第12章 三度目の出会い
うめが、声の方を振り返ると、歩いてきたのは、大柄な浪人だった。
「下……村……さま……!」
その男もうめの顔を見て驚いたようだった。
「……お前……呉服屋の……」
言いかけて、下村は反物を奪おうとした男の手をひねり上げた。
「おぬしは、俺達を
急所を締め付けられ、相手は身動きが取れない。他の浪人たちも、手を出せずにいた。この中で誰が一番強いのか、一目でわかる光景だった。
「い、痛てて……っ!やめろ!わかった!俺が悪かった!」
男は痛む手を擦りながら、怪我をした仲間を抱えて去った。
下村はうめが落とした反物を拾い、手渡しながら、
「街道では目立つ動きはするなと言っておいたのに、あの馬鹿どもめ……怪我はないか?」
と聞いた。
「は、はい。ありがとうございました、下村さま」
うめは頭を下げた。すると、下村はふふん、と鼻で笑い、
「『さま』なんぞ、付けて呼ばれる身分ではなくなった。今はただの浪人だ」
と言って、地面に落ちていた鉄扇を拾い上げ、懐にしまった。
うめは、以前、店の女中頭から聞いたことを思い出して、
「わ、私が悪かったのでございます!下村さまのお立場もわからず、自分勝手なことを言ってしまって……まさか、私のことでお役を取り上げられてしまわれたとは、存じ上げなくて……」
と言うと、下村はうめを睨みつけた。
「思い上がるな!呉服屋の下働きふぜいが!」
うめはびくっとして、下村を見つめた。
「用人に差し出す女のひとりやふたり、お前でなくたって構わん。俺は自分から役を辞めたのだ。あまりにもくだらん役目だったのでな」
下村はそう言うと、
「……腹の子は、あの男の子供か?」
と聞いた。うめは、黙って頷いた。
「
うめは黙ったままだった。その様子を見て、下村は気づいたらしく、
「捨てられたのか」
と言った。うめは答えなかった。下村が、
「ふん、だから言ったのだ。一族のしがらみなどに振り回されている男など、大した器ではないと。どうせ、親兄弟に反対されて、嫁でもあてがわれたのだろう」
と言うと、うめは一瞬ピクッとしたが、そのまま動かなかった。
「……図星か」
そう言いながら、下村はうめから顔をそらし、海の方を見た。
「……俺が武士のままであったら……」
そう呟いて、ちっ、と下村は舌打ちした。
うめはまだ下を向いていた。かつて、幸せだと下村に言った自分と、今は真逆の立場にいることが恥ずかしかった。下村が口を開いた。
「お前は、水戸藩の縁の者として、大奥に上がる予定だった」
「えっ?」
下村の突拍子もない言葉に、うめは驚いて顔を上げた。
「今の将軍は、もう長くない。その後を引き継ぐ世嗣も病弱らしいが、他に成人している男子がいないそうだ。正室がいないことで、薩摩の島津斉彬公が、一族から正室候補を擁立するとの噂もある……水戸としても、奥に通ずる者が欲しい。水戸に恩が売れるなら、娘を大奥に捧げても良いという商人などいくらでもいるのだ。お前も素直に言うことを聞いておれば、今頃は良い思いをしていただろうに」
と下村は言った。
「そんな……それで、大旦那様が私を……」
「後ろ盾のない武家娘を預かるのも、それなりの打算があったってことだ。水戸のお抱えになれば、店に昔の威光を取り戻せると思ったのだろうが、結局、主は火事で焼け死に家族は離散、守ってやった奉公人は男に捨てられ、こんなところで売れ残りの反物の繕いなどしているのだからな……馬鹿な者共だ」
呆れたように下村は言い放った。
うめは唇をキュッと結んだまま、目を閉じていた。
うめの頭の中には、今までのことが走馬灯のように浮かんでいた。幼い頃の幸せな日々、父の死と一家の没落。呉服問屋に奉公するようになり、歳三と出会い、生涯添い遂げると誓ってくれたことや、ふたりでの暮らしが思い出された。決して楽ではなかった暮らしの中で、歳三が変わらずに目指していたもの……
うめは、ハッとして目を開けた。
「まあ、別れた男のことなど、さっさと忘れて出直すことだ。子供なんぞ、親がいなくてもそれなりに育つ」
下村は言った。だが、うめはきっぱりと答えた。
「いいえ、忘れません」
この答えに驚いたのか、下村はうめを見つめた。うめは下村をまっすぐに見つめ返した。
「あの人は、必ず武士になります。私がいないことで、歳三さんはきっと自分の道を進むに違いありません。私は、あの人を信じます」
うめの気迫に押された下村は、うめから目を逸らした。
失礼します、と言ってうめは帰ろうとしたが、ふと腹に軽い痛みを覚え、その場にかがみ込んだ。
「どうした?」
と下村が聞いた。
「大丈夫です……少しお腹が張って……」
うめが答えると、
「貸せ」
と下村がうめの手から反物を取り上げた。
「下村さま……?」
「住まいはどこだ。そこまで持っていってやる。そんな腹をして、重いものを持って歩くなど愚かなことだ」
うめは、思いがけない下村の言葉に驚いたが、やがて微笑んで言った。
「本当は、お優しいのですね、下村さま」
それを聞いた下村は、また顔をそむけた。だが、その目はさっきまでの人を威圧し恐れさせるような目ではなかった。少し照れたような、ほっとしたような眼差しだった。
(本当の自分を見せないように、わざと憎まれるような態度を取る……やはり、この方と歳三さんは、どこか似ているのだわ……)
「おうめさん!あぁ、やっと帰ってきた!心配したよ、
長屋の者がうめを見つけて、慌てて駆け寄ってきた。うめの後ろに立つ大柄な男を見て、更に驚いたようだ。
「ごめんなさい。途中で気分が悪くなって、休んでいたもので……この方は……」
うめが言いかけたのを遮り、下村が言った。
「俺は通りかかっただけだ。こんなでかい腹で荷物を抱えて、人通りの多い街道を歩かれたのでは迷惑だ。これからは気をつけろ!」
と、持っていた反物を近くに立っていた女に預け、踵を返して行ってしまった。
下村から反物一式を渡された女は、その重さに驚いた。
「重っ……おうめさん、あんたこれ持ってたのかい?だめじゃないか、お腹の子が流れちまったらどうするんだい!ほら、早く家に入って体を休めないと!」
女は慌ててうめを促して、長屋の中に入れた。
「すいません、皆さんにご心配かけて……」
うめは、心配して来てくれた近所の者たちに謝った。
「まだ産み月には早いんだからね。あんまり無理するから、お腹の子が、『母ちゃん、休め』って言ってるんだよ」
女がそう言うと、他の者たちもそうだそうだ、と頷いていた。
「これからは軽いものにしてもらいますから……」
うめがすまなそうに言った。
「そういや、さっきのお侍さん、おっかなそうな顔してたけど、あんたのこと心配してたみたいだったねぇ。知り合いじゃないのかい?」
別の女が聞いた。
「え、えぇ……」
うめはそう答えた。下村が敢えて名乗らなかったのに、自分が言ってはいけないと思ったのだ。
「外を歩くときは、気をつけないとね。黒船が来てから、得体のしれない浪人者もウロウロしてるよ。全く、御上は何をされてるんだかねぇ〜!」
噂話に敏い長屋の者たちが、うめに注意を促した。うめは、はい、と言って微笑んだ。
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