人間万事塞翁が馬 杵築辰編

 ◼️現在


 営業時間外という約束を取り付けて、アルバイト先の喫茶店を貸切にしてもらった杵築辰は、目の前で憮然とした顔つきでこちらを睨む女へ笑いかけた。

 しかし、女——香月光華はにこりともせずに、腕を組んだまま苛々としていた。大体の女は、辰が愛想笑いでもすればころっと機嫌を直すのに、光華はむしろ鉢の裏でうぞうぞと蠢く気味の悪い虫でも見たような面持ちになる。昔からよく分からん女だよな、と思いながら、「三十分経ったら解散しようぜ」と言った。顔を合わせてから、辰がわざわざ淹れてやった二人分の珈琲は既に冷え切っており、黒々と濁って澱んでいる。

「十五分にしてくださる? 貴方と三十分も同じ空気を吸うなんて、吐き気を催すの」

「俺の台詞なんだよな~!」

 月に一度開催される、婚約者との逢瀬——これは家同士が勝手に取り決めた行事で、辰も光華も嫌々ながら惰性で続けている——は、何とも無味乾燥としたものである。貸切にしてくれた店長を上手く丸め込んだおかげで、店の中には辰と光華しか居なかったが、それが余計に二人が取り繕っていた外面を剥がす要因となっている。

 光華と会うことは、家の者以外は店長だけしか知らない。その店長には、固く口止めをしている。辰の懸念は、一秦であった。辰を夢中にさせて仕方のない、愛おしすぎて食べてしまいたいほど可愛い一秦に、形ばかりの婚約者がいることを絶対に知られたくなかった。

 一秦さん、何してるのかな。辰は深いため息を落とすと、机上に置いたスマートフォンに眼をやった。

 すると、光華もつられたようにしてそれに目を向ける。そして、虫酸が走って仕方のないような表情を浮かべた。。

「本来なら、私と行く筈だった水族館のチケット、彼女と一緒に行ったらしいわね」

「ああ、そうだけど。何? もしかして、俺と行きたかった?」

 わざと相手を茶化すようにして問いかけると、今度は塵でも見るかのような視線を浴びせかけられた。冗談通じないつまんねー奴、と肩をすくめる辰をよそに、光華は吐き捨てるような口調で突っ慳貪に返した。

「死んでも嫌。冗談は、その綺麗な顔の下に隠してるドブのような性格だけにして。次に言ったら、問答無用で殺すわよ。……そもそも、貴方と同じ空間に何時間もいるなんて、それこそ拷問じゃない」

「俺にも傷つく心はありますけど⁉︎」

「嘘、おっしゃらないでくださる?」

 抗議の意を込めてぎゃあぎゃあ騒ぐ辰から、つんと顎をそらしてそう言ってのけた光華は、ふと窓の外へ目を向けた。

 辰もそれに倣って外を見やる。澄み渡るような蒼空と、うっすらとたなびくミルク色の雲は、まるで辰と一秦の行く末を祝っているかのようである。

 あの雲、一秦さんに似ている気がする……、とぼんやり眺めながら、時折、携帯精密機器に視線を落として確認していると、だんまりを決め込んでいた光華が口を開いた。

「貴方、一秦さまを諦める気はなくって?」

 辰は眼をゆっくりと細めた。そのまま身を乗り出すと、依然として横顔しか見せない光華へ口を寄せる。

「あるわけねーだろ。地獄の底まで追いかける所存だわ。……思ってもないことを、俺に聞くな」

 ぞっと背筋の凍るような低い声で、そう答える。

 光華は嫌な顔をすると、ぐい、と近づいた辰を押し退けた。

 手入れの行き届いた可愛らしい桜色の爪が、がりり、と辰の頬に食い込む。このクソ女、わざと爪立ててやがる、と眼を怒らせる辰を黙殺した光華は目元に手を当てると、

「本当にお労しい……。こんな悪魔みたいな男に言い寄られて……」

 と、さめざめとした泣き真似をした。形式上と言えども婚約者である筈の光華は、何故か一秦の肩を持つ。一秦は辰の毒牙にかかったのだと信じて疑わないし、何度も一秦から近づいてきたことをこんこんと説明しようとも、一向に耳を貸さないのである。女の勘って本当に馬鹿にならないのな……と、何度も遠くを見つめる羽目になったのはご愛嬌だろう。

 普通は婚約者が他の女に現を抜かしていたら、その女に攻撃的になるのではなかろうか、と辰は考えたこともある。それを馬鹿正直に光華へ話したところ、足の多い害虫を見下ろす視線で射抜かれたのち、懇切丁寧に、それは光華が辰のことを好ましく思っていた場合のみ適用されるので、金輪際そのようなことにはならない、心配するだけ無駄なことである、と説明された。

 「俺のこと、嫌いな女っているんだ!」「そういうところが吐き気を催すほど嫌いなの。二度と呼吸しないで」「真っ直ぐな視線で死を願われてる~!」

 軽快な口調の応酬に見えるが、この間、二人の空気は氷点下に到達していた。

 閑話休題。

「でも、一秦さん、俺のこと大好きだから。それよか、無理矢理引き裂こうとする方が可哀想だろうがよ」

「思い込みって、憐れを通り越して最早恐怖ね。一度、自分を見直した方が良くてよ」

 辰の発言を妄想だと片付けた光華は、ばっさりと切り捨てた。しかし辰も負けてはおらず、

「大好きってのは思い込みじゃねーし!」

 と否定するが、婚約者から帰ってくるのは冷たい返事のみである。

「だから貴方はモテないのよ」

 死体蹴りをするだけには飽きたらず、止めまで徹底的に刺すことを忘れない光華の方が、余程悪魔を冠するに相応しいのではないだろうか。

「モテますー! 爆モテしてますー!」

 辰はズタボロにされてしくしく泣き出した心を宥めながら、反論を諦めなかった。本当に、この女怖すぎる。こいつを深窓の令嬢だとか言ってちやほやする有象無象の気持ちが理解出来ん、とぶつくさ文句を垂れながら、びしっと鋭く人差し指を突きつけた。

「よぉ~く聞けよっ!」

「人様に指を指さないでください。礼儀知らずも良いところよ」

「話の腰を折るなっての!」

 ふん、と鼻を鳴らして小馬鹿にする光華へグルグル唸りながら威嚇した辰だが、ごほん、とひとつ空咳をすると、説得するかのごとく語り始める。

「わざわざ大嫌いな俺に近づいてきて、慣れない色目を使ってくるほどなんだから、最早俺のこと、大好きだろうが!」

「何よ、その理屈」光華はあくまでも胡散臭そうな顔つきを崩さない。

 しかし、辰はふふんと笑うと、胸を張って結論を突きつけた。

「一秦さんは俺に無関心ではない。むしろ、嫌いなまである。嫌いっていう強い感情があるなら、殆ど好きと言っても過言ではない! どうだ!」

 しかし、光華の態度はにべもない。異常者でも見るかのような視線で辰を上から下までぐるりと眺め回すと、

「過言なのよね。頭がおかしいんじゃないかしら」

 と端的に言い捨てた。とりつくしまもない。

「うっせえ、バーカ! 大切に愛されて育った奴に、俺の美学が理解るわけねえだろ! 出直してきな!」

 完全に光華に舐められている辰はというと、子どもの癇癪のようにぎゃあぎゃあ喚きながら、負け惜しみを叫んでいる。光華は負け犬の遠吠えを腕を組みながら聞き流したのち、特大のため息を落とした。

「……ハアー……」

 辰は訝しそうにじろじろと光華を見回した。しかし、彼女は辰の不躾な視線をものともせずに視線を前へと向けると、毅然とした様子で言った。

「貴方って……心に地獄があるのね」

 辰は首を傾げた。

「? そうだけど?」

 何を今更、といった態度で、そう答える。

「それとも、生きたまま地獄に落とされたから、そうなったのかしら」

 光華は敢えて辰の言葉を黙殺すると、続けてそう言った。それを受けて辰は瞬時に黙りこむ。そして、すとんと表情を消した。

「さあね。どっちでも良いだろ」

 やがて、辰はにやりと唇を歪めると、光華の言葉を鼻で笑った。愛しい人へ見えるときとは異なり、その乱暴で突っ慳貪な口調は、決して一秦に見せることのない一面だ。むしろ、己の本性はこちら側なのだ、ということを辰はよく理解していた。粗野で、粗暴で、人の心が理解わからない。それが杵築辰という人間であった。

 柔らかくて人当たりの良い、どこか甘ったれた好青年の顔は、完全に一秦だけのためのものである。しかし、婚約者である光華はそのことに欠片も嫉妬心を出すことはなかった。そもそも、そのような感情すら辰へ持ち合わせていないのかもしれない。加えて、この目の前の女は蝶よ花よと丹精をこめて育てられた割には、愚かしくもなければ世間ずれしていることもなかった。そのことが、辰がこの女に対して好感を抱いている唯一の事柄である。

 曰く、間近でずっと見ていたからこそ理解しているようで、辰の、あのようなおぞましい感情を一心に向けられている一秦へ同情以外の感情が浮かぶなら、真っ先に病院へ行くことを勧める、とすら光華は吐き捨てたことがあった。

 それらも全ては懐かしき思いでの彼方の出来事である。

 一方、光華は苦々しく頬をひきつらせている。辰は、顔色の悪い彼女に向かって、次のように述べた。

「でもそれは、俺だけじゃねえじゃん。人って須く、そういうもんじゃねえの?」

 てっきり、一緒にしないで、と激昂されるかと思いきや、意外にも光華は黙ったまま辰を見返しただけだった。しかし、その目には恐怖と嫌悪、そして一欠片の同情がぐちゃぐちゃに入り雑じっている。

 壁掛け時計を見やると、光華とともに席についてからきっかり十五分、経過していた。そのため、辰は肩をすくめると「お勘定、します?」と言って、傍らのレシートをひっ掴んだのであった。


 ◼️


「一秦さん、聞こえてましたか?」

「うん」

 辰は、お腹が膨れて餌を見逃す爬虫類のような表情で黙りこんでいる一秦に向かって、そう訊ねた。然り気無い様子で、まるで返答を待ちかねて不安になったように、恐る恐るといった様子を装う。一方、一秦の耳にはきちんと届いていたようで、ぱちぱちと子どものように瞬きを繰り返したのち、彼女はこくりと小さく頷いた。

「俺、一秦さんのことが好きです」

 春と呼ぶにはまだ肌寒く、かといって冬と呼ぶにはほんのりと暖かい夜の日のことだった。

 路に整然と植えられた桜はまだふっくらとした蕾をつけたまま、暖かな春を待ち望んでいるようだったが、民家に咲く梅の木は小さな花を沢山繁らせて、仄かな薫りを匂わせている。

 一秦が頭上を見上げている。薄墨を引いたような群青と竜胆が混じった夜空に、砕いた宝石を散りばめたような星が、彼女の瞳に反射して、きらきらと輝いていた。瞳に映った粒揃いの星たちを眺めていると、『きらきら星変奏曲』が頭の中で流れ始める。緊張に震えているかのように、はあ、と息を吐くと、真っ白な息がふわりと舞って、夜の空気に溶けていった。

 一秦が、視線を空から辰へ戻したことを確認して、辰はわざとびく、と肩を揺らした。

 普段、騒がしく落ち着きがなくて怒られていることが多い辰の、おどおどした姿は物珍しかったのだろう。思わずといったように、顔を綻ばせる一秦は、可憐で可愛らしくて、今すぐにでも抱き締めたくて仕方がなかった。

 ——恐らく笑っていることを気づかれてない、と思っている迂闊さも含めて、すべてが。

「一秦さんは、俺のことなんて好きじゃないと思うけど」

 辰はまた、わざと自分自身を卑下した。すると、一秦はびっくりしたのか、無表情のまま、まじまじと頭ひとつと少しだけ背の高い青年の横顔を眺めてきたので、内心ほくそ笑む。

 常に飄々として、年上をおちょくることを生き甲斐にしているのではないかと疑われるほど、他人に対して敬意の欠片もないふてぶてしさが売りの辰が、殊勝な面を見せたら、一秦はきっと見直すに違いない。そこまで打算的に考えながら、むくれたように眉をしかめて、ふい、と顔をそらしたまま、むっつりと黙りこんでみる。

「そう思うのかい? 何で?」

 辰に向かって、そう尋ねる一秦は、無邪気を通り越して残酷ですらあった。理解わかってるくせに、と一瞬唇を歪めた辰は、すぐさま表情を一変させると、一秦へ視線を向けた。

 年上の愛しい人は大きな瞳を目一杯広げて、辰の燃えるように紅く染まった滑らかな頬を見つめている。

「えっ、もしかして望みあるの⁉︎」

 辰ははしゃいだように声をあげると、一秦の顔を覗き込んだ。

 しかし、それに関しては、一秦は何も言わなかった。

 代わりに、マフラーから埋めていた顔を出して、ふっくらとした唇を綻ばせている。

 辰は、硝子玉のような一秦の瞳をじっと見つめたあと、淡く微笑んだ。

「なんてね、冗談だよ。でも、俺、諦めないから」

 ——だって、ずっと好きだったんだ。

 そう言った辰は、右手の指を三本、一秦の前へ突き出した。

 三。三秒。三分。三時間。三日。三ヶ月。三年。

 一秦ときちんと顔を合わせたのは、丁度三ヶ月前のことである。

 恐らく、一秦は三ヶ月前のことを思い出しているのだろう。首を小鳥のようにちょこんとかしげると、辰に向かって問いかけた。

「三ヶ月前から、私のことが好きだったのか」

 一秦の疑問を耳にした辰は、ただにっこりと微笑って……心の内で否定した。

 違うよ。

 

 から、ずっと貴方のことだけを、視ていたんだよ。


 ■


 動物園特有の、獣の臭いと草木の香りが混じったそれを、すうっと吸い込む。人によっては顔をしかめるだろうが、辰は何となくその臭いが嫌いではなかった。

 一秦と水族館デートをしてからというもの、二人は度々逢瀬を重ねるようになった。今日もその一環で、S県の有名な動物園兼遊園地へ足を運んだのである。

 きゃらきゃらとした声を上げて、走り回るキツネザルを何ともなしに眺める。

 隣でそれを眺める一秦はというと、ぼんやりとしていて上の空であるようだった。何か考え事かな、と思いながら、一秦と並んで立つためだけに、興味の欠片も湧かない動物の動きを見つめていた。

 遠くの方で、園内放送が流れている。どうやら、話題のアニメとコラボレーションをしているようで、辰の知らないアニメキャラが細々としたことを話していた。

 傍らの子どもが、アニメキャラの名前を叫んで喜んでいる。子どもの年齢は小学校低学年ほどで、喧しく笑い転げながら両親とともに、どんどん離れていった。それを横目で見ながら、辰はあのくらいの年頃のことを思い返していた。

「どうしたの」

 すると、今まで黙りこくっていた一秦が突然口を開いたので、辰は驚いたまま思わず、

「? 何が?」

 と、突っ慳貪な言い方をしてしまった。意図せず己の素が出てしまったことに焦りながらも、表面上は平静を保つ。しかし、心がどうにも落ち着かない時に現れてしまう、ピアスに触れる動作だけは咄嗟に止めることは出来なかった。

 一秦には、冷え冷えとして色のない、つまらない自分をなるべく見せたくはない。

 それに、一秦は……優しくて穏やかで、いつも微笑っているような人が好きであることを、辰はよく理解していたのである。

「あっ……と、ごめん。言い方、キツかったね」

 一秦に向かって謝罪をする。アンテナヘリックスに打たれたピアスの穴がズキズキと痛むほどいじくり回してしまうが、どうにも止められない。

 しかし、彼女は辰へちらりと視線を転じただけで、すぐさま目の前のキツネザルの群れへと戻した。

「何か、気になることでもあったのか」

 女にしては低くて落ち着きのある声色に、辰は人知れず安堵の吐息を漏らした。

「んー? 何もないよ」

 辰は敢えて誤魔化した。そう、何もない。辰にははしゃぐ子どもを見て、感傷に浸るような感情はないに等しいのである。

「そう……」

 一方、一秦は訝しがるような表情をすこしだけ見せたのだが、あっという間にそれを引っ込めて、普段通りの無表情で頷いた。辰は一秦のすべてを愛してやまないが、一等、相手の踏み込まれたくない部分を慮って一歩引く姿勢が、愛おしくて仕方がなかった。

「それより、一秦さんの方こそ、どうしたの? あんまり、動物園、好きじゃなかった?」

 辰は一秦の横顔を覗き込みながら、そう訊ねた。今日、顔を合わせてから一秦は愁いを帯びた表情のまま、物思いに耽っていることが多かった。

 すると、一秦はふるふると首を横にふった。伏せられた瞳に、けぶるような長い睫毛が蔭る。

 辰がそれをねぶるような眼で眺め回していると、一秦がふっくらとした唇を小さく開けた。

「いや……。そうじゃない……」

 力のない声色に、おや、と首を傾けた辰が先を促す。

 一秦は何度か唇を開閉させたのち、意を決したようにきりりと顔つきを改めると、ぼそりと呟いた。

「……ストーカー」

「えっ」

 様々な鳴き声が入り雑じって、不協和音を奏でているせいか、最初はよく聞き取れなかった。

 そのため、一秦へ問い直すと、彼女は顔を俯けながら、もう一度言葉を繰り返した。

「ストーカー、されてるみたいなんだ」

「どういうこと?」

 寝耳に水とは、正にこのような事なのだろう。辰が思わず聞き返すと、一秦は億劫そうな口調で、訥々と話し始める。

 つまり、次のような話であった。

 数ヶ月前から、自宅にいると、執拗な視線を感じること。

 室内の家具や小物が、移動した形跡があること。

 他にも小骨が喉に引っ掛かるような些細なことも含まれていたが、大方、一秦の言はこのように纏められる。

 視線云々は自意識過剰かもしれない、と一秦は断っていたが、平生よりあらゆる種の男から声をかけられる彼女が嫌悪感を覚えるほど露骨なのだ。決して気のせいではないだろう、と辰は考えた。

「それは……」一秦の話を全て聞き終えた辰は、何かを言いかけて、寸でのところで飲み込んだ。代わりに、ありったけの怒りを込めてストーカーを詰ったが、一秦は不思議そうな顔つきで辰を見つめただけだった。

 結局、一秦は辰が何か言い差したことには気がつかなかったようで、依然として暗い顔つきのまま、

「そのことを考えると、気が重くて。ごめん、折角辰と遊んでるのに」

 と謝罪している。辰はそのいじらしさに、胸がいっぱいになった。

「一秦さん……」

 そっと一秦の空いた掌に触れると、指を絡めて握り締めた。ぴく、と一秦のそれが震えるが、辰は敢えて無視をして話を続けた。

「良いんだよ、気を遣わなくて。本当に怖かったよね。話してくれてありがとう。……力になれるか分からないけど、俺、なるべく一秦さんと一緒にいるよ」

 辰は端整な顔立ちを甘く綻ばせた。……、という本音を上手に隠して、顔を近づける。

 しかし、間近でまじまじと辰を観察していた一秦はというと、顔色を変えることなく淡々とした様子で訊ねた。

「え、でも、辰にも付き合いがあるだろう?」

「大丈夫、無理しない程度だから。それより、一秦さんが心配なんだ。何かあったらと思うと、気が気じゃない。ね、俺に一秦さんを見守らせてよ」

 今一つ一歩引いた態度をとる一秦を逃がさないように、組んだ掌を引き寄せる。ぐっと近くなった距離のおかげで、一秦の纏う香水の爽やかな香りと、その中に滲む甘い体臭が辰の鼻をくすぐり、ぽーっとした心地になった。

「いつも、無理を言ってしまうな……」

 腕の中で、一秦が恐縮したような声をあげる。辰はハッと意識をはっきりさせると、さっと表情を取り繕って笑いかけた。

「気にしないでよ! 俺たちの仲じゃん、水臭いなあ!」

「ありがとう、辰」

 ふっ……と、ほんのり笑み崩れた一秦を真正面から浴びた辰は、ごくりと生唾を飲み込んだ。それを見た一秦が、小鳥のように首を傾げる。さらり、と彼女の首筋から肩にかけて、細い髪の毛が流れ落ちていくのをじっと見つめる。

 ああ、本当に、食べちゃいたいほど、可愛い。

「それにしても」

 辰はようやく一秦から体を離すと、なるべく自然となるように話題を転換させた。

「一秦さんとこんなに仲良くなれるなんて、思ってもみなかったな」

「そうだな。私もそう思うよ」

 一秦はそう言うと、柔らかく唇を綻ばせながら、思い出の中に浸るような揺蕩う瞳で辰を見つめた。

 その相貌の、瞳の、何と美しく無垢なることか! 辰は一秦の目映い美貌にクラクラとしながら、彼女の語る思い出に耳をすませた。

 初めて喫茶店を訪れたあの日、辰が注文した品を運んできてくれたこと。

 ピアスのたくさん開いた耳に驚いたこと。

 優しく声をかけてくれて嬉しかったこと。

 幾ばくかの会話ののち、珈琲を誤ってかけられそうになった一秦を庇ってくれたこと。

 それがひどく心を打ったこと。

 一秦の低くて穏やかな声が、辰のボコボコと開けられたピアスだらけの耳を、優しく撫でる。

 それをうっとりと堪能しながら、辰もまた甘くてきらきらとした思い出を、脳裏で何度も繰り返し繰り返し思い返していた。一秦にとって辰との出逢いが印象的なように、辰もまた、彼女との出逢いは愛おしくて仕方のない記憶であった。

「俺、一秦さんと出逢えて、本当に良かった」

 一秦の話が一区切りついた頃、辰はするりと滑り込むように話を挿しこんだ。そして、「一秦さんは?」と無邪気を装って訊ねてみる。

 すると、一秦はガラス玉のような空ろにも見てとれる瞳で、辰を見返した。

 そして、何度か瞳を瞬かせると、再び前方の動物たちへ視線が向けられる。辰はそれをにこにこしながら眺めた。

「私も」と、一秦は言った。「私も、そう思うよ」

 辰がぐにゃりと眼を歪ませたのを、一秦は見ていない。そういうところも好きだった。大切なことを常に見逃すその愚かしさこそ、辰が一秦をとても愛おしく思っている、根元的な感情であったので。


 ◼️過去


 辰が一秦の、世間一般的に言われる、所謂ストーカー……辰本人は至って不満しかないし、絶対に違うと言い張っているが、便宜上そう述べることにする……になったのは、実に三年前まで遡る。

 十七歳になり、ある程度は自由な時間を確保できるようになった辰は、予てより目をつけていた一秦を見守ることを開始した。朝に目覚めてから、夜に床へつくその時間まで、隅から隅まで余すところなく、全てを観察し続けた。幸い、一秦は独り暮らしであり、住居も特段セキュリティが頑強なものではなかったので、金と情報を最大限に駆使してあっという間に環境を整えることが出来たのである。

 一秦の部屋には、ありとあらゆる箇所に監視カメラを仕掛けており、死角が決して生まれぬように、細心の注意を払って取り付けられていた。念入りに探さなければ見つからないような微細な機械であるが、万が一のことを考えて、盗聴機も隠してある。家具や小物は、決して動かさなかった。配置を動かせば動かすほど、ぼろが出て勘づかれる確率は格段に跳ね上がる。辰はそのようなミスを犯すほど、愚かではなかった。

 それらを一日の最後に具に確認するのが、専ら辰の趣味であった。

 モニターに映し出される、様々な角度から切り取られた一秦を見ていると、まるで箱庭の中で飼い慣らしているような気持ちになった。

 彼女が何を好きで、何を嫌いで、何を食べて、何をして過ごしているのかをひとつひとつ知れば知るほど、愛が深まっていくのを感じた。彼女が体のどの部分から洗うのか、服はどのようにして脱ぐのか、髪がさらさらに乾くまでどのくらい時間が掛かるのか、花を摘む時間はいくらなのか、それらを全て知る頃には、一秦がどのような交遊関係を築いているのかまで、把握することができた。

 結論から述べると、辰が気を揉むような異性関係は皆無であった。一秦の側にいる男と言えば、叔父の柏木真ぐらいであり、後は職場の人間だけである。職場の同僚たちとは特段親しくしてはないので、辰が専ら排除すべき存在は無いと言っても過言ではなかった。ただし、その叔父は一秦と血縁関係がないことは、気に掛かってはいる。

 また、過去に交際していた人物は、綿密に調べたところいないことが早々に判明したので、彼女はまだ清らかな身のままであった。それも辰をいたく喜ばせる原因のひとつになった。もし、誰かしらが一秦に指一本でも触れていたならば……そう考えるだけで、辰は想像を絶する憎悪に身を焼き焦がされながら身悶えするのである。

 美しく可憐に花を咲かせるその存在を手折るのは、己だけが良い。

 屈折して、歪みに歪んだ醜い欲望の自覚はある。しかしそれを、包み隠そうとするような奥ゆかしさと、清廉な理性は、微塵も持ち得なかった。それは、飼い慣らすにはどす黒くてどうしようもない感情であるし、無理に押し込めるには強大で震え上がるほどの醜悪な感情であったのだ。

 それでも、どうしても止められなかった。一秦以上に彼女自身のことを知り尽くしたかった。彼女が心から愛して、彼女のことを心から愛していた一秦の父親より、一秦のことを把握していたかったから……。

 亡父である彼は、ある意味、保護者の立ち位置に近い一秦の叔父よりも、辰にとって脅威を抱く人物であった。

 幼き頃より母を亡くした一秦は男手ひとつで彼に育てられたわけだが、そのせいか端から見れば異常なほど、父に心酔している。また、彼も一秦のことを目に入れても痛くないほど可愛がり大切に育てていたため、葦原父娘は普通の家族よりも強固な絆で結び付いていた。そこに辰が入り込む隙間は存在しない。加えて、彼女の父は既に死亡しているため、最早一秦の中では父親を越える存在は現れないことであろう。辰はそれを歯痒く思うと同時に、転げ回りたいほどの悔しさに襲われた。例えこの先、辰がどんなに努力を重ねたとしても、あらゆる手段を用いて一秦を手中に収めたとしても、彼に勝つことは出来ないのである。一秦の中で、亡父は永遠の存在となってしまった。勝ち逃げされた辰は、指を咥えて粛々と受け入れる他はない。

 しかし、一秦の父から学ぶこともあった。

 一秦は基本的に他人を信用していない。誰とでも一定の距離を保ち、心を開くことは早々にない。例外は父親と叔父のみで、彼女は家族以外の人間のことが、恐らく好きではない。

 人間ひと嫌いの彼女であるが、その固く閉ざされた懐に入り込む唯一の方法は——

 辰は彼女の父を知っていた。だから、挙動や仕草を真似ることはそこまで難しいものではなかったのである。粗雑な話し方を柔らかくして、ぶすっとむくれた辛気づらい顔に優しく微笑みを浮かべれば、一秦の凍てついた顔も多少は溶けて穏やかになった。慕わしい父に似ているからといって他人に気を許すなんて、無用心にも程がある。しかし、気難しいように見えて、思いの外単純な一秦のことも、辰は愛していた。痘痕も靨とはよく言ったものだ、と亡き父の面影を勝手に見てはどんどんガードの緩くなる一秦を見つめて、辰は何度も含み笑いをした。

 何れは一秦の身も心も全て手に入れる算段ではある辰だが、それでも時折、辟易とすることもある。

 一秦は確かに辰へ気を許しかけてはいるが……それは、年少の者……つまり弟……に接するような態度を見せることが多い。辰を異性だと意識をしていない。それも仕方がないか、しかも七つも年下だから、と聞き分けの良いことを考えてみるも、やはり面白くはなかった。

 人生の先輩として、アルバイト先の店長に訊ねてみたことがある。すると、店長は嬉しそうに顔を綻ばせながら、漸く辰も人間らしくなって……としみじみ呟きながら、あれこれとアドバイスをしてくれた。何故、店長がそこまで親身になってくれるのかは不明だったが、辰は表面上ひどく有り難がっているような振りをして、話を聞き続けていた。

 その中で辰が気に入ったものは、自宅に招くこと[#「自宅に招くこと」に傍点]だった。

 確かに、自宅ならば何をしても外部から邪魔が入ることはない[#「自宅ならば何をしても外部から邪魔が入ることはない」に傍点]。加えて、辰の所有しているマンションはセキュリティが万全で、ある意味密室を形成していると言っても過言ではなかった。

 密室で行われることは、第三者により強固に閉ざされた部屋を破られない内は、何が起こっても構わない。

 辰の自宅は、まさに悪魔の腹の中。一秦はわざわざぺろりと頭から食べられるために、招かれるのである。

 店長のアドバイスは、既に右から左へ聞き流していた。彼は至って一般的なアドバイスをしていたのだが、辰の脳内でそれは歪められておぞましい想像へ変化していた。

「わっかりました~! 一秦さん、家に誘ってみます!」

 わざと軽い調子で手を上げながらそう言うと、店長は苦笑しいしい忠言めいたことを話していたが、それらは全て辰の中では、最早意味を成さない文字の羅列でしかなくなっていた。

 まさか店長も、親切心からのアドバイスが想像だにしない曲解によって一秦を危機に晒すとは、思ってもみなかったに違いない。

 悪魔は善き隣人の顔をして、さも当然のように破滅へと導くのだ。

 それから逃れるには、悪魔の正体を見破らなければならぬ。

 辰は人の好い店長の顔を、カウンター越しに眺めた。杵築の名前に目が眩むことなく、真摯に一人の人間として辰と向き合う彼は、まごうことなく善人である。

 辰はそういう人間が好きだった。彼らは総じて親切で、誠実で、正直で……そして何より、救いがたいほど愚かであったからだ。彼らはいつも、辰のような化物染みた人間に騙されて、馬鹿を見て、後悔を重ねていく。その愚かしさを、真面目さを、辰は好ましく思っていた。

「店長、もし、俺と一秦さんが付き合ったら、祝福してくれます?」

 気が早い奴だなァ、と快活に笑った店長は、勿論、と胸を張って答えた。辰はそれを聞いて、ニンマリとした悪魔めいた笑みを、一瞬浮かべた。

 ——もしその祝福が、実は呪詛であったことと知ったならば、どのような表情になるのだろう。

 辰はそのようなことを考えつつ、外向きの微笑みを張り付けると、「まあ、任せてくださいよ。店長に、とびきりの驚愕をお届けしますから」と大口を叩いたのだった。


 ◼️現在


「辰」

 一秦の涼やかな声色が耳朶を打ち、ハッと目を見張る。

 辰がつらつらと考え事をしているうちに、檻から檻へと移動していたようで、いつの間にかホワイトタイガーの展示へと移っていた。

 老若男女様々な人間が列を成して、一頭のホワイトタイガーを間抜けな顔で眺める様が如何にも滑稽で、辰は人知れず笑いを噛み殺した。

「あ、ごめん、一秦さん。——何かあった?」

「いや? ぼーっとしているようだったから、どうしたのかな、と思って」

「うん、あは、あはは。昔のこと、思い出してた」

 辰はそう言うと、わざわざ腰を屈めて、一秦の顔を覗き込んだ。辰は、己の過去を匂わせた瞬間に微妙に表情が強張る彼女を見るのが好きだった。

「……そう。家族とは、よく遊びに行ったの?」

 まさか、という言葉は飲み込んだ。生まれてこの方、家族と称する奴等とは私用で出掛けたことすらない。

 しかし、正直に告げるのは芸がないし、何より、一秦の珍かな表情を観察できない。だから、辰はわざと言葉を濁して、一秦をはぐらかした。そうすることで想像の余白が生まれて、彼女はより深く苦悩することになる。

「言い難い話題だったかな。ごめん」

「ううん。こちらこそ、気を遣わせちゃってごめんね」

 お互いに白々しい言葉の応酬を終えると、隙間に挟まるのは重たい沈黙であった。辰は、様々な感情の奔流を包み隠して、必死にすました顔をしている一秦の横顔を舐めるように眺め回したいのを堪えて、ひたすら檻を見つめ続けていた。

 ホワイトタイガーが、ぐわっと大きな欠伸をした。鋭く尖った大きな犬歯が四本剥き出しになり、薄ピンク色の口内が露になる。

 おおーっ! と湧きたつ観衆をよそに、辰は一秦を何れ閉じ込めるための檻について考えていた。

 杵築の財力を目一杯使えば、人一人を囲うことは容易であった。加えて、一秦は血縁のない叔父を除けば、身寄りのない存在だ。叔父さえ黙らせてしまえば、天涯孤独の一秦を掌中に収めることは容易いだろう。

 その、目の上の瘤と言っても過言ではない一秦の叔父をどうするかということが、辰の目下の悩みであった。一秦に嫌われたくないので、なるべく穏便に済ませたいのだが、彼方はそうではないだろう。辰の存在を知れば、何がなんでも排除するに違いない。かと言って、面倒臭くて手荒いことはしたくない……。

 そもそも、辰が感じた憎悪は、正しかったのだ。

 葦原一秦と言う人間は、他人を狂わす魔力を持つ女である。それは、彼女が歩んできた人生が証左となる。しかし、血が繋がっているから安心、という訳でもない。

 等しく危険だ。

 それならば、家族という、脆くて柔い繋がりだけしかない……血の繋がりがない……所詮赤の他人ならば、どうなるのだろう?

 疑問に思うのも馬鹿らしい考えであった。辰はこっそりと鼻で笑うと、すう、と眼を細めた。

 一秦の保護者面をするあの叔父だって、何時牙を剥くかは分からない。一秦は家族として過ごした記憶を頼りしているようだけれど、そのような不確かなものは一瞬で消え去ってしまうことまで思い付かないようだった。

 やはり、邪魔であった。一秦に勘づかれないうちに、こっそりと処理をしてしまうべきか……と、想像を巡らせる。自殺は彼女の鬼門だから、事故死を装って葬り去ってしまおうか……どうせ一緒には暮らしていないのだし……と、とりとめもなく考えていると、ふと、一秦と眼が合った。

 温度のない瞳であった。

 路傍の石ころを見る時の方がまだ温情のあるような、何も無いだった。

 辰はこんなにも一秦のことを愛して止まないのに、つれない一秦にはどれだけよく見積もっても、所詮弟のような存在以上の感情は皆無なのである。

 しかし、辰はそれでも良かった。むしろ、一秦の感情はどうでも良くて、ただ己に巣食う化物染みた感情を注ぎ込むことが出来れば、それで良かった。

 辰と一秦の視線が交錯した時間は、ほんの瞬きひとつ分ほどである。しかし、辰は永遠に深淵から見つめられているような心地を覚えながら、眼がそれた後も、恍惚とした顔つきで一秦を見つめていた……。


 ◼️現在


 気儘な一人暮らしをしている自宅にて、一秦を監視し続けていて、ひとつ気が付いたことがある。

 それは、彼女の行く先々でが、こそこそと後をつけ回っていることであった。

 辰はこの女の正体を知っていた。

 香月光華である。

 女は辰と一秦のデートは勿論のこと、辰のいない間隙をぬって一秦を尾行しているようで、盗撮した写真の五枚に一枚は必ず写っているような有り様であった。

 当初、曲がりなりも辰の婚約者であるから、その執着を向けられている一秦に何かしようと企んでいるのか疑ったが、直ぐ様その考えを払拭した。

 それよりも、更に厄介なことを仕出かそうとしていることに、思い当たったのである。

 光華は辰を嫌っている。軽蔑すらしている。そして、光華は蝶よ花よと温室で育てられた薔薇のような女であるから、人一倍まっすぐで正義心の強い、辰が苦手とするタイプの人間である。

 恐らく光華は、一秦を辰の毒牙にかけられた憐れな被害者として見ている。辰の本性を嫌と言うほど知っているから、一秦が成す術もなく被害を被ることを知らない振りが出来ないのだろう。

 恐らく、光華は一秦に、辰の本性を嘘偽りなく述べるつもりであった。その機会を窺うべく、彼女の行く先々に現れては、尾行しているのであろう。

 厄介だ、と端的な感想を抱く。いるだけなら別に良いが、邪魔するとなると話が変わってくる、とも。

 光華の処遇について、然程悩むことはなかった。むしろ天啓と言っても良かった。元々、家同士で勝手に決められた婚約者だ。しかし、どちらかに不手際がなければ、取り消すことは叶わない程度には強固である。

 しかし、これで光華も年貢の納め時である。ある意味では家族よりも長い時間を過ごした女へ、今さら情をかけるつもりはないが、少しだけ感傷的な気持ちになった。——ほんの少しだけ。しかしそれも、すぐに霧散してしまう。

 一秦を囲いこむには障害になりかねない光華を、手っ取り早く取り除くための素敵な証拠を手に入れたことに満足して、辰は画面越しの一秦に向かってにっこりと微笑んだ。

 監視カメラに映し出された一秦は、ぱちぱちと音を鳴らしながら、指の爪を切っている。その一欠片でも収集できないだろうか、でも物を動かしたら余計に怪しまれるしな……、とうんうん唸りながら、頭の片隅で、、思いを馳せた。

 念入りに調べたところ、辰のように小型のカメラや盗聴機の類いが仕掛けられている形跡はなかった。つまり、ストーカーは一秦の生活には興味がないようである。加えて、家具の配置を微妙に変えているくせにごみ箱を漁ってはいないようだから、どうやらストーカーは、一秦の部屋で何かを探しているようだった。それが一体何であるのか、辰には見当もつかない。ただ、執拗に部屋に立ち入ってはあらため続けるストーカーに、言い様のない嫌悪感と怒りを覚えた。

「顔を合わせたら、絶対に文句を言ってやる。キッショいんだよ、やり口がよ……」

 辰はぶつぶつと悪態をつきながら、節ばった長い人差し指で、映像の中にいる一秦の顔をねっとりとなぞった。爪を切り終えた彼女は、常に視られていることに気付かずに、きらきらとした瞳で指先を見つめていた。

「早く一緒に暮らそうね、一秦さん」

 辰はうっとりとした表情を浮かべながら、蕩けたような声色でそう言った。残念ながら、画面上の一秦が返事をすることも、此方へ光り輝く瞳を向けることもない。しかし、このどうしようもない隔たりが間に横たわっているのが、辰と一秦の関係性なのだ。辰はそれを、よくよく承知していた。

 辰の目標は、一秦を手中に納めて可愛がり愛し尽くすこと。頭の天辺から足の爪先まで余すところなく、髪の毛一本ですら辰の管理下に置いて、愛欲の地獄へ堕としたい。

 そのためには彼女を入れておく箱庭が必要で、その障害となるものは全て取り除かなければならなかった。

 そして全てを整えた時、辰の悲願が叶うのだ。

 隙間なく貼り尽くされた、一切合切視線の合わない一秦の写真に囲まれた辰は、設置された三台のモニターの中で、様々な角度で切り取られた一秦を眺める。

「クソ親父も、こんな感じだったのかねえ」

 ぼつりとそう呟くが、答えが返ってくることはない。

 辰の胸の内に、憐れみにも似た感情が翳ろうたが、瞬きひとつする合間に霧散してしまう。

 机上に置かれたカレンダーへ視線を転じる。あと何日かすれば、辰の自宅へ一秦を初めて招く日を迎える。

 辰はこの日を首を長くして待ち焦がれていた。辰がいくら手を変え品を変え誘い込もうとしても、一秦もまた手を変え品を変え、のらりくらりとかわし続けて、頑なに辰の自宅へ訪れることを拒み続けた。辰はその度にやきもきしたが、それもあと数日で終わるのだ。一秦が何故心変わりをしたのかは、気にならなかった。漸く手にしたチャンスの前では、全てが些事であった。

 ふと、店長が何気なくアドバイスした言葉が、辰の脳裏に甦る。

 一秦には大切な話があると伝えている。一秦の今後の人生の進退に関わることなのだから、それは嘘ではない。

 一秦と一緒に暮らすことになったら、この部屋はどうしようかな、と辰は思いを巡らせた。流石に、壁から天井にかけてぴっしりと敷き詰められた己の写真を見れば、鉄面皮の一秦ですら表情を崩すことであろう。

 辰は机に頬杖をつきながら、その前に、と一秦の訪問日前の日付を指でつついた。

 そして、机上にあったスマートフォンで電話アプリを呼び出すと、何度かタップして、目当ての人物の連絡先をコールした。

 煌々としたモニターの暗い光に照らし出されながら、辰は一向に出ない相手を、辛抱強く待ち続ける。

 やがて根負けしたのか、何度もかけ直した後の十一コール目で、相手は渋々通話を始めた。

 辰はニヤリと笑うと、さも親しいと言わんばかりの口調で口火を切って、捲し立てた。

「あ、父さん? 久しぶり。いきなりで悪いんだけどさ、クソジジイと面会してえんだよな。この日、……そう、■■日、空いてる?」

 

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