op.2

op.2-1

「昭正さん」

 青年がいつも通りカフェに立ち寄ると、それに気づいたピアニストは演奏の手を止めて立ち上がった。そして、いつものカウンター席に座った昭正の隣に向かう。

「はい、どうぞ。昭正さんの分です」

「これは……?」

 渡された紙を見つめる。隈羽ピアノコンテストと書かれていた。以前、知帆から彼女自身も出場するのだと聞いていた。見たところによると、全国大会のチケットのようだ。

「こういうのって、高いんじゃないですか? 僕には勿体ない代物でしょう」

 やんわりと断ってチケットを返そうとする。しかし、知帆は受け取ろうとはせず、その代わりに無邪気に笑んだ。

「そんなことありませんよ。それに、一度はホールで聴いてみたいとか言ってたじゃないですか」

「た、確かに言いましたけども……」

 昭正が興味を示しているのは、今のところ『知帆の音楽』だけである。彼女の演奏であれば何でも聴くが、逆に言えば彼女の演奏でないものに対しては今までと変わりない。

 不思議なものだ。何がそこまで自分を惹きつけているのか昭正自身にも分からないが、ただそこに「聴くだけの価値」と「物事の本質」があるように思えるのだ。だから、聴くことに抵抗がまるでない。

「……このチケットは全国大会のものです。つまり、日本の各地から集められた実力者たちによる演奏会、みたいな状況なんですよ。だからきっと、退屈はしないんじゃないかなぁって。私の演奏じゃなくてもね」

 昭正の心中を読んだように、知帆は的確に答えていく。飽きたら途中で退席したっていいんですから、そういう聴衆結構いますよ、とまで言われ、しばらくの駆け引きを経て青年は「それなら、まあ」と頷いた。

 興味の持てない空間に居続けるのは苦行だ。だが、キリのいいところで撤収できるのであれば悪くはない。知帆の出演時間に合わせて入館して、それだけ聴いて帰るのもいいわけだ。

 知帆は昭正がチケットを財布のポケットにしまったのを見て、またピアノの椅子に腰かけた。

「もし他に用事が無ければ、ぜひ聴きに来てくださいね。きっと後悔はさせません」

 昭正が音楽に興味を持ち始めたことを、知帆は今もまだ他の誰よりも喜ばしく思っていた。

 音楽は生命である、という考えが彼女の音楽の根底にあり、それが昭正の変化を以て更に現実味を帯びてきた気がするのだ。彼の中で非活性化状態だった本能としての音楽が、次第に色づき始めている。

 何をどうして彼が音楽への興味を抱いたのか、その経緯は知帆には今でも分からなかったが、ただ日夜問わず脇目も振らずに研究に没頭していた彼が何かを見出したのが音楽でよかったと思った。

 だって音楽って素晴らしいから。……それが一番の理由として挙げるには些か弱いことを、知帆も理解はしている。


「……一週間後」

「そうですよ」

「全国大会の手前まではもう終わったんですか?」

「ええ、それはもう順調に、トントン拍子で」

 もしかして、聴きたかったんですか。知帆が小首を傾げながら尋ねる。

 ここで頷いたらまた珍しいだの何だのと笑われるだろうか、と今更な気後れを感じながらも、「ええ、まあ」と歯切れ悪く返事をした。

「じゃあ今から弾きましょうか」

 昭正の想像に反して、知帆は揶揄うことなくピアノに触れた。心地良い和音が響く。三和音というのだと、かつて教わったことを思い出した。

 どうします、と彼女が訊いてくる。あとは貴方次第ですよ、という言葉のない圧を感じて、しばらくの間迷った結果、頷いた。


 バッハ 平均律クラヴィーア曲集 第一巻 四番 嬰ハ短調 BWV849


 昭正はおもむろにノートを開いて、その曲名を指で辿る。

 知帆のピアノをしっかり聴くようになってから、彼は度々彼女に弾いた曲の解説を求め、それを記していた。

 かつてこの曲の解説の冒頭で、まさに「異国情緒」ではありませんか、と彼女は問いかけた。確かに、日本の音楽やジャズだとかロックだとか、昭正が辛うじて知っているジャンルの語彙では上手く括れない。彼女の言う「異国情緒」が、今のところ一番しっくりくる表現だ。

 ──とはいえ、まあ、私もそんなに詳しくはないんですがね。

 知帆は解説を始める時、いつもそのように呟く。まるで何かコンプレックスでも抱えて自嘲するようなその仕草は、その身に宿す才には不釣り合いのように映った。


 バッハの平均律は、プロのピアニストを目指す者であれば避けられない道らしい。知帆は『個人的に最もよく見かける演奏家たち』としてバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンなど、昭正でも「ああ、音楽室の肖像画の」と何とか思い出せる名前(顔と名前はなかなか結びつかないが)と、それから他にも何人か挙げていたが脳内で上手く文字に変換されなかった。

 嬰へ短調であるというこの曲はどこか暗く切ないメロディに聴こえて、それが自分の生活から離れた非日常的な雰囲気を醸し出している要因のようだった。

 宗教みたいだ、と昭正が独り言を零すと、知帆はそれを拾って「キリスト教な感じがしますよね」とにこやかに同意した。実際、この曲やバッハの宗教曲などの譜面を見ると、音符が十字架のような並びになっているのだとか。知帆は楽譜を用いずに演奏するため持っておらず、実物を見ることはできなかったが。

 ところで、と彼女が切り出す。

「実はこの曲、同じ音型——フレーズみたいなもののことです、それを何度も繰り返してるんですよ。けれど、深みを感じるでしょう、面白いと思いませんか」

 知帆は目を輝かせながら実際に演奏してみせる。

「フーガと言って、あるフレーズを主題として、手を加えながら追いかけるように展開する形式です」

「ああ、『かえるのがっしょう』みたいな……?」

「お、昭正さんが輪唱という形式を覚えていたとは。はい、ひとまずは大体そんな感じの理解で大丈夫だと思いますよ」

 彼女はにこにこと楽しそうに返事をしながら、今度は『かえるのがっしょう』を弾いた。最後にこの歌を聴いたのはいつだったろうかと振り返ってみたが、もしかすると小学校低学年以来のブランクがあったかもしれない。昭正の記憶ではそれきりの久しい曲であった。


 一通り弾き終わったあと、彼女はまた昭正の隣のカウンター席まで戻ってきた。

「四番のプレリュード……この曲はキリストの受難を表しているなんて言われていたりもします。ですが、あんまり重々しくするような曲じゃないと私には思えてしまって、何だかなぁって感じです」

 なぁんて、と冗談めかしてくすくすと笑みを見せながら、冷めてしまったカフェオレをスプーンでくるくるとかき混ぜて、昭正のノートをちらりと覗き込んでいた。

「ピアニストは心の底から歌い、語るんです、八十八もの鍵盤で、高らかにね」

 その言葉で我に返って、彼女へ顔を向ける。知帆は生き生きとした様子でピアノの方へと戻っていくところだった。

「私の演奏に何だかんだと解説を付けたがる人はいますが、私はただ、作曲者が音で語った言葉を歌詞に、心の底から歌っているだけ」

 知帆がこちらを一瞥した。真っ直ぐな双眸に、自分の姿がはっきりと映されているのだと、遠くからでも分かる。彼女は聡明だ。あるいは、異様なまでに勘が冴えている。恐らく自分が先程まで考えていたことだってすっかりお見通しなのだろうと、昭正は悟った。

 彼女のこの言葉こそが、以前冗談っぽく誤魔化していた言葉の真意であり、彼女の音楽性の根底なのだろうと、勝手に推察する。

「……君の音を聴くと何だか心が色めき立つと感じるのは、それが理由なんでしょうね」

 彼女は演奏をぴたりと止め、一言、「色めき立つのかぁ」と呟いた。


 彼の言葉に、喉に突っかかっていたものがストンと落ちた気がした。

 彼は昔の私を彷彿とさせる。あの冬の日、雪山の音色に魅せられた私と、どこかそっくりに見えるのだ。

 だから、彼が音楽に興味を持ったことが、まるで自分事みたいにこんなにも嬉しいのだろう。彼を通して昔の自分に「その感動は間違いじゃなかった」と伝えているような、おかしな錯覚。誰も肯定も否定もしなかった己の原点を、自分で肯定してあげられた気がする。


「メディアを介してそう言ってもらえたことならあるけれど、面と向かって言われるのは初めてかも。ありがとう、昭正さん」

 そういうこともあるものなのか、と昭正ははにかむ知帆をぼんやりと見つめていた。天才は孤独だと言われたりもする。昭正自身は天才と呼ばれた経験など無いが、この天才奏者も持ち前の才能のあまり他者から敬遠されることもあったのだろうか。

 彼女のことを、あまりにも知らなさすぎる。

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