これからの幸福の為に

 -漆-


 病室の照明がフッと消えた、就寝の時間帯。



(この時間帯に寝るのも慣れて来たな。普段だともう二時間は起きているところだ)



 ベッドに横になり、目を閉じる。


 病院内では時間毎に薬を飲むだけで他にすることもなく、ただただ日々を過ごしている。



(……ま、入院ってそんなものなんだろうな)



 哲哉が入院してから一週間強――もうじき退院――が経過していた。


 どうして肺血栓塞栓症となったのかがハッキリしていない為、医師としても投薬して様子を見る他に術がないらしい。


 ただ、幸いにして入院してから背中の違和感や痛みがなく、呼吸困難に陥ることもないので、哲哉の身体は順調に回復に向かっているのだろう。



(しかし現金だな……入院するまでは不安で心が落ち着かなかったのに、回復の兆しが見えてくると余計なことを考えるんだから)



 入院に至るまでの流れを思い出し、今の自分に苦笑を浮かべる。


 これまでに病院に滞留したことがないのだから仕方がないが、哲哉は何もしないことがこんなにも退屈だとは思ってもみなかった。



(持ってきてもらった本を読もうと思ったけど、環境が違うと集中できないから不思議だ)



 時間があるのだからと自己啓発の本でも読もうと利昭に頼んで本を持ってきてもらったのだが、読み始めると何故か強烈な眠気に襲われてしまい、当初の目標は全く果たせていなかった。



(退屈だが余計なことはせず、身体を休ませろってことだろう)



 そんな状況が続くのだから、自然と気持ちに余裕が生まれてくる。


 natukiの言葉ではないが、今回の入院は哲哉にとって何かの思し召しだったに違いない。



(……そうだな。入院したからこそ、これまで以上にヒトとの繋がりを感じられたからな)



 唐突な入院に迅速な対応をしてくれた早紀と、知らせを受けて駆け付けてくれた利昭とみのり。


 哲哉の病状を知ってもなお明るく接し、励ましてくれたUーYhaとnatuki。


 そして、宣言通りに見舞いに来てくれた朝比奈夫妻と竹元家の面々。



(朝比奈さんにはお見舞い袋まで貰ってしまって、逆に申し訳なかったな……)



 こうして時間を作って会いに来てくれただけでなく、心付けまで用意してくれていて、哲哉としては恐縮する一方だった。


 最初、哲哉の症状を知った夫妻は難しい顔をしていたが、今に至るまでの投薬で体調が回復しており、退院になる目途が付いていることを伝えると、ホッと安心した表情を浮かべ、凄く喜んでくれたのが印象的だった。



(退院したらまた食事をとか、素敵な相手を見つけたら紹介するとかって言ってくれて嬉しかったな)



 以前、利昭がご近所付き合いは大事だと言っていたのを思い出す。


 身内でもないのに心配したり喜んだりしてくれるのは、単なる隣人として以上の関係となっている証拠なのだろう。



(……そういう意味で、自分は縁に恵まれている)



 ふと、朝比奈夫妻の言っていた言葉と、同窓会の帰りに智秋から告げられた事実とが脳裏を過った。


 少し寂しい気持ちになるが、こればかりは相手あってのことだから、哲哉自身は運を天に任せる他にないのだろう。



(ま、自分に相応しい相手は頭の片隅に置いておくとして、同じ日に時間をずらして竹元さん達が面会に来たのは驚いたな。しかも本当に一家総出で来てくれたし)



 哲哉は冗談半分ぐらいに思っていたのだが、智秋までもが一緒に来たのは意外だった。


 実際、家が近い関係で智秋とはそれなりに会う機会があるのだが、竹元家の一員として対面したのはこれが初めてで、改めて近しい存在になったのを自覚したのだった。



(お姫は兄貴と一緒に何度も来ているんだから、敢えて来なくたって良かっただろうに。全く義理堅いんだから)



 哲哉を含めて総勢六名での会話となった。


 竹元家の両親への挨拶から始まり、病状や退院の時期を伝えた後、先の宴会のことや学生の頃の話と続き、哲哉自身が入院しているのを忘れそうになるぐらいに明るく、気持ちが軽くなる会話だった。



(四人部屋の病室なのに自分以外の患者が居なかったのは幸いだったな……)



 騒がしくしていたわけではないが、静粛な病室で雑談をするのは何となく罪悪感があった。



(そういえばあの時、お姫と椎名は意味深なことを言っていたな……)



 一頻り話をして、哲哉が病室から去ろうとする竹元家の面々を出迎えようとしたところで、みのりと智秋に声から聞かされたどうにも意味深な言葉のことを思い返す。



『そうそう。同窓会で私と榊さんは駅で別れたでしょ? その後って何か連絡はなかった?』


『ん? いや、全くないな。榊は自分が入院していることも知らないんじゃないか?』


『え、そうなの? 優希って其処まで慎重派なの? あ、入院に関しては哲が優希に連絡するのは変だから気にしなくて良いからね』


『……その言い分だと榊には自分の状況が伝わっているってことだな? お姫と榊を見送った後の昔話に何かしら関連しているのか?』


『あれはボクなりの哲への懺悔なだけで、優希は直結してないよ。でも、あれから結構な時間が経っているのに、哲は覚えていたんだ?』


『ああ、アレのお陰で学生時代は兎も角、その後にも展開がないのは自分に原因があると分かってしまったからな……』


『わ、藪蛇になっちゃった……』


『そんなの、哲君が原因ってわけじゃないからね? うーん、どうやら今回も私達の思い違いだったみたい。ゴメンね』



(アレは自分に、榊から何らかの連絡があるのが決まっていたって口振りだった)



 あの日、みのりと優希の間で会話が交わされ、優希が哲哉に連絡する流れになったようだった。



(どうも椎名も何か知っているみたいだが……)



 帰りしなの電車内で二人が何を決めたのかは流石に分からなかったが、智秋も絡んでくるとなると哲哉にも何となくだが察しはついた。



(本来、アレは自分が解決すべき問題だったんだけど、二人のお陰で決着を付けられそうだ)



 腐れ縁のよしみというより、面白がっているだけという感はあるが、それでも心強い理解者だった。



(これも一つの縁、か)



 勝手に嘆いたり感謝したりしている一単語を思い返し、哲哉は以前に謙太郎が言っていた言葉が事実だったと改めて感じたのだった。




-捌-


「駅から学校までの道則、結構な距離だったという認識だったんですが……」


「ん? ああ、もう駅に着くな。商店街を通っていくから、それなりに距離はあるんだろうけど、こんな風に話をしながらだとあっという間だったな」


「……ですね。それだけ夢中になっていたってことでしょうけど」



 同窓会からの帰路。


 夜道を四人でゆっくり進み、駅の改札近くなったところで、優希はくるっと向きを変えた。



「話は尽きませんが、みのり様と榊は電車ですので、此処で失礼します」


「えっと榊さん? 様っていうのがむず痒いんだけど、普通にみのりって呼んでくれて良いよ?」



 その呼び方に抵抗があるのか、みのりは困ったような表情を浮かべる。


 此処に来るまでの会話で、優希の中ではみのりには「様」を付けるべきと定着したようだった。



「いえ、親戚となったのも何かのご縁ですから、榊がそうしたいのです。もし、それがご迷惑でしたら、哲哉様に併せて姫様と――」


「わわっ、それは恥ずかしいから駄目!」



 みのりは優希の提案を慌てて退け、哲君の気持ちが何となく分かったと、小さく溜息を吐いていた。



(お姫も姫様も大差はないような気がするが、この場合は榊の頑固さに辟易したんだろうな)



 優希は決して機転の利かない人間ではないのだが、恩義に固執している一点だけは玉に瑕だった。



「ま、みのりは利先輩と一緒になったんだから、色々な方面から責められても仕方ないんじゃない? 優希もそうなのかは分からないけど、高校の時に利先輩に憧れていた女子は相当な数が居たはずだし」


「え、嘘でしょ? まさか榊さんも私が利昭さんと結婚したから意地悪しているの?」



(いや、お姫は榊に質問するんじゃなくて、椎名にツッコミを入れるべきだろ……)



 そもさま、みのりは優希に責められてないし、クラスの女子達から利昭への淡い想いを歪曲させて向けられるのもお門違いだろう。



「椎名さんの言わんとするのも分からなくはないですが、榊がみのり様を敬うのは別の理由です。主従として自然の流れで芽生えたと認識して下さい」


「……当然のように言い切っていたが、設楽家と榊家に主従関係はないからな?」



 全く成立していない主張を哲哉は訂正するが、優希は敢えてそれを無視して話を続ける。



「利昭様は素敵な殿方ですから、同窓会でもみのり様はクラスの女子達に質問攻めにされていましたね。それこそ利昭様の人徳なのでしょうけど」


「うん。何人かにお幸せにって、泣かれたよ……」


「何も泣くことはないだろうに。うちのクラスの女子、全体的に控えめで大人しい娘ばっかりだったから、感情が抑えられなかったのかもね」



 お陰でクラスの男子はボクを女番長だって認識していたみたいと、智秋は態とらしく溜息を吐く。



「其処は適材適所ってことだろ。自分も他の女子より椎名の方が話し易かったし。でも、兄貴って女子に慕われていたんだな。全く知らなかった」



 実家に居た頃に利昭の浮いた話を聞いたことがなかった哲哉は、その事実を前に目を丸くしていた。



(しかし、自分と兄貴の何処に差が出たんだ? 初対面に目が怖いと言われるのは同じなのに……)



 利昭は後輩に慕われていたようだが、哲哉は先輩や後輩はおろか、同級生からも興味を示されなかったのだから、何が違うのか気になるところだった。



「まぁ、利先輩は女子に優しかったからなぁ。そりゃ、一見して第一印象が同じなら、身近に居る平凡な同級生より、憧れの紳士的な先輩に惹かれるのが普通でしょ?」


「ちょ……おまっ、その扱いは酷くないか!?」



(くっ、まさか椎名には自分が何を考えているのかがバレているのか?)



 まさかの口撃に、哲哉は背中に変な汗が流れていくのを感じた。


 心の嫉みが顔に出てしまっていたのか、智秋は哲哉に悪戯っぽい笑みを浮かべて言葉を返す。



「あははっ、ゴメンゴメン。でも、哲に誰も寄って来なかったのには別の理由があるだろうから、利先輩との違いを考えたって意味がないよ」


「ん? 別の理由?」


「此処で話し始めると二人が電車に乗れなくなるから、見送った後で良いでしょ?」



 ボク達は歩いて家に帰られるんだからと、智秋。



「改札の近くで話が盛り上がっちゃったけど、このままだと延々と続いちゃいそうだから、サッと切り替えようか」


「そだね。智秋が哲君に何を話すのかは気になるけど、私達は会おうと思えば会える距離だから、その話はまた今度だね」



 哲哉と智秋の延々と続き兼ねない会話を区切って、みのり。



「今日の為に遠方から来た皆と比べたら全く苦にならないんだし」


「名残惜しいですが、これが今生の別れとはならないでしょうから、今日は此処で切り上げましょう」



 続けるようにして、優希。


 みのりの動きに併せて自動改札機にICカードを当て、一緒に駅内へと移動していく。



「ん……変に引き留めてしまったな。その、久し振りに会えて嬉しかった」


「榊も楽しかったです。ご一緒できて光栄でした」


「光栄って……大袈裟だよ。榊と自分は単なる同級生なんだから」


「いえ、哲哉様は同級生で主です。だから機会があれば、またご一緒させて下さい」



 哲哉の照れ臭そうにしている表情に対し、優希は嬉しそうに微笑し、深々と一礼してみせた。



(主従関係じゃなくて、主と来たか。それに、だからの意味も分からないんだが……ま、今日の同窓会は榊にとって有意義だったってことだろうな)



 数年ぶりに垣間見た優希の懐かしい笑顔に、哲哉は何故かホッとするのを感じていた。



(敢えて笑わない演技はしてなっただろうけど、高校の時は今みたいな表情はしなかったなよな?)



 恐らくは無意識だったのだろうが、昔の優希を知っている哲哉としては、その変化が寂しかった。


 それこそ高校で再会した時、ヒトは成長して変わるものだと実感したというのに、だ。



(結局、自分は今でも彼女が好きなんだな……)



 自覚はあった。だから、状況の変化に追い付けなくなった。


 気になっていたからこそ、優希の忠義や考えの違いに戸惑い、己の気持ちを封じざるを得なくなっていった。



(……いや、其処は自分が勝手に疑心暗鬼になっているだけか。自分の想いが彼女の忠義に負けると思って怖がっている)



 内心で、意気地のなさに溜息を吐いてしまう。


 哲哉が願えば優希はそれを叶えてくれるのかも知れないが、それは哲哉の一方的な考えであり、必ずしも優希の本懐であるとは限らない……要はそういうことなのだ。



「それでは、今度こそ失礼します」


「またね! あ、哲君はちゃんと智秋をお家まで送ってあげてね」



 そんな哲哉の憂鬱を他所に、みのりと優希は駅のホームへと向かって行った。



「……光栄でしたなんて言葉が出てくるの、本気で忠義を貫いているって感じだね」



 二人の姿が見えなくなってから、ボク達も帰ろうと、智秋。


 そのまま並んで、ゆっくり家路を辿っていく。



「哲を信頼しているからだろうけど、優希ってあんな表情もするんだね? あのクール系女子が地だと思っていたから、ちょっと吃驚したよ」


「……そうだな。自分も高校で再会してから榊が笑ったの、初めて見たかも知れない」


「え、そうなの? てっきり哲と二人の時はデレてるって思っていたんだけど?」


「デレてるって……そんなわけないだろ。椎名も知っての通り、榊は従う姿勢を示しているけど、自分を含め、設楽の人間に気を許しているわけじゃないと思う。寧ろ、義務感から余計に緊張を高めているようにも感じるし」


「んん? でも、そうだとしたら哲に向けられたあの自然な笑顔、辻褄が合わないんだけど?」


「お前、他人の様子をよく観察しているな……これは自分の推測だけど、同窓会で気が緩んだというか、気持ちが切り替わったんだろうって」


「あー……哲がカミングアウトしたあれかぁ。確かに意識して広めまいとしていたって言っていたし、強ち間違った推測じゃないかもね」



(やっぱり椎名は切れ者だな。まるで聖徳太子だ)



 哲哉は同窓会と言っただけだが、智秋は瞬時に言葉の意味を理解し、納得して何度も頷いていた。



「ふむ……だとすると、あの言葉は社交辞令じゃないかも。実際、哲も優希のこと、好きでしょ?」


「な、何だ藪から棒に……まぁ、榊のことが嫌いだったら、自分から接触や会話を避けていただろうし、忠義や恩義って言葉を憎んでいただろうな」


「あれ、サラッと言ったね? ま、それでも素直じゃないのが哲らしいか」


「はいはい、どうせ自分は捻くれているよ……それに、もうそういうのを気にする歳でもないだろ」



(同窓会の時にお姫や椎名の前で、自分が榊をどう思っているか暴露してしまっていたからな……)



 勿論、直接的な言葉を紡いだわけではないが、勘の鋭い智秋は察しがついていることだろう。



「そう? 別に歳は関係ないと思うけど。それで、哲は優希の忠義が邪魔ってことなんだよね?」


「……身も蓋もない言い方だがそうだな。榊が主従関係に拘る以上、諦めざるを得ないな」


「だろうね。正攻法でやった場合、哲の心が木端微塵に砕けるのがボクでも容易に想像できるよ。だけど、同窓会で哲が口を滑らせた結果、優希も考えが変わったんじゃない? 改札での笑顔と台詞の意味は重なっているように思えたし」



 智秋の発言に、哲哉の足がピタッと止まった。



「そ、そういうものなのか? 確かに帰り際の榊はこれまでと雰囲気が違うと自分も思ったけど……」


「まぁ、其処はボクが感じたって程度だけどね。でも、男女の仲は賽の目次第なんて言葉もあるぐらいだし、期待しても良いんじゃないかな」



 結果は哲次第で、ボクは全く責任を負えないけどと、智秋は悪戯っぽく微笑んだ。



(ああ、そうか。可能性はゼロじゃないんだな?)



 前に優希に想いを伝えた場合の結果を想像し、勝手に虚しくなった哲哉だったが、これまでとは違うと智秋に背中を押され、僅かながらも行動に移すべきだと思えた。



「何だか勇気が湧いてきた。椎名に話を聞いて貰って気持ちの整理がついたよ。ありがとう」


「や、お礼なんて言わないでよ。寧ろ、高校の時に哲が誰にも声をかけられなかったの、ボクとみのり、それから優希が原因だろうから」


「は?」



 智秋の発言に驚き、哲哉は眉を顰めた。



「それ、改札で言っていた話だよな? どうして三人が原因になるんだ?」


「ウチのクラスの雰囲気が産み出した結果だろうけど、哲はボクやみのりといつも連んでたし、ボク達が居ない時は優希と一緒だったんじゃない?」


「まぁ、そうだな……あ、もしかして自分ってクラスの女子に軽蔑されていたりするのか?」



 智秋の一言を基に、哲哉は高校時代の自身の行動を振り返し、瞬時にそれを察する。



(なるほど。自分は軽い漢、女の敵みたいに思われていたわけか。まぁ、誰に何を言われようと気にはしないんだが……)



 哲哉自身が自覚していない内に、連んでいる面々に迷惑をかけていたとなると状況は変わってくる。



「自分は鈍感なんだな。その、今更だけど嫌な思いをさせていなかったか?」


「少なくともボクは気にしなかったし、みのりも距離を置こうとしなかったんだから大丈夫でしょ。それこそ優希が哲から離れる訳もないし」


「それなら良いんだけど……椎名がそんなことを言い出したってことは、当時は噂になっていたんだろう? 自分直に聞くことはなかったけど」



 男女の交流を意識する年頃なのだから、噂話は善悪関係なく飛び交っていたに違いない。



「そうだね。他のクラスからは、四人で爛れた関係を楽しんでいるって定着していたね。酷い話だよ」


「うわ、発想が幼稚だな……完全に卑猥な妄想だ」


「だからだろうね。ウチのクラスの全員が噂を聞いて呆れていたよ」


「え? それじゃ、自分は軽蔑されてない?」


「それこそ女子だけじゃなくて男子もだと思うな。クラス内で実際に少なからず会話はしているから、本当か嘘かは自然と汲み取れるでしょ」


「そうだったのか……でも、それだったら何で自分はクラスの皆に声を掛けてもらえなかったんだ?」



 状況を理解してホッと胸を撫で下ろすと、其処で別の疑問が生じてくる。



(噂を耳にした他クラスの面々が自分を避けていたのは仕方がないとして、自分はクラス内でも三人以外と交流があったように思えないんだが……)



 智秋の言葉が事実だとすれば、哲哉はクラス内で学友と接していられたはずなのだが、実際にはそうなってはいなかった。



「それは単純に哲に興味がなかったってことでしょ。女子は既に彼女が居るって知っていたし、男子はハーレム状態の哲を羨んで嫉妬していたとかじゃない?」


「うぐっ、今のはグサッと刺さったぞ……ま、まぁ、嫉妬は同じ男子として納得はするけど、自分に彼女が居ないのは椎名も知っていたよな?」


「其処がウチのクラス女子の変わっているところだね。噂になった哲が囲い込んだ三人に枠があって、校内ではボクやみのりと一緒に居ることが多かったから友達枠で、優希が本命と認識されたみたい」



 実際、二人で一緒に居るところを目撃されていたようだしと、智秋は態とらしく溜息を吐いた。



「哲がボクとみのりを差し置いて優希を選ぶとは思わなかったよ……」


「そういう冗談は要らないからな? でも、そうか。これも自分の不注意が生み出した結果ってことだろうけど、その辺りって榊は知っていたのか?」


「どうだろう? 噂は耳にしていたかも知れないけど、哲が彼女って認識していないんだから、あの頃の優希からすれば主従関係を貫くだけじゃない?」



 ボク達は哲が誰とも付き合っていないのを知っていたけど、クラスの皆は雰囲気に呑まれたんだろうねと、智秋。



「だから、例え哲に好意を抱いたクラスの女子が居たとしても、余程でない限りは声を掛けられなかったってわけ」


「なるほどな。おまけに男子は大小こそあれ、自分を妬ましく感じていたってことか……」



 思春期の男女にしては大人な対応すぎる節はあったが、クラス内の雰囲気を加味して考えてみると、智秋の説明は辻褄が合っているように思えた。



(椎名は大人しい娘ばかりだと言っていたし、自分も寡黙な奴が多かったって認識しているしな)



 事実、今回の同窓会で再会し、四人で一緒に居るところに声を掛けて来た者も数名は居たが、どれもそれ以上の話題には展開されなかった。


 お互いに干渉しないと言えば聞こえは良いが、結局は昔と同じく、哲哉にはそれほど関心がないというところだろう。



「うーん……少し寂しい気はするけれど、自分は学生の頃に部活もしていなかったから、色々な接点がないのは当然だったんだろうな」



(噂を鵜呑みにした連中はどうでも良いけど、同じクラスの面々とはもっと話をしておくべきだったな……後悔しても仕方ないが)



「女子は勝手に思い込みで哲を敬遠したけど、男子は哲に対して敵意はなかったんじゃない? ……その、結果的に哲の機会を奪ってしまったボクが言っても信憑性はな

いんだけどさ」


「ん? ああ、椎名は其処を気にしていたのか。ようやく合点がいったよ」



 後半にかけて智秋の表情に何処となく影が差している理由を理解し、哲哉は納得したように何度も頷いた。



(さり気なく心を読まれたのは置いておくとして、椎名は色々と余計なことを考えすぎだな)



 帰路の会話にしても、縁がないといじけていたのを具体的な理由を付けて励ましたり、諦めかけていた優希との関係に一つの可能性を論理的に説明したりと、智秋に多少の負い目があったとしても、単なる同級生への対応としては破格の待遇だった。



「機会を奪ったも何も、自分は噂になっていたことすら知らなかったんだから、椎名がそれを負い目に感じる必要は全くないぞ。寧ろ、噂に心を痛めたのは椎名達の方だろうから、自分の鈍感さを責めてくれても良いぐらいだ」


「……そんなのは今更だからしないけど、事実を知ってボクに恨み言はないの?」


「そんなのあるわけないだろ。それこそ一緒に過ごせたから今に繋がっているわけだし、あの頃から自分は椎名やお姫、榊と居られて楽しかったんだから、感謝はしても文句を言うようなことはあり得ないな」



 智秋の懸念を覆すように、哲哉は口元に笑みを浮かべた。



「交流がどうこうって椎名には我儘も言ってしまったけど、自分がクラスの連中に率先して声を掛けようとしなかったのは事実だし、三人が居るからそれで良いって思っていたんだろうな」



(……そうだな。これまで声を掛けられないのは特異な容姿ばかりじゃなく、自分で決めて敢えて行動しなかったからだ)



 高校の時のクラスメイトからの妙な気遣いは兎も角として、卒業してからも哲哉は相手に恐れられる容姿を理由に僻んで嘆いていた節があった。



(今更ながら同じクラスの面々とはもっと話をしておくべきだったと後悔はしているけれど、自分はそれ以上にこれまでに?いだ絆を大事にしたかった……それだけのことだ)



 みのりと出会って仲良くなったのも、智秋と意気投合して親しくなったのも、優希に恋をして真剣に悩んだのも、様々な要素から導き出した証で、それこそ奇跡だったに違いない。



「……それは流石に視野が狭くない? でも、哲が気にしていないなら、ボクももう引き摺らない」



 哲哉の言葉に吹っ切れたのか、智秋の沈みがちだった表情が笑顔へと戻ってきていた。



「今のは本音だろうけど、臆面もなくそういうことを言われるとボクだって照れるんだからね?」


「それは自分も一緒だけどな。でも、お互いに遠慮するような仲じゃないだろ?」


「あれ? ボクが親友って言ったら往なしたのに、その哲がそんなことを言うんだ?」


「……お前、席でのことを根に持っていたのか? あんなの、場の流れだろうが」



 一瞬、智秋が意地の悪い笑みを見せたのに戸惑ったが、それが何を意味するのか、即座に理解する。



(執念深いというか、自分の言ったことをちゃんと憶えているんだよな……普段はヒトの話を聞いていなさそうなのに)



 哲哉は古来より言われている言葉――男女間の友情は成立しない――をそのままにしていたが、今の関係は正にそれだと認識を改める。



「あ、またボクに対して失礼なことを思っていたでしょ? これだけ尽くしているのに……しくしく」


「うっ……その、悪い。認識を改めるから、嘘泣きは止めてくれ……」



 心を読まれ、思わず苦虫を噛み潰したような表情を浮かべてしまう。



(確かに失礼なことを考えていた自分に非があるんだけど、何だか納得がいかないぞ……)



 恐らくは気持ちが表情に出てしまっていたのだろうが、あまりにも単純な己の思考が恨めしかった。



「ふっふっふっ、流石は哲。素直で良いね」



 哲哉からの詫びを受けて満足そうに、智秋。



「これから優希とのことで色々と支援するんだから、ボクとみのりを敬っておいて損はないよ。前にも少し話をしたけど、哲と優希の関係は観ているボク達が焦らされている気分になるからね」


「敬えと来たか……うーん、自分と榊ってそんなに鈍感なのか?」


「鈍いというより、お互いが好き過ぎた結果ってことだろうけどね。ま、大船に乗ったつもりで吉報を待っていてよ」



 此処で話を切り上げ、智秋は哲哉に手を見せる。



「先ずは実家までの護衛、よろしくね」



(あ、敬ってはそういう意味も含めてか。正直、柄じゃないが……)



 智秋の望みを瞬時に察し、哲哉は片膝を跪く。



「畏まりました。短い時間ですが、エスコートさせて頂きます。お手をどうぞ」


「おお……柄じゃないって思いながらもやってくれるのが素晴らしいね!」


「……期待を裏切らなかったようで良かったよ。今日に限っては自分も妙なテンションになっているのは事実だな」



(しかし、椎名には完全に自分が何を考えているのかが読まれているな。何とかしないと後々に響いて面倒なことになりそうだ……はぁ)



 嬉しそうにしている智秋の手を取りながら、哲哉は智秋の心意気に感謝すると同時に、自分の変な癖――癖なのかどうなのかも不明だが、相手に心を読まれてしまう法則性――に何らかの対策が必要であるのを自覚し、心の奥底で大きな溜息を吐いたのだった……。




-玖-


 哲哉へ


 退院おめでとう。いきなりだけど退院日の午後、 哲哉の快気祝いをウチでやることに決まったから、寄り道をせずに実家に来ること。


 尚、準備で誰も迎えに来ないので悪しからず。


 早紀より



(寄り道も何も、退院早々で何をするっていうんだよ……気持ちは嬉しいけどさ)



 入院から約二週間が経過した頃、医師から症状が安定したので退院は可能だと告げられた。


 症状に関しては当初と同じく、肺血栓塞栓症となった原因が不明な為、これからも要観察の状態――薬を飲み続ける――とのことだったが、病院に居続けても変わりがないのだからと、哲哉は翌日の退院を希望した。



(連絡したその日の夜に決まったとか、行動が早いにも程があるだろ……気持ちは嬉しいけどさ)



 関係者に退院の日時を伝えた数時間後、早紀から哲哉にメールが届いていた。


 誰も迎えに来られないというのには若干の不安を感じはしたが、自分の為に全てが動いているというのを自覚する。



(まぁ、色々と貴重な体験は出来たけど、流石に病院はもう良いかな……)



 哲哉は晴れて退院となったが、病院は正に生と死が行き来する場所。


 今回は家族や親戚、知人との面会にも恵まれたが、此処は心の落ち着ける場所ではない。



(手続きは済ませたし、立つ鳥跡を濁さず、だ)



 身支度を整え、病室を出る。


 お世話になりましたと院内の廊下で会う看護師や医師に挨拶しながら、哲哉は病院を後にした。




 昼下がりの午後に病院を出て、哲哉は眩しい日差しを浴びていた。



(約二週間ぶりの外の空気と日の光……ああ、今日は晴れていて良かった)



 入院していた時とは違う感覚。


 晴天というのも相俟って、ようやく表に出られたという開放感があった。



(病院の中と外では気分も身体の調子も全然違うんだな。健康って素晴らしい)



 改めて退院したという事実を実感していると、スッと横からヒトの影が映った。



「お待ちしておりました。哲哉様」


「……榊?」



 聞き慣れた、明るい声。


 あれからそんなに経っていないというのに、哲哉は何故かそれを懐かしいと感じていた。



「はい。従順な榊です。お迎えに参りました」


「従順って何だよ……でも、来てくれたのはありがたい。準備で手が回らないって聞いたけど?」


「サプライズ、ですかね。今日の主賓は哲哉様ですから、蔑ろにするわけがないじゃないですか」



 哲哉の間の抜けた反応に、優希は改めてご退院、おめでとうございますと、何処か楽しんでいるような笑みを浮かべた。



(……ああ、榊はこんな風に笑っていたんだよな)



 同窓会の別れ際に見せた、あの改札での会話と表情とが哲哉の脳裏に甦る。



(そういや、椎名が気になることを言っていたな。それが本当なら嬉しいのだが)



 一度は諦めていた哲哉としては期待しているものの、鵜呑みにするにはリスクが高い情報だった。



「その、お見舞いにも行かず――」


「待った」



 優希の次に続く言葉を察し、哲哉は先行して掌でそれを抑える。



「頭を下げようとしないでくれ。こうして出迎えに来てくれたんだから」



(表情が豊かになったのは良いけど、存在しない主従関係に囚われているのは容易に崩れないか)



 実際、設楽家に言われても続けていたのだから、状況が変わって即座に順応するのは難しいだろう。



「寧ろ、このタイミングで榊が出迎えてくれたのは嬉しかったし、ホッとしたんだ。病院から実家まで大した距離じゃないけど、一人で行くのは少し寂しかったからな」



 入院して気持ちや感覚が鈍くなったのかもなと、哲哉は更に言葉を続ける。



「だから、そんな悲しそうな顔をするな。折角の祝いの日だし、お互いに明るい気持ちで行こう」


「……確かにそうですね。此処で暗い気持ちになっていたら意味がないですね」



 少しだけ考える仕草をして、優希はスッと気持ちを切り替える。



「実はお出迎えの件、最初は早紀様にみのり様と椎名さん、榊の三人でと指示されたんです。利昭様や竹元先輩より榊達の方が哲哉様は喜ぶって仰って」


「そうなのか? 当初から誰も迎えに来ないって植え付けられていたから、兄貴や真ちゃんが来ても――……いや、そんなことはないか」



(流石はお袋。心理的な面も含めて、自分の性格を理解しているってことか)



 早紀が三人を選んだのは、哲哉が好色だとかそういうことではなく、同じ時間を過ごした経験に期待してのことだろう。


 勿論、利昭や真悟が出迎えても哲哉の不安は払拭されただろうが、共有した時間軸に違いがあるのだから、哲哉との間に少なからずズレが生じてしまうのは仕方のないことだった。



「お袋は相変わらずの策士だな……でも、此処に来ているのは榊だけだよな?」


「はい。元々は三人で行くはずでしたが、お二人に榊が一人で行かないと駄目と言われまして……」


「は? まさか二人に意地悪されている?」



(あー……竹元家が一家総出で見舞いに来た時に言っていたアレか?)



 言葉にした後で、哲哉はみのりと智秋が何かを画策して動いているのを思い出す。



(榊から連絡が入ると聞いていたけど、結局はなかったからな。それが関連しているんだろう)



「いえ、そんなことは全く。ただ、榊の背中を押してくれたと言いますか……」



 珍しく歯切れの悪い、言わなければならない言葉を言いあぐねている口調で、優希。



(これは……もしかして期待しても良いのか?)



 同窓会の帰路と見舞いでの会話とが完全に繋がり、哲哉は自然と気持ちが高ぶるのを感じた。


 みのりや智秋がどのように優希の意識を変えたのかが気にはなったが、優希自身がこれまでとは違う形で哲哉に接しようとしているのは確かだった。



「ん? 背中を押してくれたってことは、自分に言いたいことがある?」


「あ、ええっと……前々から名前で呼んで欲しいってお願いしていた件、改めて検討しては頂けないでしょうか?」



 意地悪な哲哉に促され、観念した優希は意を決して言葉を紡いていく。



「んん? それはどういう? 自分も意地になっているところはあるかもだが、必要なのか?」


「はい。確かにこれまでは榊の我儘だったのですが、この間の同窓会の帰路で、みのり様に榊の哲哉様への主従として以外の気持ちを問い詰められてしまいまして……」


「……はい?」



 望んでいたのと違った、予想の斜め上の展開に思わず絶句してしまう。



(ええー……お姫ってやることが大胆だな……)



 哲哉が関係を説明したことで優希の考え方が解放されたのは間違いないが、本人の前で確認しようとするのはなかなかの強者だろう。



「それは流石に強引だな……まぁ、お姫なりの気遣いだろうけど、そんなのは答え辛いし、応える義務もないだろ」


「そうですね。でも、あの時の榊は何故か素直に言えたのです。榊は哲哉様を本気でお慕い申しております、と」


「ふむ。それで呼び方を再検討――……んん?」



 まるでお約束のように数秒遅れて、哲哉。



「ちょ、ちょっと待て! 榊はそれで良いのか? これまで貫いていたのと、考え方が懸け離れていないか?」



(まさか椎名の言っていたのと同じ流れになるなんて! これは完全に不意を突かれたな……)



 ゼロではない可能性に期待はしてはいたが、この急展開には流石に哲哉も戸惑ってしまった。



「いえ、榊の考え方に融通が利かなかっただけで、設楽家への恩義からは離れていないです」


「どういうことだ? 榊は主従関係に美学を感じていて、それに沿っていたんじゃないのか?」



 過去の経緯から設楽家に恩義を感じているのは確かだろうが、当の設楽家としては榊家と対等であるという姿勢から、互いの主張――殊、優希が求めているのは従属というより隷属に寄っている感がある――に隔たりがあった。



(だからと言って、これまでの関係を無碍にする必要もないから、相手の意思を尊重していたのだが……恩義に対する考え方が変わったってことか?)



「そんな崇高な理念なんて持ち合せてないです。確かに設楽家の皆様にはそう思わせるような行動を続けて来ましたが、あれは榊の我儘だったと思い知らされました」



 哲哉の疑問を他所に、みのり様に覚悟が出来ていないと叱られてしまいましたと、優希は自虐的に苦笑を浮かべていた。



「お姫に叱られたのか……覚悟が出来てないって、恩義に関してってことか?」


「はい。榊が設楽家の皆様に恩義を感じているのは兎も角として、榊の行動は自己満足ではないか、設楽家の人柄や好意に甘えているだけじゃないかと言われまして……返す言葉が出て来ませんでした」


「あー……お姫の印象が大きく変わった感じだ。まぁ、叱るって相手のことを想っているからすることだけど、榊からすれば青天の霹靂だっただろ?」


「ええ、痛烈な一言でした。でも、気付きも得られたんです。主従関係を盾に理不尽な要求をされた場合、榊はそれに応じる覚悟があるのだろうかと」



 例えば、哲哉様が犯した罪を榊が身を挺してでも庇えるのかとか、哲哉様から性的な意味で身体を捧げろと命令されたら応じられるのかとか、色々と想像を膨らませましたと、優希。



(……榊の想像は良いとして、どうして自分が悪いことをしているのが前提なんだ?)



「実は設楽家の哲哉様以外も対象として想像してみたのですが、そちらは何れも受け入れられなかったと言いますか、上手くいかなかったんです。」



 哲哉が不満そうな表情をしたのを察してか、話は最後まで聞いて下さいと言わんばかりの落ち着いた表情で続ける。



「単純に哲哉様とご一緒だった時間が長いからと思われるかも知れませんが、今になって思うと、榊は最初から設楽家の皆様ではなく、哲哉様だけを主だと認識していたんでしょうね」



 だから、榊は哲哉様にならどんな要求をされても受け入れられるんですと、優希。



「や、そもさま主従関係じゃないからな? でも、最初って?」



 優希の爆弾発言にドキッとしながらも表面には出さず、哲哉に向けられた単語に小首を傾げる。



「桜冬さんや榊が自分達に恩義に報いたいって言い出したの、高校で再会してからだろ?」


「いえ、榊が哲哉様を主だと認識したのは、早紀様がお二人を連れて榊の家に来られた時です」



 俗に言う一目惚れだったのかも知れませんと、優希は恥ずかしそうにスッと瞳を伏せた。



(なんとまぁ、そうと分かっていれば、拗らせなかったのに……事実は小説よりも奇なり、だ)



 驚愕と共に、優希も同じ気持ちだったのかと、ジワジワと心の奥深くに染み込んでいく感覚がした。



(本当に随分と遠回りをしてしまったな……ああ、こんなにも温かくなるものなのか)



「母と共に従うのが恩義に繋がると盲目的に信じ、設楽家からの依頼であれば何でもすると己の感情さえも封印して来ましたが、哲哉様とみのり様が榊の勘違いを解き放って下さいました」



 まるで哲哉の想いを察知したように、優希。


 形のない恩義という呪いに個々の想いが縛られ、為す術なく翻弄された数多の時間を悔いるよう、そっと唇を噛んた。



「過ぎ去った時間は取り戻せませんが、榊の気持ちはあの頃から何も変わっていません。前に哲哉様の恋人になれればと口にしてしまいましたが、哲哉様はこんな欲深い榊を受け入れられますか?」



 哲哉の瞳に映ったのは、懇願にも似た不安げな優希の表情で、存在しない主従関係ではなく、秘めつつも培ってきた真剣な感情だった。



(そんなの、受け入れないわけがない)



 一度は封印した、けれど、諦められなかった幼い頃からの色褪せない想いが其処にあった。



「……榊、今日は自分の快気祝いなのに、何度も暗い表情をしているぞ。折角の美人も台無しだ」



 優希の潤んだ瞳に内心の感情――想いが重なり、これ以上ないぐらいに高ぶっている――をどうにか抑えつつ、哲哉は敢えて話題を逸らした。



「椎名とお姫の画策に踊らされたんだろうが、自分が優希を欲しているのは変わらないから、これまでと同じように接してくれよな?」


「あ……」



 一点を除いてこれまで同様に、それでも違いが自然に伝わるように、哲哉。



(優希がサラッと遣って退けたから、自分も簡単に出来ると思ったのに……緊張感が半端なかったな)



 色々と話には聞いていたが、実際に意中の相手に気持ちを伝えるのにはかなりの覚悟が必要だった。



「……ありがとうございます。哲哉様」



 哲哉からの変化球を見事に受け取り、優希は胸元に手をやって深呼吸。



「榊の欲深さに辟易せず、更には昔からの夢も現実にしてくれました。この御恩は生涯、忘れません」



 まるで花が綻ぶような、屈託のない笑顔。


 それは不器用な二人の願いが叶った瞬間だった。



「待て待て。恩だの生涯だのって大袈裟だぞ。自分の為に決めたんだから、礼を言われるようなことじゃないぞ」



 優希らしい律儀で硬い反応を制しつつ、昔から願っていたのは自分も同じと心中に独り言ちる。



「それに、欲深いって意味では自分の方が強いだろうな。学生の頃は優希をいやらしい妄想の相手にしていたし、忠義って言葉が自分の想いを遮っていると逆恨みしていたぐらいだからな」


「えっ?」



 予想していなかった哲哉の発言に優希は驚き、思わず目を見開いていた。


 余計なことを言ったかなと思いつつも、哲哉はこれからのことも含めて隠す必要はないと開き直る。



「自分は昔から優希を美人だと思っていたし、笑顔を見る度にドキドキしていた。だから、いつか自分の女にしてやるってのが秘めていた本音だ」



 幻滅したかと自虐的に問い掛けたが、優希は瞬時に状況を理解し、ただ静かに首を横に振った。



「……本音が駄々洩れでしたが、幻滅なんて絶対にしません。哲哉様が榊を情欲の相手になると認識されていたのには少し驚きましたが、哲哉様が榊を想ってくれていたという事実だけでも感無量です……その、これからは色々と学んでいきますね」



 口調こそ変えなかったが、流石に恥ずかしいようで、優希の頬は赤く染まっていた。



「あー……そろそろ行こうか。遅くなるとお袋に小言を言われそうだ」



 優希の様子を目にして恥ずかしくなっているのを誤魔化すように哲哉は優希に左手を差し出した。



「……自分はそういうのが似合う柄ではないが、今日は優希と手を繋いで行きたい」


「奇遇ですね。榊も同じ気持ちになっていましたから、哲哉様から誘ってくれて嬉しいです」



 そっと哲哉の差し出した手を握って指を絡める。



「懐かしいです。昔、同じように手を繋いだのを思い出しました」


「自分も同じことを思ったよ。一緒に遊んでいた時もこうしていたなって。お互いにあの頃と手の大きさは違うけど、感覚は近い気がするな」



(昔のことって意外と記憶に残っているんだな。今みたいなドキドキ感とは少し意味合いが違うが)



 優希と過ごした楽しい思い出だからだと、感覚が叫んだような気がした。



「感覚が近い、ですか?」


「ああ。十数年も前の記憶だっていうのに、自分達は手を繋いだことを忘れていなかった。それはお互いに感覚が近いって言えるんじゃないか?」


「なるほど。でしたら、哲哉様と榊の感覚は昔も今もこれからも変わらず、喜んでいるんでしょうね」



 哲哉に呼応するように気持ちを添えて、優希は更に頬を赤く染めながらも破顔一笑した。



(ああ、自分は何を僻んでいたんだろうな? こんな風に多くのヒト達に救ってもらったってのに)



 温かな気持ちに包まれつつ、哲哉は優希と一緒に道をゆっくりと歩きながら、そんなことを思った。


 症状を見抜いて迅速な対応をしてくれた医師、救急隊員の方々や退院までお世話になった医療スタッフ、入院に沿って支援してくれた家族、励ましてくれたU-Yahやnatuki、見舞いに来てくれた朝比奈夫妻や竹元家の面々と、この短期間でこれだけ多くの接点があったのだから、縁に恵まれないと言えるはずがない。



(……縁って感謝へと繋がっているんだな)



 神頼みは好きではないが、全てのヒトに幸福を、これからの未来に幸あれと、哲哉は人間の知り得ない超越した何かに欲張りな願いを求めたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る