op.2-5

 更衣室の扉をぱたりと閉めた。左肩に掛けた鞄は、衣装が入っているせいでいつもより重い。くすんだ緑のオーバーセーターにジーンズを履いた知帆は、先程の華やかさとは一変、いつもの気さくな雰囲気を纏っている。

 やはりドレスに着替えるのは面倒だ。私服でも弾けたらいいのに。もっと気軽なものでもいいと思う。

「流石の演奏だった、チホ」

 唐突に英語で声を掛けられ、知帆は顔を上げて振り向いた。

「本当に来たんだ」

「当然。まさか、冗談だと思ってた?」

「偉大なる若き天才ヴァイオリニスト様は、最近は特に何かと忙しいって聞いてたからね」

「あら、音楽の神の寵児であらせられるピアニスト様の演奏を聴く時間くらいはあるわよ」

 顔を見合わせて、笑う。互いに長くて厄介な呼び名を付けられたものだ。

 エメル・アルカン。知帆の旧友であり、今はパリの音楽院に留学している、トルコ出身のヴァイオリニストだ。

「来るんだったら連絡してよ、チケットとか大丈夫だった?」

「ああ、それならあんたの師匠に貰ったわ。ミズ・フカザワにね」

「折角なんだから、私にも連絡してよ」

「偶にはいいじゃない。サプライズは嫌い?」

「嫌いじゃないけどさ」

 知帆が『ラ・カンパネラ』と呼ばれる作品と出逢ったのは何年も前、エメルがきっかけだった。得意とする楽器は異なるものの、縁あって知り合った二人はすぐ仲良くなり、一時期はエメルのコンサートに伴奏として参加していた。今では互いに多忙を極めており、そのような機会はなかなか無いが、連絡はずっと取り続けている。


 まだ十代も半ばであった頃のことだ。

 次の曲は何をやるのかと問えば、エメルは「パガニーニの曲にする」と答えた。迷いのなさそうな様子から、彼女の中ではもう確定事項のようだった。知帆はパガニーニが誰かも分かっていなかったが、肯定の笑みを浮かべる。

 ちなみに、現在の彼女が音楽史についてのある程度の知識を持っているのは、あまりの無知さに呆れた当時のエメルによる教育のおかげだ。

 ──これ、ピアノの音源。一応、楽譜も置いておくわね。

 近くにあった譜面台にタブレットと楽譜を置いて、それじゃあ、と去っていく。今のうちにある程度弾けるようにしろということだろうか。

 エメルがこれほど前のめりなのは珍しい。よほど弾きたかった曲なのかもしれない。きっと愛用しているヴァイオリンを片手にこの部屋に戻ってきて、一度目のセッションから巧みな演奏を聴かせてくれるのだろう。

 それならそれで、もっと早く音源を聴かせてくれたってよかったのに、と思わなくもない。

 エメルの単独コンサートが大成功を収めた翌日、「次の話をしたいから」とトルコのアルカン邸に招かれた。いつもは一週間くらい音信不通だというのに、やけに張り切っているなとは思っていたが、成程。

 エメルの母から貰った菓子を頬張りながら、置き去りにされた楽譜を見つめる。

 フリッツ・クライスラーによって編曲されている。何語だったかは忘れたけれど鐘という意味だったっけ、と記憶を探った。

 ラ・カンパネラ。

 表題を確認してから、タブレットを手に取る。

 最初に、ニコロ・パガニーニが作曲したヴァイオリン協奏曲第二番の第三楽章を聴いた。録音のタイトルには、知帆の為にだろう、日本語で『鐘のロンド』と追記されている。

 誰の演奏かは分からないが、高音もしなやかな強かさと美しさで、絹に触れているような心地がする。プロの演奏だろう。流石としか言いようがない。もちろん、エメルの腕前もこれに劣るようなものではない。ただ、過去に彼女のヴァイオリンを弾かせてもらったことがあったが、なかなか難しい。自分に出来ないことを為す人のことは、本人にとっては易いことであれ、こちらとしてはやはり尊敬の念を抱くものだ。

 伴奏とは主役ではない。普通に自分の思うままに弾くのとはやはり事情が異なり、相手を熟知していることや、臨機応変であることが求められる。主役を如何に輝かせるか。そこに心血を注ぐ必要があるのだ。

 今回も、エメルと彼女のヴァイオリンを引き立てる、そんな伴奏に仕上げられたらいい。知帆はそう願ってやまない。

 音に耳を傾けているうちに、次第に雰囲気が掴めてくる。当時の宮殿、城、それとも誰かの邸宅のサロンだろうか。そこで音色に没頭している音楽愛好家の一人になった気分だ。

 オーケストラを聴き終えて若干ぼんやりとした頭のまま、実際に演奏する方の音源を聴く。いつも、こうして自分の脳内にある音楽の形を整えていくのだ。自分が弾く曲だけでなくそれと関係する曲まで、色んな人の色んな演奏を聴いて、指を動かしていく。すると、気づいた時には譜面とぴったり噛み合ったものが生み出される。知帆自身、そのメカニズムを理解していない。色んな演奏を聴いて導き出した「あるべき姿」がたまたま楽譜通りだった、というだけかもしれない。


 二時間ほど経って、エメルがソワソワとした様子で戻ってきた。知帆の進捗に関わらず、一緒に弾きたくて仕方がないらしい。その頃にはある程度形になってきていたので、知帆はセッションを快諾した。確かに、エメルの奔放さについていける人はそう多くないのかもしれないと、こういうデュオが始まるたびに考える。

 弦楽器の音色は好きだ。皆が皆そうという訳ではないが、金切り声とは遠く離れた音色は、あっという間に人の琴線に触れて、昂ぶりの波を何度も起こす。

 彼女の伴奏をするときは、支えるのではなく振り落とされないように喰らいつくというくらいのつもりで演奏しないといけない。気を抜いたらその瞬間に遠くへ突き飛ばされてしまう。

 互いの音色が、互いの世界へとずるずる引き摺り込んでくる。ふたりで練習するたび、その中毒性のある感覚に呑まれた。心地良かった。これこそが私の求めていた音楽だと、幸福感で満たされていた。


 そのような経験を経たため、ラ・カンパネラに対する思い入れは思い出の分だけより厚い。折角だから、この思い出の曲を、エメルにも聴いてほしいと思い至って、ダメ元で連絡を入れてみたのだ。

「昔を思い出すわ」

「そうだね」

「もう六年も前らしいわよ」

「そんなに経ってたっけ。早いな……」

 歳を取れば取るほど、時間の流れる感覚も早まってきている気がする。

 その日ごとに一日を振り返ってみればそうでもないのに、積み重ねた途端儚く感じる。

 つい数日前まで、中学生だったような気がしなくもない。けれど、その数日の中に、ぼやけてよく思い出せない月日が圧縮された状態でうんと詰まっている。そこにしまい込まれた日々の、どんな感動も、苦悩も、もう喉元を過ぎてしまったのだ。

 そのように考えてみると、なんだか寂しい。

「考え事?」

「ん、ああ……日記でも買いに行こうかなって」

「あら、じゃあ丁度いい。私も外出がしたかったの」

 終わったら、一緒にどうかしら。

 彼女はにこやかに笑む。いつもの知帆は、自分の演奏が終わり次第さっさとホテルに戻って休んでいたが、友達とショッピングも悪くない。

「どこに行きたいの?」

「アキハバラ」

「東京じゃん! ここ隈羽だよ?」

 そういえば、この人、最近はサブカルにハマってるんだっけ。

 もしかすると、秋葉原に行く事が来日の一番の目的だったのかもしれない。とはいえ、今から行くとして交通費と時間を考えると肝が冷える。

「電車も新幹線もあるじゃない」

「それはそうだけど……やっぱり遠いって」

「行きたかった、メイドカフェ……。カワイイを浴びたい……」

「……時間も時間だし、せめて明日にしない?」

 待ってましたと言わんばかりに知帆の妥協案に飛びついたエメルを見て、ドア・イン・ザ・フェイスだ……と彼女の罠に気付いたが時すでに遅し。まあ、日本に呼んだのは自分だ、彼女が喜んでいるならまあいい、と自分を納得させた知帆は、明日の予定を練りながらエメルと共にホールへと向かった。



 やってくれたわね。

 深澤の感想の全ては、その第一声に詰め込まれていた。

 演奏が終わってから拍手が湧くまでどれだけかかったのだろう。永遠のような一瞬のようなどっちつかずの間があった。それは皆が彼女の演奏に圧倒され、彼女の世界に引き摺り込まれたからであり、深澤も魅了されたうちの一人だ。

 終わってほしくないという惜しさではなく、拍手を忘れるどころか忘我の境地で放心していた。

 しばらくの静寂の中で、知帆は困った様子でピアノから離れ、舞台の中央でお辞儀する。それを見てようやく現実に引き戻された聴衆らは、食らいつくように前傾姿勢で手を叩く。そう経たないうちにスタンディングオベーションに変わり、彼女が舞台裏に戻っても鳴り止まなかった。

 いつの日か、今日を伝説のように語る人が出てくるのだろう。あの樋谷知帆の伝説が始まった日というのはもう何年も前の話になるが、その呼び名が既に使われていることを惜しむ気持ちが湧くほどに、今日の演奏は格別だった。

 手を打つ無数の音が響き渡る中で、深澤は彼女が消えていった暗闇を見つめる。

 まったく、とんでもない子だ。新しい二つ名は何になるだろうか。彼女がそういうのを嫌がっていても、表舞台に一度は上がったなら——特に、ライブ中継をやっているようなコンクールでこういうパフォーマンスをする以上、人から好奇の目で見られることは避けられない。

 それでもピアノが弾けるのならいいと、妥協するのだろうか。するのだろうな。彼女の『一番』は常に音楽なのだから。



 無事、全員の演奏を聴き終えて、会場を離れた。ここに来たときはエントランス前に大勢の人が押し寄せていたが、あれがまるっきり嘘だったみたいにすっかり静まり返っている。

 吐く息が白い。すっかり冷え込んでいる。見上げれば、澄んだ夜空に星が見えた。

「あれ、昭正さん、来てくれてたんですね」

 こんばんは、と声を掛けられて振り向くと、知帆が駆け寄ってきた。こんな暗闇の中、後ろ姿だけでよく気付けたものだ。

「来てほしいとチケットを渡してきたのは君でしょう」

「いやぁ、来るかどうか分からなかったので。来てくださってよかったです」

 どうでした、演奏。みんな素晴らしかったでしょう。

 昭正は静かに微笑んだ。

「凄く良かったです、知帆さんの演奏。聴いていて、こう、自分の輪郭が融けて無くなっていくような感覚がしました」

 我ながら語彙力が足りない。どう表現したものか、と苦笑しながら知帆の方を見遣ると、彼女は驚いたような表情でこちらを見上げていた。

「……あれ、何かおかしなことでも言いましたか?」

「……いや、ふふ。そんなことありませんよ」

 込み上げてくる笑いをぐっと堪えている様子に、昭正はわざとらしく眉間に皴を寄せた。

「それは、『そんなことある』ときの反応でしょう」

 不服そうな表情の青年を見て、ついに堤が切れたように笑いだす。


 ひとしきり笑って落ち着いた頃になって、ひとつ息を吐いた。

「私の音楽が、昭正さんにもしっかり届いていたんだなって」

 街灯頼りの暗さで、その表情をはっきりと捉えることは出来ない。その灯を背にして、逆光の彼女は満足そうに呟いた。

「……はっきりとそう分かったから、嬉しくて、安心して、何だか笑いが止まらなくなっちゃいました」

 無邪気な笑みを浮かべている。その様子はやはり昭正からは見え辛い。

 ただ、彼女の演奏を聴きに来てよかったと、改めて感じた。

「……なんて顔してるんですか、昭正さんたら」

 こちらから知帆の表情を窺い知るのは難しいというのに、彼女からは昭正の表情がよく見えるのだろう。あんまり見ないでください、と手で顔を覆うと、彼女はまた面白そうにからからと笑った。

「このあとはホテルに戻るんですか?」

「はい。もう遅いし、眠いし」

 全員の演奏が終わってから、もう一時間は経っているだろう。昭正はずっと自席で余韻に浸っていて、気付いた時にはホールに独り残されていた。そのため、閉じ込められてしまってはいけないからと慌てて退場したのだ。

 まさか、まだここにコンテスタントが残っているとは、しかもそれが知帆だとは思いもしなかった。

「持ちますよ、その鞄」

 手を差し伸べると、本当に疲れ切っていたのだろう、知帆はすんなりと鞄を明け渡した。重そうな見た目をしていたが、想像以下の重量だった。

 隈羽でホテルとなると、この会場から近くにあるのは一ヵ所しかない。ともなれば、帰路は同じである。

「というか、そんなに疲れているのに独りで大丈夫だったんですか。特に夜道ですし、隈羽は人の気配が少ない」

「あー…さっきまでは連れがいたんですけど、隈羽のホテルが取れなかったらしくて、駅まで送ってきたんです。それに、明るくて人の多い時間帯は、バレたら面倒だし」

 知帆は「それで、やむを得ず」と苦笑する。なるほど、理解できないわけではない。

「確かに、この時期の隈羽には、ピアニストに詳しい人たちが多く滞在しているんでしょうね。会場に来た時、外に沢山人だかりがあったんです。聞いたところによると、音漏れ狙いだっていう……」

 ああ、それですか、と彼女はこの件を把握している様子で頷いた。

「せっかくライブ配信もタダでやってるのに。やっぱり生の音が聴きたい、諦められないって人もいるんでしょうねぇ」

「……ライブ配信されていたんですか? 無料で?」

 それは聞いていない、と怪訝そうに訊く。知帆は何でもないことのように「そうですよ」とあっけらかんとして答えた。

「それ言ったら、来ないでしょう?」

 悪戯っぽく笑う知帆に、思わず溜息が出た。確かにその通りではあるのだが、教えてくれたってよかったじゃあないか。不服そうな昭正の頬を、そんな顔しないでくださいよと知帆が指でつまんで引っ張った。

 それから逃げるように前へと駆けてゆく。疲れている様子だった割に、体力は持て余しているようだ。

「聴きに来てくれてよかったです。ありがとうございます」

 調子が狂う。そんなことを言われてしまっては、なんだか怒るにも怒れない。ずるい人だと息を吐いて、それから、後を追うように歩きだす。

「昭正さぁん、信号、青ですよ。今のうちに渡っちゃいましょう」

「はいはい、そうしましょう」

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