太郎、こちらは鈴子さんと……えっと」

「俺?羽柴充だよ」

「羽柴さん。羽柴さんが鈴子さんのことをリンって呼んでいて、私がつい反応しちゃったの」

「……それだけ?なんで話してんの?」

「それは……その、つい反応しちゃったから、羽柴さんがそれに驚いて流れで鈴子さんとお話しさせて頂いたというか」

「……はぁ?」


全く意味がわからない、と態度で物語っている倫太郎の腕を掴む。


ぐいっと自分の隣に倫太郎を下げて、申し訳ない気持ちで鈴子さんを見ると、なにか通じ合うものがあった。


「ごめんなさい。みーくん……私の彼氏が話し掛けたの。凛音さんに何かするつもりもないし、軽く雑談しただけで連絡先も聞いていないし、驚かせてしまってごめんなさい。もう行くから、本当に気にしないで」


鈴子さんがきっぱり言うと倫太郎は面食らって私の方を振り返る。


少し惜しい気持ちになって、残念に思った。


嫉妬深い恋人を持つとお互い大変ですね、なんて話せたらきっと楽しかっただろうな。


仲良くなれそうな気もしたので、ほんの少し寂しいながらも鈴子さんに会釈した。




「……お前、なんかあるな」


ああもう。

そういうところ、本当に目ざとい。


倫太郎は自分が繊細だからなのか、人の感情にも敏感ですぐに違和感に気付く。


それが面倒な時もあれば、嬉しい時もあって、今は少し面倒だった。


鈴子さんはじゃあ、と言ってすぐに羽柴さんを連れて行ってしまったけれど、遠くなる背中を倫太郎はジッと見つめている。


「なにがあった?」

「なにもないよ。ただ、良い人だなって思ったから、すぐに縁が切れちゃったのが残念に思えただけだよ」

「良い人だったのか?」

「うーん、なんとなくそう感じたよ」

「……お前は友達がいないから」

「めちゃめちゃ失礼なこと言い始めた?」

「できるときに作ったほうがいい」

「もしまた会う機会があったら今度は頑張ってみる」

「いい。俺が行く。お前はそこから一歩も動くな。スマホで110をいつでも発信できるように準備しろ、いいか」

「過保護が過ぎるけど、今それを言ったら話が長くなるから……うん、とりあえずは、はい、わかった」

「すぐ戻る、動くな」


走り出した倫太郎の背中を見て、なんだか泣きそうになった。


引きこもりだし、体力もそこまでないだろうに全力で駆け出していく。


私がいいよ、大丈夫だよと言ったところで、表面上の言葉には納得しないだろう。


二人を見失っていないだろうか。

追い付けただろうか。


そんなことを考えながらスマホで110を打ち込んで待つ。


何も起きない可能性の方が高いのに、心配して貰ったことがやたら嬉しくて、今日はまぁそのとおりにしようと思った。



今日は久しぶりのデートで倫太郎の仕事が一段落したからとウィンドウショッピングをする予定だった。


お店で現物を見て気に入ったものを配送で送ってくれるサービスが普及してきたので、それなら手持ちに荷物が増えないしということで気軽に外に出ることができた。


服はまだオーバーサイズでもなんとかなるけれど、靴や帽子は現物を見て試着しないとなかなか買う勇気が出ない。


夏に向けてサンダルも欲しいし、UVカットの帽子も欲しい。


特にお店は決めていなかったので、どこに行こうかと考えていたら倫太郎が戻ってきた。


「あいつ良いやつじゃない……絶対に……」

「倫太郎?」

「あの男はいいやつじゃないだろ!」

「……それはそうかも」


なにかあったんだな、と思いつつ、倫太郎の背中を擦る。


飲み物が必要だ。

どこか座って休めるカフェを探して入るのがいいかもしれない。


「倫太郎、あっちのカフェに入ろっか」

「入りたいのか?」

「入りたい」

「じゃあ行く」


倫太郎を休ませて、ゆっくり落ち着いて話をして、それから買い物に行けばいい。時間はたっぷりあるし。


「追い付けたんだ?」

「あいつ、俺が来てるのを知っててのらりくらりと移動しやがったぞ……」

「……わあ、守ってるね」

「でもお前が言ったように女の方は普通だった、と思う。謝ってたな」

「鈴子さん、優しい感じがしたんだよね」

「お前と合いそう、ではあった。でも俺より仲良くなるな。14時に駅前のパフェのあるとこで待ち合わせになった。おやつ食べようって言ってた」

「……倫太郎」

「なんだ」

「ありがとう」

「……俺はお前がそういう顔をするのが好きだから、いい」

「どういう顔?」

「俺のことが好きそうな顔」

「ばれてる〜」


ちょっと恥ずかしい。

倫太郎は真剣に言ってくるから、なおさらこちらが恥ずかしい。


パフェかぁ。いいなぁ。大好きだ。


鈴子さんが選んでくれたのが、羽柴さんの提案なのかは分からないけれど、パフェはわくわくする。


友達になれるだろうか。

普通に考えたらやっぱり難しいだろうか。


でも、こんな妙な縁がもし繋がるなら、今日は良い日になるだろうと思った。





『透明』&『りんのおと』

ショートショート【完】

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透明&りんのおと 弘奈文月/尋道あさな @s21a2n9_hiromichi

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