耳原病院が謝罪し一千万を支払った理由と、【古都にくちづけ】を書いた予備校講師が大学講師になった理由(整形外科医南埜正五郎追悼作品)

南埜純一

第1話 チャップリン・iPS、スタップ事件の根元

長くつらい日々だった。父が耳原病院で亡くなり、実質勝訴の裁判が確定するまで、十一年五ヶ月と十一日の日々が費やされてしまった。その間、ミスを認めようとしない病院に怒りを込めて、東京の出版社から【転校のススメ・ジパング通信局】を出した(出版から2年後、改定の必要もあり著者自ら廃版手続きを取った。改定版がカクヨム掲載の、【耳原病院での父の医療事故死の裁判に迫る、堺鳳ジパング通信局】)。


【転校のススメ・ジパング通信局】の出版は、父の医療事故死から六年経過後のことで、裁判結果が出版時点で分かっていれば、耳原病院を名指しで非難したのであるが、ミスを否定し続ける病院を相手では出来なかった。【本書を我が父南埜宏に捧ぐ。病院に対する怒りを日々新たにして】との表題を載せるしか、私には手段がなかったのである。


病院名も鼻山病院にして、名誉棄損による攻撃をかわす方法をとらざるを得なかった。転校をテーマにした【転校のススメ】という青春小説とのカップリングという形式をとったので、注目度は減殺されるのではないかとの懸念を出版前に持っていたが、懸念は杞憂に終わった。販売部数は、無名の私がこれまで出した書籍の中では、群を抜いての数値だった。


ただ、同じペンネームで書いた【青嵐:杜征住】では、苦い経験を味わってしまった。小説としての内容は【転校のススメ・ジパング通信局】より遥かに高く評価されているのに、ほとんどといってよいほど部数が上がらず、又およそ信じられない編集上の失態がなされてしまった。


著者校正後、出版社が著者に無断で文法的誤りありとして変更を加えたのだったが、それこそが完全な文法的誤りで、著者記載通りが正しいという信じられない出来事が起こってしまったのだ。新聞社の百%子会社の出版社で、以前は新聞記者として働いた経験があるであろう人たちが犯すミスとは到底思えない失態であった。親会社である新聞社の支援もなく(私が随分経って書評担当の方に頼みに行くと、エッ! こんなもの出てるとは知りませんでしたわ、との驚くべき反応が帰ってきた。出版前、新聞社に働きかけると強く述べていたのにである)、何のための新聞社子会社からの出版であったのかと大いに悩んでしまった。


「社員ばかり多くて、リストラの出来ない出版社」

 

新聞社幹部のこの発言を事前に得ておれば、絶対出版することはなかったが、完全に後の祭りであった。ただ皮肉なことに、拙著に関するミスが原因で、出版社の幹部二人が退職(を余儀なくされたらしい)。結局、私の不利益がリストラ効果に直結し、新聞社も子会社も利益享受という不条理。それでも、社長かミスをしでかした本人たちの謝罪があれば、少しは気が治まったであろうが、それもない幼児的対応であった。


「ごめんして(ご免と言って)!」


私や妻が間違いを犯すと、よく幼い正五郎から強い抗議を受けたが、幼児でもわかる道理が通用しない我が国の現状。これに対する不満が本書の根底にあると理解いただき、私の怒りとその対処法にお付き合い願いたい。


もっとも時系列に従った怒りより、読者の皆さんは早く耳原病院事件の結論を知りたいと思われるだろうから、本話の次に【第2話 当直医の説明】、【第3話 医事紛争処理委員会】そして【第4話 カルテの差し押さえ】【第5話 耳原病院が謝罪し、一千万を払った理由】と続け、その後、そこに至る過程の事件で、スタップの真犯人とおぼしき男や有能な研究者の自殺。ノーベル医学賞受賞者やチャップリン研究家にも登場願って、本書の紙面を埋めて行きたい。

 

さて、出版社選択の失敗や、堺市に行政対象暴力を繰り返して来た男からの私への脅し、それに生身へのトラック激突による長期入院等、私を巡る不可解な出来事も折に触れ述べていくつもりであるが、取り敢えずは先述したように、最も勝訴の困難とされて来た耳原病院相手の裁判に、なぜ実質勝訴といってよい裁判を勝ち得たかに焦点を当てて筆を進めて行こうと思う。父の死という、我が家にとっては心労の治まることのない非常につらい事件で、事故当時十三歳の長男正五郎がファーブルに憧れ生物学者志望だったのに、裁判確定当時、神戸大の医学部へ入学したという大きな進路変更を息子に余儀なくさせた事件でもあった。


親族を事故や医療ミスで亡くすと、遺族に与える影響は甚大であり、悲しみと怒りのどん底に突き落とされてしまう。同じ苦しみを味わう人たちへの参考になって貰えればとの思いも、今回、父の医療事故死を語るために再び筆を執った理由の一つである。


なお、もう一つ理由を述べよと言われれば、それは息子正五郎の裁判に際して、委任弁護士事務所を代えたことであろうか。負かせるための弁護士活動とまでは言わないが、本当に勝つための弁護士活動をしてくれたのか、すこぶる疑問の湧く以前の弁護士事務所だったのだ。いずれにしても、近々裁判所の判断で結論が出ることで、【医者と大工と弁護士は腕の良いのを雇え】が実感として降り注ぐのか、それとも【アナタの事件が厄介な事案で、前の事務所もアナタを敬遠する政党ベッタリでもなかったんだよ】が証明されるのか。この点も、父の医療事故死とそれにまつわる出来事を書く理由である。


以下、まず最初に耳原病院の医療ミスの被害者と遺族についての、簡単な説明から始めたい。

 

両親の離婚により、私は生後一歳の時に南埜宏(ひろむ)・フジヱ夫婦の養子に迎え入れられ、南埜姓を名乗ることになった。昭和二十五年七月七日のことだった。


父宏は中国・フィリッピンでの過酷な戦争体験により、終戦による復員後も、肺機能の低下による慢性的な呼吸不全に苦しめられていたが、西埜植織物(株)の工場長や剣山敷物(株)の貞光工場長に就いていて、定年年齢である六十歳過ぎまでは日常生活に支障をきたすことはなかった。幼い正五郎を抱きあやし、また成長につれ手を引いて歩く、父の嬉しそうな笑顔が今も私の脳裏に焼き付いて離れない。

 

しかし父は六十も半ばを過ぎると、頻繁に喘息の発作に苦しめられることになり、救急搬送の世話になることも少なからず発生し、その際の搬送先が耳原病院であった。亡くなる前の数年間は、入退院を繰り返していたが、気管切開による人工呼吸器装着後も、テレビを観、食事を楽しむ日々であった。


特に、死亡事故前は体調も良く、主治医から人工呼吸器をつけたまま、外泊をすることも検討してもらっていた。それほど健康状態はよかった。そんな矢先に、事故が起こってしまった。


ほぼ毎日、私は父への顔見せと父の様子見を兼ね、予備校や塾への勤務の途中、病院を訪れていた。妻も、食が楽しみの父の食事の介助のため、昼食時や夕食時に病院を訪れていたが、人工呼吸器が外れた日に限り、偶々、二人とも病院を訪れなかった。個室には入っていたが、病院近くを車で通った時は午後九時近くで、さすがにこの時間に訪れることは病院や他の患者さんに迷惑がかかると、はばかられたのだ。


「今日はちょっと遅くなったから、明日のお昼に行くことにした方がいいでしょう」

 

妻の言葉に、妙な不安を覚えながら子供たちの世話を引き受けてくれている、母フジヱの家へ向かったのだった。母の家で、五人で食事を済ませ、帰宅後、子供たちが寝入った深夜に、ためらいと分かるような電話のベルが鳴り、すぐ切れてしまった。そしてしばらくして再び電話のベルが鳴り響き、今回は切れることはなかった。耳原病院からの電話で、父の容態が急変したので、すぐ来てほしいとの内容だった。眠っている長男正五郎を起こし、


「病院から電話があって、おじいちゃんの容態が悪くなったので、すぐ来てほしいて言ってきてるから、お父さんと二人で出かけるからね。真住(ますむ)のこと頼むね。お父さんはすぐ帰ってもらうから、心配ないからね」

 

妻が眠け眼の正五郎に、弟の世話を伝えるのを聞きながら、私はガレージへ急いだ。

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