第9章 神奈川宿
神奈川宿は、東海道五十三次で日本橋から三番目の宿場町である。
産業革命以降、ヨーロッパやアメリカでは工業が盛んになり、鯨油を取るための捕鯨を太平洋で行っていた。その航海は長期間に渡るため、途中で水や食料、蒸気船のための薪などを補給する他に、海難事故などの漂流民を保護してもらうことが必要となっていた。だがそのための費用は膨大であり、各国とも、捕鯨船が途中寄港するための港を、太平洋に面した国に求めていた。
18世紀後半に始まったロシアによる日本への進出は一時的に落ち着いてはいた。しかし、アヘン戦争でイギリスが清に勝利したことから、欧米のアジア進出は本格的となり、日本もその脅威から外国に対する高圧的な姿勢を改めなければならなかった。浦賀湊には、何度もアメリカの船が来航し、日本との通商を求めていた。それらの船団は、船の色形から、『黒船』と呼ばれた。
1850年代頃の神奈川宿は、東海道の中でも割と大きな宿場町であった。江戸にも近いことから、神奈川湊には、生魚を将軍に献上するための船が出入りしていたし、街道沿いの露店には、地方から集まった物品も並んでいた。
『黒船』来航の
嘉永6年(1853)、春のことであった。
「ご、ご住職様、門前に女の人が倒れてます!!」
寺の小僧が住職を呼びに来た。住職は下男を連れ、急いで門前にやってくると、若い女が、苦しそうにうずくまっていた。住職は、女の腹がふっくらとしているのに気付いた。
「これ! 急いで産婆を呼びに行きなさい! この人は、身重じゃ!」
小僧はびっくりして、近所の産婆のところに走った。
産婆はひととおり、女のお腹の様子を確認すると、にこっと笑った。
「大丈夫だよ。お腹の子はしっかりしてる。よく動いて、こりゃ、きっと男の子だよ」
たがその後、真面目な顔になり、
「でも問題なのは、おっかさんの方だ。無理して歩いて来たね。ちゃんと食事も取っていないんだろう? 顔が真っ白だよ。このまんまじゃあ、お産のときに無事でいられる保証はないよ! しっかり栄養のあるものを食べなきゃ!」
と女を叱った。
「すいません……」
女が床の中から謝ると、
「あんたは、どこから来なさった?どこまで行かれるんじゃ?」
と住職は尋ねた。
「……」
女が答えないのを見て、住職は言った。
「以前通ってくれていた、
住職が産婆に聞くと、
「そうさね、多分、夏の終わりくらいかねぇ」
と答えた。
「じゃあ、それまでしっかり食べて、丈夫にならんといけんな」
住職がにっこりと微笑むと、女の目から涙が溢れた。
「あ……ありがとうございます……どこの誰とも知れぬ私に、こんなにご親切に……」
「あんただけならどうやっても生きていける。だがお腹の子は別だ。あんたがいなければ生きてはいけまい。子は国の宝じゃよ。これも御仏のお引き合わせじゃと思えば……」
と言いながら、住職は手を合わせた。
産婆が帰り、小僧たちも自分の仕事に戻って周りが静かになると、住職は聞いた。
「そういえば、まだ名を聞いておらんかったの」
女は起き上がり、きちんと座り直した。
「無理をせんでよいぞ。楽にしたままで良い」
住職の言葉に頭を下げながら、女は答えた。
「ありがとうございます。私は江戸の生まれで、名を『うめ』と申します」
「お腹の子の
一瞬、うめの顔が引きつったように住職には見えた。
「……おりません……子どもはひとりで育てるつもりです……」
と、うめは答えた。それは、うめ自身に向けた決意のようなものだった。
住職は、そんなうめを見て、
「そうか……まぁ、良いじゃろ。このあたりの長屋には、何処からかやってきてこの宿場に落ち着いた者たちも多い。余計なことは聞きはせんじゃろう。神奈川宿とは、そういうところじゃよ」
と言った。
「ありがとうございます。もう少し落ち着いたら、お話できると思いますので、今はお許しください」
うめはそう言って、丁寧に頭を下げた。
住職は、一見小柄で、か弱そうに見えるこの女が、実は己の意志を貫き通す心の強さを持った者であることを見抜いた。きちんとした物腰や言葉遣いから、単なる町人では無いことにも気付いていた。男のことを話さないのは、相当な理由があるのだろう、もしかしたら、身分のある女かもしれないと推測し、生まれる子共々、温かく見守ってやろうと思っていた。
うめは歳三と別れ、たったひとりで神奈川宿まで来たのだ。いや、正しくは、別れさせられたのだった。
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