第13章 産声

 黒船が日本に来航する一年前、徳川幕府の上層部には、オランダから、アメリカが艦隊を整えて通商交渉にやってくることが伝えられていた、といわれている。だが、幕府上層部はオランダからの情報を完全には信じておらず、三浦半島の海防強化を担当の藩に命じた程度だったので、多くの幕府の役人には、事実は知らされていなかった。実際に上陸地となった浦賀では、奉行や与力に情報が行き渡っておらず、大騒ぎになってしまったらしい。対応の不手際も重なり、庶民には外国に押し切られる、弱腰の幕府の姿を露呈することになった。


 この頃幕政に参画した水戸の徳川斉昭は強硬な攘夷論者で、ペリーの殺害なども口にしていたようである。その影響をうけた水戸の郷士や、周辺部の血気盛んな若者などが、幕府の対応に対する失望や不満から、外国船や外国人への攻撃を画策し、神奈川宿に流れていたのかもしれない。


 うめが次に下村に会ったのは、朝晩の暑さがいくらか和らいできた、8月初旬だった。うめが出産前の最後の繕いものを、古着屋に届けた帰りのことだった。

「お前はまだそんなことをやっていたのか?」

下村は、うめの様子に呆れたようだったが、その身なりは以前よりもずっと立派になっていた。うめは尋ねた。

「下村さま……ご仕官なされたのですか?」

すると、下村は笑った。うめは下村が笑うのを初めて見たような気がした。

「仕官はしていない。だが、斉昭さまが海防参与になられてから、藩では我々を認めるようになっている。いよいよ天狗の力を発揮するときが来たのだ」

「天狗の……力?」

うめが尋ねると、下村は言った。

「天狗というのはな、義を貫き、国家に忠誠を誓い、物事をやり遂げる能力のある者のことだ。我らは天狗になるのだ。見ておれよ、異国の者共など、この国から追い出してやるわ……!」

うめには、そのときの下村の瞳が、未来を見据えて輝いているように見えた。

(下村さまにも、目指すものができたのだわ。初めてお目にかかった頃のような、迷った目ではなくなっているもの……)


 突然、うめは下腹部に激しい痛みを感じた。陣痛だった。それと同時に破水したショックで、うめは路上に倒れた。

「う、うめ!どうした……生まれるのか!?しっかりしろ!!」

下村の声が遠くで聞こえている気がした。やがて、誰かが自分を背負って通りを走っているのを感じた。

(誰……?歳さん……?)

「まだだぞ……まだお前には伝えることがあるのだ、それまでは……!」

(何……?何を伝えるって……)


 うめは難産だった。小柄なため、赤子はなかなか産道を降りてこられないようだった。長屋に戻ったのは午前だったのだが、すでに日は西に傾いていた。

「おうめさん、気をしっかり持って!」

「もうすぐ生まれるよ!頑張って!」

心配して駆けつけた、長屋の者たちが声をかけてくれた。うめは意識を保とうと頑張っていたが、だんだんと力が出なくなっていた。産婆が大きな声を出した。

「ほら、もう一度いきんで……それっ!」


 「おぎゃあぁ!!」

元気な産声が長屋に響いたのは、それからまもなくだった。


 「……さん、おうめさん……あぁ、良かった、目が覚めたね。がんばったね、おうめさん、元気な女の子だよ。おめでとう」

産婆がうめの顔を覗き込んで言った。うめは目を開け、産婆が抱いている赤子を見た。小さな子だったが、しっかりとした顔をしていた。

「女の子……ですか」

「あんまり元気な声だから、男かと思ったくらいだよ。よかったね、きっと丈夫に育つよ」

手伝いに来てくれていた同じ長屋の女が言った。女は続けて、

「あんた、あのお侍さんに感謝しなきゃね……あんたをかついで、血相変えて走ってきたんだよ。ほら、あんたのことずっと心配して、家の外でウロウロしているよ……」

と言った。外の障子に映った影に、うめは微笑んだ。大きな背をまるめた黒い影が、あっちへ行ったりこっちへ来たり、繰り返していたからだ。女もクスクスと笑いながら、戸を開けて、下村を呼んだ。

「お侍さん、おうめさん、目を覚ましたよ。もう入っても大丈夫だよ」

すると、大きな男が低い長屋の戸をくぐるように入ってきた。


 



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