第2話 情緒の味覚

 明らかにあっけらかんとした朝でした。その後に私を襲ったのは言われようのないほどの暗く深い闇でした。瞼が落ちるより先に意識が朦朧とし、およそ私の脳みそが語れるほどの語彙力をあの時は失っていたでしょう。そして気がつくと私は罪を背負っていました。

 寝起きの口内は生臭く、そこに交感神経の働きによって健全な唾液が生成され、より艶かしくその味わいに触れることができました。ファーストタッチは獣のような強烈な匂いが血液の鉄分を押し消していましたが、唾液と絡みったセカンドタッチではその両者のバランスがまろやかさを生み出し、生臭さの奥にワインのような深みとコクのある一品に仕上げてくれました。


その夜、私は近くの寂れたBARに赴きました。昨日の朝の舌触りを忘れてしまったのです。歯磨きはしていません。ただ、その時に味わった衝撃がそれほど大きくなかったのが理由なのかもしれません。罪悪感とはかけ離れた感情が一杯の注文を駆り立てたのです。

「お話に伺ってはいましたが、これは一級品ですね。驚きました。」

「そういって頂けると嬉しい限りです。何分、一人でやっておるものですから。」

「お一人で?何年も続けてこられたんですか?」

「ええ、とは言ってもまだ20年ほどですが。」

「20年でこれだけの味に辿り着くなんて!さぞご苦労なさられたのですね。」

「いえいえ、年数など取るに足りません。体と一緒で勝手に歳ばかりとっていくものですから。」

「またご冗談を」

「本当でございます。歳はとりたくないものです。年数を生きて褒められるのはワインとこれくらいのものですからね。」

「またおもしろいことを仰いますね。このお店だって褒められるものでしょうに」

「店は対価ですからね。私が歳をとればとるほど店は色めき立つ。そうやって今の姿になったのでしょう。私は知りません。」

ワイングラスの半分ほどに注がれたその香りを私はただ眺めるだけで余韻を感じられた。

グラスを回し、飲み口を拭くと指先には来店前と同じ匂いがした。口内は乾燥しきっており、レバーを食べた後のようなザラザラとした感触が残っていた。

獣とはまた違った匂い。焦げたゴムのような匂いが昨朝を思い出させる。

「しかし、こんな商売は骨が折れるでしょう。」

「私一人ですからね。山に行くのも大変です。」

「今日の一品はなんですか?」

「本日召し上がって頂いているのはキタキツネです。線が細く肉厚もないのでエグみが残るのが本来です。」

「どうしてこんなにまろやかになるのでしょう?」

「ええ、どうなんでしょう。まろやかとは言い難いかもしれません。もしかするとお客様の好みはこれよりもさらにワイルドなものになるのかもしれませんね。」

「なるほど。」

「私らが飲んでも、どちらかというと苦いと感じるものですが...。そう、例えばウイスキーで言うところのアイラのようなものです。」

「私は味音痴でしたか。」

「味音痴というよりはむしろ舌が肥えてらっしゃるのだと思いますよ。何本もワインやウイスキーを飲んでこられた方ほど、こういう身近で手に入りやすいものは飲みやすく感じるようですからね。」

「さすがマスター。口がお上手で。」

「お好きな方に飲んで頂くのが私らとしても嬉しいものですので。」

どうやらこの人とは話が合うのだと思えてきた。好みの違いはあれど、違う立場から共通の話題を引き出せるのはさすがマスターだと思った。しかし、昨朝の一杯は格別とは言い切れないものだったが、果たしてキタキツネとどれほどの違いがあるのか未だ見当がつかない。

「変わり種はありますか?」

「そうですね。キタキツネがお好みであれば、こちらはいかがでしょうか。」

「これは?」

「こちらはピラニアです。水辺のものはスッポンやマムシなどが一般的ですが、これは珍しくアマゾンの奥地で取れたものです。」

「前に飲んだスッポンは少し生臭い感じがしましたがこちらもそうですか?」

「ピラニアはすっぽんとちがって肉食動物でございます。魚類の中ではタンパク質が豊富で細身の割にしっかりとした弾力がある肉体をもちます。そういった生物から取れるものは甘味やコクを感じさせるものが多いのですが、これはまた違います。」

「どう違うのですか?」

「そうですね...。言葉で説明するのが難しいところですが。例えるなら炭酸のないビールのような味わいにトマトジュースを足したような感じですかね。」

「一つ頂いてもよろしいでしょうか。」

「かしこまりました。」

そういってマスターは奥の小瓶を取り出した。普段並べられているボトルはバックバーから取り出すのだがこのときは違った。マスターはその下の戸を開き、奥に手を突っ込んで古めかしいこの小瓶を取り出したのだ。

私は高揚した。そういったマスターの所作の一つ一つに、私に対するリスペクトを感じたからだ。気付けば私の舌は歓迎されていた。

「ピラニアのストレートでございます。」

「あの、マスター。」

「なんでしょう。」

そう言ってはみたものの、少しの気恥ずかしさが後ろ髪を引く。BARでの注文に慣れていない訳ではない。慣れていない訳ではないが。

「マスター、マスターはなぜこんなものを集めているのですか?」

ちがうちがう。聞きたいのはこれではないのに。

「私はですね、先ほども申し上げましたが山に行くのが大変でこれを始めたのです。」

「大変で?大変で始めるっていうのはどういう?」

いけない。つい、気になって話を進めてしまった。

「ええ、実は私は若い頃、登山家をしておったのです。」

「えぇ!それは初耳です。」

「そうでしょう。お客様には誰にもお話ししてませんからね。」

「それで?」

「それで、若い頃は日本の山をすべて登覇するといって出かけていたのですが、結局、年には抗えませんで、40の頃に杖をおいたのです。」

「そして、そこからBARの経営を始めたのですが、昔からの登山仲間でうるさいやつがいて、そいつが何度もうちに足を運び始めたんです。」

「『おいっ由、いつなったら登るんだい。』なんてしつこいくらいに言われて、それで私もとうとう愛想を尽かしてしまったんです。」

「へえ」

「そしたらある日を境に、そいつがパタッと来なくなったんです。」

「ええ?」

「高山病で山で倒れてたらしいです。高地肺水腫です。それで、その後は病院へ搬送されたらしいですが、すでに死んでいて。」

「それは、さぞお辛いお話ですね。」

「病院ではね、外傷もひどかったし、もう手遅れだろうってだけ言われて、あいつはそのまま、死んじまったんです。」

「私がね、一緒に山にいってやればこんなことにはならなかったんですよ。」





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ミント味 國 雪男 @shakai

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