第2話
名前も何もかも知らない男との約束を守る為に、仕事を早めに終わらせ、いつもより一本早い電車に乗った。いつもは読書や音楽を聴きながら帰ってくるのだが、今日はそんな気分にはならなかった。妙に心臓が早く脈打つ。久しぶりに緊張しているらしく、私の猫背気味の背中は電車の窓には映っていなかった。いつの間にか地元の駅に着いて、深呼吸をしてから電車を降りた。改札を抜け、東口の階段を降りて、不意に足を止めた。階段下に、昨日の男が立っていた。
「おう」
男は一言言って手招きした後、コンビニ前のベンチに向かって歩き出した。数段ゆっくり階段を降りて、また立ち止まってしまった私の足は、緊張しているのにガタガタしていなかった。警戒しつつも、ハンカチを返してもらうだけと自分に言い聞かせながら彼についていった。
ベンチに座った彼は、私が近くに来るのを静かに待っていた。1メートル離れたあたりで止まった私がおかしいのか、ふっと鼻で笑って、昨日のように隣に座れとベンチを軽くポンポンした。恐縮しながら隣に座るとハンカチを差し出してきた。
「昨日はどうも」
それだけ言って、そのハンカチを私の膝の上に置いた。少し目があって、2、3秒見つめ合ってしまい顔が熱くなる。先に私が目を逸らすと、彼は静かに立ち上がって、大通りに向かって歩き出した。私の頭の中は落ち着かなかった。本当にハンカチを返してもらうだけだった。何か話があるとか、そんなことを考えていた自分が恥ずかしい。もう、ハンカチは返してもらったし、早く帰って早く忘れよう。こんな恥ずかしい早とちり。そう思ってハンカチを手に取ると違和感があった。レースがついたハンカチだった。私のお気に入りのハンカチはキャラクターが描かれているタオル地のものなのに。
「あの!」
もう近くにいないかもしれないのに、顔を上げず大きな声で彼を呼んだ。はっと顔を上げて前を向いたら、彼が立ち止まってこちらを向いていた。急いで彼の元まで走った。
「こ、これ。私のじゃありません」
「うん……だから?」
「へ?」
もう知っているような顔をして、彼はこちらを見てくる。
「それは君にあげる。誰も使ってない」
「えっと、ありがとうございます。でも、私のって」
「ああ、あれは……あまりにもついていて、俺が預かっている」
「預かる?」
人のお気に入りのハンカチを?
「どうしても返して欲しいなら、俺の家に来る?」
「なっ……?!」
ベンチの男 尾長律季 @ritsukinosubako
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