第11章 黒船来(きた)る
うめは、具合が良くなると、寺の裏通りにある長屋に住むことになった。住職は、うめのことを、夫と死別した者だと紹介した。住職が言ったとおり、長屋の者たちは新しい住人の元の素性を詮索したりすることはなく、うめは安心してこの宿場町に落ち着くことができた。
初めは寺の
しばらくすると、古着屋から商人風の男を紹介された。
「この人の縫いもんは、丁寧でさ、古着にはもったいねぇくらいだよ」
商人風の男は、自分は仕立屋だと言い、反物をうめに見せた。きらびやかな反物は、うめに、かつて奉公していた大伝馬町の店を思い出させた。だが、その反物は所々に焦げのようなキズがついていた。
「本来なら、
仕立屋からそんな話を聞き、うめは思わず働いていた店の名を出した。
「ああ、その店なら、大旦那さんが火事で死んじまったそうだよ。残された家族がどうなったかは知らないねぇ」
と仕立屋は言った。うめは、今更ながら、お弓に黙って姿を消したことを悔やんだ。
(お嬢さま、うめの不義理をお許しくださいませ……)
「私がお仕事を手伝えば、その、大伝馬町のお店の方々も助かるのでしょうか?」
とうめは聞いた。仕立屋は、
「ああ。よく出来た仕立てなら、焼け残った店がまた買い上げてくれるかもな」
と答えた。うめは、いくつかの反物や帯を預かった。
「おうめさん、そんな体で仕事増やしたりして、無理しちゃいけないよ」
と近所の者が心配するほど、うめはよく働いた。お腹もかなり目立つようになってきた。
その年、黒船が浦賀に寄港し、提督ペリーが、アメリカ大統領の国書を幕府に渡した。6月のことであった。それに従い、神奈川宿には幕府の役人をはじめ、浪人やら商人やら、知らない顔が少しずつ増えはじめ、宿場は騒がしくなっていった。
ある日、宿場近くの海岸にたくさんの人が集まっていた。うめは預かった反物を抱え、長屋への帰路を急いでいた。
「ほら、あれが黒船だよ!!」
誰かが橋の向こうを指差すと、
「おおぉ〜っ!!」
という、どよめきとも歓声とも取れる轟音に包まれた。うめも思わず音のする方を見たが、人の波に遮られて何も見えない。ただ、空にたなびく黒い煙だけが見えた。
このとき、ペリーは、江戸湾の測量と称して、日本への威嚇行為を行っていたようだ。何も知らない庶民たちは、煙を吐く4隻の黒い船体を見て恐れおののいた。
『泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も寝られず』
という狂歌が詠まれたのも、この頃のことだ。黒船来航から始まった『幕末』という、とてつもなく大きな波に、自分の腹に宿っている赤子がいずれ飲み込まれていくのだとは、当時のうめに分かろうはずもない。
「あ……!」
うめはお腹をさすった。お腹の子が動いたのが分かったからだ。
「あなたも黒船が見たいの?元気な子ね……新しいもの好きは、父さま似なのかしら?」
とうめはひとりで微笑んだ。
人の波に押されながら歩いていたうめだったが、誰かにぶつかって反物を落としてしまった。
「女!気をつけろ!」
と、浪人風の男たちが怒鳴った。
「す、すいません!」
うめは謝った。しかし、男たちはうめの顔と落とした反物を見ると、顔を見合わせてニヤッと笑い、近づいてきた。
「武士の魂にぶつかっておいて、すいませんで済むと思うなよ。それ相応の詫び代を貰わんとな……随分と高価そうなものを持っているではないか。煤けてはいるが、町人には似合わん代物だ。まずは、これを貰おうか」
と、ひとりの男が反物を奪おうとした。
「お、お刀にはぶつかっておりません。
うめは反論した。それが相手の気に障ったようだ。
「何を?町人の分際で武士を愚弄する気か!?」
すると、ジロジロとうめを見ていた別の浪人が、
「この女、町人にしておくのは勿体ないほどの、器量よしではないか。おい、女、俺たちと一緒に来れば、良い思いをさせてやるぞ。まずは酒の相手をしてもらおう。来い!」
と無理やりうめの手を強く引っ張った。
その時、ビュッと風を切る音がして、黒い物が飛んできた。それは見事に男の頭に当たり、男は思わずうめの手を離した。
「うぅっ!!だ、誰だ!?」
男は血が流れ出る額を押さえて叫んだ。うめはその黒い物に見覚えがあった。
「鉄扇……!」
「やめろ!こんなところで問題を起こすな!」
鉄扇を投げた主が近づいてきた。それが誰だか分かると、うめを囲んでいた男たちは顔色を変えた。
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