禍福は糾える縄の如し 葦原一秦編
◼️現在
「ごめん、もう一回言ってくれるか?」
叔父は、普段の柔和な表情をかなぐり捨てて半ば睨みつけるように一秦へ視線を注いでいる。ガチャン、と乱暴に置かれたカップから、注文して暫く経った珈琲が、少し溢れている。黒い雫がソーサーを、テーブルを汚していくのを、一秦は無感動に眺めていた。
「叔父さん、何度言っても状況は変わらないよ」
店内に満たされている音楽は、荒ぶる叔父の心境とは異なって、静かで荘厳な曲であった。誰もが一度は耳にする、懐かしいその曲名は『家路』。焔が燃える音、暗い夕暮れ、寂しさの中に紛れる囁きの声。一秦はこの曲を聴くたびに、遠い日の幸せを信じていた頃の自分自身を思い出す。
一方、叔父は鬼のような形相のまま苛々とした様子で、トントン、とよく磨かれたテーブルを人差し指で叩いている。
「……誰が、誰に、告白されたって?」
唸るような低い声でそう尋ねた叔父に向かって、一秦は淡々と事実を告げる。
思い浮かべるのは、軽薄で何も考えていなさそうな子どもの表情。隙間なく塞がれた沢山のピアス。一秦よりも大きな身体。そして、出会ってからずっと、笑うことのない瞳の奥の中。
「私が、辰に告白された」
ガチャン、と再び、叔父がカップをがなりたてるようにして乱暴に置く。
繊細な意匠が凝らされたそれは、この喫茶店の店長が特に気に入っていたものであったので、一秦はそっと叔父からカップを遠ざけた。
叔父はわなわなと身体を震わせている。彼がここまで怒りを顕にするのを、一秦は久方ぶりに見た。
叔父が怒り狂った姿を見せたのは、一秦の人生で二回だけ。
——寂しいほど誰も居ない葬式で、真っ白な顔で目を閉じる父親の横顔を見つめていた時と、更にそれより昔、下手くそな笑顔を浮かべたまま一秦の手を握りしめていた父親と対面した時だ。
「断りなさい」
叔父ではあるものの、一秦の父親とは年齢が離れていたためか、どちらかと言えば一秦と年齢が近い彼が諭す時、それは決まって教師のような言い方になる。
彼はいつでも一秦と父親の味方だった。父親と死に別れた一秦を、常に気にかけて、心を砕いてくれていた。一秦は、叔父を父親の次に愛している家族だったから、彼が慣れない怒りに身を焦がしているのを見るのは、本当に辛いことだった。
一秦は、避難させて手元にある叔父のカップの中を覗き込んだ。
黒い水面に写る一秦は、能面のような表情でこちらを見つめ返している。
——悪魔の表情だ、と一秦は自嘲する。
「それは、辰が、私にとって——」
「違う」
叔父はぴしゃりと一秦の言葉を遮った。やはり彼らしくない言動に、一秦は叔父が想像以上に混乱しているのを理解する。
店内に、客は一秦たち以外は誰も居なかった。物悲しくも郷愁を感じさせる『家路』が、一秦と叔父を夕焼けのように朱く照らしたような気がした。
彼は難しい表情で、姪を睨んでいる。
しかし、一秦には、叔父が今にも泣き出しそうに思えて仕方がなかった。
「悪魔は善き隣人の顔をして、近付いてくるからだよ。一秦」
叔父の言葉に、目を伏せる。耳をすますと、『家路』の夕焼けの合間を縫うように、雨音が足を忍ばせて此方に近寄ってくるのが分かった。
大好きな叔父を泣かせたくはなかった。しかし、一秦はその忠告に耳を貸すつもりは毛頭ない。
……誰も幸せになれなくて良いのだ。
瞼を持ち上げ、瞳を見開く。叔父の怒りに歪む表情の横で、硝子に映るもう一人の彼は、涙に濡れていた。
……少なくとも、私は幸せになるつもりはない。
……辰を、幸せにするつもりもない。
一秦は唇を歪める。雨が窓を強く叩く。硝子越しの一秦もまた、涙を流し続けながら、嗤っている。
そもそも、と一秦は思う。
そもそも幸せになるつもりならば、一秦が辰の目の前に現れることは、決してなかったのだから。
■
頭の先からおそらく鎖骨の辺りまで、真っ赤に染めた青年を眺めていると、庭先で育てている深紅の薔薇を思い出す。
一秦は先程、めちゃくちゃに噛みながらも告白をしてきた青年——杵築
「一秦さん、聞こえてましたか?」
「うん」
一秦が、お腹が膨れて餌を見逃す爬虫類のような表情で黙りこんでいることに不安になったのか、辰が恐る恐る、といった様子で尋ねた。勿論、一秦の耳にはきちんと届いていたので、こくりと小さく頷いた。
「俺、一秦さんのことが好きです」
春と呼ぶにはまだ肌寒く、かといって冬と呼ぶにはほんのりと暖かい夜の日のことだった。
路に整然と植えられた桜はまだふっくらとした蕾をつけたまま、暖かな春を待ち望んでいるようだったが、民家に咲く梅の木は小さな花を沢山繁らせて、仄かな薫りを匂わせている。
頭上を見上げると、薄墨を引いたような群青と竜胆が混じった夜空に、砕いた宝石を散りばめたような星が輝いていた。粒揃いの星たちを眺めていると、『きらきら星変奏曲』が頭の中で流れ始める。すう、と夜の匂いを嗅ぐ。アスファルトと、冷たい風の匂いがした。
首に巻いたマフラーは要らなかったかな、と内心思いながら、一秦は視線を空から辰へ戻した。
びく、と辰の肩が震える。普段、騒がしく落ち着きがなくて怒られていることが多い辰の、おどおどした姿は物珍しかった。思わず、ふふ、と笑みを溢す。しかし、一秦のマフラーに隠れた唇がゆるりとほどかれたことに、生憎気づく者はいない。
「一秦さんは、俺のことなんて好きじゃないと思うけど」
随分と自分自身を卑下するのだな、と一秦は辰の意外な面に驚いて、まじまじと頭ひとつと少しだけ背の高い青年の横顔を眺める。
常に飄々として、年上をおちょくることを生き甲斐にしているのではないかと疑うほど、他人に対して敬意の欠片もないふてぶてしさが売りの辰だが、流石に告白するのは緊張したのだろう。むくれたように眉をしかめて、むっつり黙る辰は、ふい、と顔をそらしている。
「そう思うのかい? 何で?」
少し意地悪だったかな、と思いながら、辰へ尋ねると、彼はすぐさま一秦へ視線を向けた。
年下の友人は目を丸くして、しげしげと一秦の寒さでほんのりと紅く染まった丸い頬を見つめている。
「えっ、もしかして望みあるの⁉︎」
それに関しては、一秦は何も言えなかった。
代わりに、マフラーから埋めていた顔を出すと、ふっくらとした唇を綻ばせる。
辰は硝子玉のような一秦の瞳をじっと見つめたあと、淡く微笑んだ。
「なんてね、冗談だよ。でも、俺、諦めないから」
——だって、ずっと好きだったんだ。
そう言った辰は、右手の指を三本、一秦の前へ突き出した。
三。三秒。三分。三時間。三日。三ヶ月。三年。
辰と出会ったのは、約三ヶ月前のことである。
だから、一秦は首をかしげると、辰に向かって問いかけた。
「三ヶ月前から、私のことが好きだったのか」
一秦の疑問を耳にした辰は、ただにっこりと微笑っただけだった。
◼️
辰と出会ったのは、行きつけの喫茶店で独りぽつねんと座っている時のことだった。
調査中に偶々見つけたそこは、一秦の通う会社の近所では密かな人気のある店として有名なようで、必ず一人か二人は客が訪れ、喫茶を楽しんでいた。
そこそこ大きな不動産会社に勤務している一秦は、仕事で煮詰まった時や落ち込んだ時、頭の中を整理したい時等に、ふらりと店に訪れていた。珈琲をメインとして売り出しているものの、紅茶やジュースの種類も幅広く、ランチも充実している。何より、店内でかけられるバッググラウンドミュージックの選曲が素晴らしいのだ。
その為か、当初の目的と相まって通い続けたその喫茶店は、いつの間にか一秦のお気に入りの場所になっていた。
「紅茶、お好きなんですか? 此処、珈琲が売りだから、珍しいなと思って」
大好きなロシアンティーを出された後、そう店員に切り出された一秦は、俯いていた顔をゆっくりとあげた。
——先ず印象に残ったのは、両耳に付けられたピアスの数だった。
軟骨から耳朶まで、隙間なく敷き詰められたピアスは、他人によっては悪印象を抱くだろう。
両耳にそれぞれへリックス、アンテナへリックス、右耳にはトラガス、左耳にはインダストリアルの位置に付けている。
お洒落にしては不必要な程穴を開けているな、と思いながら、一秦は口を開いた。
「……珈琲は苦手なもので」
ふぅん、と自分から尋ねた割には、興味があるのかそうではないのか判らない反応をする店員の表情を、まじまじと観察する。
この静かな喫茶店では異質な雰囲気を持つ青年は、一秦よりも年下なのだろう。
人懐こい笑みを浮かべている為か、幼く見えるが——大学生程の年齢かと思われる。
「よく見てるんだね」と、青年に向かって告げる。すると、青年は更に笑みを深めた。
「うん、趣味だから」
何となく、ぞわぞわと背筋に足の多い虫が這うような、奇妙な不快感が一秦を襲う。
一秦は再び視線を下げて、机上に広げていたリングノートとボールペンを見つめた後、そっとノートを閉じる。
「おーい、辰! サボってないで、こっち手伝ってくれよ!」
すると、別の店員から声がかかり、青年はにこにこ笑いながら「わっかりましたー!」と、元気よく応えていた。
「ごゆっくり」
一秦にそう一言だけ告げて、くるりと踵を返す。
そしてそのまま、呼ばれた方向へあっという間に姿を消すと、一秦の周囲は再び静寂に包まれた。
漸く店内で流されていた曲が、一秦の耳に入ってくる。本日は『メヌエット ハ長調』で、しっとりとして滑らかなピアノの音が、バクバクと大きく打ち鳴らされた一秦の心臓を少しずつ鎮めさせてくれた。
嵐のような人間だったな、と思いながら、一秦は注文したロシアンティーに添えられたジャムを溶かして口をつける。とても美味しい。キラキラと黄金色に輝くこのジャムは、一体何の味なのだろう、と考えながら、紅茶の異様な熱さが、じわじわと口の中に残った。
「しん。きづき、しん。——杵築辰」
一秦は店員の青年の胸元に付けられた名札と、呼ばれた名前を組み合わせて、呟いた。
……やっと見つけた。
ふっと唇を綻ばせ、ノートの最初の頁を開くと、店員の名前を力強く書いた。筆圧が強いせいか、少しインクで滲んだ青年の名前を全て書き終えると、ぐじゃぐじゃと丁寧に隙間なく文字を黒塗りで潰していく。
それを真っ暗な瞳で見下ろすと、一秦は紅茶を全て飲み下し、広げられた筆記用具を片付け始めた。
手元のリングノートは、ほぼすべての頁が文字で埋め尽くされ、所々偏執的な黒塗りがされているが——最後のページだけは、手もつけられずに、まっさらな状態で一秦に向かって微笑んでいるのが、どうしても憎らしかった。
■
あれから辰は度々、一秦の接客を担当しては、とりとめのない話をしていた。初対面の人間には素っ気なく、冷たい印象を抱かせる一秦も、辰のあまりの口数の多さに態度は多少軟化していた。
「今取ってる授業の単位、落としそう」
「一秦さん、園芸が趣味なの? 何育ててる? 俺、オキナソウって花が好きなんだけどさ……」
「さっき、バイトの先輩に怒られちゃった~。え? 理由? 皿を終わった回数の通算が三十枚越えたから……。はい……。自腹です……」
辰の話はいつも唐突で、何でもないことで、とるに足らないことばかりだったが、一秦はそれを黙って聞いて、時折質問をした。通常ならば煩わしささえ感じるその会話だが、辰の話術が旨いのか、一秦は珍しくストレスに頭を悩ませることなく、彼との会話をぽつぽつ続けている。
勿論、人気店なので客足もあるから、辰も当然忙しい筈なのだが、彼は一秦との会話を止めることはなかった。時と場合を選ばないこともあるそれのせいで、店長から苦言を呈され、アルバイト仲間から叱責されることもあるのに、一秦が来店するとすっ飛んでくる辰は、仔犬のようにじゃれながら短い会話を楽しんでいるようだった。
何時の日か、辰の接客の様子を見かけたことがある。その時も当たり障りのない話をしていたが、一秦に話すような辰のプライベートの話題が出てくることはなかった。その時接客されていた若い高校生くらいの女の子が、ぽうっと辰を見つめながら熱心に話しかけていたのに、辰は優しく微笑みながら相槌を打っているだけだったことが、一秦の冷たく凍った心に一滴の雫を垂らした。
「あっ、一秦さん」
その時の一秦は、自身が考えるよりも強い視線で辰を射抜いていたようだった。ちらっと女子高生から目を離した辰は、ぱっと花が咲き誇るように笑うと、一目散に一秦の元へ駆け出した。辰の背後でぽかんと口を開けて此方を見やる少女は、一秦の姿を見とめると過ごすごと引き下がったので、少々ばつの悪い気持ちになりながらも、一秦は辰を咎めることはしなかった。
図体ばかりが大きい犬に懐かれるように、辰が一秦に纏わりつく。一秦はそれを適当にあしらいながら、辰の背後——落ち込んでしょぼくれながら席につく可哀想な女子高生の更に後ろ——で、じっと一秦を睨み付ける女を見つめた。
若い女だった。
恐らく、辰と年齢が変わらぬ女は、一心不乱に一秦へ鋭い眼差しをむけている。一秦もそれに応えるようにして、彼女の瞳を見つめ返した。
柔らかく毛先の巻かれた栗色の髪、しっかりと施された化粧、身に纏った服装は季節に合わせられており、品の良さが感じ取られた。
「どうしたの、一秦さん」
すっ……と体を傾いだ辰が、視界を塞ぐようにして映りこんでくる。一秦は静かに瞳を瞬かせたのち、「何でもないよ」と素っ気なく言いはなった。
そして、「今日のオススメは?」と訊ねながら、近くの席へ座ると、辰は瞳を細めて唇を吊り上げるような歪な笑みを浮かべた。
◼️
施錠された二つの鍵を開けて玄関を潜った一秦は、眉をしかめると「またか」とひとりごちた。
家具の配置が、ほんの僅かに変わっている。
ここ最近になって、一秦が帰宅すると、かなりの確率で何かしらの家具を動かされた形跡が残っていた。本当に少しだけ、一秦にしか分からないような、微細な変化。しかし、不快になるのには十分な変容である。
誰かが無断で自宅へ入っている可能性に身震いするものの、相手も小賢しく、決定的な証拠はどんなに探しても見つからなかった。それが余計に気味が悪い。
警察に相談しようにも、気のせいではないかと一蹴されそうな気がして、つい二の足を踏んでしまう。誰かに相談することも考えたが、叔父や友人には心配をかけてしまうし、然りとてそれ以外の適当な人物は思い浮かばず、結局そのままにしてしまった。
大きくため息をつきながら、居間にぽつねんと置かれた小さな机に荷物を下ろす。そしてぐるりと部屋中を見渡したが、不審なものは何一つ見つからなかった。
しかし、ねっとりとした視線で舐め回すように監視されているような気分になるのは否めない。一秦はぶるりと体を震わせると、架空の視線から逃れるようにして浴室へ向かった。もし、一秦の妄想でなければ、恐らくそこにも魔の手は忍び寄っていることは念頭に置いている。しかし、外へ逃げようにも、もし鉢合わせしたり、尾行されたりしたら堪ったものではない。そう、気のせいだ。慣れないことに頭を使って、ちくちくと痛む罪悪感を見ない振りをしているうちに、過敏になった神経が見せる悪辣な夢に違いないのだ……。
■
一秦と辰のやり取りは、店の中でも有名であるらしい。
それを、店長直々に指摘されたことは、少なからず一秦の心に気恥ずかしさと煩わしさを抱かせた。
珍しく辰のシフトがない日に喫茶店の扉をくぐった一秦を捕まえた店長が、手ずから淹れてくれたロシアンティーを差し出しながらそう切り出したのである。
「あいつ、あんまり他人との距離感について考えたりしないからなあ。まあ、それが上手くいって、結構仲良くなったお客様とかいるよ」
気さくに笑う店長の瞳には、何処か一秦をからかうような色が載せられている。
一秦は気まずげに視線をそらすと、ロシアンティーを口に含んだ。一秦のお気に入りのジャムは、かりん蜂蜜という種類のものらしい。思わずほっ……と息をついてしまいたくなるような、安心する味わいに、とろとろと強張っていた表情が溶けていく。
「……確かに、距離を詰めるのは上手いかもしれませんね」
苦し紛れにそう言うと、何故か店長は、何とも言えぬ不思議な表情で、一秦を見た。
「いやあ……」
ぽりぽりと頬をかく年上の男性は、先程までのふざけた様子が嘘のように、至って真面目に告げた。
「あれは距離を詰めるのが上手いんじゃなくて、
紅茶の水面に映る一秦の表情は、ぐらぐらと歪んでいる。
丁寧に、愛情を込められて淹れられた紅茶は、何時だって美味しかった。一秦は飲めないが、きっと店の売りである珈琲はもっと美味しいのだろう。
愛情とは偉大であるが、同時に恐ろしいものだ、と一秦は思っている。
愛は大きければ大きいほど、深ければ深いほど、人は比例するように狂気を帯びていく。
——では、愛情を抱くことのない人間は?
「店長は、よく他人を見ているんですね。ふふふ、店長のような思慮深く、思い遣りのある人に好かれる人は、きっと幸せでしょうね」
と、一秦がそう言うと、店長はほんのりと頬を赤らめた。
「そんな、葦原さんみたいな美人にそう言ってもらえるなんて、光栄だな。でも、葦原さんには及ばないよ。貴方の方こそ、人をよく見ているじゃないですか」
一秦は柔らかく微笑んだ。例え認識の相違が、マリアナ海溝よりも深いものであろうとも、その言葉は純粋に嬉しかったのだ。
「鬱陶しいかもしれないけど、辰のこと、宜しくお願いします。あいつ、葦原さんが来てから本当に明るくなったから」
微笑んだまま首を小さく傾げると、肩にかかる程度に伸ばされた髪の毛がさらりと揺れる。すると、店長が少し照れたように笑ったが、一秦は気にも止めなかった。一秦が微笑みかけると、大抵の男は眼前の店長のようにはにかむ。そして、一秦にとってそれは至極どうでも良いことだった。
しかし、ふと思う。視線を、差し出された紅茶の中で狡猾に笑う女へ落とす。
——もし、店長が一秦の真の目的を知ったとしても、果たして今と同じことが言えるのだろうか。
「そうなら、嬉しいですが」
愛情とは偉大であるが、同時に恐ろしいものだ、と一秦は思っている。
愛は大きければ大きいほど、深ければ深いほど、人は比例するように狂気を帯びていく。
——では、愛情を抱くことのない人間は?
その答えを、一秦は既に知っている。
人間は、自分自身に無いものへ興味を持ったり、渇望したりする瞬間も、同じく狂気へ身を堕とすことが出来るのだ。
■
繁忙期を何とか乗り越えて年度末の決算を終えてくたくたになった帰り道に、偶々辰と鉢合わせをした。
「あっ、一秦さ~ん! お疲れ様!」
アルバイト帰りなのか、くるくると巻いたマフラーから頬を真っ赤に染めた顔を覗かせて、にこにこ笑っている。
仔犬のように近づいてきた青年は、一秦の疲れ果てた顔を見て、首をかしげた。
「仕事帰り? 決算月だって言ってたもんね。かなりお疲れだね?」
「ああ、うん。毎年同じことをしてるのに、どうにも慣れなくてね……」
そこまで言って、一秦は、はたと気づいた。
——辰に仕事の話をしたことは、あっただろうか?
しかし、すぐに思い直す。
一秦は業務中の昼休みや、業務外の帰り道にあの喫茶店に寄っている。あの付近の職場など限られているし、辰は人間観察を趣味だと公言していたから、おそらく推測でもしたのだろう。
「君はバイト帰り?」
「うん。今日はいつもより遅くなったんだけど、一秦さんと会えたから善い日だった!」
ころころ無邪気に笑う辰は、小さな子どものようだった。一秦は頬を緩めて、少しほどけた辰のマフラーを巻き直してやる。目に見えて照れる辰は、年齢差も相まってかとても微笑ましく思えた。
「最近、寒い日が続くからな。風邪は引かないように気を付けなよ」
うん、ありがとう、と素直に頷いた辰の瞳が、ゆっくりと細められた。
何となく、一秦はそわそわとした。まるで、品定めでもされているような、奇妙で不快な心地に襲われる。稀に、辰は不可思議な視線を、一秦に送ることがあるのだ。
「一秦さんは、耳の形が綺麗だね」
辰の視線は、一秦の顔からその横川にくっついた形の良い白い耳へ向けられていた。
辰は、唐突に突拍子もないことを言うことがある。
今回もそれか、と思った一秦は、辰のピアスでぎっちりと埋められた軟骨部分に視線をやった。
「何だ、私にも開けてほしいのかな?」
冗談のつもりだった。
しかし、辰が浮かべた、意外なほど真剣な表情に、すぐさまからかいの色を引っ込める。
「開けなくていいよ」
強い言葉だった。唾棄すべき思いを抱いているのか、辰の顔色は非常に苦々しげであった。
「こんなもの、開けなくていい」
何と言葉をかけて良いのかわからなかった一秦は、そのまま黙りこんでしまった。
周囲の雑多な音が消え、しんしんとした空気が横たわる。
辰の前では、ピアスの話はしてはいけないのだろう。きっと、彼にとって、触れられたくないことなのだ。
一秦は一言、「ごめん」と謝罪の言葉を口にした。
すると、辰がはっとした顔つきになる。
「あ……。俺の方こそ、きつい言い方して、ごめん。嫌な気持ちになったよね」
その言葉だけ耳にしたならば、優しい人間だな、と一秦は思っただろう。
しかし、辰の何処か観察するような視線に気付いてしまえば、只単に彼の言葉は、優しさと思い遣りのそれだけではなくなる。
「いや……」一秦は曖昧に口を濁した。
時折、辰はこのような視線を向けてくる。それは一秦だけに限ったことではなく、彼は対面した全ての人間へ、会話と会話の隙間にそうっと静かに、無機質な眼差しを挿しこむのである。
何となく、気まずい沈黙が二人の間に横たわった。一秦は意味もなく、毛先を指でくるくると巻き取りながら、唇からこぼれ出る白い息を眺めていた。
「そういえば、一秦さんって水族館に興味ある?」
暫く無言で帰宅の途についていた一秦と辰であったが、不意に辰がそう口火を切ったため、視線をそちらへ向けた。
「水族館?」
「うん。家の人から貰っちゃって。もし、一秦さんが興味あるなら、一緒に行かない?」
一秦は、あの深い海の底のような、沢山の魚達が詰め込まれた美しい箱を思い出していた。
暗い青の回廊、優雅に游ぐ魚の群れ、爬虫類のきょろきょろとした丸い瞳に、ふわふわ浮かぶ海月たち、イルカが飛び込んだあとの水飛沫、ペンギンの行進。
そう、確かあれは、一秦が覚えている限りでは、初めて家族と一緒に行った場所だった。
父と、自分と、そして——。
「行こう」
ともすれば沈みそうになる幻影を打ち払った一秦は、ゆっくりと頷いた。
「誘ってくれてありがとう。楽しみだな。私、水族館、好きなんだ」
辰は嬉しそうに微笑んだ。普段よく見せる、人好きのするように計算し尽くされた、貼りつけたような笑みではなく、純粋に心の底から喜んでいるようだった。
「やったー! 一秦さんは何の生き物が好き?」
「水母とペンギン」
「一秦さんっぽいもんね」
「どういう意味だ? それ……」
にこにこと笑う辰からは、先程の陰りは一切感じ取れなかった。
まあいいか、と一秦は肩を竦める。隣で辰が、日程の調整を行っていたので、予定の空いている適当な日を答えてやった。
「デートだね」と辰が言う。「めちゃくちゃ楽しみ」
「デート? 弟みたいなきみと? 下半期一番の面白いジョークだな」
一秦は冗談だと思って、敢えてはぐらかすようにそう答えた。すると、辰は目をしばたたかせたのち、「一秦さんって、時々、物凄くはちゃめちゃなこと言うよね」と言って、微笑んだ。
◼️
都内——S区にある有名な水族館は、平日の遅い時間のためか、あまり混んではいなかった。
階段を少し上ると第一展示場になるわけだが、展示の関係上、光はかなり絞られており、足元が覚束ない。薄暗く視界が悪いために、よろめく一秦の腰を抱き止めた辰は、「危ないから手を繋ごうか」と微笑んで、そのままするりと一秦の指に己のそれを絡ませた。一秦は内心、辰の手際の良さに舌を巻いたが、顔には一切出さずに素知らぬふりをした。
暗い海の底を模した水族館の中で各々見回る人々は、まるで水槽に詰め込まれた魚のよう。
熱心に展示されている魚の説明を行う男とそれを気のない返事で相槌をうつ女のカップル、疲れた顔をしてぼんやりと水槽を眺めるサラリーマン、四人できゃらきゃら笑いながら泳ぐ魚へちょっかいを出す女子大生たち、陰気な顔つきでその四人をちらちら見る中年の女……。
時間帯が遅いためか、休日でよく見るような家族連れや老夫婦は見られなかった。
一秦が何ともなしに周囲の人間を観察していると、ふと、男と目があった。先程から大きな声を反響させながら、何だかよくわからないマニアックな説明を続けている男である。男は一秦の瞳をじいっと見つめたあと、にやにやしながら視線をそらした。この間、一度も相手の女のことは見なかった。
一秦は、自分の知識をひけらかすだけで一向に相手の顔を見ない男の横顔を一瞥したのち、女へ同情の意を込めて視線を向けた。すると、女も此方を見ていたようで——もしかすると、辰を見ていたのかもしれないが——ぱちっと視線が交わされた。女は一秦へ苦笑いを返す。どうやら、一秦の眼差しの意味を汲み取ってくれたようだった。
「一秦さん、見て。ナポレオンフィッシュ! 俺、初めて見た。綺麗だな~。あと、めちゃくちゃデケエ。すげえなあ」
一方、隣で辰が手を握ったまま、呑気な声を上げて感嘆していた。すると、いつのまにか近づいていた知識ひけらかし男の説明に、更に熱がこもったのを感じ取る。辰はあんぐり口を開けて、目の前のナポレオンフィッシュに釘付けだったため気がついていなかったが、知識ひけらかし男は、辰の感想を聞いた瞬間、そののっぺりとした顔に軽蔑の色をちらつかせていた。一秦は確かにそれを見た。そして、一秦を見て小鼻を少し膨らませたあと、またも唇がにやけたことも、鮮明に。
一連の流れに、一秦は胸の悪くなるような気持ちを抱いた。知らない人間に辰を馬鹿にされたことも、そいつが相手のいるにも関わらずねばつくような視線を此方へ向けていることも、更にそいつが相手のことを考えずにべらべら喋っていることも、何もかも、不快で気持ちが悪かった。
だから、一秦はわざとぷいっと顔を露骨にそらすと、辰と繋がった手をそのまま引っ張った。
「辰、私、ペンギンが見たい」
「えっ⁉︎ 俺も見たい! 行こう、一秦さん! ペンギン! ペンギンかわいい! ペンギン!」
辰はぱっと優雅に泳ぐナポレオンフィッシュから視線を離すと、はしゃいだ様子で意気揚々と歩き出した。
一秦はまたわざと、辰の腕に頭を預けるようにすり寄った。辰は慣れているのか、はたまた興奮していて気がつかないのか、常にない一秦の密着に無頓着である。何となく面白くないような気持ちを抱きながら、一秦がちらりと視線を向けると、知識ひけらかし男が女とともに後からついてきていた。一秦はそれを確認して、辟易とした。
ペンギンが放たれている広場の横には、様々な種類の金魚の展示がなされている。魚の生臭さと、ペンギンの獣臭さが混ざりあって何とも言えない臭いとなっていたが、一秦はそれを好ましく思っていた。少なくとも、人間の放つ悪臭よりは格段にましである。
二人は揃って巨大なパネルの前へ立った。
そこには、この水族館で飼育されているすべてのペンギンが貼り出されている。様々な色の矢印が、交錯してペンギンとペンギンを結びつけている。中には飼育員と結ばれているのもある。
「やっぱり、何処にでもあるんだな。ペンギンの関係図パネル」
辰が感心したような声色でそう言った。一秦もまた、関係図パネルに釘付けになりながら、こくりと頷いた。
「人間関係並みに複雑なんだよな……。誰と誰が好きあってるとか、仲良しだとか、敵対してるとか」
「見てると結構面白いよね」
辰は、普段よりも視線の位置が近い一秦の顔を覗き込んで、笑った。「今日は随分、積極的なんだな。一秦さん」
今更気がついたのか、と一秦は鼻を鳴らすと、「デートなんだろう? 出血大サービスってやつだよ」と憎まれ口を叩く。すると、辰は更に笑み崩れるので、一秦は呆れたような眼差しを向けた。
「あの、もしよかったら、僕が説明しましょうか?」
すると、突然、一秦と辰の間に他人の声が割り込んだ。一秦はげっそりとした表情で、ゆっくりと振り返る。何となく、きゅっと辰の腕に巻きつけていた己のそれに力を込める。
果たして、声の主はやはり知識ひけらかし男だった。
神経質そうな重たい一重瞼、手入れのされていない眉毛、低い鼻からずれ落ちる眼鏡、薄くてがさがさした唇から覗く黄色い前歯。
にやつきながらじろじろと無遠慮に、一秦を舐め回すように眺めている男の後ろで、女が縮こまっている。この二人がどういった関係なのかは定かではないものの、女は男の奇行を恥ずかしく思っており、同時に一秦たちに対して非常に申し訳なく思っていることが、痛いほど理解できた。
「え? 誰?」
辰はきょとんとした顔つきで、ひけらかし男と恐縮女を交互に見つめている。
一秦は長く重たいため息を落とした。辰のような美男子が側にいれば、ある程度の男から声をかけられる筈はないと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。
「結構です」
一秦はひけらかし男から顔をそらすと、冷たく言い捨てた。男は一瞬怯んだようで、にやつく顔を凍りつかせたが、すぐさま冴えない顔に余裕を取り繕う。
一秦は思わず舌打ちをしそうになった。こういうタイプの、相手を見下す身の程知らずが非常に厄介で、大嫌いなのだ。
「そうですか? でも、貴方、何だか、つまらなさそうじゃありません?」
男はいけしゃあしゃあとそう宣うと、一秦に顔を近づけた。明らかに近くて失礼にあたる距離感と、不快な息の臭いが鼻につく。隣の辰から表情がこそげ落ち、男を無機質な瞳で射抜いたのだが、一秦をじろじろと見回すことに余念のない男は気がつかないようだった。
一方、一秦は横目でギロリと睨むと、今度は絶対零度の声色で相手を威嚇した。
「つまらなくないです。ご親切にどうも」
腹の虫が収まりきらず、つい嫌味を付け加えてしまうが、相手には伝わらなかったらしい。額面通りに受け取ったひけらかし男は厚ぼったい目をニマニマ緩めながら、「親切だなんて、そんな。貴方みたいな人に親切にするのが、男ですよ」と言った。男の半歩後ろでおろおろしている恐縮女が、それを耳にして呆れたような表情を浮かべている。
一秦は眼光鋭く、男の身形を検分するかのごとく、上から下まで見回した。全体的に草臥れた様子の男は、その小さな目に異様な光をぎらつかせながら、熱心に一秦の瞳を見つめ続けている。
一秦はゆっくりと唇を開いた。
「それより、お相手の方のご心配をされたらどうですか。先程から浮かない顔をされていますよ。それに、貴方たちもデート中なのではありませんか? そうならば、貴方が気を使う相手はそちらの女性でしょう」
「彼女は楽しんでくれていますよ。初めて会ったのに、熱心に話を聴いてるのがその証拠です。だから、貴方にも楽しんでほしいんです」
「楽しんでる、ねえ……」
ああ言えばこう言うな、と辟易しながら、一秦は女を見やる。どこからどう見ても楽しくなんてなさそうだし、初見の一秦ですら、女が男の長話にくたくたに疲れていることが分かった。恐らく、この男はかなり人との会話——特に、女性との会話の経験が少ない部類の人間なのだろう。加えて、どこか女を見下しているような所作が感じられる。大方、最近流行りのマッチングアプリで知り合って、本日が初めての顔合わせの日だったのではないか、と一秦は推測した。再び、恐縮する女に同情する。少なくとも、文面でやり取りしていた時は会いたいという気持ちがあったのだろうから、実際に顔を合わせて、さぞかしがっかりしたことであろう。
「私が楽しかろうが、楽しくなかろうが、貴方には関係ありません」
一秦はきっぱりとした口調でそう言った。とりつく島もない一秦を、相変わらずねつっこい視線で見回していた男は、往生際悪く「でも……、だって……」ともごもご呟いている。
でも、も、だって、もない! と、一秦はあと少しで叫び出しそうになる。あまりにもしつこい。過去、このような経験は何度もあったが、流石に今回は執拗で粘着質で、気味が悪かった。
だから一秦は、常になく尖りきった声色で、
「本当にやめてください。迷惑です。それ以上何か言うなら、係員さんを呼びますよ」
と男を威嚇した。男は一秦の剣幕にたじろいたようで、冷や汗をかきながら早口で捲し立てた。
「なっ……。ぼっ、僕、僕は、貴方が僕の話に聞き耳を立てているようだったから……。だから……」
「立てていません。いい加減に……」
言いがかりだ、と憤る一秦は、大きくて丸い瞳をきりきりと尖らせながら、尚も言い募ろうと口を開いた。
「一秦さん、本当に変なのに絡まれやすいね~」
すると、今まで口を閉ざして事の成り行きを見守っていた辰が、ようやく嘴を挟んだ。
一秦はハッと息をのむ。腕を掴んでいた辰のことをすっかり意識の外から外していた。
おそるおそる、辰へ視線を向けると、彼は空いた方の手で沢山付けられたピアスをいじくり回しながら、にこっと無機質に微笑んだ。
それを見てとった一秦は、小さく深呼吸を行うと、すっ……と元の無表情に戻る。
「不本意だけどね。辰、早く行こう」
そう言って、辰を促して足早にこの場から去ろうと彼を急かす。しかし、身の内で燻る怒りと軽蔑の炎は消えることなく、一秦の心を焼き尽くしていた。
一方、辰は表面上はつんとすました顔つきの一秦をまじまじと見やったあと、「うん」と素直に頷いた。
しかし、やんわりと一秦の巻き付く腕を外すと、
「でも、ちょっと待ってて」
と断った。そして、一秦が止める間もなく蒼い顔の男に近づくと、「あのさあ、オニイサン」と普段よりいくらか低い声色で、声をかけた。
辰の身長は百八十センチメートルを越えている。反して、ひけらかし男は百七十センチメートルに少し届かないようだった。つまり、辰が男を見下ろすと、とんでもなく威圧感と圧迫感があり、身のすくむ思いをするのである。
「なっ、なんだよ! 何か文句があるのか⁉︎」
男は虚勢を張るためか、ぎゃんぎゃんと喚きながらそう言った。きょろきょろ、きょときょと、落ち着きのない小さな黒目が泳ぎに泳ぐ。
自販機よりも大きくて、耳の軟骨に隙間なくピアスをじゃらじゃらつけた男に見下ろされているというプレッシャーに、ひけらかし男は既に耐えられないようだった。
先ほどまでの、異様な態度の大きさはなんだったのか、と一秦は呆れてしまった。一秦が女だから、最悪大きな声でも出せば何とかなる、とでもおもっていたのだろうか。或いは、辰が大人しくしていたから、調子に乗ったのか。
傍らの女も似たような表情を浮かべながら、冷たく男を見据えている。
呆れ返る女二人を他所に、対面している男二人は会話を続けていく。
「あるに決まってるじゃ~ん! 俺たち、デート中! デートしてる二人に挟まろうとするの、止めてくれる?」
辰は軽薄な声色でそう言った。顔もにこにこと笑っていて声も明るい調子なので、一見騙されるが、彼の瞳は欠片も笑んでいなかった。
すると、男も沽券に関わると思ったのか、せせら笑うと、震えた声で次のように言い返した。
「デート? ああ、あんたがあんまりにもガキっぽい反応してるから、てっきり姉弟で遊びに出掛けてるのかと思ったよ」
一秦はじっと辰の顔を見つめた。
瞳の形が弓形に反り、唇の端がつり上がっている。先ほどの、お手本のような微笑みとはうって変わって、辰はにまにまと人間味のある笑いかたをしている。
「へえ?」
辰はそう言って首をかしげると、及び腰になっている男の顔を覗き込んだ。目を大きく見開いて、瞳孔が細くなっている。男はそれを気味悪そうな表情で見返すと、口角泡を飛ばす勢いで反撃した。
「なっ、なに、何だよ。やるのかよ。暴力か? 訴えるぞ! 大体、その女が俺に色目を使ってくるから……ッ」
色目を使った、という言葉に、一秦は一瞬身を固くした。
一秦に下心を包み隠して声をかけたくせに、冷たく切り捨てると決まってそういう捨て台詞を吐かれた。一秦には、男たちの言う色目など使った覚えはひとつもない。しかし、この瞳が——特段、何の意図もなく風景の一部として目を向けていると——一秦の意思とは無関係に、何か男たちに勘違いさせるような、厭らしい色を持っているらしい。
水族館で各々好きなように過ごしている人間を見ていただけだった。どのような人たちが足を運んだのか、見ていただけだった。見なければ良かった。足元だけをしっかり見て、顔なんて上げずに、ただ展示されている魚やペンギンたちを、見ていれば良かった。
そう考えて項垂れた一秦に、男は鬼の首を取ったように「ほら、やっぱり心当たりがあるんじゃないですか? そうやって否定するから、話が拗れるんですよ」としたり顔をしながら、甲高い声で喚いた。男の後ろで、一秦たちを心配そうに見つめていた女の顔に、さっと怒りの炎が灯る。
一方、辰は何も言わない一秦の背中にそうっと手を当てると、慰めるように優しく擦った。
そして、不意に男の方へ顔を向けると、じっと検分するような視線で眺め回したあと、にっこりと微笑んだ。
「あんたのマニアックでよく分からん素人には優しくない知識をぺらぺら気持ちよく喋れてるのって、あんたとデートしてくれてるその女の子が、静かに、言葉を挟まずに聴いてくれるからでしょ? それ、忘れちゃダメだよ。別にあんたの話が面白いんじゃない。聴いてくれる人が優しいからだよ」
男は邪気のない辰の笑顔に面食らったようで、たじたじとしていたが、そのあとに続く邪気だらけの言葉の刺々しさに、沸騰したのではないかという勢いで、顔を真っ赤に染めた。
「……はあ⁉︎」
ひけらかし男は辰に掴みかかるが、身長の差により、端から見れば辰の首もとにぶら下がっているように見えるのが、何とも滑稽である。
「あと、相手の顔を見て話した方が良い。そうすれば、俺の言ってることが分かるだろうし、何より、あんたもデートしてるんだろ? わざわざ他の女に余所見しなくて、良いんじゃねえの?」
辰は男を見下ろすと、ふっと唇を歪めてそう言った。
その言葉は、男の自尊心にひびを入れたようだ。男は怒りと羞恥、図星に加えて劣等感によるものか、今にも破裂してしまうのではないかというほど上気させた真っ赤な顔を膨らませて、ぱくぱくと口を開閉させた。
「……なっ、おま、おまえっ、なにっ」
煽られてもまともな反応を返せない男は、ぎらぎらと粘っこい視線で辰を睨み付けていたが、不意に辰が顔を近づけたことに、ぎょっとして飛び退こうとした。
しかし、辰はいつの間にか男の両肩を優しく押さえこんでいた。
「あとさあ……、あんたさあ……、一秦さんのこと……」
男の耳元で何やらぼそぼそと話す辰の瞳は、凍るような冷たさを孕んでいる。一秦の位置からは、何を話しているのかは聞き取れなかったが、男がみるみるうちに血の気を引かせて、小さく「ヒッ……」と悲鳴をあげたので、見なかったことにする。
ぼそ……ぼそ……と、それから二言三言、囁いていた辰は満足したのか、とん、と男を軽く突き放した。
そして、にっこりと輝くような笑みをうかべなから
一秦の傍へ近寄る。
「脅かしすぎじゃないか」
「そんなことないよ。もっと痛い目を見る前に、釘を刺しただけだから」
一秦の呆れたような視線を受け流した辰は、飄々とそう宣うと、ぼんやりしていた連れの女へ声をかけた。
「じゃあね~。お姉さんも、次はもっと素敵な人とデート出来ると良いね!」
女は、手をひらひらと振る辰を眺めたあと、赤いんだか青いんだか分からない顔色で小さく独り言を呟いている男を一瞥した。
「はあ」
相槌のような、ため息のような、何とも言えぬ返答をした女は、小首をかしげると、ガラリと表情を変えた。
意思の弱そうな、何処にでもいる量産型の、イマドキの顔を捨て去って、代わりに現れたのははっきりとした顔つきの、我の強い女である。
「そうですね。少なくとも次は、コミュニケーションをとれる人とデートするようにします」
女はそう言ってにっこり微笑んだ。きちんと施された化粧と、元から可愛らしい顔も相まって、とても綺麗な人であることに、一秦は今更ながら気がついた。
一方、女はというと、背後でぶつぶつ執拗に何か呟いている男へ振り返った。そして、大人しそうな顔つきとは裏腹に、男の脛に向かって渾身の蹴りを放つと、
「ガチャガチャガチャガチャうっせえーんだよ! テメエの何処で使うかわからねえ要らん知識を、延々と聴いてる暇なんてねぇーんだわ、こちとらなァ! 婚活舐めんな、時間は有限なんだよタコ! そのすっからかんな脳みそに、よォく刻んどけ!」
と一喝して、踞って悶絶する男を置いてさっさと場を去っていったので、一秦も辰も突然のことにぽかんとしたまま、女の真っ直ぐに伸びた美しい背中を見送ることしか出来なかった。
■
あの後、男を助け起こすかどうか迷っているうちに、男はよろよろと起き上がって、何処かに行ってしまった。
係員に伝えた方が良いのかどうか考えていると、辰は一秦の顔を覗き込んできた。
そちらへ視線を向ける。辰は神妙な顔つきをしていた。
「どうかした?」
「うん。……」
一秦が尋ねると、辰は眉を下げながら、「さっきみたいなやつ」と口火を切った。
「お店でも結構話しかけられてるけどさ、いつもあんな感じなの?」
一秦はゆっくりと目を細めた。
辰の言う通り、一秦はよく見知らぬ人から声をかけられる。老若男女、というよりは、男の比率が高い。若い男から年老いた男まで様々な年齢層だが、脂の抜けた年寄りや無邪気な子どもは少ない。大半が、何らかの下心をもってして話しかけてくるので、常に気詰まりだった。本当は、家の外に出るのも億劫である。
一秦に近寄ってくる奴等は、己の欲望が満たされないことを悟ると、決まって同じ文句を吐き捨てた。
——お前の【
それでも、先程の輩はまだましな部類だったかもしれない、と一秦は思い直した。中にはとにかくしつこくて、暴力的で、勘違いを重ねて接してくる奴らもいる。多くの人間が善良であることは知っていたけれど、一秦はなるべく他人——特に男とは関わりたくなかった。
「うん。今日は辰がいるから大丈夫だと思ったけど、関係なかったな……」
一秦が一緒に出かける相手は、女友だち以外だと父方の叔父ぐらいだが、それでも声をかけられることは頻繁にあった。友だちは皆数多くの無礼に怒って、男顔負けの啖呵を切って追い払ってくれていたし、叔父も毅然とした態度で相手をこてんぱんに言い負かしていた。しかし、まさか、一見デート相手に見えるであろう辰ですら、壁にならないとは思わなんだ。先程の知識ひけらかし男が言っていた通り、姉弟に見えるのだろうか。たしかに、一秦と辰は年齢差があるのだが……。そうか……。
そうつらつらと考えて、漏れそうになるため息を飲み込んでいると、傍らの辰が、心配と同情を多く込めた声色で「大変だね……」と労った。
一秦はふるふると首を横にふると、
「昔から、そうだから。もう慣れた」と簡潔に述べた。
そして、近くの水槽で漂う水母を眺めながら、過去を回想する。
「……母もよく、男の人に声をかけられてたな。それを父がやんわりと追い払って……」
記憶の中の母は、絢爛に咲き誇る大輪の薔薇のような美しさを持つ女性だった。
そのため、花の甘い蜜に吸い寄せられる虫の如く、様々な男たちがやに下がった顔つきで母に近づいては、父と子どもの一秦がいる目の前だというのに、恥ずかしげもなく母を口説いていた。
容姿は凡庸で、これといって特徴もない大人しい父を、男たちは脅威に思うことはなく、それどころか母と並んで一見見劣りする彼のことを、誰もが小馬鹿にしていたことを、一秦は覚えている。
そのたびに、幼少の一秦は厚顔無恥な男たちに腹を立てて、大好きな父を心配していたのだが、父は一向に気にする様子もなく、毎回穏やかに母と男の間に割り入っては慇懃に追い返していた。
そこまでのエピソードなら、美しい妻を持つ平凡な夫の苦労話で片付けられる話だったが、一秦が小さな違和感をもって時折思い出すのは、そのあとの男たちの態度であった。
最初は頼り無さそうな父を馬鹿にして、適当に一秦共々追い払おうと——時々、一秦も連れていこうとしていた不届き者もいたが——していた男たちだが、最後には皆揃いも揃って、母から手を引いた。
そして特段揉めることもなく穏便に別れるのだが、奇妙なことに、あれほど母の美しさに逆上せ上がっていた男たちは皆、最後には父だけを見て言うことを聞いていたのだった。父は穏やかに、優しく、相手の眼をじっと見つめて、諭すように母が困っていることを告げているだけなのに、男たちの表情には幼い一秦が理解できないような、複雑で妙な色を含んだものに変化していった。
そして、話の決着がつき、別れるとき、誰もが父の瞳から目が離せないように、執拗な眼をもってして、一秦たち家族を見送るのだ……。
過去の記憶を思いだし、芋づる式で奇怪な出来事も思い出して口をつぐんだ一秦の顔を、辰が覗き込んでくる。一秦はちらりと視線を向けたが、その時目があった辰の瞳の色に、ハッと息を飲む。
人好きのする笑顔を浮かべつつも、辰の目は無機質で温度を感じ取れないものだったからだ。
心配とは程遠い、観察するような不躾なそれに慌てて視線をそらす。辰は「大丈夫? 一秦さん、何だか顔色が悪いよ?」と、声色は配慮と気遣いに満ち満ちていたが、何となく一秦は彼の顔を……眼を、見たくなかった。
辰がするりと一秦の手を優しくとると、指を絡めてぎゅっと握った。一秦は握り返そうか迷って、結局、おずおずと辰の手の甲あたりに指が触れる程度に止まった。
ふよふよと、円柱型の水槽の中でくるくる漂う水母を眺める。水槽に反射した己の顔は強張っていて、その瞳を見つめ返しているうちに、一秦は目元がよく似た父と、美しく華やかな母と、幼い自身の過去の記憶を思い出していた……。
◼️過去
一秦の人生は、齢七歳にして一変した。
それまでは何処にでもある、普通の家庭だった。平凡だけども穏やかな優しい父と、はっきりとした性格と輝くような美貌を持つ母に愛されて、一秦はすくすくと成長した。
夫婦仲は睦まじく、一秦は二人が喧嘩をするところを一度たりとも見たことがなかった。気の弱い父が一見歯に衣着せぬ物言いの母に尻に敷かれているように思われたが、実は母の方が父に惚れ込んでいたようで、お互いがお互いを尊重しながら、一人娘の一秦を可愛がって育ててくれていたのだ。
しかし、両親はある日突然、離婚した。
幼い一秦に、誰も両親の離婚の原因を話してくれることはなかった。一秦に甘い父の弟——叔父である柏木真ですら、苦虫を噛み潰したような顔で口をつぐんでいた。
一秦は父に引き取られた。母に会えなくなることを、一秦は寂しがり、駄々をこねて父を困らせたが、彼はとても悲しそうな顔で謝罪を繰り返すのみで、とうとう口を割ることはなかった。
母は離婚してから、一度も一秦と面会することはなかった。それは決して、父が母に会わせないように工作しているわけではなく、母の方が一秦と会うつもりがなかったことを、成人してから知った。
父娘だけになってしまった生活は物寂しいものだったが、一秦は父のことが大好きだったので——実を言うと、母より父の方が好きだった——すぐに生活には慣れた。叔父が生活回りを助けてくれたことも、一因であろう。父はそれまで勤めていた会社を辞職し、叔父の家に転がり込むと、三人で暮らすようになった。元々叔父は所謂ブラコンと呼ばれるほど兄を慕っていたから、諸手を上げて喜んでいた。姪のことも勿論歓迎してくれた叔父を、一秦は大好きだったから、特段ストレスのようなものはなかった。
やがて、一秦の中で母のことは遠い思い出となった。一緒に暮らしているうちに、父は未だに母を愛しており、離婚は本意ではなかったことにも薄々気がついたのである。二人が別れたのは、仲が悪くなったからなのではなく、何か仕様のない出来事が起こって、仕方なく別れたに違いない、と考えるようになった。
だから、一秦も幼い頃の理不尽な出来事に折り合いをつけて、父や叔父とともに、前を向いて人生という長い道のりを歩いていく心積もりだったのだ。
しかし、一秦の健気で純真な決意は、とあるネットニュースの記事で、粉々に打ち砕かれたのだった。
それは日本有数の資産家であり、五本指に入る大企業「杵築ホールディングス」の創業者一族を巡る、下世話で下劣な家庭事情をこと細かく書き記した、とるに足らない記事であった。
最初は興味がなく、何となく流し見をしていた一秦だったが、文字を追いかけていくうちに、顔が強張り、だんだんと動悸が激しくなっていった。
卑猥で悪趣味な言葉で書き連ねたその内容を、詳細に思い出すことは憚られる。しかし、その資産家の破廉恥な記事に登場する愛人とは、己の母を指すのではないか、と一秦は一人煩悶としながら、読み進めることを止められなかった。
決定的なことは書かれていない。しかし……、仄めかす内容は疑惑を生み出し、奇妙なほど一秦の家族と合致して、そしてとうとう、逃れられぬ確信を得た。
資産家とともに密会を重ねる女の写真が、まさに一秦の母そのものであった。
目の前が真っ暗になる感覚、足元が心許ない感覚、人が絶望する瞬間に陥るときに顕れる症状を想像していたが、そのようなものに襲われることなく、一秦の心は微動だにしなかった。
そして妙に冷静な思考のまま、一秦は在宅の仕事が一段落つき、リビングで茶を飲んでいた父にネットニュースの記事を無言のまま差し出した。
父は柔和な顔つきのまま、ネットニュースを一読したあと、一秦の顔を下から覗き込んだ。
「立ったままじゃ、辛いでしょう。座って話そうか」
一秦が席につくと、父は下劣な記事の内容を、概ね認めた。
しかし、母は不倫という罪を犯していたのではなく、上司と交流をしていくうちに、心が移り変わったのだと告げた。
「お母さんは何も悪くないよ」
父はやはり穏やかな声色でそう言った。そこには怒りも失望もなく、ただ純然たる事実のみを述べているように、一秦は感じ取った。
父は嘘をつかない人だ。生まれてからずっと一緒に暮らしている一秦は、そのことをよく知っているし、それこそ一秦よりも長く付き合いのある叔父が、太鼓判を迷いなく押すことだろう。それほど自分にも他人にも誠実な人であった。だから、父の言葉に嘘はなく、離婚のこともその通りなのだろう、と一秦は思った。
しかし、一秦はその瞬間、父の発言に一抹の不安を覚えたのだった。
一秦の記憶では、母は心の底から父を愛していた。時折、父に優しくされている一秦を複雑そうに眺めているほど、父の心を占領したがっていたひとだった。
その母が、心変わりをするとは到底考えられない。少なくとも、娘の一秦だけは、到底信じられなかった。
母の心には、今でも父しかいない筈だ。
それなのに、母は父と娘を置いて、顔も知らない父の上司……記事の言う資産家の元へと去ってしまった。
母は美しく派手なひとではあるけれど、金に恋着するような人間ではなかった。上司の財産に目が眩んだわけではない、と一秦は思考する。
では……、と考えて、一秦はとある仮説に行き着いた。そして、がんと脳髄に熱い鉄串をぶちこまれたような衝撃を受けたのだった。
その上司が母を手籠めにしたのではなかろうか[#「その上司が母を手籠めにしたのではなかろうか」に傍点]。
一秦は確信した。父は一秦を慮り、美しく綺麗な言葉で離婚の顛末を語るけれど、実際はもっとおぞましい事実が横たわっているに違いない。
父は母を取り戻せなかったのだ。だから、母は父と一秦を残して、その男の元に下ったのだ。
その男の名前は……、と一秦は記憶の箱を引っ張り出してはひっくり返しながら、脳の隅々まで探した。
日本有数の資産家であり、家族経営で財を成し、今なお繁栄する、栄華を極めた一族。
そして、一秦は見ないふりをした一文を思い出してしまった。
その男の愛人となった母は、子どもを産み、一族の当主争いの火種になっている、と。
「お父さん、つまり、私には弟か妹がいるの?」
頭を抱えていた一秦が徐に顔をあげたので、目の前で心配そうに見守っていた父が、少し驚いたようにアーモンド型の瞳を瞬かせた。
一秦とよく似たその眼には、睫毛がびっしりと生え揃い、しばたたかせるたびにきらきらと光り輝いているのが、印象的である。
「弟だね」
首をかしげた父は、ふっ……と宙を見つめたあと、そう言った。
「どんな子か、知ってる?」
「さあ……? 会ったことはないからね」
一秦が矢継ぎ早に質問を繰り返すものの、父はおっとりとしたままである。
そして、柔らかく瞳を弛めながら、一秦を安心させるように、その弟とやらの状況をかたった。
「でも、お父さんの上司の人と、お母さんからは、間違いなく愛されて育っていると思うよ」
父は穏やかで純粋なひとだった。だから、憎しみだとか、嫉妬だとか、そういう悪意のある感情には、些か鈍いところがあるように、一秦は常常思っていたほどに。
つまり、一秦がその発言を受けて、何を思うかまで思考が行き届かなかったのである。
一方、その言葉を聞いた瞬間、一秦は身の内からめらめらと焼き尽くすような、どす黒い憎悪を抱いた。
父から美しい妻を奪い取り、一秦から快活な母を奪ったくせに、一秦よりも七つも年下の弟とやらは、何不自由なくすくすくと育っている……。一秦の家族はその上司の気まぐれで呆気なく崩壊したのに、当の本人は幸せな家庭を築いている……。
どうしても許せなかった。許したくなかった。父がもう気にしていなくとも、関係なかった。心の内側で長い間我慢していた、幼い一秦が金切り声を上げて暴れだす。朧気になっていた記憶の母が、黒々とした業火に焼かれて、燃えていく。
——他人の犠牲の上で成り立った幸福は、さぞかし気持ちの良いものだろう。
——ゆるせない。
——ゆるさない。
一秦は再び俯けていた顔を持ち上げて、父を見やった。
父は優しく目を細めたまま、やはり微笑んでいた。
あれだけたくさん傷つけられて、奪われたのに、なおも笑う父の尊さに、一秦は知らず知らずのうちに涙ぐむ。
「お父さんは」
声は情けなくも震えていた。高校生にもなって、小さな頃のように癇癪を起こすなんてみっともない。そのことはよく理解していたが、それでも一秦は、内なる自分の絶叫を抑えきることができなかった。
「お父さんは、辛くないの」
一方、父は不思議そうな顔つきで、まじまじと一秦を見つめた。
そして、にっこりと微笑すると、彼は次のように言ったのだ。
「辛い……? 一秦がいて、真もいる僕の世界は、最初から幸福だよ」
父は嘘をつかない人だ。
だから、この言葉に嘘はないのだろう。
しかし……。
たくさんのものを奪われてもなお、微笑む父の心境が理解できない。一秦は父の安心させるような笑顔が大好きだったけれど、今浮かべているようなそれは好きではなかった。
お手本のようなにこにこした笑い顔は、時に無表情に近いことを、一秦は父を見て知ったからだ。
一秦は唇を噛み締めたまま、無表情とさして変わらぬ、無機質的な彼の微笑みを、眺めることしかできなかった。
■
高校から帰ってきた一秦は、父が来客の相手をしていることに気がついた。
叔父名義のマンションに、父が誰かを招いているところは見たことがないし、反対に父を訪ねて誰かが来訪するところも見たことがない。
手洗いうがいをしたのち、きっちりと閉めきられたリビングの扉を見ながら自室へ向かおうとすると、不意に扉が開いた。
「あっ」
珍しく疲れたような表情を浮かべている父が、一秦の顔を見咎めた一瞬の間、呆然と立ち尽くす。
しかし、すぐさま表情を改めた父は、アーモンド型の瞳を大きく見開いたあと、後ろ手で扉をぴったりと閉めた。
「おかえり。ごめんね、今、お客さんが来てるんだ」
一秦は父の言葉にひとつ頷くと、「終わったら、リビングに行くよ」と一言言い残してその場を立ち去ろうとした。
すると、父が「一秦、お客さんが誰だか知ってる?」と妙なことを訊ねてきたので、背を向けていた一秦は首だけ父の顔へ回すと、首を横にふった。
「そう。ごめんね、変なことを訊いて」
父は何処か安心したような顔つきになると、「すぐに終わると思うから」と告げて、またリビングへ引っ込んでしまった。
一秦はそのまま自室へ足を向けたが、その時、小さな悪魔に耳元で囁かれたような気がした。
——お父さんは、お客さんが誰なのか、知られたくないんじゃない?
一秦はぴたりと立ち止まった。盗み聞きは善くないことだ。それに加えて、父は来客のことを誰にも知られたくないらしい。
清廉潔白で、嘘をつかない、真面目で優しい父の秘密ごとを思いがけずに覗いてしまったような気持ちだった。一秦は、自身の心のうちに生まれた、客の正体を知りたいという欲求を抑えきることができなくなってしまったのである。
一秦はそうっと踵を返すと、音を立てないように細心の注意を払って、扉へ近寄った。密閉されたリビングから聞こえてくる声は、くぐもっていて聞き取りづらい。
「タツマさん[#「タツマさん」に傍点]、ご体調はどう……?」
ようやく耳に届いた父の声は、何だか沈んでいるようであった。
名前に敬称をつけているということは、少なくとも父より目上か、或いは同等の人間ということなのだろうか。一秦は耳をすませたまま、そのタツマなる人物が話し出すのをじっと待った。
「知らない」
しかし、一秦の耳に届いた声は、予想とは異なり幼く高い声色であった。てっきり年嵩の人物だと想像していた一秦はびっくりして、何度も瞬きしながら、リビングの扉を見つめた。
子どもらしき人物と、父の接点が一体何なのか、そして何故父が二周り以上年下であろう人物へへりくだっているのか、一秦には全くわからない。
目を白黒させる一秦をよそに、父と子どもはぼそぼそと会話を続けていく。
「殆ど会ったこと、ないから」
「……そう」
交わした一連の会話の中で、一秦が聞き取れたのは右記の通りである。
二人はそこでぴったりと口を閉ざしてしまったので、結局子どもの正体が何なのか、何の目的があって父を訪ねてきたのか、謎が明かされることはなかった。
一秦は諦めて自室へ戻って、父に呼ばれるまで様々なことを考えていたけれど、父はそのあと一秦に来訪者のことは話さなかったし、叔父にも何も告げなかったようだった。
◼️
それから一秦はある日突然、父に連れられて叔父の家から出ると、数年の間定住することなく棲み家を変え続ける生活を送った。
高校は何度も転校して、ギリギリのところで卒業できた。この不可思議な生活になにも思わないわけではないけれど、温厚な父の顔が恐怖にひきつり、鬼気迫る表情で一秦の手だけをとって叔父の家から逃げ出すように出ていったので、きっと何か理由があったのだろうと納得していた。あまり褒められたことではないのだが、そのことで父を恨む気持ちは毛頭なかった。一秦の帰る場所は父の棲む家だけなので、彼が別の場所で暮らすのならば、一秦もまた家を変えるだけのことであった。
後ほど、再会した叔父にそれとなく聞いてみたのだが、彼も理由はさっぱりであったようで、逆に何があったのか訊かれる始末である。可能性は限りなく低かったが、叔父と一世一代の喧嘩をしたことを想像していた一秦は、叔父のあまりのしょげっぷりにちょっとだけ微笑んだあと、内心いたく同情してしまった。
そうやって転々としていたある日のこと、様々な酒の入った缶を机に積み上げた父が、得意気に笑いながら「じゃーん! 見て、一秦。お酒!」と言った。
風呂から上がり、のんびり過ごしていた一秦は、父のはしゃぎようを一瞥したのち、「そうだね、お酒だね」と首肯した。
「飲むの? 珍しい」一秦はそう言って、ちょこっと首をかしげた。父は酒に弱く、家で飲むことは殆どないと言って良かった。時たま、酒豪の叔父に付き合って飲むことはあったが、三パーセントほどの酒を一缶開けるのが関の山だった筈だ。
「そう。一秦と一緒に飲みたくて」父はそこで一旦区切ると、優しい表情を浮かべた。「一秦も、もう、二十歳になったから」
一秦はそれを意外に思いながらも、父へ微笑み返した。大学でようやく出来た友人たちの中には、早くに成人を迎える者も出てきており、一足先に酒の味を覚えている。酒飲みの両親に付き合わされる、とげっそりしながらも何処か楽しそうな友人の顔を思い出しながら、父にもそういう普遍的な親心があったのか、と内心驚いたのである。
一秦と父は、リビングにひとつだけ置かれたソファーに座ると、タワーのように並べて積み上げた缶をそれぞれ手に取った。酒の肴には些か似合わないが、最近職場でいただいたという丸々とした紅い林檎を二つに割って、皮を剥いて皿に並べてある。
そして、何ともなしに話をぽつぽつ続けながら、二人は缶を開け続けた。——と言っても、父よりは酒に強い一秦が三つ空き缶を並べると、ようやく父がひとつ空き缶を机に置く、といった具合だったが。
「一秦ももう二十歳なんだねえ」
既に酔っぱらっているのか、真っ赤な顔でにへらと笑った父が、もう何度目になるか分からない話を始める。
一方、顔色に酩酊が一切現れない一秦は、普段通りの涼しい顔つきで、父にあらかじめ用意してあった水を手渡した。そして、ごくっ、ごくっ、と音をたててたっぷり水の入ったコップを飲み干している父の横で、戸棚から引っ張り出してきた菓子をちょこちょこ摘まみながら、次に飲む酒を品定めしていた。
「大きくなったねえ」
ごと、と机にコップを置いた父が、酒臭い息を吐き出しながら、しみじみとそう言った。一秦は、酒精によりいくぶんか潤んだ
若い頃に結婚した父はまだまだ働き盛りで、とても成人を迎えた子どもがいるようには見えなかった。時折二人で歩いていると、兄妹に間違われることもあるほどである。
同年代の中には未だに遊び歩いているような人もいるだろうに、父は文句ひとつ溢すことなく、懸命に働き一秦を養い育ててくれた。一秦は、この平凡で朴訥としながらも、献身的で慈悲深い、どこか神秘的な父へ改めて感謝の気持ちを抱いた。
「お父さん、子ども扱いは止めてよ」
しかし、口から飛び出るのは可愛くないとげとげとした言葉ばかり。一秦は開けた缶に口をつけながら、自身の可愛げのなさに嫌気がさした。
しかし、父はまったく気にしていないようで、長い睫毛に縁取られたアーモンド型の瞳を弛ませたまま、
「自分の子どもはいくつになっても、可愛い可愛い子どものままなんだよ」と謳うように言った。
「私も、そうかな」
何となく思い付いたことを、そのまま口にするような気軽さで、一秦は呟いた。
「うん?」
頬を薔薇色に染め上げた父が、一秦の顔を覗き込む。一秦は妖しく煌めく父の瞳を見つめながら、ぼんやりとした口調で続けた。
「私も、子どもが生まれたら、そう思うのかな」
父は
そして、幼い子どもに言い聞かせるような、穏やかで柔らかな声色で、
「思うよ、絶対に。一秦はとても優しくて、愛情深い子だもの」
と、しみじみといった様子でそう言った。
一秦は耳をほんのり桃色に染めると、軽く俯いた。頬がポッポッと熱くなり、瞳がうるうると潤んでいく。
父は照れている我が子をしばらくの間、眩しそうに見つめていたが、やがてゆっくりと口を開くと、一言問いかけた。
「そういえば、成人式の振り袖、もう決まった?」
一秦は顔を上げる。突然の話題転換を不思議に思わないでもなかったが、酒が入ると大体の人間は話に一貫性がなくなってくるので、不審に思うほどでもなかった。
「うん」
一秦は素直に頷いた。一秦の成人式をはしゃぎながらも心待ちにしては、叔父に呆れと微笑ましさをかき混ぜたような顔で窘められていた父を、思い出す。
「見せて」
「これ……」
彼を驚かせたくて、なるべくギリギリまで隠しているつもりであったが、父の瞳は今すぐに見たいといった風に輝いている。昔から、父の瞳に見据えられると何となく逆らうことを躊躇う気持ちが生まれるので、一秦は携帯精密機器を取り出すと写真フォルダの中からお目当ての振り袖を映し出した。
父はうやうやしく一秦の手から携帯精密機器を受けとると、画面に映る艶やかな振り袖をじっと見つめた。
雪のような白銀に、薄桃と朝焼けの黄金を混ぜ合わせたような、目を見張るほど美しい振り袖がきらきらと輝いていた。
赤、紅、緑、翡翠のような華やかな色ではないけれど、上品で落ち着きのある白は、一秦の肌の色とよく合っている。
袂や裾あたりに散らばる花々は竜胆だろうか。藍色、青色のグラデーションが慎ましく振り袖を飾っているその姿は、いじらしささえ感じられた。
「凄く綺麗だ! 一秦によく似合ってる。本当に、綺麗……」
父は酒精によるものではなく、興奮で赤らめた顔を輝かせると、にこにこ笑いながらそう言った。
そして、「そっか……、一秦、こんなにおおきくなったんだなあ……」と呟くと、アーモンド型の瞳からぼろぼろと大粒の涙を溢し始めて、長い睫毛をしとどに濡らしたので、一秦はぎょっと目を見張った。
「お父さん⁉︎ お酒、飲み過ぎじゃない?」
慌てて立ち上がり、ミネラルウォーターを取り出すために冷蔵庫へ向かう。そして、きんきんに冷えたペットボトルを父に差し出すと、彼は相変わらず泣き続けながら、それに口をつけた。
「そうかな……? そうかも……?」
かなり酩酊している様子の父を、一秦ははらはらとしながら見守る。
一方、父はというと、一秦の携帯精密機器を熱心に見つめ続けたまま、ぽつりと小さく呟いた。
「見たかったなあ、一秦の振り袖姿……。目に焼き付けたかった……」
一秦はその言葉を耳にして、首をかしげた。
決して裕福ではない生活のため、一秦は振り袖姿の前撮りをしないことに決めていた。父は何度も考え直すように伝えながら、金の心配事は親に任せてほしい、と言い募ったが、立派な振り袖を着せてくれることだけでもありがたいのだと、一秦は突っぱね続けたので、とうとう父が折れたかたちとなったのだ。
だから、父が惜しむように振り袖の写真を見続けているのは、きっと前撮りをしないからだろう、と一秦は考えた。
「成人式の日になったら、嫌でも見れるよ」
父のなだらかな肩にそっと手を当てて、優しくそう伝えると、父は熱に潤んだ瞳をぼんやりと瞬かせた。
「うん……。うん……、そうだったね……」
両手で顔を覆い隠し、何度も頷く父が、今はとても小さく見えた。一秦は背中を撫で擦りながら、父の項垂れた首筋を見下ろす。
酒によって赤みを帯びた、普段は生白い首が、異様に長く見えたような気がした。
一秦は胸にとどろく嫌な予感にハッと息を飲むが、その瞬間に父がぱっと顔を上げたので、すぐに目の前から幻影が消え去った。
「お父さん、大丈夫? 部屋まで戻れるの?」
これ以上飲むと、深酒しちゃうから、と父はふらふらとしながらも立ち上がった。そのまま千鳥足で寝室へ向かおうとするので、一秦が後を追うように腰を上げると、父はにっこりと微笑んで一秦を制した。
「大丈夫だよ、ありがとう」
父の言葉に足を止めながらも、心配そうな面持ちの一秦に気がついたのだろう。
父は真っ赤になってとろんとした顔のまま、一秦へ向き直ると、我が子の名前を呼んだ。
「一秦」
子どもの頃から聞きなれた、優しくて穏やかな声色だ。そして父が改まって一秦の名前を呼ぶときは、大抵このあとに何か大切なことを伝えようとするときであることを、一秦はよく知っている。
「なに?」
父は一秦の瞳をまっすぐ見つめている。星屑がひとつひとつ煌めくような、美しい煌めきを携える父の瞳の中に、一秦が映っている。
「さっきも言ったけどね……」
父は一旦言葉を切ると、何かを考えるように、すうっと目蓋を閉じた。
そして、その目蓋を持ち上げると、笑っているのに今にも泣き出しそうな表情で、噛み締めるように言った。
「僕にとっては、一秦はいつまでも可愛くて大切な子どもに違いないよ」
一秦は微笑んだ。
「……ありがとう」
一秦の世界は、狭くて小さい。それで良かった。かつて世界にいた母は、一秦がよくわからないうちにいなくなってしまった。だから、もう誰も世界に入れるつもりもなければ、入ってきてほしくもなかった。
一秦の世界には、父と叔父だけで良い。それ以外は、いらない。何もいらないから、もう奪わないでほしかった。
「お父さんと、叔父さんがいれば、他になにも望まないよ」
だから、一秦は本心を告げた。酒を飲んでいて良かった、と一秦は初めてそう思った。素面のままでは、この心の内側に隠した本音を、父に伝えることはできなかっただろう。
きっと、父は顔いっぱいに満面の笑みを浮かべているに違いない、と一秦は想像した。或いは、先ほどのように泣いているかも知れなかった。父は一秦のことも、叔父のことも愛しているから、感動にうち震えているかもしれない、とも。
しかし、父の表情は、一秦の想像したどれとも異なった。
呆然と一秦を見返していた父は、顔から酒精による赤みがすうっと引いてのっぺりと生白く、どこか壊れたような表情を浮かべていた。
予想だにしなかった父の表情に動揺した一秦が、恐る恐る「……お父さん?」と声をかける。
すると、父はハッと目を見開いて、血の気の失せた唇をはくはくと動かしたのだが、何か言葉が出てくることはなかった。
そして、軽く項垂れたのち、「一秦は、本当に善い子に育ってくれたね」と囁いた。ひび割れてぐしゃぐしゃになった硝子のような、繊細な声色だった。
「僕もね、一秦と真がいれば、それで良かったのにね」
そして、口をつぐむと、父はゾッとするような無表情を一瞬だけ浮かべた。
「でも、もう逃げられないんだ……」
父は一言、そう呟くと、何も言えずに立ち尽くす一秦に向かって、柔らかく微笑んだ。
「おやすみ、一秦」
「……おやすみなさい、お父さん。また明日」
父は絞り出した声でそう返した一秦の挨拶に、もう何も言わなかった。
そのまま、父はくるりと背を向けて寝室へ足を運んだ。一秦はそれを見守りながら、何とかして声をかけようと必死に言葉を探したが、とうとう見つからなかった。
そして、無表情に近い無機質な笑みではなく、心の底からの微笑を見せた父が、一秦が最期に見た彼の顔となった。
■
いつもの起床時間から大幅に遅れたことを心配して、一秦は父の寝室を訪ねた。
果たして、そこにいたのは、水溜まりの中ひざまづき、ウォークインクローゼットの中で首を括っている、冷たくなった父だった。
そのときのことは、朧気で曖昧で、よく覚えていない。
しかし、どうやら救急車と叔父を呼んだようで、次に気がついたときには、病院のストレッチャーに横たえられて布を被せられた父の前に、叔父と二人で立っていた。
病院、警察、ともに父の死を自殺と判定した。
遺書は残されていなかった、と叔父は語った。突発的に起こされた自殺なのだろう、とも。
一秦には、父が自死する理由が皆目見当もつかなかった。しかし、確かに、父は死ぬ直前、どこか様子がおかしかった。あれは、酒に酩酊していたからではなく、何か悩みを隠していたからだったのであろうか……。
一秦は表情を固く強張らせたまま、はらはらと大粒の涙を流した。ぽつ、ぽつ、と父の顔に被せられた白い布に、涙の染みが広がっていく。
一秦は何度も何度も、叔父へ謝罪した。一番近くにいたのに、父の心を蝕んでいた悩みに気がつくことなく、のうのうと生きていた自分を呪った。
しかし叔父は、優しく一秦の肩を抱いて、しきりに慰めるだけだった。そして、悲嘆に暮れる姪を責める言葉を、とうとう吐くことはなかった。父と叔父は年の離れた兄弟で、叔父は父に育てられたと言っても過言ではない。育ての親を、大好きな兄を失った悲しみは、娘の一秦に負けず劣らずであろうに、彼は最後まで泣き言を漏らさなかった。
「私が、あの夜、お父さんが死ぬ決意をするような言葉を、言ってしまったのかな」
一秦は、生前の父の顔をひっきりなしに思い返しながら、ぽつりとそう言った。
すると、憂いを帯びて沈んだ表情のまま、冷たく動かない兄を眺めていた叔父の顔が、一瞬物凄いものへと変化した。
「それは、絶対にない。兄貴は、一秦だけは、本当に愛していたから」
叔父が静かにそう言ったとき、既に表情は元通りであった。だから一秦は、きっと弱りきった己の心が見せた幻影だったのだろう、と考え直した。
それから二人は、たくさんの処理に追われて、ようやく一息つく頃には、一秦の成人式が迫っていた。
振り袖の着付け会場まで一秦を送った叔父は、しみじみといった様子で姪を見つめると、「本当は兄貴が何から何までやりたかったんだろうけど。じゃ、準備終わったら呼んでくれ。式の会場まで送るからさ」と言って、笑った。口から白い息を吐き出して、顔を真っ赤に染めている叔父には、たくさん世話になった。一秦は父が死んでからというもの、動かなくなった表情に何とか笑みを浮かべると、「ありがとう、叔父さん」と伝えた。叔父はそれを聞くな否や、くるりと背を向けて手を振りながら、停めている軽自動車の方へ歩いていった。
着付けも恙無く終了し、見事に着飾られた一秦は叔父の運転する車に乗せられて、会場へと向かった。道中、社内では叔父が口を酸っぱくして「変な奴らに誘われても、ほいほいついていくなよ」と言われ続けたのを、適当に受け流しながら、窓に映った物憂げな自分の顔を眺める。
それこそ年端もいかぬ子どもでないのだから、とは思ったが、父の亡きあと、後見を務めてくれた叔父の言葉は無下にできない。
会場に到着し、晴れ着姿の一秦を車から降ろした叔父は、ハンドルに凭れかかりながら「終わったら、迎えにいく。もし、友達と何処かに行くなら、連絡してくれ」と言った。
一秦はそれに対して素直に頷いた。髪飾りがしゃらりときらびやかな音を奏でるのを耳にしながら、心の内で叔父に詫びる。
成人式が終了したあと、一秦は友人とともに今は懐かしき幼少の頃に育った町へ繰り出す予定となっている。しかし、それはあくまで建前で、実際は誰とも遊びに行かずに、独りでこっそりとある場所へ赴く予定だ。
それを叔父に告げれば、何がなんでも阻止されることは想像に難くなかったから、黙っていた。この日だけは、様々な場所で成人式が開かれているから、一秦が姿を消したところで気付かれる筈もない。
小さくなっていく叔父の乗った軽自動車を見送ったのち、一秦はさっさと会場へ足を向けた。車から降りた瞬間に向けられた、様々な視線を一切合切無視して、空いている席へ腰かける。一秦を遠巻きに眺めていた、好色な目を持つ同級生らしき男の集団が、にやにや笑いながら何度も一秦の前を行き来してはちらちら視線を送っていたが、それらも全て黙殺した。
そうやって暫くの間、煩わしい他人の目をやり過ごしていたのだが、どさりと隣に誰かが座る音が聞こえて、反射的にそちらを見てしまった。
白い紋付き袴に派手な頭をした、いかにも不良といった男が、目を厭らしくたゆませながら、じろじろと無遠慮に一秦を眺め回している。
一秦は思わず舌打ちをしかけて、寸でのところで飲み込んだ。死んだ父が今の一秦を見たら泣いてしまうかもしれない、という思いが、厳めしく表情を強張らせる一秦を止まらせたのであった。
一方、男はにやにやと笑いながら、馴れ馴れしく一秦のファーで覆われた肩に腕を回すと、顔を覗き込んできた。間近で香る酒臭い息に眉を潜めながらも、一秦は頑なに男の方を見なかった。
「ね、葦原さんだよね」
見た目通りの軽薄な声色で、男は訊ねた。
「俺のこと、覚えてる? ほら、同じ組のさ……」
「覚えてないな」
名前を名乗られる前に、ぴしゃりとはね除けると、男は少しだけたじろいた。一秦としては、名乗られようが名乗られまいが、覚えていないことに代わりはない。しかし、こういった輩には先手必勝で拒絶することが最良の対応であることに間違いはなかった。
一方、男はすぐにへらへらとした笑みを浮かべると、拗ねたような甘ったれた声を出したので、余計に一秦は苛々した。
「ひっでーの。俺、結構格好良いって言われてて、中学ではモテてたんだんだけどなー」
「ふぅん」一秦はため息のような、気のない相づちを返す。
そして、遠くの方で、一秦と男を眺めながら、くすくす笑っている男女の集団を横目で見やる。大方、この名前もろくに覚えていない、自称元クラスメイトの仲間であろう。
ああいう連中は、兎に角面倒臭いのだ。変に勘繰って、他人の領域を土足で踏み荒らし、無いものを有ると言い張り、挙げ句の果てには色恋沙汰に仕立てあげて、己の下世話な感情を満たす。他人の色恋を肴にするほどグロテスクなことはない。だから、遠くで此方を伺う男の仲間たちのことは、どう見積もっても好きになれそうになかった。
「つれないね~。ま、いっか。じゃ、今から覚えてよ」
男は先ほどから一向に一秦と視線が合わないことを気にした様子もなく、やはりへらへらとしていた。
そして、無礼にも一秦の垂れた横髪を一筋すくいあげて、己の太い指に絡めて遊び始めた。
一秦はここでようやく男へ向き直った。不良崩れの男は、一秦の興味が自身に向いたと勘違いしたようで、やに下がった顔つきで「俺の名前、そんなに気になるの?」とほざいている。
一秦は上から下まで、男の全身を眺め回すと、ぱしんと手を振り払った。
そして、さっと席から立ち上がり、唖然とする男を冷たく見下ろすと、
「余計なことを憶えるほど、暇じゃなくてね」
と、言い捨てた。
「はあ?」
男は面白いぐらいに逆上した。それを見てとって、皮肉を理解できるほどの知能があることに感心する。
「勘違いすんじゃねえよ、ちょっと面が良いからって調子乗んな! そんな目をしやがって、テメエから誘ってきたくせによ」
一方、男はそう叫んで、一秦に掴みかかろうと手を上げた。
しかし、一秦のアーモンド型の二つの瞳に囚われた瞬間、男は射竦められたように立ち尽くし、罵詈雑言もしゅるしゅると勢いをなくしていった。
一秦はもごもごと何かを呟いている男に、今度こそ背を向けた。
最初は下手に出てすり寄ってくる連中が、一秦が思い通りにならないと理解した瞬間、掌を返して罵ってくることにはもう慣れた。それは、いつものことだから、傷つくこともない。何も思わない。
しかし、それよりも気になることは、下心を隠した男たちが決まって吐き捨てる、この言葉である。「お前の
当初は式に参加してから、叔父の目を盗んで実行するつもりであったが、この際思い切って大幅に計画を変更することに決めた。変に悪目立ちしたためか、道行く同い年の人間たちの視線が痛い。しかし、一秦はそれらを一切合切無視して、扉を力強く押し開けると、着飾った人々の流れに逆らって、会場から飛び出したのであった。
■
振袖姿といっても、この日は皆似たような格好をしているから、誰も一秦を気にもとめていない。
電車を何本か乗り継いで、ようやく目的地に達した一秦は、きゃいきゃいとはしゃぐ振袖や紋付き袴の後ろにさりげなくぴったりと後ろにつきながら、この日のためだけに調べ上げた地図とにらめっこをしていた。
タクシーは足がついてしまう可能性があるが、バスならば近くまで行っても良いだろう。履歴が残らないよう、電車と同じく電子マネーは使わないことにした。
ガタゴトと長い間揺られながら、ぐんぐん後ろへ流れ行く景色を見る。あちらこちらに群れをなしている振袖や袴、スーツの集団は誰もが楽しそうで、陰鬱な気持ちで沈む一秦とは対照的だった。
そしてようやく目的地付近にまでバスがたどり着くと、一秦は下車して、辺りを注意深く見渡した。
閑静な住宅街だが、居住する住民は上流階級の人間ばかりらしい。それはゆったりと並んだ家々の品質から見て、よく
その高級住宅街の中でも、一際荘厳できらびやかで広大な家——最早屋敷といっても差し支えがない——が、一秦の目的地であった。
父の葬式を終えてから、長らく考え続けていたことだった。
半分だけ血の繋がった、七つ下の弟。一秦と父から母を奪い、のうのうと生きている下劣な男の子ども。
父が亡くなったあと、一秦と叔父は随分とあれこれ協議した結果、母に父が亡くなったことを告げることに決めた。二人は既に他人であるが、父はずっと母を愛していたし、母も今でもそうである筈だ、と一秦は考えていたので、渋面を浮かべて難色を示す叔父を説き伏せて、何とか相手方の家に取り次いでもらったのである。
しかし、一秦の元に寄越された返事は、簡素でそっけなく、そして彼女を絶望の底へ叩き落とすには充分なものであった。
母は、父と別れたのち上司の男と一緒になった。そして子どもを産んだが、産後の日達が悪かったのか、はたまたそれ以外の要因があったのかは定かではないが、出産後日を置かずに亡くなっていたのだった。
父がそれを知っていたのか、死した今ではすでに真相は闇の中である。しかし、一秦は父は知っていたのではないか、と直観していた。だから……、だからこそ、一秦が成人を迎えてから、自殺を図ったのではないのか、とも。
一秦が今日この日、憎むべき敵の屋敷に来たのは母に会うためでも、異父弟に会うためでもない。
母を死なせ、父を自死に追いやった男の子どもの面を、この瞳に焼き付けるためだけに、執念の炎をごうごうと燃やしながら、やって来たのである。
一秦は屋敷の入口が丁度見えて、尚且つ己の姿を隠せる良い場所を見つけると、そこを陣取ってひたすら待ち続けた。
しかし、待てども待てども、一秦の目当ての子どもは姿を現さない。それどころか、殆ど人の気配がない。時間帯が悪かったのかもしれない、と寒さに凍えてガチガチと細かく鳴り始めた歯の音をじっと聞きながら、一秦は一心に屋敷の入口を見つめ続けた。
着替えた方が良かったことは、百も承知だった。しかし、着替えにもたついている間に子どもが現れたら……と考えると時間が惜しく、つい短気を起こしてしまったのである。浅慮な己を内心罵倒しながら、傾き始めた陽光から遠くはなれた寒くて薄暗い場所で膝を抱える。あまりの惨めさに薄笑いすら浮かんだ。それでも、一秦はどうしても見張るのを止められなかった。
そのような一秦を神は憐れに思ったのか、周囲が夕焼けに赤らんでいく頃に、ようやく目的の人が現れた。
一秦は目を皿にしながら、まじまじと子ども——生まれて初めて見る、異父弟の顔を観察した。
身長だけがにょっきり伸びているせいか、全体的に痩せぎすの子どもは、ぶかぶかの学ランに身を包んでいる。顔は遠目からでしか分からないが、一秦とはあまり似ていないように思えた。今はまだ幼さが勝っているものの、数年もすれば美青年と持て囃されるような、端正な顔立ちをしている。しかし、微笑めば雪解けした春のような暖かさを持つであろうその顔は、凍りきって冷たく研ぎ澄まされており、ぴくりとも表情を変えることはなかった。ただ、その氷のような鋭く尖った横顔は、何となく今の一秦と通ずるものがあるように思われた。
また、子どもの両耳にはガーゼが巻き付けられていて、随分変なところを怪我しているな、とぼんやり考えた。
実際に子どもを観察していた時間は、三分も満たないほど短いものであった。それでも、一秦はこの結果に非常に満足していた。
一秦と父から、母を奪った男の子ども。
母の面影は微塵もない、血だけ繋がった赤の他人。
一秦の絶望に人の形をとらせたならば、きっとそれは異父弟の形をしている。
一秦はしゃがみこんでいた足を伸ばして、ゆるゆると立ち上がった。
子どもの姿はもうそこにはない。彼は暖かくて豊かな自宅へ戻っていった。一秦はこれから、誰もいない自宅に帰るのに、弟はその正反対の場所にいるのだ。
一秦は空を見上げた。鮮血に暖かみをほんのり混ぜ合わせたような暮れなじむ夕焼けはすでに姿を消して、代わりに薄墨に星屑を溶かしたような夜闇に変化していた。
一秦は弟の姿をこの
これから一秦は、畜生道に落ちて行く。
それは復讐だった。理不尽に奪われたことの、無情に壊されたことの、全ての恨み辛みであった。
でも、独りで落ちてはやらない。
道連れにするつもりだった。憎らしい簒奪者の一粒種で、後の総帥で、両親に愛されて育った、真っ直ぐで清廉に育つはずだった異父弟を、一秦の復讐道具として使う。母を葦原家から奪い取った男から、大切な子どもを最悪な形で奪い取る。富と栄華を極めた一族の跡取りが、知らぬうちに異父姉と通じていたと知ったとき、あの男の胸に去来する思いは、どのようなものであろうか?
目には目を、歯には歯を。一秦と父が味わった苦しみを、辛さを、憎しみを、それ以上のものを、簒奪者にもとくと味わってもらわなければ、一秦の憎悪は収まりそうにもなかった。
何も知らない哀れな異父弟。生まれたところが悪かったのだ。恨むならば、獣にも劣る己の父の非道を恨むが良い。
一秦は屋敷から背を向けると、闇が深まる帰り道へと足を踏み出した。カラコロ、と小気味良い音を立てながら、滑らかな濡羽色の草履でしっかりと足を踏みしめながら、真っ赤に縁取られた唇を歪める。そして、謳うように異父弟の名前を刻むように口にすると、遠くの何処かでカラスがギャアギャアと鳴いた。
胸に渦巻くどす黒い思いを後生大事に抱え込みながら、一秦はものに憑かれたような顔つきで、ふらふらと暗闇の中に吸い込まれるようにして、消えていく……。
◼️現在
「一秦さん」
ふっ……と一秦は瞳を瞬かせた。先程まで繰り広げられていた過去の幻影はあっという間に消え去り、目の前には水槽に映る自身の姿がある。
此方を見返す水槽の中の一秦は、歪に口をひきつらせていた。
声をかけてきた辰へ視線を向けると、彼は顔いっぱいに心配の色を広がらせて、おろおろとしながら一秦の顔を覗き込んでいる。
「本当に大丈夫? 体調、悪いの? ずっとぼーっとしてるから」
「いいや」
一秦はふるふると首を横にふると、改めて辰の顔をまじまじと見つめた。
辰は一秦と目があって、嬉しそうに頬を林檎のように染めながら、にっこりと微笑んでいる。
繋がれた手に力を込められたことをぼんやりと感じながら、一秦はあの日、もし笑っていたならこんな顔だったのかなあと、とりとめもなくそう考えていた。
◼️
水族館デートの日から、二人はちょくちょく一緒に出かけるようになった。
動物園や遊園地、映画館、ショッピング、喫茶店にピクニック、一通りデートと呼ばれる類いのお出かけを網羅していく。
その間、一秦は然り気無く辰へ、自身がストーカー被害のようなものにあっている話をしてみた。効果はテキメン、むしろ予想以上に怒りを露にした辰は、一秦の送迎を申し出た上に、ストーカー問題を片付けることを約束してくれたのだった。
正直、一秦は然程深刻に考えておらず、ストーカーが本当だろうが嘘だろうが、この状況を利用できれば何でも良かったので、辰の予想外の食いつきようにたじたじとしてしまった。
そして、申し出通り、毎日の送迎を繰り返しているうちに、一秦はとうとう辰に告白されたのである。
何重にも網をかけて、手ぐすね引いて待ち焦がれた獲物を、とうとう捕まえた。
一秦は、中々顔から赤みの引かない辰を見上げながら、心持ち柔らかく微笑んだ。その心の内では、どす黒い復讐の炎がめらめらと燃え盛っている。
ここでこっくりと頷いて、そのまま辰を畜生道に突き落とすつもりだった。身も心も縛り付けて、一秦無しでは生きられないようにどろどろに溶かして、杵築家へ全てばらしたあと、襤褸雑巾のように捨てるつもりだった。そうする自信もあったし、覚悟も決めていた。
しかし、次の瞬間に一秦の口から飛び出た言葉は、彼女自身予想だにしないものであった
「……考えさせてほしい」
辰が目を丸くして、一秦を見返す。一方、一秦も驚いて思わず口をつぐんだ。
違う。
一秦はここで、頷かなければならなかった。今さら怖じ気ついたところで戻れやしないのに、何を躊躇っているのだろう。復讐鬼と化した幼い己の怨嗟の声が、頭の中でわんわんと鳴り響くが、唇は一秦の意思に反してぴったりと閉じられたままであった。
一方、一秦の嫌いな、あの無機質な眼を向けた辰は、一瞬すべての表情を削ぎ落とすと、次の瞬間、眉を下げて苦笑した。
「ま、確かにそうだよね。いきなりは、びっくりするか。分かった、ずっと待ってるよ。……一秦さんが、納得できる言葉を見つけるまで」
アンテナヘリックスの位置に開けられたピアスに触れながらそう言った辰は、どこか寂しげな面持ちだった。一秦はそれを見てとって、じくじくと心を痛める。
「……あ、辰……」
辰がそうっと一秦の頬に手の甲を当てて、柔らかく撫でた。一秦は突然の接触に、びくっと肩を震わせる。
節ばった長く太い中指が、一秦のぷくっと膨れた唇の端を優しくくすぐる。ぞわ……と総毛立って、両眼を見開く一秦をまじまじと見つめていた辰だったが、ぽつ、ぽつ、ぽつ……と顔や肩、足元が濡れ始めたので、ぱっと手を離す。
「雨だ」
自身の頬をぐいと拭いながら、辰がぽつりと呟いた。その言葉につられて顔を上げると、確かに空一面に鉛色の雲が垂れ込めて、大粒の雨がぼたぼたと降り注いでいる。
傘、持ってないなあ、と困ったように首を傾げながら、辰は着ていた上着を素早く脱ぐと、雨に濡れてしっとりとしていた一秦にばさりとそれをかけた。
「辰、君、濡れるぞ」
「俺の方が、体は頑丈だもん。それより、早く家まで送るよ。風邪引いちゃう」
辰はにっこりと笑うと、一秦の心配を他所に、駆け出そうと上着にくるんだ彼女の肩を寄せた。
「辰、寄る?」
しかし、一秦はぶかぶかで有り余った空間のある上着を辰にも被せてやると、その中でちょこりと首を傾いで、そう訊ねた。
「へ?」辰は珍しくぽかん……とした様子で、自然と距離の近くなった一秦を見やった。「え、もう、一秦さんの近くには寄ってるけど……?」どうやら一秦の意図を理解できなかったようである。
一秦は言葉足らずであったことに気がついて、付け加えた。
「……私の家に」
がちん、と岩のように固まった辰が、呆然とした面持ちで一秦を見やった。一方、一秦は真っ直ぐとしたアーモンド型の瞳で、真っ向から対峙する。
「ねえ、一秦さん。俺、今、告白したよね?」
辰がおそるおそる、そう口にした。その間にも雨は勢いを増して、二人が被っている辰の上着がぐっしょりと重たく濡れていく。
「うん」
一秦はこくりと頷いた。なるべく無邪気に、何の意図もないように見えるように、細心の注意を払いながらも、心臓はばくばくと音を立てて、背中は冷や汗をしとどに流している。
すると、辰は憮然としたような、或いは呆れたような何とも言えない顔つきになる。そして、幼い子どもに諭すような穏やかな声色で、訥々と語りかけた。
「俺は、一秦さんに対して、そういう思いがあるんだけど?」
今度は一秦が瞳をすがめる番であった。
自身より頭ひとつ分高い位置にある辰の端正な顔を覗き込むと、わざと挑発するように唇を歪めた。
「それぐらい
辰は、一灯星の煌めきを秘める一秦の瞳をじっくりと見つめたのち、肩を落とした。
それから、おずおずと、
「ええ……? でも、一秦さんは俺の返事を保留してるよね?」と聞き返す。
「……まあね」やはりあれは失態だったか、と一秦は舌打ちを堪えつつ、首肯した。
「それなのに、家に呼ぶの?」
辰の言い分は尤もである。一秦だって、もし友人が同じようなことを言ってのけたら正気を疑うだろうし、相手にも幾分かの同情は湧くだろう。
しかし、一秦はもう後には引けないのだ。己の心の奥底で業火に燃える、幼い一秦の怨嗟は最早収まらない。母を奪われ、父は死に、唯一残った叔父を巻き込むわけにいかないのならば、半分血の繋がった弟だけは、同じ地獄に引きずり込みたい。
一秦は、雨でしっとりと水分を含んだ辰の髪にそっと触れた。そして、なるべく色を含むような動作で彼のピアスだらけの耳にかけてやると、優しい声色で建前を述べた。
「このままだと、きみは風邪を引く。それは私の本意ではないし、何より心配なんだ」
ぱちり、ぱちりと、辰が瞳をしばたたかせる。一秦の言葉の真意を図っているのか、はたまた別の思惑があるのかは定かではないが、彼なりに考えていることは確かであった。
「俺に何かされるって心配はしないの?」
そして、ようやく口を開いた辰の最初の言葉が、それであった。一秦とて何も知らぬおぼこい小娘というわけでもなかったので、辰が何を言いたいのかよく
「私に何かするつもりなのか?」
だから、わざとよく理解していないような無邪気さの籠った声色で、相手の良心に訴えるようなことを言って、揺さぶりをかけてみた。すると、辰が苦虫を噛み潰したような表情で、「えっ……。それはずるい……」と呟く。
勝った、と内心ほくそ笑みながらも、一欠片の感情すらおくびに出さずに、一秦はするりと辰の腕に己のそれを絡めた。
「ほら、早く行くぞ。意外とこの季節の風邪って、馬鹿にならないんだ。インフルエンザにでもなったら、目も当てられないぞ」
「もう好きにして……」
辰はがっくりと肩を落とすと、しぶしぶ白旗を上げた。
そして、一秦の濡れる面積を少しでも少なくなるようにするため被せた上着で、更に念入りにくるむ。
そして、「じゃ、早く帰ろうか。一秦さん、走るよ」と珍しくぶっきらぼうな口調で言うが否や、走り出す。勿論、一秦は辰が物凄く照れていることが分かっていたから、これ以上へそを曲げられぬように大人しく従って、二人してさめざめと降り注ぐ細やかな雨の中、走って一秦の自宅を目指した。
◼️
一度ドアノブを回して、開いていないことを確認する。
結局ずぶ濡れになった一秦が鍵を差し込むことなく扉を開けようとしていることに、同じくびしょびしょになっている辰が背後から見下ろしながら、首をかしげる。
一秦は辰の訝しげな視線を無視して、鞄の中から鍵を取り出すと、今度はしっかりと差し込んだ、
カチリ、と音がして扉が開く。辰を伴って入室した一秦は、素早く家具の位置や小物の配置を検めるが、今回は侵入された形跡がなかったので、ほっと息をつく。
「一秦さんの家!」
一方、辰はキョロキョロと落ち着きなく居間兼寝室のワンルームを見回しながら、子どものようにはしゃいでいた。
「あまりじろじろ見ないでくれ。片付いてないから、恥ずかしい」
一秦はちょっとばつが悪そうに唇を尖らせながら、そう言った。実際、散らかっているどころか物が少なすぎて、到底人が住んでいるとは思えない家なのだが、一秦はそのことに無頓着で気がついていなかった。
「まあ確かに、女の子の家って感じじゃないね」
辰は肩を竦めると、にこっと笑った。簡素が過ぎた一秦の家は、正に彼女自身を表しているかのようである。
「デリカシーのない奴だな」
むむむ、と一秦は眉をしかめた。口調はぶっきらぼう、服装もパンツスタイルが多い一秦は内心そのことを気にしていたので、辰の言葉は図星であった。だから、つい、いじけたような声を出したのだが、辰は勘違いしたようで、にまにまと唇を弛ませながら顔を近づけた。
「え、嫉妬した? ねえ、一秦さん、嫉妬した?」
一秦はじろっとした目つきで、辰を睥睨した。——「まあ確かに、女の子の家って感じじゃないね」——どうやら一秦が、この言葉で辰の異性関係に嫉妬していると思い込んだようであった。
「そういうの、面倒臭いから止めろ」
ガッ……と一秦の右手が、辰の両頬をはさみあげ、そのままぐっと寄せる。辰はふごふごしながら、聞き取りづらい声で 「はい……、すみません……、調子に乗りました……」と謝った。
辰が情けない面を晒しながら謝罪をしたことに満足げな顔つきになった一秦は、ぱっと手を離すと、
「シャワーだけになってしまうが、取りあえず体を温めるために、風呂に入ってきて」と言った。
それを聞いた辰が複雑そうな面持ちになる。一秦は目線で先を促すと、辰はムニョムニョと唇を蠢かせながら、小さな声で訊ねた。
「……一秦さん、先に入ってきたら? 風邪引いちゃうよ」
「きみが客なんだから、きみが先だよ」
「でも」
「いいから」
一秦に半ば押し付けられるようにバスタオルを貸し出されて、そのまますごすごと浴室へ足を向ける辰の背中には、哀愁が漂っている。
すると、辰は突然ピタリと立ち止まり、「ああ、忘れてた」と呟くと、首をかしげた。
「どうかしたのか?」
「ん? いや、折角お家に上がらせてもらったから、挨拶しておこうかなって」
「誰に?」今度は一秦が首をかしげる番だった。一秦は現在独り暮らしである。もしかして、叔父と一緒に暮らしていると思われていたのだろうか、と考えていると、辰は「お父さん」と言った。
「え?」
「お父さんの仏壇」
一秦はゆっくりと瞳を瞬かせた。一方、辰は一秦の蒼白い顔を雨に濡れた寒さによるものだと判断しているようで、無邪気ともとれる顔つきで、一秦の言葉を待っている。
「……取りあえず、風呂に入ってきてくれ」
声が震えないように注意深く心を落ち着けながら、一秦はもう一度風呂を勧めた。
すると、ここで辰も漸く一秦の様子がおかしいことに気がついたらしい。
辰は、くるくると眼球を泳がせて、ある一点を注視したあと、「なるはやであがるから」と早口で言って、逃げるように浴室へと姿を消した。
一秦は辰を見送ると、がしがしと乱暴にミニタオルで頭を拭きながら、窓辺に近寄った。
窓に滴る雨はだんだんと力強くなり、降り止む気配は微塵もない。これは朝までコースかな、とぼんやり思いながら、インターネットで天気予報を確認する。一秦の予想通り、豪雨は明日の朝まで続くようだった。
体をこれ以上冷やさないように、軽く体全体を拭き清めて、濡れそぼった服を着替える。ザアザア、ザアザア、雨とシャワーの混じりあう水音が、一秦の鼓膜を震わせた。
冷蔵庫を開けると、喫茶店で購入した黒ごまとかりん蜂蜜のジャム以外に、おやつとして購入していた林檎が丸々一つ残っていた。それを辰に出そうか迷って、結局止めた。
そうやって、中身を確認しながら夕御飯について思いを馳せていると、浴室の扉が開いた音が響き渡る。
振り返ると、辰ががしがしと乱暴にバスタオルで頭を拭きながら、居間の入口付近に立っていた。バスタオルに紛れ込ませて渡した予備の服を、きちんと身に付けている。
ズボンの丈と、袖の長さがいささか足りていなかったかな、と観察していると、辰が水気をたっぷり含んだ前髪をそのままに、インダストリアルの刺さったピアスをコツコツと突きながら、一秦の名前を呼んだ。
「一秦さん」
「ん? 何だ、何か足りなかったか?」
一秦は首を傾げた。流石にスキンケア用品は貸し出せないものの、それ以外のものは一通り揃えた筈だったが……。
すると、辰は足早に一秦へ近づくと、濡れた髪もそのままに、彼女を見下ろした。一秦はごくりと唾を飲み込む。頭にかけられたタオルと、前髪で表情の隠れた辰は、妙な威圧感があった。
「いや、むしろ足りすぎてるかな」
辰の声色は、あくまでも軽い。普段通りの軽快なそれが、何とも不安を煽る。一秦は慎重に辰を見守りながら、彼の次の言葉を待った。
「わっ」
しかし、辰は言葉を発することなく、代わりにずいっと顔を寄せてきた。二人の鼻先が触れ合い、睫毛の数をひとつひとつ数えられそうな距離感に、一秦は内心どぎまぎとした。
「びっ……くりした。何だ、急に」
一秦はそう呟くと、顔ごと視線をそらそうとしたが、辰の節ばった長い指が半ば一秦のまろいミルク色の頬に食い込む形で掴まれたため、それは叶わなかった。
ぽた、ぽた、と辰の髪から垂れる雫が、一秦の頬を濡らす。また拭かなくてはいけないな、とげんなりする一秦をよそに、辰はそのままじろじろと眺め回すと、小さく首を傾げた。
「……あれ、さっきまで視線が泳いでいたのに、もう普通になってるね」
眼を半分にして辰を胡散臭げに眺めた一秦は、ばっと勢いをつけて顔を離すと、
「おい、いつまで人の顔を触ってるんだ」と抗議した。
皮膚と皮膚が触れ合う生々しい感覚が、ぞわぞわと背筋に悪寒を這わせるのが、妙に気味が悪い。
辰は、両手で頬を擦る一秦をじっ……と見つめていた。それに気がついた一秦は、頭にタオルを被せたまま微動だにしない辰へ手を伸ばすと、髪の水気を拭き取った。
「いや、乱暴すぎ! もっと優しく!」
「さっきのお返しだ。大人しく頭を差し出せ」
「戦国武将?」
頭皮を剥ぎ取る勢いで頭を拭いている一秦にぎゃんぎゃんと喚いている辰は、普段通りに見える。
体重をかけて、辰の頭をなるべく自身に寄せた一秦は、内心ドクドクと鳴り響く心臓に小さくため息を落とした。
普通になるなんて、とんでもない。未だに動揺が抜けなくて、タオルを掴む手は情けなく震えているし、恐らく髪に隠れた耳は真っ赤だろう。
顔に出にくくて良かった、と思いながら、湿り気が大分とれた辰の頭から、タオルを外す。
「ありがと、一秦さん」
「どういたしまして」
にこ、と微笑う辰を追い抜いて、一秦は浴室を目指した。「どこ行くの?」後ろから辰の声が追いかけてくる。
一秦は振り返ることなく「私も風呂」と告げる。背後の辰がどのような表情を浮かべているのかは分からなかったが、一秦自身、今の己の態度は誉められたものではないのだろう、と他人事のように考えた。
「叔父さんが知ったら、説教を通り越して卒倒するだろうな」
脱衣場にて生乾きの服を洗濯かごへ放り込むと、臨時で着ていた服を脱ぎ去り、濡れて冷たくなった下着を取り払って、まだ暖かい浴室へ入る。
シャワーの蛇口を捻ると、ざっと温い温度の湯が降り注ぎ、知らず知らずのうちに冷たく強張っていた体が解けていく。
ほう、と息をつき、暫くシャワーに打たれていると、僅かだが扉が開く音が聞こえたような気がして、ハッと息を飲んだ。
恐る恐る、背後へ首を回す。ぼんやりとけぶる湯気の奥、磨りガラスが嵌め込まれた浴室の扉の奥で、ゆらゆらと黒い影が揺らめいている。
ばく……バク……と、再び心臓が嫌な軋みをあげ始める。一秦は無意識のうちに前を隠しながら、黒い影を凝視した。
「ねえ、一秦さん。さっきの話の続きなんだけどさ」
ドアの向こうで、辰の呑気な声が聞こえる。
自分自身のことを棚にあげてはいるものの、仮にも告白した相手の脱衣場に、恋人でもパートナーでもない人間が何の断りもなしに入ってくるのはいかがなものなのだろう、と一秦は思いながら、じり、と後退りをした。
浴室には鍵がない。つまり、一秦には逃げ場がなく、辰がほんの少し気紛れを起こせば、一秦は文字通り丸裸で彼と対峙しなければならないのである。
脳内で小言を垂れていた叔父の顔が悲愴に歪むのをありありと思い浮かべながら、一秦はさてどうしたものか、と頭を悩ませた。辰が何のために脱衣場へ侵入したのか、意図を図りかねたのである。
「……私は、風呂に入ってるんだけど……」
どう切り出すべきか迷いに迷って、結局、無難な言葉を投げ掛けた。
磨りガラス越しの黒い影が、少し傾く。ドアが未だに開かないことに安堵しながら、一秦は辛抱強く辰の発言を待った。
「うん、知ってるよ?」
しかし、辰の返事はあっけらかんとしていて、至極呑気なものだった。一秦は思わずがっくりと項垂れる。どうやら、一秦の言葉の裏側は読めなかったようである。
「せめて、出てきてから話さないか?」
「扉一枚隔ててるんだから、別に良くない?」
「ええ……」
良くはないが、という言葉を飲み込む。もうもうとした湯気と、流れ続けるシャワーの水飛沫だけでは、己の体を隠すのには心許ない。
しかし、辰は居座る気であるようなので、一秦は諦めて、しぶしぶといった様子で話の続きを促した。
「あのさ、何で男物の服があるの」
のっぺりとした、平淡な声色だった。一秦は天井を仰ぎ見る。ぴちょん、と雫が一秦の鼻先に垂れて落ちていく。
「……っあー……」
見上げていた頭を戻して、黒い影に向き合う。確かに、独り暮らしで異性の影がない一秦が、男物の着替えを一揃えできるのは、端から見れば不可思議極まりないことは、よく分かった。
「それ、叔父さんのなんだ」一秦は何食わぬ顔でそう答えた。本当は亡父のものであったが、叔父が泊まる時に使っているのは確かであるので、嘘は述べていない。
父が既に他界していることは、特段隠し立てていることでもないのだが、亡父の話を一欠片でも辰に話すことは、どうしても気が進まなかった。
「叔父さん?」
一方、辰は興味深そうな声をあげると、少しだけ沈黙した。「ふーん……?」
「たまにしか使ってないから……」
何となく言い訳めいた口調で付け加えながら、先程の辰の姿を思い起こす。
父は中肉中背の、至って平均的な男性であったので、平均よりも背丈の高い辰は服のサイズが合っていなかった。
「ふふ、つんつるてんだったな」一秦は思わずくすくすと笑った。にょっきりと伸びた手足と、短い裾のアンバランスな感じが、忍び笑いを催す。
すると、ぺた……と辰の手のひらが磨りガラスに付けられたので、一秦はぎくりと身を縮こませた。しかし、やはり辰が入ってくることはなく、へらへらとした声が聞こえるだけだった。
「俺の足が長くてごめんね~」
「きみは長生き出来るよ……」
茶々を入れる普段通りの辰に脱力した一秦は、思いきってシャワーの蛇口を止めることにした。水道代、ガス代がこれ以上嵩むことを懸念したのもあるが、何となく、辰はこれ以上侵入してくることはないのではないか、とぼんやり考えたためだった。
「叔父さんで思い出した。そういえば、一秦さんって叔父さんと名字が違うけど、何で? お父さん、婿養子なの?」
一秦は髪の水気を絞りながら、少しだけ首を傾げた。辰は何故、その話を知っているのだろう? 一秦に話した記憶はない。
一秦は己の爪先を見下ろしながら、誤魔化すべきか否か、迷った。
記憶がないだけで、実はそれとなく辰に話してしまったのだろうか。
しかし、一体全体、どのような話の流れで、父と叔父の名字が異なる話になるのだろう。
綺麗に切り揃えた足の爪は、湯に当たって柔らかく桜色にほんのり染まっている。しかし、そろりとした冷気が一秦の爪先からじわじわと這い上がってきているような、気味の悪い錯覚を覚えたのも確かだった。
一秦は口を開いた。
「父は養子なんだ。だから、私たちは叔父とは血が繋がっていない」
迷ったが、隠すには辰が知りすぎていたので、一秦は己が知っていることを話すことにした。と言っても、一秦が理解している内情などたかが知れている。
そういえば、と一秦ははたと気づいた。父が一秦にこのことを話したとき、叔父には内緒だと言われたことを思い出す。辰は叔父ではないのだから、この約束を反故にしたとは言われないだろうが……。
「父も叔父も、自分たちの話はあまりしないから、詳しいことは知らないな。……でも、私にとって叔父は大切な家族だし、あちらもそう思ってるよ」
一秦はそう締め括ると、喋りすぎたことを戒めるように、唇を真一文字に引き結んだ。
「ふぅん……。そうなんだ……」
一方、辰は何か気になることがあったのか、上の空でそう答えた。一秦は何となく不安な気持ちを抱いた。目の前で揺らめく黒い靄のような影が、そのような感情を産み出すのかもしれない。
「辰は?」
「ん?」黒い靄のような影が、首辺りを傾げる。
こうやって反応してくれることで、それが辰であるという裏付けがとれることに安堵を覚えながら、一秦は何気ない様子を装って訊ねた、
「辰の家のことって、そう言えば聞いたことがなかったと思って。どんな家なんだ?」
影が黙りこむ。一秦も唇を噛み締めて、重苦しい沈黙をやり過ごす。ぴちょん、ぴちょん、という雫が奏でる高い音だけが、二人の間を取り持つように聴こえてくる。
「しりたい?」
やがて、辰はそれだけ言った。存外幼い声色に面食らって、一秦は「え」と疑問形にも満たない音を唇から溢れ落としてしまう。
すると、すぅ、と磨りガラスに映る靄のような黒い影が消えた。どうやら辰がそこから離れたらしい、ということに気がついたのは、そのあとに発された辰の声が先程よりくぐもって遠いように感じられたからだった。
「これ以上、此処で話してると、一秦さんが逆上せちゃうね。上がったら、話すよ。長くなるから」
予想とは異なる辰の大人しさに、一抹の不安と警戒を抱きながら、一秦は小さく、
「そう……」と呟いた。それが辰に届いたかは分からない。ただ、ガラッと脱衣場の扉が開いて、そのあと静かに閉まった音が聞こえてきたので、一秦はようやく強張った体から力を抜いた。
「結局……あいつ、入ってこなかったな」
在って無いような薄い扉一枚の隔たり。
辰が越えようとしなかったもの。
一秦が越えることを許さなかったもの。
湯けむりも薄れかけ、湯冷めしかけた体にもう一度シャワーを当てる。この体の震えは、決して寒さからくるものだけではないことは、一秦も重々承知している。
■
雨は依然として降り止むことがない。
かなり迷ったものの、一秦は結局、一晩だけ辰を泊めることにした。折角暖まった体を再び冷やすことは忍びなかったし、この大雨の中に放り出すことも躊躇われたからだった。
辰は一秦の申し出に複雑そうな顔つきになったものの、特段異論を挟むことはなかった。ただし、「ワンルームなんだよなあ……」とぼやいていたが、一秦は聞かなかったことにした。
来客用の布団を敷いて、辰はそこで寝てもらうことにした。最初はベッドも譲ってやろうかと考えたのだが、それだけは頑なに辰が承知しなかったので、一秦が折れた形となる。
無数の跫が部屋を取り囲んでいるような雨音だけが、部屋に響き渡っていた。
体を横たえたまま、一秦と辰は無言で互いが寝静まるのを待っている。会話はない。結局、辰の家族の話は泊める泊めないの騒動で有耶無耶になってしまったし、今さら水を向けるのも違う気がした。では、何か別のことを話すべきか、と考えるも、一秦は話題を思い付かなかったし、普段喋りに喋る辰はというと、唇を真一文字に引き結んで、無言を貫いていた。
そうやってやり過ごしているうちに、一秦はうとうととし始めた。
意識がふっ……と落ちそうな、奇妙で不安定な浮遊感。重たくなる瞼、ゆっくりとした呼吸、ぽかぽかとする体。
じんわりとそのことを感じていると、ぎっと木が軋むような音が聞こえたので、はて何だろうか、と首を回してそちらを見ようとすると、目の前に一本の太い棒のような物が塞いできた。
ぱちり、ぱちりと
一秦は緩やかな動きで上方を見上げた。黒い靄がかかったように朧気ながら、辰が覆い被さっていることをみとめる。
「一秦さん、本当に危機感がないんだね」
辰は温度のない機械的な声色でそう言った。辰の顔は、闇に紛れてよく見えない。しかし、一秦の心音は依然としてなだらかなままだった。不思議とこの状況に、恐怖を感じることはなかった。
「それとも、俺だから、そんなに無防備なの?」
辰が何かを頻りに話している。一秦はそれを、微睡みながらぼんやりと聞いていた。話の内容はよく理解できなかったが、「俺だから」という言葉が、何となく気になった。
「……そうだな。辰だから、かも」
落ちていく瞼に抗いながら、夢見るような口調で、一秦はそう言った。実際、夢の世界へ足を突っ込みかけてはいた。
一方、辰はまじまじと両腕で囲った一秦を見つめると、小さく肩を落とした。
興が削がれたのか、すごすごと一秦の横たわるベッドから降りると、元の寝床に転がる。そして、呆れと失望の入り雑じったような声色で「それってさあ……」とぶつぶつ呟いていたが、
「まあ、いいや」
と自ら思考をぶった切ると、またも口を閉ざしてしまった。その際も、執拗にインナーコンクにあるピアスに触れていた。
一方、だんだん覚醒してきた一秦はというと、なだらかだった心臓の音が、ばく、ばく、どくん、と血流を早めて小刻みに動き始めていた。
「他の男は、泊めてないよね」
ぽつり、と独り言のような呟きを溢す辰に、ハッと息をのむ。
一秦は暗がりの中、恐る恐る辰がいるであろう方向へ顔を向けると、あくまで平淡に聞こえるように努めながら、慎重に答えた。
「そんな危ないことはしない。泊めるとしても、せいぜい叔父くらいだよ」
幸いにも、声は全く震えていなかった。普段通りの、つまらない喋り方。そのことに内心ひどく安堵していた。
一方、辰は関心の薄い声で「ふぅん」と相槌なんだか溜め息なんだか、判断のつかない返事をした。
「あっ、信じてないな?」「そんなことないよ」
一秦はむっと唇を尖らせる。月光すら射さぬ闇の中、ようく目を凝らして辰を見やると、彼は一秦から背を向けて横になっているようだった。
小さく上下する、広い背中をごうごうと燃え盛る焔のような瞳で睨み付ける。辰は口先だけで信じているなどとぬかしているが、一秦には手に取るように
「誰が好き好んで、下世話で乱暴な手段ばかりとってくる奴らを、わざわざ近づけるか。家になんて呼んでみろ。本当に何をされるかわからない……。私はそんなに、馬鹿じゃない……」
激昂して早口で捲し立てたあと、一秦はふと、何故ここまで辰に対して弁明をしているのだろう、と考えた。確かに辰から見た己の印象は、なるべく良いものにしたい。しかし、それならば、このように感情を制御出来ないような一面は、出すべきではなかった。それらのことをよく理解しているというのに、辰に不貞を疑われた瞬間、身の毛がよだつほどの憤怒に身を焼き焦がされたのである。
すると、辰がぱっと振り返って飛び起きると、慌てて一秦のベッドへ近寄った。
「ごめん! 一秦さん」
ぎゅ……と一秦の両手をすくい上げるように掴んだ辰は、ひどく焦ったような顔つきで此方を見つめている。
ぽかん、とする一秦をよそに、辰は眉を下げると上目遣いで一秦の顔を覗き込みながら謝罪した。
「泣かないで。酷いことを言った。俺のつまらない嫉妬で、一秦さんを傷つけちゃった」
「泣いていない」間髪を容れず、一秦は冷たく切り捨てた。現に、一秦の瞳は依然として鋭利な光を灯しており、頬も濡れた形跡はない。
何を思って辰がそう言ったのかは分からないが、一秦にはもう、誰かの言葉でいちいち涙することはない。
辰に包み込まれた両手を見下ろす。振り払うかどうか、一瞬迷ったものの、ぽかぽかとした温かさに絆されて、結局そのままにする。
「こんなことで泣くような涙なんて、私には存在しない」
ぼつりと呟いたその言葉は、殆ど音にならずに、一秦の口の中で消えていった。辰には届かなかった筈だが、彼は無言のまま、一秦の冷然とした瞳をじっと見つめている。
「私の【
一秦はやがて口を開くと、一言、そう言った。
「ん?」
辰が首を傾げる。一秦はその顔を、今度は自分から覗き込むと、ぴったりと意識的に視線を合わせた。
辰が不自然に硬直し、暗闇の中でも判別できるほど、顔を真っ赤にさせるのを見つめる。
だんだんと熱に浮かされたように潤んでいく辰の眼を眺めながら、一秦は淡々と言葉を続けた。
「私の
なるべく素っ気なく聞こえるような口調で、言い放った。頭の片隅で、今まで吐かれた数多くの罵詈雑言がぼそぼそと呪いのように流れるのを、冷たく凍った心で受け流していく。
一方、辰は神妙な顔つきで一秦の話を聞いていた。そういえば、このような話をしたのは辰が初めてかもしれないことに、一秦は気がついた。一秦に近しい男性は殆どいないし、友人たちに話すには忍びないし、唯一の家族になった叔父には心労を考えると打ち明けにくい。
「……好きでこんな
ぽろ、と心の奥底に沈めていた感情が溢れ落ちる。
あ、と思った時には遅かった。誰にも言うつもりのなかった、自分自身すら騙し通そうとした、心の歪み。一秦はこの
ぎり、と唇を噛み締める。今日は色々と
一秦は何もかもが嫌になって、辰に包み込まれたままの手を振り払おうとした。振り払って、そのまま布団を被って、強く瞼を閉じれば、また元通り。辰を家に誘ったことが、そもそもの失敗だったのだ。情けをかけず、下心を出さず、あの雨の中で辰と別れれば良かったのに……。
しかし、一秦の腕はびくともせずに、依然として辰の両手の中に収まっている。何度か無理矢理外そうとしたが、物凄い剛力がかかっているのか、一秦はとうとう振り払う事ができなかった。
そのことにゾーッとして、肌を粟立たせる一秦をよそに、辰はいつの間にか俯けていた頭を起こすと、にっこりと微笑んだ。
「俺は、一秦さんの瞳、大好き」
邪気のない、幼子のような愛情の含まれた声色に、一秦はきょとんと瞳を瞬かせた。「……は?」
「黒目が大きくて、吸い込まれそうなほどきらきら輝いていて、長い睫毛が生え揃っている、二重のアーモンド型のその瞳……とても魅力的で、素敵で、愛らしくて、好きだよ。大好き」
ぐっ……と腕ごと引き寄せられた一秦の鼻先に、辰の顔が迫りくる。あまりに距離の近いそれにじわじわと頬を染めた一秦は、わざと素っ気なく「……そう」と呟いた。
先程まで胸に渦巻いていたおびただしい負の感情が、霧散していく。
「俺とは全然違う、その
辰は念を押すかのごとく、そう言った。彼に他意はないだろう。しかし一秦はその言葉を耳にした瞬間、ざあっと冷や水を浴びせられかけたような心地になった。
「……それは、まあ、違うだろうな」少し間を置いて、小さな声で応える。声が震えていないかどうか、最早一秦自身にも分からない。頭の中で、今の発言は一体どのような意味だったのか、とぐるぐる考えてしまう。
「……ね、一秦さん。何もしないつもりだったけど、ひとつ良い?」
すると、辰が伺うような顔色で一秦の瞳をまっすぐ見つめてきたので、一秦は上の空のまま一言「何」と話の続きを促した。
「手を握っても、良いかな」
控えめな提案に、一旦思考を区切る。一秦は真っ暗な部屋の中でぼんやりと浮かぶ、己の生白い手に視線を落とす。
「……どうぞ」
減るものでもないし、と思い直した一秦は、ずいっと辰に向かって許可を下した。すると、辰は嬉しそうに相好を崩すと、包み込んでいた両手をほどくと遠慮なく手を握り直した。
「ふふふ、ありがとう」
無邪気にも見える辰の顔を見つめながら、そうやって笑っていると年相応で可愛らしいのに、と一秦は考える。ああやって貼り付けたような笑顔を浮かべたり、ニンマリとした厭な笑いかたより、こちらの方が断然、一秦は好ましく思っている。
「あったかいね」
「そうだな」
辰が一秦のベッドに頭を預けながら、ぽつりと呟く。一秦は無意識の内に辰の髪に指を差し込むと、優しく頭を撫でた。辰がうっとりとした顔つきで、目を細目ながら享受する。
「俺の家はね、家族じゃなかったんだ」
「……え?」
一瞬、一秦は辰の言葉を理解できなかった。思わず聞き返すと、ばちん、と音がしそうなほど強い視線で射抜かれる。一秦はどきりと心臓を戦慄かせた。
辰は風呂場での続きの話を、披露しようとしている。しかし、一秦はこれ以上、聞きたくなかった。
聞いてしまったら。一秦は。
「父親は無関心で殆ど家にいなくて、母親は生まれてすぐに死んで、養母は過干渉と無視の繰り返し、兄貴も表立っては助けてくれなかったし、使用人は必要以上に接してこなかった」
しかし、一秦が遮る間もなく、辰は訥々と語る。
ぎゅう、と一秦と繋いだ手に力が強く込められて、一秦は眉をしかめたが、辰は気がつかなかったようだった。
「友達もいなくて、ずっと独りぼっちだったかな。寂しくて……辛くて……薄暗い子ども時代だったよ」
やめろ。嫌だ。聞きたくない。
一秦は両耳に手を当てて、辰がぽつりぽつりと語る幼少期について、耳を塞ごうとした。しかし、片手は辰に繋がれたままで、もう一方の手もいつの間にか辰に取られていて、思うように動かせない。
やめろ。嫌だ。聞きたくない。これ以上、聞いてしまったら……。
「でも、一秦さんと出逢ってから……毎日に彩りがあって、楽しい」
一秦は辰を、憎めなくなる。
杵築家の憎悪の捌け口にすることが出来なくなる。
復讐の決意が、鈍ってしまう。
父の無念を——晴らせなくなってしまう。
「辰……」
辰の幼少期は、優しくて柔らかくて美しくて、何も不安などない、愛に満ち溢れたものでなくてはならなかった。
両親に愛されて、何不自由なく、人生を謳歌していなければならなかった。
万が一でも、一秦よりも悲惨なものではあってはならなかった。
それなのに……、と一秦は絶望がひたひたと跫を忍ばせてやってくるのを耳にしながら、思う。
今の話が本当ならば、一秦はもう、辰を利用して杵築家に復讐は、不可能になる。
「一秦さんの家は、仲良しで羨ましいな」
辰がとどめを差す。幼い子どものように微笑む彼に、一秦は胸を衝かれる。
心に受けた衝撃に耐えきれずに体がよろめき、ふらっと倒れかけると、素早く体を起こした辰が難なく受け止めた。そのままぎゅうっと抱き締められる。一秦は抵抗することなく、それを受け入れた。……依然として、身体は震えたままだったけれど。
熱い手のひらが、一秦の肌を舐めるように這い回る。その感触に血の気が引く思いをしながらも、一秦は辰の幼少期に……初めて垣間見た時の、あの冷たく凍った横顔がどうしても忘れられなかった。
しかし、結局、辰は宣言通り一秦になにもすることなく夜は明けた。
白みゆく空と、柔らかな朝日が窓の隙間から差し込むのをぼんやりと眺めながら、一秦は己の心の惑いについて、まんじりとせず考え続けている。
◼️
一秦は、永遠にも思えるような永い回想を終えると、改めて前方へ座る叔父——
叔父は仏頂面のまま、いつの間にか雨に濡れるガラス窓へ、視線をやっている。
父の亡きあと、一秦の後見を務めてくれた叔父の心中を思えば、一秦の先の発言は許しがたく、そして認めがたいものである。加えて、彼は杵築辰が一秦にどう連なるのかも、そして最愛の兄の怨敵の息子であることも、知っている。
「なあ、一秦」
一秦は、自分と叔父のために注文した、半分の林檎をとろとろに煮て優しい甘さで味付けしたコンポートの乗ったホットケーキをぼんやりと見ていると、叔父はしんみりとした様子で口を開いた。
一秦とは然程年齢の変わらぬ若々しい叔父は、姪の話を聞いてからというもの、十歳は老けたように覇気がなくなっていた。
「兄貴は誰も恨んじゃいないよ。お前の復讐を知ったら、泣きわめいて止めるだろうさ」
そうだろうな、と内心一秦も頷いた。これは一秦の独り善がりだ。一秦が納得できないから、父という免罪符を振り回して、一人相撲をしているだけに過ぎないことは、重々承知している。
「考え直してくれ、頼む」
懇願する叔父が、頭を下げる。一秦はそれを見て、心がぐらぐらと揺れた。
幼い一秦の怨嗟の叫び、辰と交流して生まれた姉である一秦の切実な訴えが、わんわんと頭の中に木霊する。
「叔父さん、頭を上げて」
「一秦が、恐ろしい復讐の計画を取り止めてくれるなら」
叔父は頑なだった。一秦の端的な言葉で全てを理解したその聡明さに、舌を巻く。しかし、それだけ頭の回転が早いのは、一秦の心身を大切に思い、心配している証拠だった。一秦はそれに気がついて、年甲斐もなく涙ぐむ。
しかし、そう簡単に憎悪が消え行くはずもない。
どうすれば良いのかわからなくなって、心許なげに俯く一秦と、歯を食い縛ったまま、頭を下げ続ける叔父。
あの日、辰を招き入れた豪雨の日のような、暗雲立ち込める空模様の下で、一秦は叔父の旋毛を見つめながら、考える。——考える。
視界の端で、店長が心配そうに此方を見やっているのを確認した。細かな会話の内容までは聞かれていないであろうが、一秦たちの異様な雰囲気に気がついたのであろう。辰に何か吹き込まないと良いが、と思いながら、やはり別の店にするべきだったか、と己の浅慮に舌打ちをしかけた。
結局、結論を下すことなく二人が別れるまで、取り巻く空気は最悪と言って良かった。去っていく叔父の、草臥れた後ろ姿を見えなくなるまで眺めていた一秦は、一向に晴れない心をもて余していた。
倫理観に悖るおぞましき執念計画を止めたい自分と、己と父の無念を晴らしたい自分。
一秦はどちらが本当の気持ちなのか、分からなくなってしまった。
さらさらと降り注ぐ雨の中、さした傘の下で、辰の顔を思い浮かべる。
幸せではなかった子ども時代を語る寂しそうな顔と、初めて見たときの氷のような表情と、一秦を見ると真っ先に見せる可愛らしい笑顔。
「正しく畜生だな、私は」
あんなにも愛している、敬愛する父の顔が、ぼやけていく。遠くに霞んでいく。
一秦は目を閉じた。傘の下でさらさらと流れ落ちる雨は熱く頬を濡らして、一秦の顎をしとどに濡らしていく。
■
どんよりと濁った曇天の中、辰との待ち合わせ場所へ向かっていた一秦は、背後から声をかけられたので振り返った。
「葦原一秦さまですね」
同性の声だったため油断した一秦だが、相手の強い意思を感じる視線に射抜かれて、身を固くさせる。
柔らかく毛先の巻かれた栗色の髪、しっかりと施された化粧、身に纏った服装は季節に合わせられており、品の良さが感じ取られた。
年齢はおそらく、辰に近い。少なくとも、一秦よりは年少である。
その姿にどことなく既視感を覚えた一秦は、無表情のまま一言、「……どなたでしょうか」と訊ねる。
しかし、女は一秦の人形のような顔色に動揺することなく、毅然とした態度を貫いている。おや、と少し首を傾げて、女を改めて見回していると、彼女はつんと尖った顎をそらして、勝ち気な様子で応えた。
「私のことはどうでも良いのです。それより、貴方は、杵築辰とお付き合いされているのですか?」
一秦は瞳をしばたたかせた。予想外の話題に、頭が真っ白になる。
ぽかん、とする一秦をよそに、女は煌々と輝く目を向けたまま、微動だにしない。
決して人通りの少ない道ではないので、通りすぎる人々が何事かといった様子で一秦たちの顔を眺めている。中にはにやにやと笑う男や、ちょっかいをかけようとする男もいたが、女が物凄い顔つきで一睨みすると、皆一様にすごすごと引き下がるのが、何とも小気味よかった。
一秦は突然現れた、辰の知り合いらしき女に興味を持ったが、それをおくびにも出さずにあくまでも淡々とした様子で対応した。
「名乗らない方にお伝えするような話では、ないと思いますが」
その言葉は図星だったのか、女はぐっと詰まると唇を噛み締めた。綺麗に縁取られた、淡い桃色の唇がひび割れる。
女は少しの間言い淀んだものの、すぐに表情を取り繕うと、つかつかと一秦に詰め寄った。
そして、一秦をきっと睨むと、ぎゅうっと一秦の両手をとった。思わずぎょっとして身を引こうとする一秦を押さえた女は、内緒話でもするかのように声をひそめると、囁いた。
「時間がないのです。単刀直入に言いますね。——杵築辰とは、もうお会いにならないでください」
女のやわこい指が、一秦の手を強く強く握りしめる。丸く切られた桜色の爪が細かく震えているのを見てとった一秦は、一度離していた瞳を再び女へ向けた。
「……は?」
女の表情は、一秦が想像したどれとも異なった。
ひどく恐ろしいものでも見ているように頬がひきつり、張りのある肌がそそけ立った女の顔は、土気色だった。それは化粧ですら隠せていないことを、一秦はよく理解した。それほどに女の顔は鬼気迫り、切羽詰まっていたのである。
「失礼、貴方は一体、誰なのです?」
今度は、真剣に女の名前を訊ねる。一秦の本能が、かの年下の女を軽くあしらってはならないと告げていた。
「私は……」
女はごくりと唾を飲み込むと、喘ぐような口調でそう呟いた。
一秦は女の、可憐で愛らしい顔をまじまじと観察して——ハッと
思い出した。
一秦の目の前にいる、一世一代の告白でもするかのような覚悟を持って現れた女は……以前、辰のアルバイト先で見かけた女である!
そのことに思い当たり、再び動揺する一秦をよそに、女はしっかりと彼女と目を合わせると、ゆっくりと口を開いた。
「私は、杵築辰の婚約者の、
バラバラと記憶のピースがはめられていくのと同時に、衝撃的な情報を開示された一秦は、今度こそ思考をショートさせた。
「こ、こんやくしゃ」
「杵築」は、不動産業界でトップクラスと名高い杵築ホールディングスの創業者であると同時に、巨万の富を築き成り上がった一族である。時代が時代ならば、財閥と呼ばれているような家系だ。その一族の跡取り候補……御曹司である辰に、婚約者がいることは必然であろう。
そして、「香月」と名乗った光華は、一秦の記憶が正しければ、杵築には劣るものの日本有数の大企業……コウヅキ・ディベロップメントの代表取締役の娘ではなかろうか。
今まですっぽりとそのことを忘れていた一秦の狼狽えっぷりは相当であった。そして、一秦が杵築への復讐を遂行する場合——眼前の、蝶よ花よと育てられた筈であろう、この可憐な女も不幸のどん底に突き落とすことにも、気づいてしまった。
杵築を地獄へ落とすことは、杵築の一族だけではなく、その一族を取り巻くあまねく全ての人間を、地獄へ落とすことに等しいのだ。
覚悟を持っている筈だった。それなのに、そのことに思い当たった瞬間、惨めなほど揺れ動く己の心の浅ましさと情けなさに、一秦は滅多打ちにされてしまった。
一方、うちひしがれる一秦のことを気遣わしげに見つめた光華は、慎重に言葉を選びながらも、静かな口調で続ける。
「杵築とは、幼馴染みのようなものです。私はあの人のことを、よく知っています。本当に、よく……。だからこそ、貴方にご忠告するのです」
家に定められた婚約者と言えども、その相手が馬の骨とも分からぬ女に現を抜かしているのを見て、何かしら思うことはあるに違いない。
だからこそ、一秦の前に現れたのだ。光華はもしかしたら、辰のことが好きなのかもしれない。一秦よりもずっと純粋に、優しくて柔らかい心で、穏やかな愛を抱いているのかもしれなかった。
「お付き合いされているのなら、別れてください。そうでないなら、もうお会いにならないでください」
惨めで、汚ならしい、浅ましい自分とは違う、辰の婚約者。
一秦は彼女が眩しくて仕方がなかった。そして、同時に、何とも言えぬ感情を心に宿した。これは——安堵?
自分自身でも上手く理解できない感情をもて余す一秦に、光華はやきもきとした様子であった。どうやら、一秦が辰と関係を切ることを躊躇していると考えたようで、「どうしてもお嫌ですか。杵築と別れるのは」と眉をしかめている。
一秦は何と言って良いのか分からず、無言のまま見つめ返す。すると、握り締めていた一秦の手をそのままに、光華はさらに顔を寄せると、とっておきの秘密を息を吹き込むように囁いた。
「私は、貴方と杵築の本当の関係を知っています」
ぞうっと総毛立つ感覚と、顔から血の気が引く感覚が、一気に一秦へ襲い来る。
一秦は片手で足りぬほど年の離れた光華の顔を見ることが、叶わなかった。恐ろしくて恐ろしくて、仕方がなかったのである。
ガタガタと震え始めた手の先からも、すうっと血の気が引いていく。
この女は、何を言った。
一秦と、辰の、本当の関係を、知っている……?
「え……」
一秦は思わず光華の手を振り払いかけたが、物凄い力で押さえ込まれて、それは叶わない。
本気だ、と一秦は覚悟した。
本気で、目の前の女は、一秦と辰の仲を引き裂こうと画策している。
「葦原一秦さま。杵築辰の、お姉さま。私の、未来のお義姉さまになる貴方」
光華の声は悲愴に濡れていた。一秦はそれを耳にして、不思議に思う。
焦燥すら感じる光華の声色には、一秦を恫喝する意思も、侮辱する意思もなかった。そこにあるのは、悲愴と——心配?
一秦はおそるおそる、光華の顔を見上げた。
そこにあったのは、一秦が想像していたような嫉妬と憎悪にまみれた醜い表情ではなかった。
ひどく悲しげで、痛わしいものを見るような、優しい表情であった。
一秦はしばしの間、言葉を失った。呆けたような面持ちで光華を見つめながら、辰の様々な顔を思い出して——最後に、あの冷たく尖った横顔に収束する。
「まだ間に合います」光華はそう言った。「まだ、貴方は引き返せます」
ドクン、と一秦の心臓が強く脈打つ。冷や汗でびしょびしょになった全身に、ひんやりとそよぐ冷たい風は辛かった。
父、母、叔父、杵築、辰。引き返せる。止められる。……逃げることができる。
ぐるぐるとする思考に吐き気すら覚えたその時、一秦はぐいと肩を引き寄せられた。呆気にとられたまま、体の左側に暖かい温もりが押し付けられる。ぎく、と体を硬直させて、少しだけ息を吸うと、慕わしくも忌まわしい匂いがした。
「一秦さん!」
集合時間をとうに過ぎて、連絡も寄越さない一秦を心配したのだろう。
珍しくはあはあと息を荒げて、額に汗を浮かせたまま光華を鋭く睨む辰の眼は、ごうごうと怒りの炎が燃えている。
「辰……」
呆然とする一秦とは反対に、光華は拗ねたような顔つきになると、つんと鼻先をそらしながら辰を一瞥した。
「随分と早いお出ましなのね。興醒めだわ」
「言ってろ、性悪。人様のデート、邪魔してよく言うわ」
米神に青筋を浮き立てた辰が、地獄の底から響くような低い声でそう吐き捨てるが、光華には全く効いていないようだった。
光華は両手で握り締めていた一秦のそれを、辰に見せびらかすようにして持ち上げた。またひとつ、青筋を立てる辰を鼻で笑うと、光華はいけしゃあしゃあと「私は一秦さまとお話ししていただけよ」と宣った。
「何でだよ」辰が間髪を容れず、訊ねる。一秦の心臓は、バクバクと異常な鼓動を刻み始めた。
先程の光華の言葉が、一秦の心を鷲掴みにして、きりきりと雑巾の水気をとるように、ゆっくりと固く、絞り上げていく。
「それは……」
光華はちらりと一秦へ視線を向けた。一秦の眼球が、微細ながらもくるくると動く。一秦は、辰との関係を他人につまびらかにされたくなかった。それは、復讐が頓挫することへの恐れだけではないことは確かであった。——それ以上のことは、何も分からなかったけれど。
しかし、光華は戦々恐々とする一秦をよそに、先程の話には一切触れなかった。ただ、つまらなさそうに毛先を指に絡ませながら、
「貴方みたいな人が現を抜かす方なんて、さぞ魅力的なのだろう、と思って。興味があったの。それだけよ」
と、突っ慳貪に言い放っただけである。些か拍子抜けした一秦は、強張っていた体から力を抜いた。
「ほーぅ?」
一方、辰は眼をすがめると、首を傾げて光華を睨んだ。光華も負けじと睨み返す。
お互いに喧嘩腰で、一触即発の雰囲気に、通り行く通行人は何事かといった様子で眺めている。
口を挟めずにおろおろとする一秦だが、掴まれていた肩に再び力が込められたことに気がついて、パッと辰へ視線を向ける。
辰は、婚約者である光華へ向かって、不敵な笑みを浮かべていた。
光華がそれを見て、不審げな表情を浮かべている。一方、一秦はというと、獣の威嚇に似たそれにぞわりと肌を粟立てていた。
「最近、お前がこそこそ何かやってるのは、知ってたんだよ」
辰は静かにそう切り出した。光華の不審げなそれに、警戒の色がさっと翳る。一秦も、辰が今から何を言おうとしているのか図りかねた。
すると、辰は自身のパンツのポケットからするりと一台の携帯精密機器を取り出すと、摘まんだまま顔の横まで持ち上げた。
そして、勿体ぶるようにぶらぶらとそれを揺らしながら、さも残念そうな口振りとは反対に、鼠をいたぶる猫のような顔を見せる。
「まさか、お前が一秦さんのストーカーをしてるなんてな……」
「え?」
「はあ⁉︎」
ぽかん……とする一秦と、頬を真っ赤に染めて目をつり上げる光華をひとしきり眺めたあと、辰は聞いたこともないような低い声で吐き捨てた。
「しらばっくれるんじゃねえよ。証拠は押さえてるんだぜ?」
パッと、携帯精密機器のロック画面が解除される。そこに写っていたのは、一秦と叔父であった。カメラの焦点から見て、撮影の許可がとられていないことは明らかである。しかし、それについて苦言を呈する前に、背後の人影が目について黙りこんだ。
それは、光華だった。
思わず光華の方へ視線を向けると、彼女は可哀想なほど顔色を蒼白くさせて、ぶるぶると震えていた。
桜色に色づいていた唇はひび割れて、長い睫毛に縁取られた丸い瞳は大きく見開かれている。それを見てとって、一秦は本当に彼女が自分のことを尾行していたことを察してしまった。
辰が見せた沢山の写真の全て——水族館、遊園地、動物園、職場、通勤中、その他諸々——に、光華が写っていた。
では……彼女が、毎度一秦の部屋に忍び込んでは家具の配置を微細に変えて、盗聴機や盗撮用のカメラを仕込んでいた張本人だと言うのだろうか?
両親に、周囲の人間に大切に育てられたであろう、温室育ちの花のような、光華が?
とても信じられないことだったが、一秦がどんなに待っても、光華は一向に辰の言葉を否定しようとはしなかった。
「それにしても、お前も随分と形振りかまってられなかったんだな? 家の指示か? 杵築のボンクラ息子という金蔓の手綱を、しっかり握っておけってな」
するすると長い人差し指で次々と証拠写真を映し出しながら、辰は皮肉げに唇を歪めた。
「貴方……どの口が……いえ……何てことを……」
光華は今にも倒れそうになりながらも、物凄い形相で辰を睨んでいる。しかし、辰はどこ吹く風で、涼しい顔で光華の突き刺すような視線を受け流しながら、一秦へ向かって微笑んだ。
「一秦さん、何か変なことを言われてない? 遅くなって、ごめんね。怖かったでしょ」
——この瞬間、一秦はえも言われぬ違和感に襲われたのだが、それを言語化することは困難だった。
辰の顔をじっと見つめる。他人より優れた容貌に時折冷たい光のようなものが翳ることがあるが、今正しく、辰は一秦の大嫌いなお手本のような微笑みにそれをかぎろわせている。
「いや……。それより、婚約者って……」
瞳が離せないまま、一秦はやっとの思いで訊ねた。本当に問い質したいことは、それではないのに……。一秦はたしかに、辰を恐れて戸惑ったのである。
一方、辰は抜き身の刃に反射する煌めきのような表情のまま、肩をすくめると、一秦のその場しのぎの質問に答えた。
「家同士が勝手に決めた、政略的なものだよ。それ以上の何かは無いさ。……俺に関しては、ね」
含みのある表現だが、一秦にとってはどうでも良いことだった。それよりも、辰に婚約者が——幼い頃から彼の人となりを知っている、出自のしっかりした相手がいることに、衝撃を覚えていた。
この衝撃は、決して悪い意味ではないことを、一秦はよく理解していた。
改めて、光華を見つめる。今でこそ、辰を八つ裂きにせんばかりの面持ちで怒り狂っているが、一秦と対面した時には、きちんとした態度で接していた。それに、彼女の怒りは正当なものである。幼い頃から顔を突き合わせてきた幼馴染みにも等しい婚約者が、七つも歳上の女に現を抜かしていることは噴飯ものであろう。加えて、彼女の言うことが本当ならば——一秦と辰の真の関係性を知っているならば——嫌悪感もあるに違いない。辰を誑かす一秦など、憎悪の対象以外の何物でもない。
それなのに、一秦へ怒りを一切向けないという、育ちの良さ! 一秦は光華と比べて、自身のあまりの浅ましさに笑いだしそうになった。やはり、一秦は畜生だ。けだもの以下の、唾棄すべき悪魔である。
「杵築辰! この恥知らずめ! 私に汚名を被せるつもりか⁉︎」
ひくひくと目の端を引き攣らせながら、光華は金切り声で叫ぶと、辰に掴みかかった。ぎょっとする一秦をよそに、辰は表情を変えないまま光華を取り押さえると、強く手首を捻り上げた。
「恥知らずはどっちだよ。良家のお嬢さんが、聞いて呆れるね。それにしても、この期に及んで、往生際が悪ぃぜ?」
ぎりぎり、と締められる手首の痛みに耐えきれなかったのか、光華の顔が歪む。
一秦は慌てて辰にとりすがると、
「辰、光華さんを離してあげてくれ。これじゃ、あんまりだよ。女性に乱暴するものじゃない。なあ、彼女の話を、もっとよく聞いてあげるべきじゃ……」
と嘴を挟んだ。
すると、辰は一瞬、ぴたりと動きを止めたのち、パッと手を離した。光華の手首に赤黒い指の痕が五本、それぞれにくっきり残っていて、それを見た一秦はぞうっと背筋を粟立たせた。
「一秦さんは、優しいね」と、辰は言った。その渇ききった声の恐ろしさに、一秦は彼の方へ顔を向けられなかった。
すると、俯く一秦の顔を覗き込んだ辰は、ゆっくりと眼を細めると、吐息混じりに囁く。
「でも、物凄く怖い思いをしたでしょ? よーく思い出してごらん……」
辰が指摘するほど、一秦は恐ろしい思いをした覚えはない。それよりも、余程、辰の態度の方が恐怖を覚えるのだが、それを実直に告げるのは流石に憚られた。
頑なに瞳を合わせない一秦を、しばらくまじまじと眺めていた辰は、やがて嘆息すると、光華へ目線を転じた。
「俺たちの関係の清算については、家同士で話し合おう」
「……それって、つまり」
「婚約破棄ってコト」
幽鬼のような、ものに憑かれた面持ちの光華が、虚ろな視線を辰に向ける。
それを真正面から受け止めた辰が、大きく唇をつり上げて、わらう。
「あばよ、光華。テメエとはこれっきりだな」
辰がそう言い捨てて、抱えた一秦ごとくるりと踵を返した瞬間、光華が爆発したような叫びをあげた。
「……杵築ッッッ! 待ちなさいッ! 待ちなさいよッ!」
追い縋る光華に気圧された一秦が、背後を振り返ろうと首を回しかけるが、気づかぬ間に辰の指が頭に添えられて、固定される。
「お願いッッッ! お願いします、一秦さま!」
つんざくような悲鳴混じりの声で、光華が言い募るのを、一秦は背を向けたまま聞くしかなかった。
「この人と別れてッ! 早く、早く別れてください!」
ズキズキと、とうに失われた筈の罪悪感が泣き出した。それほどに、光華は真に迫っており、聞くものの心に訴えかけていたのである。
「お願いします……。お願いします、何でもしますから……、早く……」
最後には泣き出してしまった光華に、駆け寄ることは許されない。
だんだん小さくなっていく光華の声と、野次馬のざわめきから遠ざかりながら、一秦は、ああ、このひとは本当に辰のことが好きなんだ、と思った。
一秦はここでようやく、辰を見上げた。彼は真っ直ぐとした視線のまま前を向いて、決して振り返ろうとはしなかった。
「早く行こう、一秦さん」
辰はぐっ……と一秦の体を己に寄せながら、普段通りの調子でそう言った。
「あいつ、ヒステリックだから、このままいると何されるか分からないよ。……」
そして、辰は一秦の顔を見たのだが、珍しく面食らったような表情を浮かべた。一秦が首を傾げると、辰は途端に真面目くさった顔つきになり、訝るような声色で問いかけた。
「一秦さん、何で笑ってるの?」
「え?」一秦は驚いて、咄嗟に自身の頬を触った。すると、たしかに辰の言うとおり、一秦は笑っていた。
父が死んでからというもの、心の底から笑うのを忘れてしまった筈の自分が、満面の笑みを浮かべている。
一秦はだらん、と腕を垂らすと、ぼんやりとした様子で、「ああ、うん、嬉しくて……」と応えた。永いことさ迷っていた暗闇の中に、一筋の光明を見つけたように、一秦の心がすう、と軽くなっていく。
何とも奇妙な話だが、一秦は辰のことを好ましく思っている人間が他にもいたことを、とても嬉しく思っていたのだった。
「ふーん? 一秦さんが嬉しいなら、まあいいか」
辰は不思議そうに眼をしばたたかせたが、それ以上は追及することなく、自然と指を絡ませたのち、一秦と手を繋いだ。きゅ、と込められる力を感じながらも、一秦は手を握り返すことはしなかった。
もやがかかっていた心は、光華の登場により晴れ渡った。一秦は、ようやく己が目指すべき道を見つけたのである。
優しく微笑む父の、星の瞳が脳裏によぎった一秦は、そうっと瞳を閉じて、瞼の裏にその煌めきを刻み付けた。
それをじっと静かに眺める辰に、気がつかないまま。
◼️
郵便受けにぽつねんと鎮座した、分厚い真っ白な封筒を何ともなしに見つめる。宛先には己の名前——葦原一秦と記されており、差出人には柏木真という几帳面な文字が羅列されていた。
一秦は叔父から連絡もなしに突如届いた手紙を、ポストから取り出そうか迷いに迷って……結局、なにもしないままそっと扉を閉じた。
叔父にはあのしんしんと冷たく降り注ぐ雨の日以降、会っていない。
社会人になってからは幾分か交流は減ったものの、ここまで長く連絡を取らなかったことは初めてだったので、それだけ叔父の受けた衝撃と生まれた苦悩が深いことを理解していた。だからこそ、一秦から連絡をとるような無神経な振る舞いは、憚られたのである。
その叔父が、電話でもメールでもなく、わざわざ手紙を寄越してきたということは、何か重大な話があるに違いなかった。
しかし、一秦は叔父の手紙に取りかかる前に、より重要な使命を帯びて、出掛けなければならなかった。そのため、帰宅してから改めて手紙の内容を吟味しようと考えて、郵便受けの中にそれを残したままにしてしまった。
しゃきしゃきのレタスとプチトマト、きゅうりを盛り合わせたサラダをたいらげたのち、黒ごまのジャムがたっぷりと塗られたベーグルを頬張りながら、ロシアンティーで飲み下す。溶かしたジャムはやはりかりん蜂蜜で、絶妙な甘みが紅茶の味をよく引き立てていた。
暦では春にあたるが、季節は再び冬が到来して、連日手足の凍えるような日々が続いている。一秦は朝食を食べ終えると、改めて己の姿を見回した。
悴む寒さを考慮して、全体的に暖かい服装を選んだ。しかし、今回はパンツスタイルをやめて、長らく履いていない——もしかしたら、学生以来かもしれない——スカートを選んだ。クラシカルなロングスカートはワンピースタイプになっているので、その上から厚手のニットカーディガンを羽織る。
そして、最後にミルクチョコレートのようなブーツを履くと、手土産を入れた紙袋を持ち上げる。そして、玄関に置いた姿見で軽くチェックすると、玄関を開けて家を出た。
一秦が今日、初めて行くことになる辰の自宅へ訪問する目的は、ただひとつだけだった。
光華と顔を合わせてから数ヶ月の間、長らく考えていた。己の復讐を完遂するか、辰の幸せを願うか、そのどちらかを。長く苦悩して、煩悩して、下した決断を受け入れるまで、かなりの時間が経ってしまった。——それでも、一秦は後悔していなかった。だからこそ、面と向かって辰に会う気持ちになれたのである。
こつ、こつ、こつ、と石畳を弾くように靴音が鳴り響く。それを耳にしながら、足元をひらひら漂う雪のように白いロングスカートに視線をやった。
珍しくフェミニンな格好をした己を、自嘲気味に笑う。この期に及んで辰によく思われたいという気持ちに、反吐が出そうになる。
何も知らない辰は、一秦の話を聞いたらどう思うのだろう。あれだけ慕ってくれていたのだ。愛はみるみるうちに憎悪へ反転するだろう。それとも、あまりの浅ましさに吐き気を催すだろうか。一秦はどちらでも良かった。どのように話しても、結果は変わらないことは確実であったので。
つらつらと考え事をしているうちに、最寄り駅に辿り着いた一秦は、改札口から入場する。
辰はこの日を、いたく楽しみにしていた。今までのらりくらりと自宅へ招かれることを拒んでいた一秦が、ようやく首を縦にふったのだ。辰は口にこそしなかったが、その眼にはありありと大切な話を切り出そうという気持ちが現れていた。
きっと、告白の返答を求められる。辰は断られることを念頭に置いていないに違いなかった。彼は敏い人間だったから、一秦の感情を読み違えることはない。
息が詰まりそうなほど、ひしめく人々の雑踏に紛れ込みながら、一秦は重たいため息を飲み込んだ。ひどく気詰まりだった。しかし、それらは全てが自業自得。一秦は自身の怨恨の炎によって、じわじわと身の内から焼かれていくのである。
プラットホームから見える桜の大木を見ていると、ふと考えてしまう。
父は振袖姿の一秦だけではなく、今年一番を更新し続ける大雪の様子や、満開に咲き誇る桜を眺める群衆の浮かれ具合や、焼け付くような夏日を記録し続けたことや、あっという間に色づいて散っていった紅葉の赤々とした色を、知らないことを……知る由もないことを……。
プォー……オオーーー……オオー……ーー……オオン……。
物凄い速さで通り過ぎていく電車が、桜と一秦の間を横切った。強い風に煽られながら、長い長い電車の残像を眺める。いつまでも、いつまでも、途切れることなく続く電車を、ずっと見つめている……。
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