第13話 発表会前夜

発表会の前日。港町は冷たい風が吹き始め、夜の帳が早々と降りていた。柚月はいつものように公民館で練習をしていたが、今日はどこか集中できない様子だった。鍵盤を押す指が何度も止まり、弾き間違えた音が小さく響く。


田辺先生は少し眉をひそめながらも、静かに彼女の演奏を見守っている。


柚月(ため息をつきながら)

「何度やっても同じところで間違えちゃう…。私、明日ちゃんと弾けるかな。」


田辺先生は椅子から立ち上がり、柚月のそばに座り直す。


田辺

「間違えたっていいんだよ。大事なのは、自分の音楽を届けたいって気持ちだって、いつも言ってるでしょ?」


柚月は頷くが、不安げな表情のままだ。


柚月

「でも…学校の子たちもきっと笑うと思うし、お母さんだって本当に応援してくれてるのか分からない。みんなの前で失敗したらどうしようって考えると、怖くて…。」


田辺先生はしばらく黙り込み、ふと窓の外を見る。夜空には雲がかかり、星の光もほとんど見えない。それでも風の音が耳に届き、どこか励ますように聞こえる。


田辺(優しく)

「柚月、音楽は誰かを喜ばせるためにやるんじゃない。まずは、自分がどう感じているか、自分に正直であること。それが本当の音楽だと思うよ。」


柚月はその言葉に少しだけ顔を上げ、鍵盤を見つめる。


柚月

「自分に正直…。」


田辺先生は微笑みながら続ける。


田辺

「明日は君が作った音楽を、君自身が一番楽しむ日だと思えばいい。それだけで十分だよ。」


その言葉に柚月の心が少し軽くなったようで、彼女は再び鍵盤に手を置き、小さく頷く。


その夜、練習を終えた柚月は家に帰った。台所では直子が炊事を終えた後で、手に温かいお茶を持ちながら何かを考え込んでいた。


柚月は戸をそっと閉め、直子の隣に座る。


柚月

「お母さん、まだ起きてたんだ。」


直子は少し驚いたように顔を上げる。


直子

「あんたこそ遅かったね。練習はどうだったの?」


柚月は疲れたように笑いながら答える。


柚月

「うーん…まだ上手くいかないところがあって、ちょっと不安。」


直子は黙って柚月を見つめる。その視線にはいつもより優しさが含まれているようだった。


直子

「あんた、何でそんなにピアノが好きなの?」


柚月はその言葉に少し驚き、答えるのをためらう。


柚月

「…分からない。でも、弾いてると、何だか自分が自分らしくいられる気がするの。」


直子はその答えに微かに微笑み、手に持っていたお茶を一口飲む。


直子

「お母さんはね、あんたがこんなに頑張るのを見て、少し不思議な気持ちになったよ。正直、ピアノなんて生活の役に立たないって思ってた。でも…もしかしたら、あんたがピアノを弾くことが、この家にも何かいい影響をもたらしてくれるのかもしれないね。」


柚月はその言葉に目を輝かせ、小さく微笑む。


柚月

「お母さん…ありがとう。私、絶対に頑張る。」


その後、柚月は部屋に戻り、布団に入った。しかし目を閉じても、明日の発表会のことが頭から離れなかった。鍵盤を押す指の感触、会場のざわめき、観客の視線――すべてが鮮明に浮かび、胸の鼓動が早くなる。


彼女は深呼吸をして、心の中で自分に語りかけた。


柚月(心の声)

「誰かに笑われたっていい。誰も気にしなくたっていい。私はただ、自分の音楽を弾くんだ。それだけでいいんだ。」


窓の外から、かすかに波の音が聞こえる。それがまるで彼女を励ますように響き、彼女はようやく目を閉じた。


翌朝、発表会当日。朝日が港町を優しく照らし、海が金色に輝いている。柚月は制服姿で家を出た。台所では直子が柚月を見送りながら、静かに声をかける。


直子

「緊張しすぎないで、自分らしく弾きなさい。お母さんも後で行くからね。」


柚月は笑顔で頷き、大きく深呼吸をして歩き出した。その背中は小さくても、どこか頼もしさを感じさせた。


カット:港町を歩く柚月の姿と、彼女を包む柔らかな朝の光。発表会の会場へ向かうその一歩一歩が、新たな未来へ続いていくかのようだった。

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