三週目①


 身を起こし、ぶはぁ、と息をく。そこはクラウスのきゅう殿でんにある私の部屋で、そのまどぎわに置かれたソファに、私はこしを下ろしている。

 もどった……。

 目の前のテーブルには開かれたままの日記帳。そのページには、〝ここ〞の今の日付と、その時点までに起きた出来事が私の文字で細かく記されている。

 それらの内容に目を通し、〝ここ〞の日時を確認する。……ちがいない。今は、最後に指輪をめた五月ぼうじつ。何度目かの実験の後で、未来から引き返す私のために、わざとじゅもんを唱えずに指輪を外し設けた基点だ。しばらく人に会う予定がなく、未来から戻ったばかりで多少おくが混乱しても不自然に思われる危険の少ない時点。

 その時点に、私は戻ってきた。窓しに広がる空は青く、降り注ぐ日差しを浴びて庭の新緑がまばゆかがやいている。


「……っ」


 不意に全身がふるえだし、あわてて自分をきしめる。

 これは……きょう? でも、どうしていまさら。ロルフにかれるさいちゅうですら、私は恐怖らしい恐怖を覚えなかった。いかに皇女としてのきょうを守るか、それだけで頭がいっぱいだったから。

 まして、もう、ここにロルフはいない――なのに。


「う、うう」


 不意に視界がゆるんで、熱いものがぼろぼろとほおにこぼれ落ちる。だいじょう。あいつはもうここにはいない。何もうばわれる心配はない。ほこりも、命も。だから――。

 大丈夫なものか。

 わかっていた。この国において、私はただの無力なほう人にすぎないのだと。味方なんて、どこにもいない。たとえ殺されたとしても、結局は戦争の口火にていよく利用されるだけの存在だと。

 でもそれは、わかったつもりになっていただけ。

 だから今更、私は震えている。改めてけられたじんな現実にすくんでいる。いかることすらできずに――そんなおのれの無力さが、ただにくい。


「……いや」


 冷静になれ。力で勝てないのなら、せめて頭を、頭を使え。

 一つ大きく深呼吸し、日記帳を手に書物机へ移る。たくじょうで改めて日記帳を開くと、ペンを手に取り、思い出せるかぎりの未来の出来事を細かく記してゆく。

 続いて私は引き出しから便びんせんを取り出すと、今度はロルフの野心について記す。

 ロルフはあせっている。現エデルガルト王ジークベルトはいまだ健在とはいえ、それでもろうれいに足をれて久しい。いつ何時、りょの出来事が発生しないとも限らないわけで、その場合、王座はギルベルトがめることになる。

 そのギルベルトの宮には、すでに二歳になる男児がいる。たとえギルベルトが若くしてまかったとして、次の王座はこの男児にゆずられることになる。ロルフとしては、王統がギルベルトに移る前に何としても王太子の座を確保したいところだろう。

 一周目の歴史では、こんな男のくだらない野心がめぐり巡って我が国をほろぼしたのだ――が、同じてつは二度は踏ませない。この手紙を読めば、祖国の人々はロルフをけいかいするだろう。が、同時に、無用なちょうはつに応じる可能性も減るはずだ。手紙は、出入りのカスパリア商人にたくそう。けんえつけるには、彼らのルートを使うのがベストだと三年間の異国暮らしで心得ている。

 したためた手紙は日記とともに例の二重底にしまう。その後、気分てんかんのつもりでテラスに出た私は、庭先に、見慣れた男の背中を見つけてうんざりする。ちょうど午前のしつを終え、これから庭の奥へと向かうところなのだろう。


「……クラウス」


 吐き気に似たいらちが、むかむかとのどにせり上がる。

 あのとうかいは、今思えば一種の試金石だった。敵国からとついだおうじょの、この国における価値を定める場。事実、あの場で私を見つめる来客たちの目は、どう好意的に見ても品評者のそれだった。

 そして――私は夫からファーストダンスをこばまれ、フロアに放置された。

 みなは理解しただろう。あれは付き合う価値のない人間だと。この国における私の価値は、あくまでもクラウスといううしだてに根差している。そのクラウスとの関係がこじれていれば、たとえ正妻だろうと関わりを持つ意義は少ない。私個人は、どこまでも無力な敵国の女にすぎないのだから。

 そんなじょうきょうでは、いくら社交界でいたところで向かい風にを上げるようなもの。あの残念な結末も、そう考えるとなっとくがいく。だけど……。


「今度は間違えない。絶対に」


 そう自分に言い聞かせると、さっそく私は宮殿を出る。

 クラウスとのふう関係が外交のかぎなら、まず手をつけるべきは愛人対策だろう。庭の奥でひそかに囲われるクラウスの愛人を、今日こそたたす。そんなことで祖国が救われるとは私も思っていない。でも、ためす価値はある。

 考えてみれば、これこそ何を今更という話だ。

 クラウスと出会って三年。私は、妻でありながら彼の女性関係に全く関心を向けてこなかった。二周目に至っては、これ幸いと放置すらしていたほどだ。一周目の悲劇を思い起こさせるあの人との交流は、お世辞にもかいなものではなかったから。

 私は……私が思う以上にれいたんな女かもしれない。

 そんなことを、庭の奥に続くみちをざくざくと進みながら思う。祖国に対してもそう。かんりょうどものはいわいの横行、富の集中と、そのぶんだけえゆくたみ――そうした目の前の諸問題に、私は結局、一度もまともに取り合おうとはしなかった。

 確かに私は、あの国では皇族とは名ばかりの無力な存在だった。母親は何の後ろ盾もない弱小貴族のむすめ。そのさらに娘である私も、けんせいとしては似たようなものだった。が、だとしても、苦しむ民にべる手はあったはずなのだ。

 なのに私は、自分のきょうぐうをただあわれむばかりで。

 やがて、かべのように高いいけがきがぐるりと囲む場所までやってくる。生垣には小さなトンネル状のアーチが設けられ、その先にも庭は続いている。おそらくクラウスはこの奥だ。愛人も、いるとすればこの奥。


「行きなさい、私」


 そう自分にかつを入れると、いよいよ私はアーチをくぐった。

 道はすぐに森へと入る。ただ、さほど深くはないのか、ほどなく前方が明るくなる。おそらくこの先は、低木を中心とした庭園。きっと、女性好みのわいらしいお花畑が広がって――。


「……えっ?」


 不意に開けた視界。そこに広がる光景に私はぼうぜんとなる。

 確かに、ここは裏庭のはず。そして……ここまでの庭がそうだったように、美しい花々が競うようにき誇っているはず。なのに、目の前に広がるのはどう見てもただの麦畑で、愛人のためのはなれやお花畑はどこにも見当たらない。

 畑では、すでにたっぷりと実をつけた麦たちが、まだ青いをさらさらと初夏の風にそよがせている。

 そんな畑のかたすみに、見覚えのある人物を見つけて私はまたおどろく。


「クラウス……殿でん?」


 そのクラウスは、いつものかっちりとした執務服ではなく、庭師が着るような、簡素なあさの上下をなぜか身に着けていた。だんかたに垂らしたままの銀のちょうはつも、今は後ろでひっつめている。

 手元にはノート。そこに、手近な麦の穂をまんでは何やら書き込んでいる。

 そんなクラウスの目元は、よく見るとみょうな仮面におおわれている。……いや、あれは仮面じゃない。二つのがんをそれぞれ覆う太くて不格好な。それらは同じだけ太いフレームでつながれ、左右のはしから伸びたかわバンドで頭に固定されている。何とも原始的な構造だけど、あれは……。


「……まさか、めが?」


 やがてクラウスは書き物を終えると、今度はかたわらの男と会話を始める。その男の顔に、

私は確かに見覚えがあった。ついさっき(私にとっては)ギルベルトの宮殿で見かけた学者の一人だ。だとしても、なぜ、こんなところに……?

 私は足音をしのばせながら、そろりそろり、彼らの背後に歩み寄る。やがて二人の会話が聞こえてくる。どうやら麦のつぶの大きさについて語り合っているようだ。今回のは粒が大きい。ただ、ルクス領のじょうに合うかはわからない――。

 これは……麦の話? でも、王子であるクラウスが、どうして麦なんて……?

 疑問に気を取られたせいだろう、かえるクラウスへの反応がほんのいっしゅんおくれる。気づいた時には、私の姿はあの人の視線にとらわれていた。

 丸いレンズの奥で、むらさきそうぼうが大きく見開く。


「ミラ!? ええと……どうしてここに?」

「えっ? え、ええ……テラスから、こちらに向かわれる殿下をお見かけしたもので。失礼を承知で後をつけて参りました。ごめいわくでしたか?」


 さすがにうわいさめるためだったとは言えない。


「迷惑? い、いや、そういうわけでは……ただ、女性にとっては楽しい場所でもないだろう。見てのとおり、ここには観賞用の花の類は何も植えていない」


 その間も、クラウスはしきりに手で目元を覆う。よっぽど今の姿を見られたくないのだろう。でも私には、普段の冷淡な彼よりはずっと親しみやすく思われた。何というか、表情がやわらかいのだ。いつものいんうつな印象が今の彼には見られない。

 やがてクラウスは、思い出したように眼鏡を外して私に向き直る。けんにはいつもの深い縦じわが刻まれ、目つきにも険悪さが戻って――いや、ちがう。これは、敵意のまなしじゃない。例えばロルフのあかい双眸にあったような、じくじくと心をむしばむような冷たさはそこにはない……。

 まさか。

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