第3話 無職の反撃
翌日、昌義はリビングを隅から隅まで掃除していた。
このところ仕事に忙殺されて掃除が行き届いてない。服が脱ぎ散らかされているし、部屋の隅や家具の上にホコリが溜まっている。
これでは立派な家を遺してくれた両親に顔向けできない。無職になったのは青天の霹靂だったが、それによって生じた時間を有効活用しようと掃除に励んでいた。
その時、スマホに着信があった。画面には知らない携帯電話の番号が表示されている。
(来たか)
昌義は覚悟を決めて通話ボタンを押下する。
「はい、真田です」
『おいこら真田ぁ!! てめぇこれはどういうことだ!?』
電話がつながるや、鼓膜を引き裂かれそうな怒鳴り声が響いた。耳がキーンとなって反射的にスマホを遠ざける。
「その声は武田社長ですね。一体何のことでしょう?」
『すっとぼけるな! 退職届を内容証明で届けるなんて卑怯だぞ!』
「あ、届いたんですね。それじゃあ退職届に書いた通り残業代と残ってた有給分の給料の振り込みお願いします」
怒り心頭の武田とは対照的に冷静に要求を伝えた。だが腹の中では美景の作戦が効果を発揮したことを喜んでいた。
作戦、つまり昨日美景に指示されて書いた退職届とはこんな内容だ。
*
退職届
このたび、一身上の都合により八月末日をもちましてツツジ・システムを退職させていただきます。
連日の時間外労働と武田勝四郎社長の理不尽な叱責が原因で心身に不調をきたしており、このような決断を下しました。
ついては未払いの時間外労働手当、残余有給分の給料を遅滞なくお支払いください。
これらの要望が履行されない場合、労働基準監督署に相談させていただきます。
真田昌義
*
武田が退職届を書かせたいのは、助成金欲しさに役所の顔色を窺っているからだ。美景の作戦はそんな武田の思惑を利用した作戦だ。
武田にしてみれば口うるさい真田を追い出してコストカットしたつもりが、役所を盾に一矢報いられたのだから青天の霹靂である。
『ふざけるな! 社長を脅すような真似しやがって、この恩知らずめ!』
「脅しではなく正当な権利です。俺に説教する前に契約と法律を守ってください。あと、恩があるのはあなたではなくご尊父です」
『親父が死んだ後も雇って働かせてやっただろうが! 今すぐ戻ってこい! 給料もらった分、働かせてもらった分、死ぬまで俺の下で働け!』
「無茶苦茶ですね。会社に来るなと言ったり働けと言ったり。とにかく、俺はもうツツジ・システムをやめました。だからあなたの命令は聞きません。それでは給料の支払い、よろしくお願いします」
『待て、この野郎――!』
話の通じない人間の相手をするのはバカバカしい。昌義は一方的に電話を切った。
ドサッとソファに腰を下ろし、大きなため息をついた。自分を無碍にした武田にカウンターを食らわせてすっきりするかと思ったが、意外にも何も感じなかった。むしろツツジ・システムとの関係がすっぱり切れて虚しささえある。
『私が死んだら私のことは忘れて……。あなたはあなたの人生を生きて……』
『悲しいことを言わないで……。俺はこの先どうやって生きればいいんだ……』
BGM代わりにつけていたテレビから映画のセリフが流れてくる。昌義は大きなため息をついてスイッチを切った。
目をつむると瞼の裏に先代の顔が浮かんだ。息子を見限った自分を晴信が見たら怒るか、悲しむかと詮無いことを考えてしまう。
(これで良かったんだ。晴信さんには十分尽くした)
どれだけ考えても答えは出ない。結局のところ最善を尽くしたと自らに言い聞かせるしかなかった。
ふと昌義はスマホで高坂美景に電話を掛けた。昨日連絡先を交換しておいたのだ。
美景はワンコールで出てくれた。
『は、はい! 高坂です!』
美景の声は少し上ずって聞こえた。なんとなくテンションが高いようだが気落ちした昌義は意に介さなかった。
「お疲れ様。今、武田社長から電話があったよ」
『そうですか。何か言われましたか?』
「特に何も。いつも通り罵詈雑言を吐かれたかな」
『それはそれは……。退職した後なのにお疲れ様です』
美景の苦笑が耳にくすぐったい。耳に優しく息を吹きかけられてるみたいだ。
そんな声を聞いていると武田と話して荒んだ心が洗われるのだった。
「高坂さんの方はその後大丈夫?」
『えぇ、お陰様で。「私が訪問する前に郵送された」と報告したので何も言われませんでした』
美景の作戦は見事だが、昌義には一つ懸念があった。それは作戦を提案した美景に理不尽な懲罰が与えられることだ。
しかし美景の作戦は緻密だった。美景が訪れたときにはすでに郵送済みで、新しく書いてもらえなかったと口裏を合わせたのだ。
すべては昌義が考えてやったこと、という絵図である。美景は裏で糸を引くような立ち回りだが、そもそも自分事なので武田の相手を引き受けるのは本望である。
「労基署といい内容証明といい、俺には思いつかない作戦だったよ。本当になんとお礼を言ってよいのやら」
『とんでもありません。社員が安心して働けるよう支えるのが総務の仕事ですから』
美景の有能さと謙虚さには舌を巻く。制度や法律のことは自分で調べるのが社会人の常識なのに、手取り足取り教えてくれた彼女には感謝してもしきれない。
「でも、高坂さんのおかげで助かったよ。貯金はあるけど先立つものは必要だからね。何かお礼をさせてもらえないかな?」
『お礼、ですか? 気にしなくていいんですよ?』
「それじゃあ俺の気が済まない。遠慮せず、なんでも言って」
『……なんでもですか? 今、なんでもとおっしゃいました?』
不意に声のトーンが下がった。昌義は違和感を覚えて口を引き結ぶ。
美景が『なんでも』という部分に食いついたのは明白だ。
もしかすると彼女は何かとんでもないことを要求してくるかもしれない。
『そ、それじゃあ……その……』
おずおずとか細い声がスピーカー越しに聞こえる。一体何を求めてくるのか、昌義は固唾を飲んで待つ。
『つ……付き合っていただけませんか……』
かろうじてマイクが拾える程のか細い声でのお願い。
一体何をリクエストされるのかと身構えていたが拍子抜けした。
『あ、あの真田さん? お返事は?』
沈黙する昌義をいぶかる声がしたので慌てて返事をする。いい意味で予想外だったのでつい黙り込んでしまった。
「すみません、ぼーっとしてました。もちろんOKだよ」
『ほ、本当ですか!? やった! う、嬉しい!』
昌義からOKをもらった美景は歓喜していた。スマホの向こうで笑ってる顔が目に浮かんだ。
『あの……では早速ですが今夜にでもいいですか?』
「もちろん。俺は暇だから。でも、何に付き合えばいいの?」
『…………へ?』
「だから、お出かけするのに同行すればいいんだよね?」
美景が言いそびれていたのか、自分が聞き逃したのかで行き先を聞いてないが、『付き合う』というのは『同伴』の意だと昌義は解釈していた。
『あー……それはー……そのー……お酒に付き合ってくだされば……』
「酒? あぁ、なるほど」
きっと横暴な勝四郎の愚痴を聞いてほしいのだろう。散々勝四郎から詰められた昌義だからその気持ちはよく分かった。
「もちろん、いくらでも付き合うよ! お世話になったし、俺がおごる! 八王子にいいお店知ってるからとことん飲もう!」
『あはは……楽しみだなぁ。あはは……』
さっきまで乗り気だったのになぜか美景の声が遠のいているような気がするが、きっと気のせいだろう。
昌義も男だから『付き合ってほしい』と言われた時、『交際』の可能性を考えた。
だがすぐに考え直した。
美景のような若くて気立ての良い女性が自分のような無職の男に交際を申し込むはずがない。
まして美景とは深い仲ではないから好意を抱いているはずない。
変な勘違いをしないよう自戒する昌義であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます