第14章 白梅と涼風
「大丈夫か?」
下村は、その体格に似合わないくらいの小さな声で、うめに聞いた。うめは黙って頷き、
「下村さまのおかげで、無事、子を産むことができました……なんと言って、お礼を申してよいのか……」
と言った。下村はうめの隣で寝ている小さな赤子を見た。
「男……いや、女か。ずいぶん小さいんだな。この体であの大声を出すとは……将来は相当な女丈夫になるのではないか?」
下村は、赤子の顔を見ながら笑った。
「まぁ……ひどい」
うめも微笑んだ。下村は赤子の顔を見つめ、呟いた。
「お前に、似ているな」
夕方の涼しい風が長屋の中に入ってきた。
「涼風が、心地よい……なんだか、こんな落ち着いた時間を過ごしたのは何年ぶりだろう……」
下村はしばらく目を閉じて、風を感じているかのようだった。ふと、気づいたように懐から一枚の絵を取り出した。
「本当は、これを渡すつもりだったのだ。忘れないでよかった」
それは、梅林の絵だった。白梅の花が咲き、枝に鳥が止まっている、小さいが美しい、春の絵だった。
「これを……私に?」
うめが聞くと、下村は頷いた。
「水戸の絵師が描いた。お前には、白梅が合うと思って……もしも、俺がこの先……」
言いかけて、下村は言葉を止めた。住職が、中に入ってきたからである。
「いや、今はやめておこう。俺はそろそろ戻ることにする。もう日も暮れるしな」
そう言って立ち上がりかけた下村に、
「下村さま、お願いが……この子に名を付けてくださいませんか?」
といってうめは手を合わせた。下村は驚いたように声を出した。
「この俺に?この娘の名付け親になれというのか?」
下村は、うめと赤子の顔を代わる代わる見た。
「この……俺が……?」
下村が何も答えないので、うめは、いけないことを頼んでしまったかと、少し後悔した。
すると、黙っている下村の後ろから、住職が優しく声をかけた。
「あなたさまがいなければ、おうめさんも、赤子もどうなっていたかわかりません。あなたはふたりの命の恩人じゃ。どうか、おうめさんの願いをかなえってやってくれませんかの?」
住職は紙と筆を下村に渡した。下村は再び目を閉じ、何かを考えているかのようだった。
風が通り抜けたとき、下村は目を開き、紙に力強く一文字を書いた。
『涼』という文字が書かれていた。
「りょう、と読む。涼風がそよぐと、季節が夏から秋に変わる。お前の運命もこの赤子の誕生で変わるだろう。『風を変える』……そんな力が、あるかもしれぬ……」
下村は言い、紙をうめに渡した。
「『りょう』……か。良い名じゃが、男名だか女名だか、ちと、分かりにくいの……なぁ、おうめさん」
住職が、うめの方を向いて、心配そうな顔をした。うめは下村が書いた文字をじっと見つめながら、
「男でも、女でも構いません。その生き方に揺るぎのない者に育ってくれれば……『りょう』……良い名を、ありがとうございます、下村さま」
と言った。下村は、うめに見つめられて、反射的に顔をそむけた。
下村が帰ったあと、住職が落とし物だ、と言ってうめの家に来た。
「この鉄扇が木戸のところに落ちとった。あの下村さまというお侍のものではないか?」
それは、何度か見慣れた、下村の黒鉄扇だった。うめは、
「たぶん、そうだと思います。またいつか、こちらにいらっしゃるかもしれません。私がおあずかりしておきます、住職さま」
と答え、その鉄扇を預かった。住職も、
「そうじゃのう。ご自分が名付け親になった赤子の成長も気になるだろうし、そのうちまた、長屋を訪ねてくれるかもしれんのう」
と言い、帰っていった。
その夜、隣で眠る我が娘を見つめながら、うめは様々に、思いを馳せた。
(ひとりでは、ここまで来れなかった……父上が亡くなった日から……母上、大伝馬町の旦那さま、お弓お嬢さま、神奈川宿の住職さま、長屋の方たち、古着屋さん、そして下村さま……皆さまに助けていただいて、私はここまで生きてきた……母上の願いを、叶えてあげられなかったのは……少し悲しいけど……ねぇ、歳三さん、あなたの娘が生まれたのよ……あなたは喜んでくれるでしょう?楽しみにしていてくれたのですものね……私はいつか、あなたとりょうを会わせるわ……必ず……!)
脇には、下村の鉄扇と、白梅の絵があった。うめがりょうの頬にちょん、と触れると、りょうが
「ふぇ……」
と声を上げた。うめは我が子をそっと抱き上げ、胸に抱いた。
(あの時……下村さまは、何を言おうとしたのかしら……りょうの顔を見に、またいらしてくださるしら……ねぇ、りょう)
しかし、うめが下村に会うことは、二度となかった。
翌年、日本はアメリカと『和親条約』を結び、長い間の鎖国に終止符を打った。これ以降の日本に、幕府の行いに対抗するように、攘夷の嵐が吹き荒れていく。
前編『黒き鉄扇の追憶』 終わり
黒き鉄扇と白き梅花の追憶 葵トモエ @n8-y2
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