第10話 見贈り
太陽が隠れた。厚くて重たい雲が、空一面を覆い尽くしていた。
「はぁっ…!はぁっ…!」
肩を激しく上下させながら。何度も躓いて転びそうになりながら。
「宮村っ……宮村ぁぁぁぁ!!」
僕は走った。宮村のもとへ。
「はぁっ…はぁっ……うわぁっ!」
通りかかった人にぶつかる。右肩に走った衝撃で、僕は地面に倒れ込んだ。タイルの硬い床に顔を打ちつけ、鼻に鈍痛が広がる。
「いってーな。ちゃんと前見ろよ」
サラリーマンの男が、迷惑そうな目で僕を見下ろしていた。「すみません」とだけ呟いて、立ち上がった僕は再び走り出した。
「はぁっ…!はぁっ…!あと7分…!」
歩道沿いに立ち並ぶお店のウインドウ。そこから覗く時計を見て、僕はさらなる焦りを覚えた。
「絶対…間に合わせる!宮村、待ってて……!」
もし宮村と会えなかったら、受験なんて落ちてもいい。最悪、死んだっていい。そんな乱暴極まる考えを自分に押しつけて、全身全霊のダッシュを仕掛けた。
―その時だった。じんじんと痛みが残る鼻先に、ちら、と冷たい感触がした。
空を見上げると、ちらほらと、白い粒が舞い降りていた。
また、雪だ。
走りながら、僕は思った。風に飛ばされた紙がきっかけで、僕と宮村が再会を果たした日も。気持ちをぶつけることでしか愛を語れない、自分の愚かさを知った夜も。ようやく宮村の恋人になれて、初めて手を繋いで歩いた朝も。並んで座ったベンチで、手作りのチョコを貰った放課後も。
そして、受験で東京に向かう宮村に会うため、激しく息を切らして地を蹴る、今、この瞬間も。
「はぁっ…!はぁっ…!着いたっ……!」
ようやく駅が見えた。一目散に構内に駆け込むと、辺りを見まわして、宮村を捜した。まばらな人の群れに、彼女の姿はない。もしかすると、先にホームに降りてしまったのか。
「改札通らないと…!」
僕は券売機の前に駆け寄った。しかしすぐに、モニターに表示された『きっぷを買う』の文字を見て、絶望によく似た感情に襲われた。
……財布がない。
『詰み』の二文字が脳裏をよぎった。普段学校に行く時は、お金なんて持ち合わせていない。生徒が金銭を持ち込むことは、校則で禁じられているからだ。
ここまで、必死に頑張ったのに。どれだけ伸ばしたところで、この手は結局、宮村には届かないのか。
あまりの悔しさに、涙が出そうになった時だった。
『今、緊急事態なんでしょ?私の小銭入れ貸してあげるから、必要だったら公衆電話とか使って、連絡しなさい』
「あ……」
真っ暗な洞窟に、光が差した気分だった。すぐにポケットから、はる姉の小銭入れを取り出した。百円玉を二枚掴んで、一番安い切符を買った。
「はぁ、はぁ……」
無事に改札を通過した僕は、ホームに続く階段を昇った。肌に触れる空気は冷たく澄んでいるのに、全身汗まみれで、体もヘトヘトだった。
それでも僕は、最後の気力を振り絞って、雪の舞うホームを見渡した。
「宮村はどこだ……どこにいる……?」
ぜぇぜぇと息を枯らして、胡乱な目つきで宮村を探す。ここまで来ると、執念の域だった。
「!」
僕の目が、限界まで見開かれた。停車中の車両に、今まさに乗り込もうとしている少女。赤いマフラーに唇をうずめて、雪のように白い横顔を、寂しそうに俯けている少女。
見間違うはずがない。だってあれは、僕にとって、この世で一番大切な女の子―宮村雪乃、なんだから。
「宮村っ!」
疲労なんか忘れて、駆け出していた。電車に乗り込む寸前で、宮村が足を止めた。そして僕の方を振り向くと、虚ろだったその顔に、見違えるような花を咲かせた。
「結城…!もう来ないかと思った……」
宮村が震える声で言った。その瞳には、微かに涙の痕があった。
「ごめん、ギリギリになっちゃって」
僕が謝った時だった。向かい合う僕たちの間に、刺すような声が割り込んだ。
「雪乃、もう電車出ちゃうわよ。早くしなさい」
宮村の後ろに、髪の長い女性が立っていた。白磁の肌も、綺麗な黒髪も、宮村とよく似た外見のその女性は、苛立ちを滲ませた顔で、手首の腕時計を叩いていた。
「あ、はじめまして。僕は結城…」
「ごめん、お母さん。少しだけ待って」
宮村が僕の体を押すようにして歩き出した。ホームに設置された柱まで回り込んでから、ようやく宮村は足を止めた。
「お母さん、はじめての東京で、緊張してるのよ」
横目で母親を窺いながら、宮村が言った。
「そうなの?なんか、怒ってるみたいだったけど」
「ああ見えて、ビビりなのよ。……結城、それより」
ちら、と宮村が、僕の持つ体操着袋に目をやった。
「そうだ、プレゼント」
僕は袋を開けた。腕を伸ばし、柔らかな布の感触を確かめる。
あの日渡すはずだった、クリスマスプレゼント。随分と遅れてしまったけど―
「どうかな……?」
ようやく今、宮村の手に渡った。
「かわいい……」
宮村は丸い目をして、布地の感触を確かめるみたいに、手に取ったマフラーを撫でていた。抹茶に近いカーキを基調とした、タータン模様。もしかしたら微妙な反応もあるかも、と覚悟していたが、目の前の宮村は、口元を綻ばせ、その顔には一片の
「僕が、巻いてあげるよ」
気付けば、そう口にしていた。宮村は一瞬驚いた表情を見せたけど、静かにまつ毛を伏せて、元々巻いていた赤いマフラーをほどいた。僕は距離を詰め、自分より背の低い宮村と向き合った。
宮村の鼓動が、すぐそばで聞こえた。潤んだ瞳で僕を見上げる彼女に、そして自分自身に、「大丈夫だ」と言い聞かせるように、強く、深く、頷いた。
白くて細い首に、温かな布をかけた。
ゆるりと巻き付け、胸の前で、ひとつに結んだ。
「……!」
新しいマフラーを巻いた宮村を見て、僕は、息を吞んだ。
―あまりにも、似合っていた。
「……なんか、言いなさいよ」
宮村がジト目を向けた。僕は「えっ」と掠れ気味の声を出した。コメント一つ発さずに、黙って宮村を見つめていたのだ。それくらい、心を奪われていた。
「……控えめに言って、最高」
白い息と共に吐き出した僕の感想に、宮村は「なにそれ」と薄く笑った。
「……でも、似合ってたのならよかった。こんなに可愛いマフラー、私じゃ釣り合
わないかもって」
宮村が目を細めた。次の瞬間、口が勝手に動いた。
「そ、そんなわけないだろ!最高なのは、マフラーじゃなくて宮村なんだ!」
溢れ出た本音に、ほんの一瞬、静寂が訪れる。数瞬遅れで自分が何を言ったのかを理解した僕は、かあっ、と顔に熱が集まるのを感じた。
「……ありがと」
宮村が、少し照れたように笑った。どこかくすぐったい心地がして、僕は視線を外した。
「ク、クリスマスなんだからプレゼントくらいするよ。これくらいどうってこ
と……」
「そうじゃなくて。…私のこと、そんな風に想ってくれて、ありがとうって意味」
その時だった。ちゅ、と小鳥がさえずるような、可愛らしい音が響いた。
「みや…むら……」
右頬に、甘い痺れが走っていた。宮村に、キスされた。
「私、そろそろ行くね」
静かに顔を離すと、宮村が言った。僕は、まだ唇の感触が残る頬を、呆然と手で押さえていた。
「雪乃ー!いい加減にしなさーい!」
柱の向こう側から、宮村のお母さんが呼びかけてくる。発車を呼びかけるように、電車が、白い煙を吐き出した。
「この中、お菓子が入ってるから。移動中に食べて」
「そんな、よかったのに……」
僕から体操着袋を受け取った宮村は、少々申し訳なさそうな顔をした。だけど出発の
「宮村、受験頑張って!応援、してるから!」
「…うん!いってくるね!」
大きなリュックと、僕が巻いた、マフラーを揺らして。
宮村は駆けた。電車の中へ。僕のいない明日へ。
そうして、彼女を乗せた電車は、雪の落ちる線路を、瞬く間に走り抜けていった。
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