人を呪わば穴二つ 解決編
◼️現在
ピンポン、と軽快なチャイムが鳴り響いたあと、間を置かずに玄関扉が開かれる。
まるで今さっきまで扉の前で待っていたかのようなタイミングに、一秦は内心苦笑しながら、目の前で顔をきらきら輝かせている辰を見上げた。
「こんにちは、辰。今日は家に招いてくれて、ありがとう」
「こんにちは、一秦さん! こちらこそ、来てくれてありがとね。楽しみすぎて、ずぅっと待ってたよ!」
辰はにこにこしながらそう言った。興奮によるものなのか、眼を熱っぽく潤ませているその顔は、一秦ですらドキッとさせるようなある種の凄絶な色気を放っている。
しかし、一秦はそれをおくびにも出さないまま、頬を上気させて子どものようにはしゃぐ辰を宥めつつ、敷居を跨いだ。
「お邪魔します」
「いらっしゃい」
辰が鍵を閉める音を背後に、一秦はきょろりと周りを見回した。妙に耳障りなガチャンという音から意識をそらしたかったことに加えて、初めて訪れる場所への好奇心が抑えきれなかったのである。
大学生の独り暮らしにしては豪奢なマンションの一室は、まず玄関をくぐるとすぐにホールに通される造りとなっている。そこから各居室へ繋がっており、一秦が目視で確認するに、リビング、浴室、洋室二部屋となっているようだった。
浴室と廊下の間に挟まる広々とした洗面所で手を洗い、そのままリビングへ通される。二十帖は優にあると見えるリビングの奥には更に部屋があった。きっちりと扉が閉じられているのを鑑みるに、恐らく寝室か自室なのであろう。
「荷物、机の上に置いて良いよ。そうだ、何か飲む?」
一秦は飲み物の提供を一度断った。しかし、頻りに勧められるのでとうとう根負けした一秦が緑茶を頼むと、辰は冷蔵庫の中をがさがささせながら、気の抜けた声色で一言、「りょ~かい」と返した。
手持ち無沙汰になった一秦は、リビングにぽつねんと置かれた机の側で所在なさげに立ち尽くしていたが、ふと、手土産を持参していたことを思い出した。
紙袋に入れた、丸々とした紅い林檎を覗き込む。
そこから目を離すと、未だに冷蔵庫の中に頭を突っ込んでいる辰の後ろ姿に向かって、声をかけた。
「辰、林檎は好き?」
辰が不思議そうな顔つきで振り返るのを、何ともなしに見つめる。
辰に嫌いな食べ物や、苦手な食べ物、食べられない物が無いことは、何となく把握していた。彼は何でもよく食べる。しかし、一秦の見立てでは、辰は文字通り好き嫌いがない——つまり、端的に言ってしまえば食に関心が薄いということだった。
だから、食べ物を手土産にすることは、本来ならば遠慮すべき事である。しかし、一秦は辰と一緒に食べたい、と思ったのだ。理由は沢山あるような気もするし、逆に全くないようにも思える。ただひとつ、確実なことは、一秦が辰とともに食事をすることを強く望んだと言うことであった。
すると、何かしらオーバーな反応を示すかと思ったのに、辰は妙に静かな表情のまま、
「一秦さんと食べるものなら、何でも好き」
と、殊勝な言葉をかけてくるので、一秦はふっと唇を綻ばせた。
「お土産で持ってきた。とても美味しい林檎なんだよ。一緒に食べよう」
紙袋から取り出して、辰に見せてやる。辰が頷いたならば、早速皮を剥こうと思っていたのだが、予想に反して辰が頷くことはなく、結局その瑞々しい林檎は二人の口に入ることはなかったのである。
「分かった。でも、話の後でも良い?」
「……うん」
肩透かしを食らった一秦は、何となく気恥ずかしい思いをしながら、すごすごと林檎を仕舞った。
その間に辰は緑茶を二人分をガラスのコップについで、慣れた手つきで運んできた。
「流石に様になっているな」と一秦がひねくれた褒め方をすると、辰は完爾として笑った。
「でしょ~? 最近は皿も割らなくなったんだよ」
「進歩してるじゃないか」
「おかげで大分、懐も暖かくなったんだよね」
澄んだ翡翠色の緑茶が入ったコップを一秦の前に置きながら、辰はうきうきとした口調でそう言った。
それにぎくりと体を揺らしたのは、一秦だ。
「……そうなんだ」
辰は椅子に座ると、一秦へ席につくように勧めた。一秦は大人しくそれに従う。緑茶に映る己の顔を覗き込むと、憂鬱そうに歪んでゆらゆらと揺れていた。
一方、辰は両手を組んで、その上に顎を乗せると、眼をゆっくりと細めて、脂汗を浮かべる一秦をじろじろと見回した。
「そう。二人で暮らす分には、困らない程度に」
そうやって言葉を添えることも忘れない。あからさまな発言に、一秦はぴったりと唇を閉じて、にやにやと笑う辰を見返した。
「ね、一秦さん。一緒に暮らそうよ」
提案のような口振りだが、そこに拒否権は存在していなかった。
「私はまだ、君の告白に対して返事をしていない」
一秦は冷然とした口調で、淡々と事実を述べた。
すると、辰はわざとらしく片眉を吊り上げると、
「一秦さん、俺の告白を断るの?」
と訊ねた。やはり、辰は一秦から色好い返事を貰えることに露ほど疑いを持っていなかったようだった。勿論、一秦はそう勘違いするように画策した。しかし、美事に引っ掛かった辰を嘲笑う気持ちには、とてもなれなかった。
ただ、先程から妙に不気味な辰の態度に、ざわざわと心が揺れているのが、気にかかる。
「……そうだと言ったら?」
一秦は警鐘を鳴り響かせる脳髄を無視すると、端的に言った。
すると、辰はすー……っと表情を削ぎ落とした。
途端に溢れんばかりの人間味が消え失せて、何も無いような表像に取って代わる。まるで彫像のような無機質を感じさせる辰に内心ぎょっとしていると、彼は組んでいた掌をほどいた。
「何故」
普段、おちゃらけた声色が嘘のような、血の気のない声だった。AIロボットの方が断然優しくて人間らしいと思えるほど、感情が欠落している彼に、一秦は言葉を失った。
「理由は?」
唖然とする一秦が何か告げる前に、辰は矢継ぎ早にそう言った。
怒鳴られたり、威嚇されたわけでもないのに、膝ががくがくと震え始める。何か言わなくては、と焦れば焦るほど、何を言って良いのか分からなくなり、それがますます一秦を追い詰めていった。
一方、辰はぐっと身を乗り出すと、一秦の鼻先に己のそれが触れそうになるほど、顔を近づけた。
がらんどうの暗闇が、一秦を捕らえる。身がすくむような思いを抱きながら、辰の眼をじっと見つめていると、辰は犬歯が剥き出しになるような笑いかたをして、一秦に迫った。
「理由もなく断るの? それは酷くない? 俺が納得できる理由を教えてよ」
そこまで捲し立てると、辰は一瞬唇をぴったりと閉じた。
「それとも」
一秦の顔にかかった横髪を勝手にすくい取ると、耳にかける。ぞぅわ、と背筋が粟立つ感覚に鳩尾が冷たくなったが、一秦は身動ぎひとつせずに、それを受け入れた。
「何か、言えない理由があるわけ?」
……言うべきか迷ったのは、ほんの一瞬の出来事。
一秦はぱしりと辰の手を払い除けると、一言、
「……ストーカー」
とだけ、言った。
「ん?」
辰が首を傾げている。いけしゃあしゃあと惚ける男に、一秦は呆れたような、或いは空恐ろしい気持ちを抱きながら、辰の秘密を暴露した。
「ストーカー、君だろう、辰」
「……ほーぉ?」
ぱちり、と眼をしばたたかせた辰は、一秦から身を引いた。漸く生まれた適切な距離感に一秦がほっとしている合間に、辰はしみどころか埃ひとつない天井を見上げながら、ぼんやりとしていた。
「話の流れ、変わってきたな。続けてどうぞ」
やがて考えが纏まったのか、顔を元の位置に戻した辰は、真顔でそう言った。
一秦はそうっと息をつくと、渇いた唇を湿らせた。
それから、覚悟を決めたように鋭い視線で辰を射抜くと、反比例するような淡々とした声色で口火を切った。
「確かにあの時……きみの婚約者である香月光華さんに会ったあの日、私は彼女が嫌がらせでストーカーをしているのだと思った」
「そうだよ? 写真という決定的な証拠があるじゃん」
辰の言う通り、写真という決定的な証拠を差し出された光華は、ひどく動揺した様子であった。一秦は最初、己の所業が余すところなく露呈した上で、逃れられぬことに気づいた故の動揺だと思ったのだが……。
「それはそうなんだけど……」
腕を組んで、顎を少し上向けながら首を傾げて笑う辰を、祈るように見つめる。
この後告げる、一秦の疑問を何の屈託もなく笑い飛ばして、否定してくれることを願いながら……。
「それなら、何故、光華さんが写っている写真に、私の自宅付近のものが無いんだろう?」
「……」
辰はピタリと笑うのを止めると、感情のない眼をしたまま、一秦へ視線を合わせた。
一秦はそれを見て、冷や汗が噴き出したのを感じ取った。何でも良いから否定してほしい気持ちで、胸の内がぐちゃぐちゃになる。
「私は正直、誰かに
光華は確かに一秦を
あれだけ具に様々な角度から、そして様々な場所から撮られた写真群の中で、違和感を覚えるほど自宅周辺の写真が無いことが、あとから考えると一秦は不思議で仕方がない。
「興信所の奴等には、一秦さんが
一方、辰も中々尻尾を見せるようなことはせずに、のらりくらりと、一秦の疑惑の隙をぬうように言葉巧みにかわしていく。
しかし、辰の説明にはいくつかの不審点を払拭できる有力なものがないことを、一秦は強く認識していた。
それは次の通りである。
光華が一度しか自宅へ忍び込んでいないのならば、何故幾度となく不自然に家具が移動していたのか。辰の指摘する通り、誰か他の人間を雇ったのならば、何故それらしき人物が写真に出てこないのか。そもそも、別人を雇っているのなら……光華本人が何度もわざわざ尾行する必要もない筈だ。
一秦は冷たい視線で辰を睨んだ。それに鼻白んだ辰が口を閉じたのを見計らって、絶対に彼が提示出来ない証拠を差し出すように迫った。
「そう。では、その興信所の名前を教えてくれないか。実際に、君がどのような指示を出したのか、是非とも聞き出したいからね」
「……」
重たく深い沈黙が、二人の間に横たわる。
一秦も辰も、抜け目なくお互いをじろじろと見回しながら睨み合っていた。そして暫く、膠着状態が続いた。
「光華さんにも話を聞いた」
やがて、一秦がそう切り出すと、辰はふーぅ、と大きなため息を落とした。そして、鏡合わせのような無表情を取り繕うと、あっけらかんとした様子で一秦に向かって訊ねた。
「よく会えたね。あれから彼女、憔悴して食事も喉を通らないって聞いたけど?」
先日謁見した光華の顔色の悪さを思い出しながら、一秦は重々しく頷いた。辰の言う通り、彼女は初めて出会った時とは別人のように、幽鬼に取り憑かれたような顔つきになって、体も痩せ細っていた。
「げっそりしてたよ。窶れてもいた。それは無理もないよ。あの日から家族どころか、親戚一同からも針のむしろだったようだからね。でも、会ってくれた。光華さんはとても良い人だった。とても、婚約者の傍を付きまとってる女へ嫉妬に狂って、犯罪を犯す人とは思えなかった」
一秦は光華から、彼女の知る杵築辰という人物と、その所業について、全てを聞くことができた。
そして、光華は泣き咽びながら、助けることが出来なくてごめんなさい、と何度も何度も謝罪した。恐らく彼女の高潔な心をここまで蝕んでいるのは、この罪悪感だったのだ、と一秦は気がついて、ひどく心を痛めたのだった。
「辰、きみは……どこまで嘘をついているんだ?」
一秦は、辰のがらんどうな眼を見つめた。一秦が好感を抱くように振る舞い、その裏では他人を陥れ犯罪紛いな行為を平然と行うその所業に、空恐ろしい気持ちを抱く。
しかし同時に、一秦の何をそこまで気に入って執着しているのかは理解できないが、辰の熱烈な恋着はこの後一秦が告げる重大でどうしようもなく動かしがたい事実によって、めちゃくちゃにされてしまうのが、少しだけ憐れだった。
「一秦さんは、一度しか顔を合わせていない女の言うことを、信じるの? 付き合いの長い俺よりも?」
辰はあくまでもしらを切るつもりであった。今度は、一秦がため息を落とす番だった。
「……辰」
この事に気づいた時からずっと、言うか言うまいか迷っていた。あの日もたしかに違和感を覚えていたのだが、指摘する前に記憶から流れ去って、今日まで無意識のうちに思い出さないようにしてきた。
「これは、本当は気がつきたくなかったし、出来れば触れたくないことだった。でも、君はあくまでもしらばっくれるつもりなんだな」
「まどろっこしいな。何?」
淡々と言い募る一秦に向かって、珍しく語気を強めた辰の顔色から、感情を窺い知ることは不可能であった。
「何故私の家の仏壇があることを知っている」
——その瞬間、辰の表情に大きなひびが入ったことを、一秦は見逃さなかった。
それは辰が、その言葉が何を意味するのか、理解していることに他ならない。現に辰は耳の軟骨部分に手を触れて、どうにか己を落ち着かせようとしていた。
彼は己が犯した最初で最後の痛恨のミスを突かれたことにより、漸く化けの皮が一枚剥がれ落ちたのだった。
「私は絶対に、他人がいる場所で仏壇を開けることはない。例外は叔父だけだが、それ以外の他人は……そもそも、あの場所に仏壇があることすら知らない。私の家に死者がいることは知られていない」
一秦は畳み掛けるようにして、辰を詰めた。ここで機を逃したのならば、二度と辰は尻尾を見せてくれないと思ったためであった。
「それなのに、君は初めて上がった筈の私の部屋で、『お父さんの仏壇に挨拶したい』だなんて宣った。私の父が既に亡くなっていることを知らない筈のきみが、だ。しかもきみは何度か、仏壇がある場所を見ている。見た上で、仏壇の話をしたんだ。偶然だなんてあり得ない。いや、偶然と言い張るなら好きにしてくれ。でも、私は信じない。何故なら、あの場所は二重扉になっていて、例え私の不注意で開けたとしても一見仏壇の中身が見えることはないからだ」
辰は蒼白い顔をそのままに、じっ……と穴が開くほど一秦の瞳を見つめていた。秘密を暴かれたことによる憤ろしさなのか、はたまた愕然として絶望しているのか、推し量ることは叶わない。
「君は始めから知っていたんだろう。どうやって知ったのか。それは視たんだろう。私が扉を開ける瞬間を。隠したカメラで」
一秦はそこで一旦言葉を区切ると、ショルダーバッグからポーチを取り出した。その中身から、ひとつ取り出して、辰に向かって差し出した。それはハンカチでくるまれており、大きさは小指の先ほどのものだった。
「ひとつだけ見つけた。これが設置された箇所を鑑みるに、あの仏壇を盗み視ることは叶わないから、まだあるんだろうな。でも、あとは諦めた。ひとつ見つけただけで震え上がったんだから、こんなものを何個も見つけなくてはいけないだなんて、憂鬱で仕方ないよ」
監視カメラという動かぬ証拠を突きつけられた辰は、天井を仰ぐと、その体勢のまま固まった。
一方、何も言わない辰へかなしそうな瞳を向けた一秦は、再びハンカチで包んだカメラを仕舞うと、しかし、平淡な声色で続けた。
「光華さんから裏付けはとれている。彼女は私に、辰がカメラや盗聴機を駆使して私をつけ回していることを、教えてくれた。君がストーカーだ。私はのこのことストーカー本人に相談していたわけだ。馬鹿みたい……いや、本物の馬鹿だな」
最後に自嘲気味でそう締め括ると、一秦は一言、
「何か言い訳はあるか?」
と訊ねた。しかし、本心ではまさか、この期に及んで言い訳がましいことを喚き散らすとは思っていなかったから、一秦の中ではあくまで形式的な口上であった。
すると、辰は天に向けられていた顔をぐりんと一秦へ向けてきたので、思わず肩を震わせて凝視してしまった。
辰は暫くの間、何事か思考していたようであったが、不意ににっこりと微笑んだ。
そして、ようやく耳から手を離すと、そのまま右手の人差し指と中指を突きだして、Vサインをとった。
「じゃ、二つだけ」
何とも厚かましい上に、往生際の悪い男を、一秦は半分目蓋を下ろしたまま眺めた。何も言わない一秦の態度を了承ととったのか、辰は中指を折ると、端的に告げた。
「ひとつ、確かにカメラを仕掛けたのは俺だけど、一秦さんの家の家具を動かしたことは一度もない」
辰の支離滅裂な発言に、怒りを通り越して呆れた一秦は、腕を組むと「もうちょっとましな嘘をついてくれないか」と、冷たく言い捨てた。
しかし辰は、心外だとでも言いたげな表情を浮かめた。そして、
「嘘だと思うなら、あとでカメラと盗聴機を設置した場所、全部教えるから探してごらん。絶対に家具を動かすヘボなことをするような位置には配置していないから」
と言ってきたのである。ここで一秦はちょっとだけ、考えた。カメラを仕掛けたことは認めたのに、家具を動かしたことは否定したい辰。この点に、一体何が隠されているのだろう?
「でも、きみ、仏壇のポカはしただろ」「面目ねえわ、それに関しては」
まさか、何らかの理由で家具を動かしている奴が別に居るわけでもあるまいし……。
無表情の下でつらつらと思考を続けながら、辰との応酬を繰り広げる一秦を置いて、次に彼は人差し指を折った。辰の二つ目の言い分の開始である。
「ふたつ、俺は一秦さんの自宅にカメラと盗聴機を隠したけど」
「いろいろ突っ込みたいが、一旦置いておこうか」
鈍い頭痛が治まらないような発言に瞳を据わらせる一秦をよそに、辰は謎に満ち満ちた笑みを拡げると、一言、告げた。
「一秦さんのストーカーじゃない」
一秦は思わず、まじまじと辰を
何を言っているのか理解するのに、一秦は相当時間を要した。
「流石に無理がある」
「あ、聞いて聞いて! 本当に俺じゃないの! だって、俺、そのストーカーのこと、知ってるから!」
「はあ?」
最早、辰が何を言いたいのか、一秦には分からなかった。行動と言動に矛盾が生じていることに気が付かぬほど愚かではないくせに、その矛盾を堂々と言ってのけるその胆力と大胆さ、そして厚かましさに、一秦は逆に毒気を抜かれてしまった。
一方、ぽかんとする一秦に気がついた辰は、がしがしと乱暴に頭をかくと、「兎に角、全然違うわけ」と口を開いた。
「俺は一秦さんを見守るためにやってるけど、そいつはキショくてキモい信念の下、ストーカーやってるだけだから。一緒にしないで! 鳥肌ヤバい! ほら見て! ぶつぶつが……」
一秦からしてみれば、団栗の背比べ、五十歩百歩である。どちらもキショくてキモいことには変わらないんじゃないだろうか、と喉元まで出かかって、何とか飲み下した。
これ以上この件について突っ込んでいくとドツボにはまるような気がしてきたので、一秦は話題を少しだけ転換させるために、敢えて優しく穏やかな声で訊ねた。
「……きみ、何で光華さんに罪を被せたんだ? きみがストーカーじゃなくて、尚且つストーカーの正体を知っているなら、彼女を犯人に仕立てあげる意味がわからないんだが……?」
辰は眼をぱちりぱちりとしばたたかせると、ぴったりと唇を真一文字に引き結んだ。再び高速で思考しているらしい辰を、抜け目なく観察していると、思考処理が終了した辰が身を乗り出してきた。
「別に、話しても良いけれど……」
勿体ぶった言い方に眉をひそめていると、辰は一秦の考えうる限り最悪の交換条件を提示してきた。
「一秦さんが俺の告白、良い返事してくれたら教えてあげる」
「……」
この辺りが潮時だろう、と一秦は目を閉じると、そう考えた。
一秦と辰の関係は、既に破綻している。それは、辰の度を越えた違法行為によるものではない。元々成り立つ筈のない関係ではあったが、一秦はある目的の為だけに、辰を利用しようとした。そのツケが回ってきたのかもしれない。
しかし、今となってはどうでも良いことだった。自暴自棄にも近い感情かもしれない。結局、一秦は最初から最後まで自身の激情に振り回された。後に残ったのは、後味の悪い虚無感のみである。
一秦が瞳を見開くと、奇妙な笑みを浮かべた辰が此方を見つめていた。
「辰、もう私たち、会うのは止めよう」
「え、突然? 何で?」
きょとん、とする辰を見ていると、ストーカーをしている奴と好き好んで付き合い続ける人間がいるのだろうか? と思考が寄り道をし始めるので、慌てて軌道修正をする。今さっきの発言には何ら関係のないことだったためだ。
「私は、きみに相応しくないからだよ」
一秦は内心、この期に及んでずるい己を嘲笑った。自分の執念のためだけに陥れようとした相手から——そして、執念深く自分をつけ回して監視していた相手から——嫌われたくないと無様に泣き叫ぶ己は、ひどく醜い生き物であった。
「これ以上ないってぐらい、相応しいと思うけど?」
最初は普段通りの楽観的な態度で一秦を見守っていた辰だが、だんだんと顔を強張らせていって、眉をひそめた。どうやら一秦が本気であることを、悟ったようであった。
「一秦さん、本当のこと言ってよ」
辰が喘ぐような口調で、そう言い募った。まるで一秦の言葉次第では、そのまま命を落としてしまうと錯覚するほど、慌てふためいている。
「言ってるよ」一秦は淡々と告げた。もう、何かを偽るのは止めることにしたのだ。
「俺のこと、嫌いになった?」
辰が今にも死にそうなほど、表情をひきつらせながら、恐る恐るそう訊ねた。ガリガリ、と乱暴にピアスを引っ掻きまわしているのは、おそらく無意識なのだろう。あまり触りすぎると血が出るのではなかろうか、と一秦は心配したが、それを指摘するとよくない方へ感情が爆発ししてしまうような気がして、口篭ってしまう。
しかし一方で、一秦は少しだけ微笑ましい気持ちになった。他人を支配下に置くために自宅に忍び込んで、至るところにカメラと盗聴機を隠したくせに、嫌われるのが怖いだなんて矛盾にも程がある、と。
「ああ。カメラと盗聴機で大分嫌いになった。……」
一秦はそこまで言い差して、ふと口をつぐむ。青ざめ過ぎて、肌の色が灰色に近しいものになって、脂汗を浮かめている辰をじっと見つめる。
そう、嫌いになれれば良かったのだ。そうであれば、一秦はこのような地獄の苦しみを味合わずにすんだのに。
「と、言いたいところだが、何故だか、そんなことはない」
辰はそれを耳にした瞬間、風船から空気が抜けていくような、深いため息を落とした。
ずるずると椅子からずり落ちて、背凭れに頭をつけると、ガリ……ッと深く耳の軟骨を引っ掻いた。そして、ギロリと鋭い視線で一秦を射抜く。どうやら辰も、一秦が好むガワを取り払う覚悟が出来たようだった。
一秦は足を組むと、その上に両手を置いた。顎をツンと高く上げて、なるべく居丈高に見えるように心掛ける。
「じゃあ、何か気に入らない?」
今にも獰猛な唸り声をあげて、飛びかかってきそうな威圧感を迸らせながら、辰は一秦に噛みつかんばかりに威嚇した。しかし一秦はちょこりと首を傾げると、辰の怒りなどどこ吹く風で、さらりと流す。
「気に入らないことなんてないよ」
辰は剥き出しにしていた牙を仕舞うと、ちょっとの間、訝しげな表情を見せた。
しかし、すぐさま取り繕うと、挑発的な笑みを浮かべて、こう言った。
「もしかして、俺が許せない?」
「……」
この発言は一秦に虚を突かせた。一瞬の空白の後、辰の意図することを高速で考える。
「なあ、俺、全然納得出来ない」
何も言わずに瞳を据わらせた一秦へ、今度はすがるような表情を見せる辰の本当の顔は——心は、一体何処にあるのだろう?
ころころと表情を、感情を変化させる辰は、一体何処まで知っているのだろう?
やはりもう、誤魔化すことは出来ない。
「私たちは……」
永い沈黙ののち、一秦は口火を切った。辰は素直に「うん」と頷くと、続きを促した。
バク……バク……と、心臓が厭にゆっくりと、そして大きく脈打つのを、感じとる。いつの間にか冷や汗が流れ落ちて、喉がからからに渇いていることに気づいて、ぎゅう、と膝の上に置いた両手を握り締めた。
「結婚できない。付き合うことも、本当は許されない」
——とうとう言ってしまった。何もかも、おじゃんだ。もう戻れない。全てが御仕舞いで、全てを一秦が台無しにした。
それでも……きっとこれで、良かったのだ、と心の奥底で、小さな一秦が涙に濡れた顔のまま、笑った。
「何で?」
一方、辰はというと、小さな子どものような無邪気さで、さも不思議そうに首を傾げていた。
そして、ぽかんとした辰を視界に入れた瞬間、一秦は数年ぶりに弾けるような大きな声をたてて、笑った。
辰は、けらけらと明るいながらも涙が出るほど笑い転げている一秦を、目を丸くさせながらまじまじと見つめている。それに気がついた一秦は、更に破顔した。このまま笑い死んでも良いと思えるくらいに、おかしくておかしくて仕方がなかった。
本当のことなど何も知らない愚かしい辰と、汚らわしい執念に囚われてもなお辰を愛している滑稽な自分自身が。
呆気にとられた様子でこちらを見やる辰をよそに、一秦は笑いすぎてあふれ出た涙を拭いながら、息を整える。
そして、一秦は、辰の恋着が死んでも二度と蘇ることのないように、鋭く尖りきった言葉の刃で、とどめを刺した。
「私たちが、姉弟だからだ。それ以外の何物でもない」
辰がどのような顔をしているのかは、わからない。一秦はどうしても、彼の眼をまっすぐ見て告げる勇気が湧かなかったためだ。卑怯で浅ましい。血を分けたというならば、唯一の血縁である異父弟の眼に映る自身の醜さを、これ以上痛感したくないという……何処までも保身に走った、身勝手な感情だった。
一秦は下を向いたまま、にっこりと微笑んだ。頬が濡れて不快だったが、拭う気力さえ最早ない。
真っ白になるほど強く強く握り締めた拳の上に、ぱた、ぱた、と水滴が落ちていくのを眺めながら、一秦は不審なほど明るい声色で、きっぱりと言い放った。
「母親が一緒の、正真正銘の姉弟。……だから、無理だ。結婚なんて絶対に出来ないし、況してや恋人にだって到底なれないのさ」
◼️現在
受付を滞りなく終えて、目的地である病室へ向かう。
案内をしているナースが時折、ちらりちらりと辰の顔を窺っては、恥ずかしそうに目線をそらすので、その度に辰はにこっと微笑んでは、おぼこい新人ナースを揶揄った。
病室に辿り着くと、ナースははにかみながら、「御用がありましたら、申し付けてくださいね」と言付けて、名残惜しげに去っていった。それをにこにことしながら見送った辰は、しかし、くるりと振り返って病室の扉と対面した時には、既にそのナースのことは記憶から消去していた。
ノックもせずにガラリと扉を開く。勿論、部屋の主の名前は、前もって確認済みである。
「よう、クソジジイ。まだくたばってねえのかよ、しぶといな。早く地獄に落ちろよ」
病人ひとりを収容するには十分すぎるほどの、広大で豪奢な室の中、キングサイズのベッドに横たわった老人が、ギロリと辰を睨んだ。
様々なチューブに繋がれて身動きがとれないながらも、不思議と老いを感じさせることのない屈強な肉体を持った男の名は——
今でこそ年輪のような深いシワが顔中に刻み込まれ、皮膚も潤いを失っているものの、目がぎらぎらと異様な輝きを帯びて脂ぎっている様子が、辰馬から老いを感じ取らせないようにも見える。また、若い頃はさぞかし美丈夫と持て囃されていたであろうことが想像に難くないほど、顔立ちが整っていることも、それに拍車をかけていた。
「数年ぶりに顔を合わせたと思えば、言うことに欠いてそれか? ふん、黙れ、貴様も同じ穴の狢だろうが。大体、年長者への挨拶がなっとらんな。その品性の欠片もない口調、一体誰に似たんだか……」
片方の口の端をつり上げて、歯茎を剥き出しにしながら笑う辰馬は、ガンッ! と乱暴に扉を閉める辰へ、つらつらと嫌味を垂れた。しかし辰も負けてはおらず、入口付近の壁にもたれ掛かると、腕を組んで祖父にあたる男を睨み返した。
「テメエの口汚さを棚に上げてんじゃねえぞ、クソジジイ。で、何だっけ? 誰に似たかって? さあな、少なくともあんたの息子……『父さん』ではないだろうよ」
辰馬は点滴によって穴だらけの腕をゆったりと動かすと、備え付けのデスクにあった果物の山から、林檎をひとつ手に取った。辰もまた、肩にかけたトートバッグから重量のある文庫本を取り出す。
「ははは」
「わはは」
辰馬と辰は同時に笑った。声だけがやたら大きくて、そのくせお互い真顔のまま片時も相手から目をそらさない。
ガラッ!
「病院内ではお静かにお過ごしください!」
辰が文庫本を、辰馬が林檎をお互いの顔目掛けて投げつけようと狙いを定めた瞬間、正にタイミングを見計らったかのように、年配の看護師長が入室して怒鳴った。勤続年数も長く、品行方正であり、患者からも医者からも厚い信頼を勝ち取っているベテランの彼女は、金払いは良いものの我が儘で暴君な辰馬を特別に専属として診ている。辰馬も彼女には頭が上がらないようで、鬼の形相で首だけ覗かせた看護師長を見た瞬間、林檎を隠して愛想笑いをしながら誤魔化そうとしていた。
一方、辰も彼女から睨まれるだけで竦み上がるような心地を覚えるので、早急に文庫本をトートバッグに詰め込んだ。
「ごめんなさ~い」
「すまん」
ギロッと二人を睨み付けた彼女は、「辰馬さん、お孫さんが来てくれて嬉しいのは分かりますけど、兎に角安静になさってくださいね。そうじゃなければ、入院期間が更に長引くとお考えくださいね」と鼻息荒く釘を念入りに刺すと、ピシャンッ! と扉を壊す勢いで閉めた。嵐のような御仁である。
興の削がれた二人は、お互いの顔を見もせずにだらだらとした動作で、所定の場所へと戻った。
「おい、林檎、食うか? 辰也からの差し入れだ」
きゅきゅきゅ、と病衣の袖で適当に表面を拭いた辰馬が、林檎を差し出してくる。丸くてつやつやとした紅い林檎はたしかに美味しそうではあるが、ものの数分前のできごとを思い返した辰は、イライラとした口調で申し出をはね除けた。
「テメエ、それ、今投げつけようとしたやつだろうがよォ~! 要るわけがねえんだよなァ~!」
しかし辰馬はどこ吹く風で、「カルシウムが足りてないんじゃないか」と頓珍漢なことをほざきながら、ベッドの背凭れに身を沈ませた。だから此処に来たくなかったんだよなあ、とぶちぶち文句を垂れながら、「てかさ、あんた、いい加減にしてくれない?」と、辰は塵を見るような眼で辰馬を見下ろした。
「何のことだ」
惚ける辰馬の目が、ぎらりと妖しく光る。ぬけぬけとした態度に青筋を立てながら、辰は「すっとぼけてんじゃねえぞ」と地獄の底から響き渡るような低い声で威嚇した。
「一秦さんに密偵張り付けて、監視してることだよ。どんだけ耄碌してんだ、クソジジイ。可愛そうに、一秦さん、めちゃくちゃ怖がってたぞ。あんまりふざけた態度ぬかしてると、そのまま息の根止めるからな」
辰が一秦の名を口にした瞬間、辰馬の眼球の輝きが更に異様な光を帯びた。ニヤア、と気味の悪い笑みを浮かべる辰馬に、反省の色は微塵も感じ取れない。
「やってみろ、クソガキ。口だけぎゃんぎゃん吠えようが、痛くも痒くもないわ」
そう嘯く辰馬を見て、まさかとは思ってカマをかけてみたものの本当にストーカーをやっていたとは、と辰は呆れ半分、おぞましさ半分で顔を歪めた。
「わはは」
「ははは」
再び、お互いを真顔でしっかりと見つめながら、高笑いをする。
そして、ほんの一瞬の静寂の後、辰は目にも止まらぬ速さで辰馬に近づくと、病衣の胸ぐらを掴み上げた。一方、辰馬も辰の頭髪をむんずと引き掴んで引っ張ると、その横顔目掛けて拳骨をぶち当てようと握り締めた。
ガラッッッ!
「だ~から、病院では静かにしろって言ってんだろーが! 一生泣いたり笑ったりできねえようにしてやろうか⁉︎」
しかし、やはり長年の勘なのか、はたまた病室の外で見張っていたのか、ベテラン看護師長が勢いよく扉を開けて入ってきたので、辰も辰馬もびくっと体を震わせた。
般若の形相で今にも火を吹きそうな彼女に逆らえば、そのまま集中治療室へ問答無用で放り込まれそうだ。だから、辰と辰馬は青ざめたままにっこりと愛想笑いを返すと、小さな声で「すみません……」と謝罪したのであった。
■
ぷりぷりどころの騒ぎではない、怒りの般若看護師長を見送った二人は、一時休戦をすることにした。
辰は備え付けのパイプ椅子を出入口付近まで運ぶと、どっかりとそこへ腰を下ろした。光華ではないが、一分一秒でも長居したくない上に、顔を見るのも苦痛だった。インダストリアルにあるピアス穴を拡げるように触れると、少しだけ落ち着くような気がする。
辰は窓の外の曇天をじろりと睨みながら、一秦の部屋に侵入して家具を荒らしていた理由について、端的に訊ねた。
辰馬もまた、辰から極力視線をそらしながら、次のように述べた。
辰馬は、一秦の自宅に保管してあると思われる、秦葉の死亡診断書、または死亡届のコピー、そしてそれらに連なる書面や確証全てを、手元に残しておきたかった。唯一の肉親である一秦が管理をするのが筋であることは承知の上だったが、それでも、欲望を抑えきることができなかった。だから、己の複線の部下を使い、決して足を見せないように細心の注意を払いながら、少しずつ集めていたらしいのだが……。
「いや、キッショ」
辰は嫌悪感を露に、苦虫を噛み潰したような表情で吐き捨てた。この男の変質的な思いは知っていたつもりだが、ここまで底無しの欲深さだとは思わなんだ。
吐きそうなのかえずく辰をよそに、辰馬は憑き物が落ちたような顔つきで、しみじみといった口調で呟いている。
「しかし、怖がらせたのは、悪いことをしてしまったな」
「ストーカーしてた奴がなんか言ってら」
盗人猛々しいとはこいつのことを言うんだろうな、と目蓋を半分下ろして眺める辰だったが、辰馬がぐりんと此方へ顔を向けてきたので、再び目線を転じた。
「貴様もだろうが、愚か者。こういうのを、何と言うか知っているか? 目くそ鼻くそを笑う、だ」
辰の眉間に皺が寄る。辰馬の言うことが、よく理解できなかった。
偏執的で妄執に囚われた辰馬と、純粋な愛を捧げる己の何処が、似たり寄ったりだと言うのだ、と辰は本気でそう思った。
やはり頭が大分やられてきているんだな、と辰は僅かばかりの同情を示したが、それでも聞き捨てならぬ発言には眉をしかめざるをえない。
「俺は一秦さんが大事で大切だから、見守ってただけなんだが……?」
しかし、辰馬は辰を鼻で笑っただけだった。そして、すっかり目を閉じると、薄い唇を真一文字に引き結んだ。
辰としては、もう話は終わったも同然であったので、早々に場を辞すべくパイプ椅子から立ち上がった。
「あの娘は、秦葉の生まれ変わりだ」
辰は動きを止めて、辰馬をまじまじと見つめた。彼の意図を判じかねたものの、話は終わっていないのだと見なして、再び着席する。
辰馬の横顔は一見穏やかで眠っているようにも見えるが、その声色の禍々しさは辰ですらぞっとするような、妄念に取り憑かれたものであった。
「秦葉の生まれ変わりなのだから、あの娘は私のものだ。私の掌からまんまと逃げおおせた秦葉を、今度こそ取り戻すのだ……。お前ごとき若造に、秦葉を渡すものか……」
「何言ってンの? 頭大丈夫? ナースコール、する?」
足を組んでだらしなく背凭れに凭れかかった辰が、揶揄混じりにそう訊ねる。実際、辰は生まれ変わりだとか転生だとか、そのような眉唾物の話は信じていない。そもそも、一秦は秦葉の娘であるのだから、前提条件自体が破綻していた。
しかし、その狂人の妄想から、辰はとある計画を思い付いた。ピアスをいじる手を止める。この男を抱き込めば、辰の悲願とも言える願いを叶えることなど、造作もない。己の願望を叶えるためならば、何だってやるし、何だって利用する。
それが、辰が杵築家に生まれて学んだ唯一の事実であった。
辰は唇を湿らせると、にやっと笑った。
そして、横たわったまま身動ぎもせずに、己の妄想と戯れる辰馬に向かって、悪魔の囁きを施した。
「そう言えば、昔、一秦さんのお父さんに会ったことがあるんだが」
辰馬はピタリと話を止めると、辰の方へ顔を向けた。
普段は鋭く尖った鉱物のような目が、限界まで大きく見開かれている。
わなわなと震えて言葉にならない辰馬を嘲笑う辰は、にやにや、にまにまとその様子を眺めていた。
「何だと……?」
生まれて初めて聞くといっても過言ではないほど動揺した辰馬の声が、耳を打つ。
辰馬は動きにくい体に鞭を打って、漸く辰に向かって手を伸ばすと、唾を撒き散らしながら矢継ぎ早に問い詰めた。
「何と言っていた⁉︎ 俺のことは⁉︎ いやそれより、何か困っていたことはあるように見えたか? 何処にいたんだ? 誰と暮らしていた? 辰、貴様の知っていることを、全て俺に言え! 隠しだてることは許さない! さあ、早く! 言え、言え、言え!」
枯れ木のような腕が宙を漂い、か細い五指が辰を切り裂こうとするかのように蠢きながら、空気をかき回す。
辰はそれを冷然と眺めたのち、たった一言だけ、述べた。
「何も」
ぱたり、と辰馬の腕がベッドの上に落ちた。
「……」
辰馬は辰から視線をそらすと、しばし茫然自失の様子で病室の壁を見つめていたが、やがて両手で顔を覆うと力なく項垂れた。十歳以上は老けたように思えるほど、辰馬からは生気を感じとることができなかった。
「……そうか……」
男が何を考えているのか、最早辰にはどうでもよい。しかし、このまま有耶無耶になって、そのまま辰馬に痴呆の症状が顕れたら、目も当てられない。辰の願いを叶えるためには……毛嫌いする辰馬の協力が必須なのだ。
辰はそうっと失意に沈む辰馬へ忍び寄ると、加齢によって薄くなり始めた頭頂部を見下ろした。
「惚けてるところ、悪いけどな。あんたの妄信してる転生とやら、俺が叶えてやろうか?」
辰馬は両手を顔に押し当てたまま、低い声で「言ってみろ」と先を促した。辰はニンマリと笑うと、己の悲願——一秦を掌中に収めて、二度と離れられない呪いの計画を、端的に述べた。
「アンタが執着して、とうとう手に入れられなかった人の娘と、アンタ達の血が入った息子の俺が交わった末に生まれる子どもの顔、見たくねえ? って言ってンの」
ここで辰馬は再び顔を上げた。辰を見上げる目は、ぎらぎらと輝きを帯びている。痩せ細っていることも相まって、まるで
「その子どもは、アンタとその人の血が交わった子どもでありながら、アンタが焦がれた人の、本物の生まれ変わり。——その方が、ロマンティックだよな?」
散々耄碌したと詰ったものの、同年代に比ぶれば頭の回転は速く、しっかりとしている辰馬は、瞬時に辰の言葉の意味を理解した。
まじまじと——己の血を分けた辰を見回した彼は、何か理解し難いモノを偶然見てしまったような顔つきになったが、それもすぐに霧散して、普段通りの威厳ある面持ちに戻った。
「貴様、大分頭のネジが外れていると見える! ふふふ、ははは、わはははははは! ——イカれてるな」
最後は真顔でそう言ってのけた辰馬に、辰は不服そうに顔を歪めた。
自分だって大分頭のネジを外しに外して、イカれたことを仕出かしているくせに、よくも他人のことをとやかく言えたものだと呆れ果てる。
「ハアー? アンタだけには言われたくない台詞、ナンバーワンだっつーの。……で? 協力してくれんの?」
しかし、辰馬は既に心を失っていた。
「辰」
虚な眼孔をギラギラと輝かせながら高揚した髑髏が、獣の笑みを浮かべながら、辰を見定めている。
「絶対に、あいつを甦らせてくれ。それさえ叶うならば、協力は惜しまない。……お前が何をしようとも、何に成ろうとも、関知しない」
辰馬は宙を見つめながら、恍惚とした様子で両腕を広げた。そして、まるでそこに何かがいるかのように、感極まった様子で涙を一筋流すと、こう言った。
「私に、あいつの生まれ変わりをこの手に抱かせてくれ」
辰馬の体がぐらりと揺れて、上半身が掛け布団の上に突っ伏した。興奮による血圧の上昇で、座っていられなくなったようである。加えて、その肩は細かく震えていた。
そして、嗚咽を滲ませながら、
「秦葉……。何故、私を置いて死んでしまったのだ……」
と、悲痛な叫びを吐露すると、おいおいと大きな声で身も蓋もなく泣き始めた。最早、辰がいたことすら忘れているようだった。子供のように泣き続ける辰馬は、かつて様々な人々に畏怖された人物だとは、到底考えられない姿へと変貌している。
辰はこっそりとナースコールを押すと、手早く荷物を纏めて病室から出ていった。ここにはもう、用はなかった。
「アンタがそんなんだからだろ、どう考えても」
すれ違うナースを何ともなしに眺めながら、ポツリと呟いた言葉は、廊下へ転がり落ちると弾けて消えた。
「ま、聞こえてねーか。じゃあな、クソ
最後に急ぎ足で通り過ぎていった看護師長を影から見送った辰は、ふんと鼻で笑うと、もう振り返ることはなかった。
◼️過去
辰が生まれ育った杵築家は、冷たくて無機質で情の一欠片もない、寂しくて常に薄暗い家庭であった。
両親は政略結婚で結ばれた書類上の関係性でしかなく、従ってその間に生まれたとされる辰への親としての、そして家族としての愛情は微塵も存在しなかった。
しかし、そのことについて、辰は悲しく思ったことは、人生で一度たりとしてない。
両親が……正しくはあの高慢ちきで我が儘な母親が、であるが……、辰を省みることなどなかったように、辰もまた、彼らに興味関心を抱くことはなかったのである。
辰の幼少期はまさしく、白黒の世界だった。色も温度も何もない、平淡でつまらないだけの、感情の起伏すらない世界。
思い返してみるに、幼い頃の辰は笑ったことが殆どなかった。母親は不気味で可愛げのない子どもだと事あるごとに罵ったが、辰からしてみれば心が動くようなことなど何一つなかったのだから、勘弁してほしいと思っていた。しかし、そのような不平不満すら溢すことなくぼんやりとした表情で過ごしていたのが、辰の子ども時代であった。
常に無気力で人形のようにおとなしく生きていた辰であったが、自身が何故両親に疎まれているのかということは、口さがのない使用人たちや、祖父の遺産と後釜を虎視眈々と狙う親戚たちの悪意にまみれた噂話を聞いていたので、大方の事実は知っていた。
辰は両親——
血縁上では、辰也の父親……つまり、祖父である杵築家の真の支配者、不動産業界を牛耳る【宰相】杵築辰馬が、とある女と通じて生まれた妾腹の子であった。
戸籍上の母親である養母が、蛇蝎のごとく辰を憎悪するのもこの辺りが関係しているのであろう。養母は子どもの望めぬ体であったと聞いている。只でさえ政略結婚であるがゆえに愛情もない男とめあわされ、挙げ句の果てにどこの馬の骨もわからぬ義父の妾の子を育てさせられるなど、プライドの高い彼女には耐えられない恥辱であったことは、人の心が分からないと言われる辰でさえよく理解できた。だから、彼女のことは道端の石ころより価値のない存在だと思っている辰だが、その点だけは同情しても良いと考えている。
辰は本当の母親を知らない。辰が生まれてすぐに死んだとだけ、聞いている。それが産後の日達が悪かったことによるものなのか、病死なのか、はたまた自殺なのか、辰はあまり興味がなかった。ただ、昔一度だけ周囲の目を盗んで見かけた母親の写る写真は、脳髄に深く刻まれるように、強烈に印象付いていた。
その写真には、四人の男女が写っていた。祖父である辰馬、血縁上の母親、小さな女の子、凡庸としているのに何故か目が離せなくなる男性。辰は祖父と母親の顔よりも、正体不明の男性と……その人の足にしがみつく女の子の方が気になった。
男性は祖父よりも大分年下のようで、若さによる瑞々しさに溢れていたが、顔つきは至って控えめで、穏やかな表情で微笑んでいる。しかし、そのアーモンド型の瞳は力強くきらきらと輝いていて、どこか蠱惑的に歪んでいるのが、何とも不気味で仕方がなかった。
星の瞳だ。
この男は、万人が焦がれて止まぬ、星の瞳を持っている。
辰はこの、一言では言い表せぬ男に恐怖を覚えた。虫を光に誘い込み、ごうごうと燃え盛る炎で何も分からないまま焼き尽くすかのような、他人を乱惑させるおそろしい瞳を、この男は持っている。
幼い辰は表情に出さないまま慌ててそこから視線をそらすと、代わりに男の足にしがみつく、はにかみやらしき少女をじっと見つめた。
男にも母にもよく似た面差しの少女が、頬を薔薇色に染めて辰を一心に見つめている。辰もまた、ぽーっと珍しく顔を赤くして、写真越しの彼女をねつっこい表情で見つめた。少女は男とは違って強烈な光をその瞳に映し出してはいなかったけれど、何故か辰は彼女から——彼女の、長い睫毛にびっしりと覆われた、アーモンド型の瞳から、片時も目を離せなかった。
しかし、いつまでもそうしているわけにもいかず、かといって写真をくすねようにも発覚したときの面倒ごとに尻込みして、結局辰がその写真を目にしたのはこれが最初で最後であった。
しかし、辰があの写真の少女と何らかの関係があることに確信を得たのは、皮肉にも養母から躾と称した暴行を受けたあと、血縁上では兄にあたる養父に助けられた時のことである。
「化け物」と女が罵る声が、わんわんと頭のなかで反響する。「お前はあの女にそっくりだ」
「聞かなくて良い」と、辰を抱いた辰也が静かに呟く。「怒りをぶつける相手が、誰なのか理解できないんだ」
辰はぶたれた頬をそのままに、養父を虚ろな瞳で見上げた。辰也は能面のように動かぬ表情を、弟に向けている。辰也の背後で気が狂ったように暴れて使用人総出で押さえつけられている女の顔は醜悪にねじ曲がり、いつか本で見た鬼のよう、と辰は思った。
「お前は化け物の血が流れている。お前が生きているだけで、苦しんでいる人がいることを忘れるな。お前なんて、お前なんて、お前なんか——」
辰也が足早に妻から離れていく。辰は彼の肩に頭を預けながら、ぽつりと呟いた。
「ぼくが生きてると苦しむ人って、だれ」
「そんなものはいない」
辰也は冷たく切り捨てた。しかし、辰を支える彼の腕は細かく震えている。辰はもう一度、兄の顔を見上げた。一切の感情を消し去った人間の顔。彼もまた、杵築家で地獄を見た一人なのだということに、この時初めて気がついた。
「お母さんには、なかよしのひとがいた?」
辰也はゆったりと瞬きをした。辰の質問の意図がわからなかったのだろう。何処と無く無邪気にも見える様子で、じいっと辰の真意を図ろうと見つめている。
「そのひとには、子どもがいる?」
兄の足がピタリと止まる。女のつんざくような絶叫が、背後から響き渡る。呆然とした面持ちで、自身を見下ろす兄を見据えた辰は、生まれて初めてニンマリと笑った。
「あの女の子は……ぼくの、お姉ちゃん?」
辰也のガラス玉のような瞳に、恐怖の色がさっとかげろう。しかし、すぐにそれは霧散して、辰也は素早くいつもの通りの表情を取り繕った。
「そんなものはいない」
兄はもう一度、同じ言葉を繰り返した。しかし、先程は憐れみの色が強かったそれとは異なり、今口に出したその言葉には、強い拒絶が見てとれた。
「お前に兄弟姉妹は、存在しない」
辰はそれを見てとって、確信した。
——あの女の子は、自分と連なるものだ。
それから、辰が、あの写真に写る男と女の子が、母親の元夫と娘……つまり、種違いの姉であることに辿り着くのに、そう時間はかからなかった。金と、時間と、情報網と、知恵さえあれば、大体は事足りる。齢十歳にして、辰は既にその理をよく理解していた。
葦原一秦。
辰とは異なり、正真正銘、父親と母親から愛されて生まれてきた子ども。不義の子であり日陰で生きるしかない辰とは違って、大手を振って日向の当たる世界を歩ける女の子。
しかし、彼女の世界は辰が誕生したことにより、呆気なく崩れ去ってしまった。母親は知らない男に奪われて、父親とふたりぽっちで放り出されたであろう、一秦を思い浮かべる。きっと、あの写真に切り取られた愛らしい顔をぐしゃぐしゃに歪めて、毎日泣き暮らしているのかもしれない。取り戻せないものにすがって、自らの不幸を嘆いているかもしれない。
或いは——脆く儚く喪われた日常を壊した辰を、辰の血縁上の父を、毎日毎日来る日も来る日も、呪っているのかもしれない……。
辰は想像するたびに、ぞくぞくと背筋を粟立たせて、ニンマリと歪む唇を抑えることができなかった。一秦のことを考えると、備わっていないと思われていた感情が、湧き出るように溢れていく。まるで人間になったよう、と辰は微笑む。一秦だけが、辰を人間たらしめる。その事実に、辰は恍惚とした感情を抱いた。
◼️
前日には真っ白な雪が降り積もったためか冷たい木枯らしが吹き荒ぶ、その年一番の寒さを記録した日のことだった。
乾燥と手入れの行き届かぬがさがさとひび割れた手に握られた写真と、その裏にびっしりと細かく書き記された個人情報を頼りに、辰は息を潜めて隠れながらとある二人の人物をじっ……と観察していた。
辰の視線の先にいる——十代後半程度の女と、三十には満たないであろう男——二人は、ひそひそと何かを話しているのか、お互いに顔を寄せながら、並んで仲良く歩いていた。
女性が隣で歩く男の顔を見つめている。さらりとした滑らかな髪の毛が滑り落ちて、隠されていた横顔が垣間見えた。
辰はその瞬間、ガツンと脳天から、直接焼けた棒を穿たれたような衝撃を受けた。
陶器のようなきめ細かい白い肌を薔薇色に染めて、ふうわりと微笑む少女の顔をしたその人に、辰が焦がれてやまないあの写真の少女が被る。
……見つけた。
辰は直観した。彼女こそ、辰の異父姉である——葦原一秦その人だということを。
辰が想像したような、涙のあとも、恨み辛みの感情も、その横顔からは全く読み取れなかった。それどころか……、一秦は何だか幸せそうに、辰は見えたのだった。
半分は同じ血が流れている筈なのに、辰の眼から見た彼女は清廉で儚くて脆くて、……そして、とても美しいものに感じられた。
赤黒く腫れた顔、上手く開かない片眼、ガサガサに荒れて切れた唇、折れた鼻を覆うガーゼ、絞められた跡を隠した首の包帯、ひび割れた爪。
辰は己の醜い容貌を思い浮かべながら、片時も異父姉から視線を外すことが出来なかった。彼女と並ぶには到底釣り合わぬ、浅ましき己の姿。彼女が自身を見た瞬間、軽蔑の表情を浮かべる様が容易に想像できて、柄にもなく落ち込んだ。
一方、一秦は辰に気がつくことなく、隣に立つ背の高い容姿の整った男性を一心に見つめている。辰はそれを、憎悪と嫉妬に燃え上がった視線で射抜きつつも、抜け目なく観察する。
彼のことは既に調べはついている。柏木真。一秦の父方の叔父にあたる男で、確か今も一秦と彼女の父親——つまり、真の兄——と一緒に暮らしている筈だ。当時、辰は真が一秦と血縁上何も関係がないことを知らなかった。だから、この時は、もし彼が一秦の親族ではなく、他人でいながら最も近しい存在であったなら……迷わずそれ相応の報いを受けさせたであろう、と今でも恨みがましく考えていたのであった。
辰はギリ、と唇を噛み締めながら、どうしたらあの人の隣に立つことができるのだろう、と考えた。
この、醜く歪な顔では駄目だ。養母はことあるごとに辰を罵るが、それは決まって「醜くて」「汚くて」「卑しい」辰の在り方についてだった。
醜いから、汚いから、卑しいから、他人から嫌われる。それは一秦も例外ではない筈だ。どんなに清廉で美しくて優しいひとであろうとも、突き詰めれば養母のようなそれが人間の本性であることを、辰は信じきっていたのである。
変わらなければ、と辰は幼心に思考した。
醜くて、汚くて、卑しい自分を隠して、誰からも好かれて持て囃されるような人間に、と。
■
辰が成長するに従って、養母の態度は段々変質していった。
今まで気が狂ったかのように執拗に奮っていた暴力が抑えられた代わりに、辰を溺愛するようにべたべたと引っ付き回って媚び、あれこれと口を出しては干渉するようになったのである。
しかし、辰がそれを拒絶したり、意に沿わぬ反応を示すと逆上し、昔のように怒鳴り散らしては叩いたり蹴ったり爪で引っ掻いたり髪を引っ張ったりと、兎に角ヒステリーを起こして暴れまわる。
辰は内心、養母に辟易としていた。暴力は我慢出来るが、まるで愛しいものでも見るかのような顔をして、辰をお人形にしようとするの——ーそれこそ、辰の生母よりも年上の女が、色目を使って誘惑してくるのが、どうにも気持ちが悪くて仕方なかったのである。
原因が己の容姿にあることを、辰はよく知っていた。辰はどうやら、己が想像しているよりもはるかに、他人よりも容姿が優れているようだった。
辰は、常に怪我によってヨレヨレになってどこか小汚ない己を顧みて、このままではいけない、と考えてから行動を起こした。
まず、身嗜みにはとても気を使った。いつか一秦の隣に立って、彼女に微笑んでもらうためには、今のような汚ならしい子どものままではいられない。
身嗜みをきちんとするようになると、不思議なことに、養母の暴力から少しずつ逃れられるようになった。
養母の虐待が収まりはじめてから、常に腫れて膿んだ顔はみるみるうちに治癒していった。
すると、暴力に晒されて陰険として浮腫んでいた彼の顔はすっきりと整って、背丈もにょきにょきと伸びていき、それらに比例するようにして養母の態度が少しずつ変わっていったのである。
そして、顔を始めとする全身から、全ての包帯やガーゼが取れた頃には、辰に接するあらゆる女の態度が様変わりしていた。
世界は辰を残して一変した。女は全て、ひとたび微笑みかければ、すべからく辰の奴隷となった。
勿論、いつの日か写真で見た、あの狂おしい瞳を持つ男には到底叶わないだろう。あれは別格だ。相貌が整っているだとか、背丈のバランスが良いだとか、そういう次元の話ではない。
あれは魔性だ。あれは男も女も平等に狂わす、魔が宿る星の瞳である。
しかしそれでも辰が微笑めば、ありとあらゆる女の目がとろけて、何でも言うことを聞いてくれるようになる。このまま笑い死ぬのではないかと思えるくらいに、おかしくておかしくて仕方がなかった。
特に効果が良く現れた養母は、己の失われた青春を取り戻すかのごとく、辰を恋人のように扱った。それでいて言うことを聞かなければ子どもの頃のように虐待するのだから、つくづく頭のおかしい女だ、と辰は内心侮蔑に満ち満ちながら、やはり女の前でうっすらと微笑み続けて、力関係を逆転させたのだった。
しかし、唯一の誤算は、女は辰の交際関係に神経質になり、口喧しく嘴を挟んでくるようになったことである。特に、女は辰の縁談の話になると、正気を失ってしまうのが厄介だった。
取り寄せられる色とりどりに着飾られた女たちの写真を、鬼気迫る表情で面罵しながら、ゴミ袋に捨てていくその姿は、何かにとり憑かれたかのようである。
辰は山と積まれた見合い写真が開かれることなく、どんどん数を減らしていくを横目で見ながら、嗚呼、愛を免罪符にした人間とはかくも愚かしい生き物かな、と嘲った。
「その耳は、どうした」
ある日、実家の広大なリビングでぼんやりと考え事をしていた辰は、背後から聞こえてきた兄……辰也の声に、ソファーの後ろへ振り返った。
そこには久方ぶりに顔を合わせた兄が、呆然とした面持ちで此方を見つめていた。——否、その視線は、正しくは辰の顔ではなく、耳に頑丈に巻かれたガーゼに向けられている。
未だに熱を保ち続け、薄く血を滲ませるそこに一度触れる。そしてひとつ瞬きをしたのち、辰の両耳が重傷を負った経緯を簡単に説明した。
それは次の通りとなる。
縁談を断れ、女に近づくな、お前は私の言うことを聞け、と呪詛と怨恨、そしてどうしようもない嫉妬にまみれた声で、つんざくように叫ぶ女は、どこから持ち出してきたのやら、鋭く尖った針を何度も何度も辰の耳輪に突き刺した。
勿論、麻酔など施されている筈もないから、辰は想像を絶する痛みに絶叫しながらのたうちまわった。女は辰にまたがったまま、それを見て頬を紅潮させながらげらげらと笑っている。なんて醜く歪んだ、おぞましい顔! 辰は女を突き飛ばそうと腕を伸ばしたが、火事場の馬鹿力であろうか、女は物凄い力で辰の頬をぶん殴った。脳が揺れて、反応に遅れる。するとまた耳を強く引っ張られて、ぶすぶすと無遠慮に、骨を貫通する力強さで、針を刺していく。
背筋を凍りつかせるような狂乱は、杵築家を長く務める執事頭が慌ててやって来て、女を取り押さえるまで続いた。辰は耳からだらだらと流れる血をそのままに、使用人たちに抱き起こされながら、錯乱して手のつけられない女を眺めた。髪を振り乱し、目玉が飛び出そうなほど目を見開いて、唾を飛ばしながら喚き散らす女は、やはり醜かった。
男は愚かで、女は醜い。人間など、どうしようもなく救いようがなくて、閉口する。
辰はそう締め括ると、改まった口調で「なあ、父さんもそう思うだろ?」と言った。
兄からの返答はない。彼は血の気を失った表情のまま、あまりの出来事に言葉を失っていた。
それを見た辰は、胸の辺りがきゅっと絞られるような感覚を覚えたが、それが一体何の感情であるのかは分からなかった。
「——兄貴」
辰が改めて言い直すと、辰也はハッと息をのみ、気色ばんだ様子で鋭く一言、「やめろ」と吐き捨てた。
「俺は、お前の兄ではない」
「何でもいいよ、そんなこと」
辰は唇の両端を吊り上げながら辰也を見返すと、
「俺、家を出ようと思う」と言った。
「……?」
辰也はその言葉の真意を理解しかねたようで、少しだけ首を傾ぐと「どういうつもりだ」と端的に問いかけた。
しかし、それには敢えて答えなかった。今まで背を向けていた辰也に向き直り、ソファーの背凭れ部分に腕をついて、顎を乗せる。
そして、彼の問いかけの代わりの言葉を口にすると、辰也は面白いぐらいに表情を変えて、まじまじと戸籍上の息子の顔を見回した。
「次、此処に戻ってくる時は、連れてくるから」
「……誰を?」
辰は伏せていた瞳をすぅっと持ち上げると、ピタリと辰也へ視線を合わせた。
痛々しくガーゼで覆われた両耳から、鮮血がじわりじわりと滲む。辰は患部にそっと触れながら、ピアスでも差し込もうか、と考えた。どうせ傷になるならば、素敵に飾ってあの女の残した痕を上塗りしたい。鏡で見るたびに、呪いに苦しめられるなど、真っ平御免であった。
一方、辰也は目の端をひくりひくりと神経質そうにひきつらせながら、喘ぎ喘ぎ、もう一度「誰を連れてくるつもりだ」と、今度は強い調子で訊ねた。
「貴方も知っているよ。……俺の大切なひと」
辰は微笑む。
万人が思わず見とれてしまうような、美しい天使の微笑みだが……、辰也には悪魔が生け贄を捧げられて喜んでいるような顔に思えたのだろう。ぞうっと身の毛もよだつような顔つきで、恐れの表情を滲ませたのだった。
■
辰が家を出てから、どのようにして一秦を手繰り寄せたのかは、先述した通りのことなので割愛する。
しかし、本当の意味で初めて顔を合わせた瞬間の出来事は、何度だって思い返しては浸りたいので、辰はまた回想するのだ。
カランコロンと軽やかな音ともに入店したその人は、辰の記憶に変わらず……むしろ、記憶よりも色鮮やかで、毎日毎日飽きることなく見ていても目映く感じて、目を細めたことを思い出す。
彼女はきょろきょろと辺りを見回したあと、一瞬だけピタリと辰へ視線を合わせた。しかし、すぐさまふっ……とそらされると、彼女は人通りの少ない席に腰かけた。
本当は注文を取りたかったのだが、別の店員が先に声をかけてしまったので諦める。代わりにその店員から言葉巧みに伝票を預かって、一秦が注文したロシアンティーを淹れた。彼女は甘いものを特に好むから、添えるジャムを何にしようか迷って——辰が試食した時に一番美味しいと思ったかりん蜂蜜のジャムを選んだ。
辰はともすれば震えそうになる足を叱咤しながら、彼女の座る席へ向かった。
——ああ、やっと出逢えた。
辰はそう思ったのち、心の底から、彼女……一秦に向かって微笑んだ。
しかし、全ての女の心をとろかして奴隷とする辰の微笑みは、一秦には何の意味もないようであった。
彼女はぼんやりと揺らめく瞳をぱちぱちと瞬かせながら、不思議そうな顔つきで辰を見つめている。
それがまた、ぴくりとも動かぬ感情を芽吹かせて、息を吹き込むのだから堪らない。辰は気をぬくとポーッとしてしまう己を叱咤して、
「紅茶、お好きなんですか? 此処、珈琲が売りだから、珍しいなと思って」と訊ねた。
すると、一秦はパチパチと瞳を瞬かせたのち、少し低く、ともすれば冷たく聞こえるような調子で、「……珈琲は苦手なもので」と言った。
知ってるよ、と辰は内心そう答えた。知ってるよ、貴方が午後に珈琲を飲むとその夜眠れなくなって、まんじりとせずに夜を明かすことを。
辰はじろじろと舐めるように、一秦の頭の旋毛から机の下に隠れた爪先まで、執拗に観察した。
きちんととかされた髪から僅かに解れる枝毛、きめ細かい陶器のような肌理、長い睫毛にびっしりと覆われたアーモンド型の瞳、ほどよく高い鼻筋に、ぽってりとした桃色の唇、細っこい首筋、隠された鎖骨から滑らかな曲線を描く柔らかそうな胸部、薄い腹、きゅっとくびれた腰回りに、体型の割には大きめのまろい尻、弾力のある太股に、すらりと伸びた脚、そして閉じられた先の揃った爪先。
辰は割と露骨に一秦を観察していたのだが、一秦はあまり危機感が働かないタイプの人間らしい。舐めしゃぶるような辰の視線を不気味に思うこともなく、子どものようなあどけなさで「よく見てるんだね」と首をかしげている。
「うん、趣味だから」
辰は端的にそう言った。写真越しで一秦と出逢ってから、寝ても覚めても彼女のことだけを考えている。三年前、初めて目の前で生きて動く彼女を捉えてから、一秦だけを追って生きてきた。
辰の部屋は一秦でいっぱいだ。彼女に囲まれているようなあの部屋は、まるで抱き締められているような安心感がある。
「おーい、辰! サボってないで、こっち手伝ってくれよ!」
揺蕩うような心地で自室に思いを馳せていた辰は、突如かけられた声により、ハッ……と目を見開いた。
仔猫のような大きな瞳で此方を見守る一秦と目が合わさり、ドキンと心臓がひとつ高鳴る。辰はそれを誤魔化すようにして唇に笑みのかたちをとると、「わっかりましたー!」と元気よく返事をした。
名残惜しいが、あまり一人の客についていると怪しまれるだろう。それに、どのような形であれ一秦と接触することができたのだ。あとは、どうとでもなる。たとえ、一秦がこの店に来るのが一度きりになろうとも……。二度目の出会いを演出することは、難しくはない。
「ごゆっくり」
辰はそう算段をつけると、くるりと踵をした。背中越しにて、彼女の熱烈な……それこそ、穴でも空きそうなほどの視線を受けながら、軽快な動作でカウンターへと戻った。彼女の鋭い視線の意味は、よくよく理解している。あれだけ綿密で緻密な調査を重ね、葦原一秦という一人の人間を調べあげたのだ。彼女の行動原理も、辰への複雑な感情も、杵築家に対する……否、杵築辰馬に対する憎悪も、十分に理解していた。だからこそ、辰は手をこまねいて待ち望んでいた獲物が無事網にかかったことに喜んだのである。
そうして、ウキウキしながら持ち場に戻る途中、アルバイト仲間の一人とすれ違った。彼は常に一生懸命で真面目にこつこつと仕事に取り組む姿に好感が持てるが、熱中しすぎて周りが疎かになることが玉に瑕でもある、と以前店長が苦笑しいしい言っていたことを思い出す。
つまり、彼は多くの注文品を運ぶことに大部分の意識を割いていたため、すれ違う辰との距離感を測りかねたのである。
アルバイト仲間の手から宙を舞った珈琲が、中身をぶちまけて一秦に降り注ごうとしている。彼女は机に広げたノートを熱心に見ていたため、気がつくのが遅れたようだった。
一瞬の出来事で動けなかった彼女が身を固くした瞬間、辰は翻って駆け出すと、一秦がずぶ濡れになる前に身を挺して庇った。
冷たい液体がびしゃびしゃと頭を濡らし、顔を汚した。からからと氷が頭の天辺から転げ落ちていくのが、何とも冷たい。グラスが当たったのか、額の辺りが滅茶苦茶に痛かった。
すると、ガチャン、とガラスが割れる音が聞こえて、大きなガラスの破片がばらばらと散らばっていく。額を触るとぬるりとした温かい感触がして、ああ切ったのか、と他人事のように考える。
水を含んで湿った前髪の隙間から覗く同僚の顔が、血の気を引かせたために蒼白いのが、なんだか奇妙なほどおかしかった。
しかし、辰はすぐに、やってしまった、と内心青ざめた。一生懸命にセットした髪はぐちゃぐちゃになって、毛先からポタポタとコーヒーの雫が滴り落ちている。普段は糊のきいたエプロンも同じく水浸しで、Tシャツもどろどろして汚れていた。
しかし、辰が何よりも耐えられなかったのは、額を切って流れた血に汚れた己の顔だった。咄嗟に、背後の一秦から顔を隠す。ぎゅう、とピアスで埋められた耳を手で握りしめた。痛みが辰の意識を何とか過去へ引き摺り込ませないようにしてくれるが、それでも体の震えは止まらなかった。かつて、腫れて膿んだ己の顔は罵られるほど醜かったという記憶が、軟骨をじくじくと痛めつける痛みに打ち負けることは叶わなかった。
汚れた己の顔は醜い。
この世で一番醜い顔を、一秦に見られたくなかった。だから、辰は子どものように背を丸めて、その場に踞った。
同僚の慌てる声、店長の心配そうな声、無数の客のざわめく声。
すると、しずしずと誰かが近づいてきて、辰のべたつく髪にハンカチをそっと当てた。
「いくら店内が暖かいと言えども風邪を引いてしまうよ。それに、顔、ガラスの欠片が当たって血が出てる。痛いだろう。早く手当てをしないと……」
ひんやりとした一秦の、ほっそりとした指が辰の両頬を包み込んだ。そのままゆっくりと辰の顔を持ち上げて、視線を合わせる。もう片方の手にあるハンカチで、じわりじわりと染み込む血を拭ってくれている。
辰は呆然としたまま、彼女の何も変わらぬ無表情を見つめた。一秦の顔には、侮蔑も、嘲笑も、その他負の感情の何もかも、そこには浮かんでいなかった。ただ、合わさった一秦の瞳の奥で、ゆらゆらと心配そうな光がゆらいでいたのが、辰の空っぽでなにもない心に強く強く響いたのだけが、
「……貴方は」
「何」
「俺の顔を見て、何も思わないの」
辰はそこまで言って、はっと息を飲んだ。言うはずのなかった言葉が、ぽろぽろと口からこぼれ落ちて、それを一秦がすくってしまう。
一方、一秦は首をかしげながら辰をまじまじと見やると、
「何って?」
と訊ねた。辰はそれを見て、慌てて口をつぐもうとしたのだが、意思に反して唇は心の奥底に沈めた恐れをこぼし続けていく。
「醜い」
「ん?」
「汚い、とか、気分が悪くなる、とか、その……いろいろ」
辰はそこまで言うと、そっと目を伏せた。
一秦の指に一筋の珈琲の筋が流れて、手の甲を伝って床に水滴が落ちていく。黒く淀んで濁った液体と、己の穢れた血が彼女を汚していくのが、どうしても我慢ならなかった。
喧騒はどこか遠い。辰は、世界に一秦と己の二人きりになったような、奇妙な静寂を覚えていた。
「卑しい、とかも」
頬に当てられた一秦の手を、優しく取り外す。そして、額に当てられていたハンカチで、丁寧に汚れてしまった指を拭った。桜貝のような爪が何とも可愛らしくて、ほほえましかった。
「人の顔の美醜について、考えたこともなかったが」
すると、一秦が突然口を開いたので、辰は俯けていた頭を上げて、彼女を見つめた。
一秦の顔に、表情らしきものはひとつたりとも浮かんでいない。それなのに、辰は何故か——その無表情に安堵と安寧を覚えた。
「きみはとても素敵だと思うよ」
辰はその言葉を、穴だらけで歪な形となった耳で聞いた瞬間、天啓を受けたような気持ちを抱いた。
目の前で腰を屈めて此方を窺う一秦から、後光が差している。彼女はきらきらと星屑をまぶしたように輝きながら、じっと辰を見つめていた。
——人間とは、須くおぞましき獣性を心に抱き、他人を陥れることを快感とし、あらゆるものを蹴落とし、自分だけが楽しく幸せならばそれを是とする生き物である。
それは辰も例外ではない。己には隠しきれぬけだものの性がある。心の内に地獄を描いている。しかしそれらは、他の人間も等しく抱いているものである。
しかし、一秦だけは違うのだ。
彼女には憎むべきけだものの心も、燃え盛る地獄の心情も存在しない。
辰は生まれて始めて、信じるどころか居ることすら考えたこともない神に感謝した。それ以上に、彼女を産み落とした母親と、彼女をここまで育てた父親に感謝した。
欲しい。
一秦が欲しい。
一秦を手に入れるためならば、あまねく全ての人間を地獄に叩き落としても構わない。
辰は、いつの間にか耳から離していた方の手で、己の頬を優しく撫でる一秦のやわこい指を、そうっと握りしめた。皮膚の感触。肉の感触。骨の感触。目を細めると、彼女の感情が削ぎ落とされた顔がぴくりとひきつった。
辰はこの時に、本当の意味で決意したのだ。
何をしてでも、手に入れよう。
たとえ貴方の温かくて柔らかい心を、ぐしゃぐしゃに踏み潰したとしても……。
◼️
前に見たときと変わらない、うすぼんやりと汚れたミルクチョコレート色の玄関扉を一頻り眺め終えた辰は、ようやくチャイムを押した。
程なくして扉が開かれて、現れた男はやはり、以前と変わらぬ風貌で佇んでいる。まるで、三年前の再現のような光景に、辰はゆっくりと眼を細めた。
「こんにちは。久しぶりだね。中学生になったんだっけ。……大きくなったね」
あの日を準えるように、そっくりそのまま同じ台詞を繰り返した男——一秦の父へ、辰は無愛想な顔つきのまま、首を垂れた。
「どうも」
一秦の父は、辰の無礼を咎めることはしなかった。元来柔和な性格なのもあるのだろうが、反抗期真っ盛りの中学生に目を尖らせるまでもない、と高を括っているようにも見えて、辰は俯いた頭をそのままにひっそりと顔をしかめた。
「今日も娘はいないよ」
玄関を開けたまま、一秦の父はそう言った。前回は中まで招いてくれていたが、本日はここで話を済ませる算段らしい。その意思をひしひしと感じとった辰は、ならば話は早いとばかりに、早々と口火を切った。
「どうしても、会わせてくれないんですか」
辰は今日、異父姉である一秦に会いに来た。前回もそうだった。だから、今度こそ会わせてほしかった。一目だけでも、焦がれに焦がれてやまない彼女のその顔を、辰に見せてほしかった。
しかし、彼はそれには一旦答えずに、凪いだ瞳で辰を見据えると、ぽつりと言った。
「きみは、僕が出会ってきた人たちの中で一番、僕と似てるんだよね」
辰は眉をひそめた。目の前の男が、何を言いたいのか理解しかねたためだ。
「似てるわけがない。俺は、一秦さんとすら似てないのに」
すると、一秦の父は弾けるような大きな笑い声をあげた。
思わず眼を丸くさせて、まじまじと見つめていると、彼は先程まで見せていた無表情に近い笑顔を取り払って、にこにこと心の底からの笑顔を向けてきた。
「容姿の話じゃないよ。そうじゃなくて、もっと内側の……内面のこと」
「内面?」辰は、ますます何を言っているのか
それならばやはり的外れだと、辰は思う。
生まれと環境によって心も体も汚れて変質した辰と、生まれと環境によってもなお高潔な魂と肉体を持つ彼とでは、天と地との差がある。それは辰がこれからどんなに努力しても埋められぬ差で、決定的な違いであった。
「それこそ、まさかですよ。もし、少しでも貴方と似ているのならば、祖父の目は節穴ってことになる。流石に奴も、そこまで耄碌してないと思います」
そう言って、さて何て返すのかな、と一秦の父を見返した辰は、ぎょっと肩を震わせた。
男は、この世のものとは到底思えない、凄絶な色気を含んだ微笑みを浮かめていた。
星の瞳が爛々と輝き、妖しく揺らめいている様は、正しく人を誑かす悪魔のよう。
しかし、戦く辰をよそに、彼はすぐさまその厭な笑みを引っ込めると、彫像のような無表情を見せた。
「ああ、じゃあ、あの人もまた、有象無象のひとりになり下がってしまったんだね」
冷たく言い捨てた一秦の父は、そうっと瞳を伏せた。長い睫毛が影を作り、憂いを帯びた表情を浮かび上がらせる。
「彼ほどの人ですら浅ましく堕ちていくんだから、人間って本当に……どうしようもない。ね、僕によく似た君も、そう思うんじゃない? ……杵築辰くん」
そして、次にその瞳を持ち上げてしっかと辰を見据えて——その名前を呼んだ瞬間、ぞわりと悪寒によく似た、甘い痺れに襲われた。
「話を戻すね。前にも言った通り、娘には会わせられないんだ」
一秦の父は表面上、柔和な顔つきで辰へそう告げた。ふんわりと微笑み、見る人に安らぎと安心感を与える彼は、じっ……と辰の瞳を——その奥底に隠した激情を暴きたてるように、見つめている。
この瞳だ、と辰は直観した。この瞳を長らく見てはいけない。目の前の男は、意識的なのか無意識的なのかはこの時点で判断不可能だが、少なくとも、己の瞳の【力】を知っている。
「わざわざ訪ねてきてくれて、ありがとう。でも、もう、来ないでほしい」
星屑をまぶしたようにきらきらと光る瞳が妖しく揺らめき、辰の意識をからめとろうと手招きしている。
バグ、バグ、バグ、と心臓が厭な音をたてる。冷や汗がぶわりと滲み、目の前の何の変哲もない男から目を離せなくなる。
ともすれば頷いて、膝を折って額付いてひれ伏したまま、男の言う通りにしてしまいたくなる衝動を捩じ伏せた。
しかし、その瞬間——辰は屈服しかけた心のまま、男の瞳に、一秦の面影を見た。
一秦さん。
「嫌だ」辰は強く拒絶した。触れかけたピアスから手を引き剥がすと、意地でも触れまいと強く強く握りしめた。
一秦の父が目を丸くして、辰を凝視する。
今度はしっかりと視線を合わせて、辰は一秦の父を射抜いた。
「会いたい。会わせて」
一秦の父が、信じられないものでも見たような顔をしている。その表情の意味は理解できなかったが、彼が揺らいで動揺していることだけは分かったので、辰はここぞとばかりに畳み掛けた。
「一秦さんが俺に会いたくないなら、諦める。それは彼女の意思だから。でも、貴方は『会わせられない』と言った。それは貴方の意思だ。貴方が俺と一秦さんを会わせたくないだけなんでしょう。貴方は勝手だ。自己満足と自己保身で、一秦さんから可能性を奪っている。それならば、俺は貴方に従う道理はない」
自己満足と自己保身、と辰が言い放った瞬間、呆然としていた彼の顔に、ぴしりとひびが入ったように見えた。
しかし、すぐさま一秦の父は、動揺のかげろう顔をさっと取り繕う。
そして、困惑した面持ちを辰へ向けると、「一秦を必要以上に動揺させたくないんだよ」と、優しい声色で言った。
辰は目をすがめた。
そう、この人はあくまでも一秦のためを思って、会わせてくれないのか。娘のため、という建前を使って、憎みに憎んだ星の瞳を使ってまでも……辰に会わせたくないのか。それならば——こいつも、邪魔でしかない。
邪魔なものは、須く、どんな手段を使ってでも、排除しなければならない。
目の前で冷徹なまでに辰を見定める、彼のように。
辰は赤々とした口を開けると、毒の滴る声色で、男を呼んだ。
「お父さん」
男の顔から、ザッと血の気が引く。彼は明らかに、辰の言葉に含まれた意図を察していた。
辰は唇の端をつり上げると、首をかしげて覗き込んだ。
「貴方が一秦さんを隠そうとも、俺は何処までも追いかけ続けるし、探し続けるよ。——俺を可哀想だと憐れむならば、一秦さんをください」
毒を含ませた言葉を吹き込むようにして、ゆっくりとそう告げる。一秦の父は、はくはくと青紫色に変化した唇を戦慄かせながら、辰を見返す。
その顔には、紛れもない恐怖と嫌悪が刻まれていた。
辰は欠片も彼と自分が似ているとは思わない。
思わない、が……。
もしかしたら、鏡の中から自分自身が突然にゅうと出てきた時、このような表情になるかもしれない。
辰はこの時、初めて一秦の父の心情を理解できたかのかも知れなかった。
ああ、美しい妻を奪われた憐れな男は、今度は簒奪者の息子に、目に入れても痛くないほど愛している娘を奪われようとしている。
何処までも不幸な星のもとに生まれた人だな、と辰は内心そう思った。奪われ続ける人生とは、苦しみ続ける人生だ。この人に救いはあるのだろうか、とまで考えたが、今から彼の宝物を奪い取る自分が考えるには傲慢であることに気がついて、すぐに思考をやめた。
辰はそうっと男から距離をとると、男の瞳を改めて見つめた。男の顔が、分かりやすく強張っていくのを、淡々と観察する。
「それとも」
たらり、と一筋の汗が男の米神を伝ったのを見てとって、辰はこの瞬間に立場が完全に逆転したことを確信した。
「お父さんは、俺から、姉さんまで奪うの?」
そして、辰は鋭く尖りきった言葉の刃で、とどめを刺した。
憐れな魔の瞳を持つ男は、この瞬間に、心臓を穿たれて絶命した。
長く見ていると変な気を起こしそうになると錯覚してしまうような、彗星の煌めきを持つ瞳は、妖しい光を失って、道端に転がる小石のようになっている。
辰がそのまま見下ろしていると、一秦の父は、真っ白な顔色のままぼんやりと辰を眺めたのち、がっくりと頭を垂れた。
——屈服させた。
彼から最愛の妻を奪った祖父……血縁上の父ですら、とうとう折ることのできなかった一秦の父の高潔な心を、辰はたった一言で滅茶苦茶にして、折り砕くことができたのである。
それに気づいた瞬間、辰は凡そ子どもが浮かめるとは思えない歪で邪悪な微笑みを、屈服させた男の生白い首筋へと向けた。
杵築辰という人間は、生まれながらにして畜生道に陥った。
畜生道から逃れることのできぬ人生ならば、なるべく楽しく安らかに、謳歌できるように生きようではないか。
畜生だらけのこの人生で、畜生が畜生のために宴を開いて、何が悪い。
「俺の人生は正しく、畜生の宴かな」
辰は誰に聞かせることなくそう呟くと、廃人のように呆然としたまま崩れ落ちる一秦の父をそのままに、颯爽とした足取りで葦原家を後にしたのだった。
◼️現在
「うん、で?」
ぶるぶると震える真っ白な拳をじっと見つめたまま、一挙手一投足、辰の次の動きに息を潜めて神経を集中させていた一秦は、はく、と唇を動かすが、音になることはなかった。
ぱっと俯けていた顔を上げる。辰はあまり見ることのない、穏やかな微笑みを浮かめながら、一秦を見つめていた。
その視線は、一秦に父の幻影を呼び起こさせる。一秦は慌ててそれを振り払った。
「は?」
漸くこぼれ落ちた疑問の声が、空間に発された瞬間、ゆっくりと消えていく。
辰は、一秦と己が父親の異なる姉弟だと知らされても、平生と変わることはなかった。それどころか、不自然なほど落ち着いていることに、一秦の心臓がドクドクと脈打ち、顔から血の気がスーゥッと引いていくのが分かった。
……まさか、辰は知っていたと言うのだろうか? 一秦と自身に血の繋がりがあるということを……。それはつまり、一秦が辰に近づいた理由すらも……。
ゾワァ、と一秦は総毛立った。先程とは別の理由で、体が細かく震え始める。足も萎えて力がでない。
この、眼前で優しく微笑む男は——本当に一秦の知る、杵築辰という青年なのだろうか?
「姉弟だから、何? そんなことで、俺に一秦さんを諦めろって言うわけ?」
一方、辰は首をかしげると、軽快な口調でそう訊ねた。一秦は脂汗をだらだらと流しながら、「辰……?」と弱々しい声で、彼の名前を呼んだ。
すると、辰はとびきりの笑顔を一秦へ見せた。大輪の華が咲き誇るような、きらびやかで華々しい笑みを真正面から受けとめた一秦は、びくりと体をすくめる。
「俺は一秦さんを愛してるよ。姉としても、ひとりの女性としても」
——その瞬間、一秦の怯えきって疲弊した心に走ったのは、明確な嫌悪感だった。
復讐のために、異父弟を畜生道へ諸とも落ちようとした女が言えた義理ではないことは、百も承知している。しかし、ずっとずっと、長らく一秦の心の内を巣食っていた倫理観に悖る行為を咎める己が、むっくりと鎌首をもたげて辰の思いを睨み付けたのである。
「私は違う」
何かを考える前に、口から言葉が飛び出していた。脊髄反射で答えたそれは、間違いなく一秦の心そのものであった。
「私は、辰のことを、弟としてとても可愛く思ってるし、愛してる。でも、そういう意味では愛してはいない」
勢いでそう言って、一秦はハッと目を見開いた。そうだ。一秦は辰のことが好きだった。憎悪を向ける異父弟でありながら、唯一血を分けた可愛い弟でもあったのだ。
漸くこの事に気がついた一秦は、再び心が絶望に覆われていくのを、感じ取っていた。
もっと早くに気づいていれば、別の道もあったかもしれない。しかし——憎しみに駆られなければ、辰を知ろうともしなかっただろう。袋小路だった。一秦が辰を——杵築を憎む限り、彼への愛情もまた降り積もっていくしかないのである。
「ああ、そう」
一方、愕然とする一秦をつまらなさそうに見やった辰は、す……と表情を削ぎ落としてから淡々と述べた。
「じゃあ、嫌でも男として意識してもらえるように、一秦さんには無理を強いることになるね」
「っ!」
一秦は、ガタンッ、と椅子を蹴飛ばした。その際、テーブルに置かれていたコップが倒れて茶が溢れ、土産の林檎もまたゴロゴロと四方八方に転がっていくのを、視界の端に捉える。
一方、一秦を一心に見つめる辰の眼は、影がかかったかのように暗く、澱が溜まっているみたいに光を失っていた。
本能的に危機を察知して、迫り来る辰の腕から逃れようとした一秦だが……辰の方が一枚上手であった。
腕の長さを利用して、あっという間に一秦を捕まえた辰は、逃れようともがく一秦を素早く取り押さえた。
床に強く引き倒された一秦は、半狂乱になって腕や足をめちゃくちゃに振り回した。自分より体が大きくて、力の強い生き物に押さえつけられる恐怖が、一秦から普段の冷静さを急速に奪っていく。
「ああ、駄目だって。暴れないで。逃げないで。傷つくじゃん……」
辰がどこか悲しげな声色でそう言った。
しかし、それと反比例するかのように、手首を掴む物凄い力の恐ろしいこと! ギリギリと骨が軋る音が、感覚がなくなるような凄絶な痛みが、一秦の精神をごりごりと削っていく。
「痛い! 痛いッ! やだ! 離して! 嫌だ! 痛いッッッ!」
辰はハッと眼を見開くと、手首を掴んでいる力を緩めた。どうやら、一秦の悲痛な叫びに怯んだようである。
一秦は慌てて体を起こすと、未だに覆い被さったままでいる辰の顔を覗き込んだ。本当は逃げたくて仕方がなかったが、弱る己の心を叱咤して、異父弟に向き直る。
辰は、先程までの、底冷えするような薄暗い眼ではなかったが、触れかたを間違えればあっという間に砕け散ってしまいそうな、危うい均衡で保たれているのがよく分かる眼ではあった。
一秦は覚悟を決めた。
辰に嫌われたくない等という、あまっちょろい気持ちをかなぐり捨てる。辰の怒りを掻き立てなければならない。このままでは、辰は壊れてしまう。
「辰、よく聞いてくれ」一秦は何とか息を落ち着けながら、口火を切った。「私はきみの気持ちを利用して、復讐しようとしたんだ」
辰の視線は一秦に固定されたまま、微動だにしない。感情の窺えない硝子玉のようなそれに身震いしそうになるが、そのような己を叱咤して、一秦は辛抱強く言葉を続けた。
「きみに近づいた理由はそれだけだ。私は、父を自殺に追い込んだ杵築家が、死ぬほど憎かった。殺してやりたかった。私の母を奪って、父から幸せを奪って、ぬくぬくと両親の愛を受け取ってるきみが憎たらしくて仕方なかったんだ。きみも、杵築家も、全部ぐちゃぐちゃにしてやりたくて、私は姉であるにも関わらず、きみと関係を結ぼうとした、おぞましくて下劣で品のない女なんだよ!」
最後はとても耐えきれず、自身のあさましさに反吐を催しながら、一秦は早口で叫んだ。
ああ、何ておぞましくて浅ましいのだろう。復讐のためとは言え、弟と交わろうとした己は、正しく悪魔である。——畜生である。
そう責め苛む一秦の脳裏に、叔父の顔が思い浮かんだ。ひどく苦しそうで、悲しそうな彼の顔。郵便受けに入れっぱなしにした叔父から送られてきた分厚い封筒が、何故か頭の片隅から離れなかった。
一方、辰はストンと一切の表情を削ぎ落としたまま、空いた手の方で一秦の撫で肩に触れた。一秦はその顔に、初めて見たときの幼い彼を思い出していた。もしかすると……辰の本当の顔は、無機質なこちらなのかもしれない。
「でも、俺は両親から愛されていなかったね。父親はあの人のことしか頭にない。母親は、俺を産んで気が触れた。養母は俺を邪険に扱ったし、父さん……兄は、俺に同情的だったけど、それだけだった」
ぎりっ……と掴まれた肩が軋んだ。痛みに顔を歪める一秦をよそに、辰は淡々と言葉を連ねていく。
「貴方もまた、俺の過去に同情して、境遇に共感して、自分と俺を重ねた。もう貴方は、復讐を果たすことが出来なくなった」
そうっと覗き込まれた際に合わせられた眼は、深淵と虚無が入り雑じったものだった。一秦はそれを見てとって、ゾッと背筋に悪寒が走った。この眼は、正に辰そのものだ。彼の心が、その眼によく現れている……。
「貴方はとても優しくて、愚かだ」
辰はそう言って、わらった。穏やかで優しくて、一秦の大好きな父の笑顔に、そっくりであった。
「でも、俺はそんな一秦さんを世界で一番愛してる。他は何もいらない。俺は、貴方さえいれば、あとは何を犠牲にしても構わない」
父も、母も、養母も、兄も、家も、何もかも……。
そう締め括った辰は、最早一秦の理解の外にいる生き物だった。愛から最も遠いところにいるくせに、愛を語るその眼はぐずぐずと熱に蕩けながらも、爛々と輝いていている。
一秦はゆっくりと首を横にふった。まるで蛇に睨まれた蛙のように、辰から
「辰、きみのそれは愛じゃない」
言い聞かせるようにしてそう言った一秦の顔は、そそけ立っている。辰の肩を掴む力がますます強くなったが、懸命にそれを無視して、言葉を続ける。
「私は、きみの、満たされなかった寂しさを埋めるための道具じゃない」
カチ、コチ……と、時計が針を刻む音だけが、辺りに響く。
一秦が固唾を飲んで辰を見守っていると、フッ……と辰が手の力を抜いた。
じんじんと時間遅れで大きな痛みがひたひたと忍び寄って来る中、辰は大きく重たいため息を吐き出すと、「一秦さんさあ……」と呆れたような声色で口火を切った。
「この状況でその啖呵を切れるの、無謀を通り越してイカれてるよ。でも俺、一秦さんのそういうイカれ具合、大好きだな」
ざらりとした声色だった。聞くもの全てを不安定な気持ちにさせるような、奇妙で不気味なものであった。
一秦はその瞬間、ぞぅわ、と脚の多い虫が足元で這っていたような、怖気を覚えた。辰の眼は前髪で隠れてよく見えなかったが、その唇は歪んで白い歯を剥き出しにしていた。
じり……じり……と後退る一秦は、瞬時に人体の急所を確認した。人間の急所は、ほぼ中心に位置している。それは男女で変化することはない。
一方、辰は熱に浮かされたような夢心地のまま話しているので、幸いにも一秦の瞳の動きに気づかなかったようである。
「でも、俺みたいに寛大な心で一秦さんの無謀を受け入れてくれる男なんて、更々いないからさ。それを分かってもらうためにも、色々と教え込まなきゃいけないね?」
そして、辰の長い両腕が、手が、指が、一秦の首元目掛けて伸ばされた瞬間、一秦は右足を思い切り辰の鳩尾に向かって突き出した。
それは美事、辰の鳩尾を蹴りあげた。流石に不意打ちを食らった辰も堪えきれなかったようで、ぐらりと体をよろめかせて、そのままドスンと床に倒れこむ。
一秦はほうほうの体で辰の下から抜け出した。辰はまだ回復しないようで、体を丸めたままぐるぐると唸っている。
「……っぐ、う、今のは、結構、キッツい……」
「キツいのはきみの発言だ」
「精神的にも追い込むじゃん……」
一秦は一目散にリビングから逃げ出そうとした。無駄に造りが広いこと、肩の焼けつくような痛み、襲われかけた恐怖から、水の中で移動しているかのようになかなか足が進まなかった。慣れないスカートなんて、履いてこなければ良かった。後悔をしながらも、漸くリビングの出入口である扉のドアノブに指をかける。
しかし、次の瞬間、態勢を崩された一秦は、がくんと勢いよく床に突っ伏した。足首を掴まれていることに気がついたのは、ドアにぶつけた鼻の痛みが引いた時であった。
背後を振り返る。辰が脂汗を浮かめたまま、にやにや笑っていた。辰の血管が浮いた大きな手が、一秦の細い足首に巻き付いているのが、何とも不気味であった。
「逃げないでよ、一秦さん」
声色だけは憐れっぽい辰が、そう言った。一秦はそれに応えることなく、空いた方の足で今度は顔を蹴った。すると、するり、と辰の指が離れたので、そのままドアを押してホールに転がり出る。後ろから呻き声が聞こえたが、何もかも黙殺した。
無我夢中で、玄関まで走る。縺れる足が恨めしい。上手く動かぬ体がもどかしい。一秦は息を荒げながら、遅々として進まぬ己を叱咤しつつ、懸命に扉を目指した。
しかし、くっ……と襟首が何かに引っ掛かったようにひきつった瞬間、一秦の全身から血の気が引いた。そして、何を考える暇もなく、物凄い力で床に押し付けられた。
鼻の辺りがぬるりとした感触を覚える。喉の奥から鉄のような味がするのが、何とも不快だった。触って見てみると、赤い液体が付着した。何度も顔をぶつけたせいであろうか、鼻血が出ている。
「つーかまえた!」
ガバッと後ろから這いつくばる一秦を抱き締めた辰が、顔を覗き込んできた。そして、羽交い締めにしたまま、だらだらと血を流す一秦を見てとって、眼を弓形にそらした。
「一秦さんって、見た目に反してお転婆だよなあ。お父さんも大変だったんじゃないの?」
顔を背ける一秦の顎を掴み、無理矢理辰の方へ向かせると、べろり、と顎先から唇、鼻の頭と、溢れる血を舐めとった。
恐怖、嫌悪、そして驚愕により、ひゅ、と息を飲む一秦をよそに、何事もなかったかのように舌を仕舞った辰が、こてんと首を傾げる。
「だんまり? 寂しいな」
言葉を発するために開かれた口は、てらてらと紅く輝いている。そのおぞましさに、一秦は言葉を失った。
すると、辰はあろうことか、片手で一秦の首をゆっくりと絞め始めた。じわじわと込められる指の力の、強いこと! 一秦の呼吸がどんどん狭まっていくのを、辰はにこにこしながら眺めている。
かひゅ、と喉が鳴って、口から唾液が溢れ始めたころ、ああ、これはもう駄目だな、と一秦は頭の片隅で考えた。
だから、一秦はぎゅうと瞳を瞑った。本当ならば、耳に手を押し当てたかったが、辰の太い腕がぎちぎちと締め上げて離さないので、断念する。
そして、亀の進むような速さで呼吸を奪う辰を視界から締め出した瞬間、見計らったかのようにぱっと首から指が離される。
一秦はのたうち回ると、げほ、がぼっ、ゴヒュ、と不自然な呼吸を繰り返しながら、何とか気道を確保した。
顔は涙と血、涎まみれになっている。何度か噎せて吐きそうになったが、何とか堪えた。ひどく惨めで恐ろしくて、先程とは別の意味で涙が滲んだ。
ようやく息が落ち着いて、辰を見上げる。ゾッとするほど無機質な眼が、ぴったりと此方を見据えている。
無貌とすら見えるそれを、ハア、ハア、と肩で息をしながら、ぼんやりと見つめる。
「ねえ、一秦さん」すると、辰は口を開いた。謳うような口調だった。そして、薄い唇をぴたり、と一秦の冷たい耳殻に押し当てると、吹き込むような吐息混じりの声色で、こう言った。
「一秦さんも、また秦葉さんに会いたくない?」
「……は?」
思わず、ぱちり、と瞼を押し上げた一秦は、理解不能の言語を発する男を、見つめ直した。
「やっとこっち、見てくれた」
そう言って、にこにこと微笑う辰の頭がおかしくなったことを疑う。
目の前の男は……一体何を言っているのだろう、と一秦は思った。
「『秦葉さんに会う』って……何?」
一秦は震えながら、ようやっとそう訊ねることができた。この期に及んで死んだあの人を愚弄する気なら、そのお綺麗な顔を吹っ飛ばしてやる、と腹の底で物騒なことすら考えた。
すると、辰は暗く微笑んだまま、一秦の腹を撫でた。
硬い五本の指が、一秦の柔らかい腹を、確認するかのようにしっかりと触れる。しかし、触診にしてはねつっこく、情欲すら感じ取れる気味の悪い触れかたに、一秦はぞわぞわとして、息を荒げた。
「血迷いごとを言わないでくれないか。あの人は死んだ。杵築辰馬に殺されたんだッ!」
一秦はとうとう叫び声をあげると、やわやわと腹を撫で続ける辰の手の甲を強くつねった。一瞬、ぴく、と痛みによるものなのか、撫でる手つきが止まったが、すぐに何事もなかったかのように再開されるのが、何とも忌々しい。
「殺された?」辰は平淡な口調でそう訪ねた。一秦は抑えられぬ激昂をそのままに、尚も辰の手の甲をつねり続けながら、血反吐を吐くような絶叫を浴びせた。
「そうだよ、殺されたんだよ! でも、突然、死ぬような人じゃなかった! 私たちを置いて、独りで死んでいくような人じゃなかった! 杵築辰馬……あいつが、あいつが殺した……。お母さんを玩具にしただけでは飽きたらず……ッ。……死に追いやったんだ……ッ。あいつが、あいつさえいなければ……ッ」
「俺は生まれてこなかったね」
辰は一秦の憎悪を締め括った。一秦はギラギラと憤怒の光を揺らめかせながら、背後の辰を睨み付けた。
しかし、辰は涼しい顔つきでそれを受け止めると、
「その杵築辰馬が、秦葉さんの復活を望んでるって言ったら?」
と言ったので、一秦の燃え上がる怒りは急速に萎み、代わりに何か得体の知れないモノに出会ったような、奇妙な違和が心に芽吹いたのだった。
「は?」
「一秦さんなら、きっと健やかな体を持った、秦葉さんを生み直してくれるって、クソジジイは盲信してる」
辰はくすくすと忍び笑いを溢したのち、きゅ、と一秦の腹より下辺りを軽く押した。その位置には……と、一秦は思い当たり、ここで漸く辰が——杵築辰馬が望むことに気がついた。気がついてしまった。
「狂ってる……。意味が分からない……」
「ふふふふふ、俺もそう思うよ。でも、狂人には狂人の理論ってものがあるのさ」
辰は美しく微笑んだ。心からのその笑い顔は、先程とは異なって、一秦の記憶にある母の顔にそっくりであった。
何故、私たちなのだろう、と一秦は思った。
優しい父も、美しい母も、そしてその二人の子どもである自分も、善良な人間として生きてきた。生きようと努力した。そうあるべきだと自分達を律して、決して他人を傷つけようとせずに、慎ましやかに過ごしていた。
ただそれだけなのに、どうして、こうも悪魔に食い潰されて骨までしゃぶり尽くされるような、酷い目に合わなければいけないのだろう。
人として正しく生きるように努めてきたのに、何故、呆気なく踏み潰されて奪われ尽くさなければいけないのだろう。
彼らの何が、そこまでさせるのだろう。
一秦の心に、絶望の闇がうっすらとベールのように纏われる。何故、何故、何故……。誰も教えてくれない、助けてくれない絶望が、大口を開けて一秦を飲み込もうとしていた。
「その狂人の理論とやらで、私もまた道具のように使い潰す気か! お母さんを使い捨てたように! お父さんを死んでも辱しめて、私に畜生の子どもを産めと、その子どもを生まれ変わりとして育てろと、杵築の、頭のおかしい茶番に付き合わせる気か! 正気じゃない!」
髪を振り乱して悲痛な叫びを上げる一秦を、辰は冷徹な眼をもってして見下ろした。
「一秦さんがそれを言うの? 俺を騙して、復讐のために実の弟と交わろうとした、貴方が?」
辰の凍りつくような声に、一秦はハッと息をのんだ。
彼の言葉が、じわじわと一秦の心を蝕んでいく。体全体は細かく震え初めて、手先の感覚がなくなっていくのを、ぼんやりと感じ取る。
「わ……私は……」
わなわなと蒼白い唇を戦慄かせて、焦点の合わない瞳をうろうろとさ迷わせる一秦を、無機質な眼で観察していた辰が、何かに思い当たったように「ああ……」と呟くと、そっと手を一秦の蒼白い頬に向かって伸ばした。
「責めてるわけじゃないよ。でも、口が過ぎるなって思っただけ……」
しかし、一秦の耳に辰の言葉が届くことはなかった。それよりも、視界に映る大きくて節ばっていて、物凄い力で一秦を押さえつけることなど造作もない辰の掌が、己に向かって伸ばされていることの方が恐怖であった。
「触るなッ!」
その瞬間、火事場の馬鹿力とでも言うのであろうか、一秦は辰の拘束から腕だけ抜け出すと、バシンと力強く辰の掌を振り払った。
辰が目を丸くさせて、じっと一秦を見つめている。ハアハアと恐怖で呼吸が定まらない中、一秦は辰の眼にさっと傷ついた色がかげろうたのを、見てしまった。
「……あ……」
辰は、宙ぶらりんになった手をゆっくりと下ろすと、力なく項垂れた。
その時、一秦は、自分が何か、取り返しのつかないことを辰に仕出かしてしまったことを悟った。
「し、辰……」
一秦は、馬乗りになったまま動かない辰に向かって、おそるおそる話しかけた。
「一秦さん」
辰は一秦を遮るようにして名を呼んだ。一秦はびくびくしながら、辰の一挙手一投足を見守っていると、彼は俯いたままぽつりと呟いた。
「一秦さんも、俺のこと、拒絶するの……?」
この後の行動は、一秦がその生涯を閉じるその瞬間まで、誰にも説明できないほど不可解なものであった。それと同時に、最も感情的に動いたとも思えるほど、咄嗟ながらも情動に満ち満ちたものであった。
一秦は辰の首に両腕を巻き付けると、胸の辺りに頭が当たるようにして、引き寄せた。一秦の位置からでは、辰がどのような表情をしているのかは
それでも、何故か、無邪気な子どものように笑っているような気がした。
「名前、呼んで」
辰は一言、そう言った。
「頭、撫でてよ、姉さん」
一秦はがくがくと全身を震わせたまま、ぎこちなく頭を撫でた。その際、辰の穴だらけの耳に指が触れる。ボコボコとした軟骨部分はゾッとするほど冷え切っている。辰が頭を動かして、一秦の心音に耳をすませるようにして、横顔を晒した。その眼は瞼を下ろしていて、どこか満足そうでもあった。
一秦は呆然とした面持ちのまま、高く遠い天井を見上げた。いつの間にか横倒しにされた体に、まるで蛇が這い回っているような怖気が走ったが、最早どうでもよいことであった。
嗚呼、あんなにも愛していた、敬愛する父の顔が、ぼやけていく。遠くに霞んでいく。柔らかく微笑む顔が、唇が、——瞳が、永遠に届かぬところへと行ってしまう。
置いていかないで、とすがるには、永い時間が経ってしまった。ぼんやりした春も、灼熱の夏も、早すぎる秋も、薄暗い冬も、何もかも、彼は知ることは出来ないのだ。
一秦はそれを、ようやく痛感した。
一方、辰が徐に顔を上げると、まだ少しだけ垂れている一秦の鼻血を、ちゅるりと舐めた。それから、唇で鼻をすっぽりと咥えると、ズゾゾッと音を立てて、ぷっくりとした血の塊を吸いとった。
口まわりを血だらけにして、ニタニタと笑う辰の体越しに、染みひとつない真っ白い天井を眺め続ける。
それは、あの日首を吊ったせいで長く伸びた父親の生白い首と、郵便受けに入っていた叔父からの分厚い手紙を思い起こさせた。
同じく顔下半分を血染めにした一秦は、それをひたすら見上げながら、ぼんやりと考える。
——叔父さんの手紙、見ておけばよかったなあ。
それだけが、一秦の心残りであった。
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