第8章 脇差『堀川国広』

 「母上、ただいま戻りました」

呉服問屋からそう遠くない裏長屋に、うめの声がした。うめは住み込みで呉服屋に奉公しているが、一日のうち、数時間は家に戻って病気の母親の世話をし、また店に戻る、という毎日を過ごしていた。母、菊乃きくのは一年以上床についていた。元々丈夫ではなかった上に、様々な心労が重なったため、心臓がかなり弱っているのだ、と医者は言っていた。


 しかし、今日の菊乃は、いつもと違っていた。

 菊乃は長い間病に臥せっていたとは思えぬほどの毅然とした姿勢で座り、うめを出迎えた。

「おかえり。あなたに話があります。こちらにおいでなさい」

 いつもと違う母の様子にうめは目を見張った。その姿は、かつての武家の妻女らしく、身支度を整え、背を伸ばし、まっすぐにうめを見つめていた。

「は……はうえ……?」

 その姿に圧倒されたうめは、黙って菊乃の前に座った。


 そこには、金糸銀糸が縫い込まれた、美しい袋が置かれていた。うめは初めて見るその美しい布地に、しばし見とれた。菊乃は、袋から一振りの刀を出した。

「これは、『堀川国広』が作刀した脇差です。あなたの父上が、るお大名から賜ったものです」

 と菊乃は言った。

「父上が、お大名から……?」

 うめが復唱すると、菊乃は続けて、

「この先、どんなことがあろうとも、この刀は絶対手放してはなりませんよ」

 と、強く言い含めるように言った。


 母の言葉の意味が、最初、うめにはよくわからなかった。

「父上の御形見おんかたみでございますもの。もちろん、手放したりなどいたしません」

 うめは母に向かってそう言った。素直な感情だった。

「あなたのお父上、内藤一馬かずまは、身に覚えのないとがで、おはらを召されました……内藤の家も断絶し、家財もすべてなくなりましたが、私はこの刀だけは守り通すと心に決め、今まで生きてまいりました……でも、もう私の命も……残り少なくなりました」

 菊乃は、肩で息をしていた。呼吸が辛いのだということは、うめにもわかっていた。

「そんな、母上!お気の弱いことをおっしゃらないで!我慢なさらず、横になってください」

 うめは母に寄った。だが、菊乃はうめを制した。

「大丈夫。自分の身体のことはよくわかっています……いいですか、梅乃……この刀は父上の形見です。でもこれは、父上をとおして……あなたが賜ったものなのです」

「私が……?」

 うめは不思議そうな顔で母を見つめた。菊乃は、そんな娘の頬を細い指で優しく撫でた。

「あなたが将来、男の子を生んだ時……この刀が、あなたとあなたの子を、必ず守ってくれるでしょう。ですから、この先……どんなに困窮しても、この刀を金子に替えることなど、絶対にしてはいけません……絶対にです……!」

 苦しい息の下からの、力強い命令に、うめは頷きながら、

「わかりました、大丈夫です。言いつけは守ります……ですから、お願いです、横になられてください……!」

 うめは必死で菊乃の身体を横たえようとした。


 そのとき、菊乃が胸を押さえてうつ伏して、動かなくなった。

「は、母上?母上、しっかりしてください!今お医者様をお呼びします!」

 その声に応えるように、菊乃が顔を上げた。

「この刀は……あなたが……の……御子だと……」

 だが、その声は小さく、うめには全部を聞き取ることができなかった。


 うめの母、菊乃は、その翌日に息を引き取った。うめには、母が『堀川国広』という脇差について、何かを自分に言い残そうとしていたことはわかったが、詳細はわからなかった。刀が入っていた袋にも、その周りの桑折にも、それらしい書付などなかった。ただ、菊乃が息を引き取る寸前に、

「男の子を……」

 という言葉を呟いた。うめは、母が自分に、男児を産んで内藤家を再興しろ、と願っているのだと思った。そのために、刀が必要なのだと思った。


 刀が入っていた袋には、もうひとつ、真綿でくるまれた、小さな観音像が入っていた。誰が作ったのか、木彫りの細工物だった。前後で合わせになっているようだが、どうやったら外れるのかわからなかった。うめはそのままその観音像を包み、刀袋に戻した。


 うめは、母の葬儀のあとで、歳三にその刀を見せた。すると、『堀川国広』は、相当な身分の武士でなければ手に入れられない刀だと聞いている、と教えられた。


 うめの父親は旗本の用人をしていたが、身分はそれほど高くなかった。ただし、剣の腕前は相当なものであったのを知っていた。通っていた剣術道場の、後継者候補にあがったと聞いたことがある。その縁で、うめの見合いの話が進んだこともあったが、この話は、歳三にはしていなかった。

「きっと何か、旗本や御大名の前で、武芸を披露したことがあるんじゃねぇか?その褒美としてどこかの殿様にもらったんだろう。いずれにしても、うめの父上が立派な武士である証拠だ。この刀は、おふくろさんの言ったとおり、ぜってぇ手放したりしちゃいけねぇよ!俺も、そんなことにならねぇように、おめぇを守らなきゃな……必ず武士になって、家の再興でもなんでもしてやるぜ……!」

 歳三はそう言って、菊乃の位牌に手を合わせた。


 うめは歳三の隣で手を合わせ、心の中で思った。

(この人は、いつかきっと自分の力で、武士になるのだろう。そして、この刀を後に伝えてくれるに違いない……いつか生まれる、我が子と共に……!)


 うめは母の遺言を守り通した……その命の尽きるまで。

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