op.1-4
「寒っ」
「もっと厚着しろと言ったでしょう」
「でも、これもいいですよ。この芯から冷える感じ……懐かしい」
他のピアニストが聞いたらドン引きすることだろう、と深澤は溜息を吐いた。
雪山の環境に近づくことで、自分の生を実感する。知帆の可笑しな生態にも、慣れきってしまった。
「それにしても、音楽のことになると熱心ね。私たちのお目当ては、部の後半よ?」
「色んな音楽に触れる機会は大切ですから、折角行くならその日の演奏全て聴きたいと思いませんか?」
「強かねぇ。若さなのかしら? まあ、自由になさい」
深澤は、駅まで知帆を迎えに来ていた。
新幹線の車内は余程暖かかったのだろうか、現れた知帆の服装は、すさぶ風の中を歩くには不相応だった。無計画なのか、最初から望んでこのようにしているのか。知帆は寒がりつつも笑顔で車に乗り込んだ。
「やっぱり、流石に雪が降るほどではないですね」
「貴女ね、何月だと思ってるの。まだ十月よ。それこそ、今度の隈羽に期待した方がいいわ」
十月と言えど、土地の都合上、朝晩はやけに冷え込む。駅から会場まで、車で五分。会場に隣接するホテルからであれば、直通の地下通路があるため、ほとんどの出場者は寒さで体調を崩さぬように遅くても前日までには開催地まで訪れる。
知帆は助手席の窓から、横目で人のいない大通りを眺めていた。前方の吹き出し口から勢いよく迫る温風は、頬に触れる頃にはほぼ常温であった。
「暖房入れても、あんまり変わんないですね」
「あと数分なんだから我慢して頂戴」
深澤はハンドルを切って左折する。
審査員の仕事は、まあなかなか大変だ。
呪文だか儀式だかのように延々と繰り返される課題曲。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン。一度のコンクールで、世間の人がこれらの曲を耳にする一年あたりの回数を何周しただろうか。
ベルトコンベアで流されてゆく物品を虚ろな目で見送るくたびれた工場の作業員みたいな心地だ、なんて口にしようものなら今どき炎上しかねないのだろう。
深澤は、かつて、このコンクールの出場者と同じような志高き少年少女を指導してきた。今や彼らはそれぞれの選んだ道を進み、知帆を最後に新しく生徒を預かるのは止めてしまったが、コンクールに向けて励む若者たちの姿勢を忘れたわけではない。
かつては自分もそうだったのだ。大して恵まれた家庭というわけではなかったが、やりたいことを優先できるある程度の自由を与えられ、そして与えられたものに対して十分すぎるほどの成果を出した。そこに至るまでの苦悩、葛藤、喜び。全てが今の深澤夏生を構成する上で必要不可欠なものだ。
ただ、コンクールは発表会ではない。競わせるのには意味がある。素晴らしい技巧、精密な音色。求められるのは、技術面に留まらない。
スター性だ。いかに魅せるか。音楽業界は、一際輝ける星々を見つけ出そうと、曇った夜空に手を伸ばすように演奏の審査をしているのだ。
スター性。例えば、隣の座席に居る彼女はその点において著しく素晴らしかった。俗的なものから遠く離れた花畑で蝶と戯れているような、そんな現実味のない、掴みどころもない、洒脱のようでどこまでも幻想的な美しさを引き出す。それも演技ではなく、無意識で、だ。
当然のようにそんなことをしてみせるものだから、彼女が初めて表舞台に立ったときの審査員たちは困り果てただろう。深澤も、初めて聴いた時は混乱と興奮の果てに思わず呆れてしまった。
そしてふと、今回のコンクールはあの少女の独壇場、もはや出来レースとも言えるほどかもしれないと思った。予選で感じた心の騒めきを思い出す。あれは、樋谷知帆に出会ったときのものと非常によく似ていた。
「全日本学生ピアノコンペティション……私、出たことないかも」
深澤が考えていたことなど露知らず、知帆はパンフレットを開いて読んでいる。
「ええ。もし貴女が出ていたら、面白いことになっていたでしょうね」
深澤は毎年このコンクールの審査員として呼ばれている。工場で量産されたような一定程度の才児たちの中からずば抜けた才能を持った原石を見つけ出したときは、きまって面白い。童心に帰るような心地までする。見つからなければ、疲労しか残らないが。
「今どきの子は、難しそうな曲を弾きますね」
「知帆ちゃんも今どきの子でしょう」
「まあ、どちらかといえば、はい」
アンケートのような返答をしつつ渋々頷いた彼女は、でも、と即座に話を続けた。
「みんな賢いんだなぁと思って。どんな演奏が聴けるのか……早く始まらないかな〜」
樋谷知帆の選曲は気ままというか、そのタイミングにおける本人の関心で左右される。判断に己の実力が加味されないのは、大体どれでも弾けるだろうという無意識の傲慢と、その言葉違わぬ実力があってのことだ。
彼女は、難しく凝った曲をわざわざ選ぶ必要はないのだ。どんなに易しい曲でも、他人の琴線に触れることができる。
彼女が手慰みに子犬のワルツを弾いた時、思わず涙が出たことがあった。この調子では、きらきら星でも聴衆を泣かせられるのではないだろうか。
「ほら、着いたわよ」
「車ありがとう、夏生センセ」
「風邪でも引いたら笑い事じゃないもの」
ロータリーで下車すると、深澤はそのまま奥にある関係者用の駐車場へと走り去っていった。きっと、そのまま審査員の集合場所まで向かうのだろう。
まだホールの会場時間までかなり余裕があったが、寒さのためかロビーには入れるらしい。知帆は悩む間もなく屋内へ駆け込んだ。
む、と眉を寄せ、耳を澄ます。幾つものデスクとソファの並べられたスペースに他の客の姿は見えず、人の気配に遮られることなく微かに聞こえる音楽を辿ることができた。
ピアノだ。今日の演奏者が練習として弾いているのか、地元の人だろうか、それとも若い音楽家の熱意に心を打たれた審査員やスタッフの誰かが弾いているのか、だいたい三択まで絞れた。
このメロディは多分、月の光だ。とても上手い。知帆の心をぐっと掴むほどには、魅せる演奏として成り立っていた。
そもそも、このロビーにピアノがあるのだろうか。初めてこの会場に訪れた知帆は、まるで幼子が辺りを探検するような様子で、その音の出処を探した。
あった。
ピアノ自体はロビーの中央にもあったが、そこから少し離れた奥まったところにもう一台あった。ホール外に二台もあるとは、最近「音楽の町」を自称するだけある。そのアップライトピアノに、中学生くらいに見える背の高い少女が腰掛けていた。
長い金髪は綺麗に結わえられている。今回のコンクールの対象は国内の学生だったようなと不思議に思ってからすぐ、数日前の一瞬を思い出した。
なるほど、と知帆は思わず唸りそうになるのを、演奏の邪魔にならないようぐっと堪えた。
これは参ったな、と咄嗟に白旗を上げたくなるほどの心境だ。今まで聴いた誰よりも、何なら深澤の演奏よりも、この少女の奏でる音がずっと好みだった。今まで聴いてきたプロの演奏と比べればまだ拙いが、演奏の巧拙と好みは別の問題である。
──私と同じ何かを感じるような。
それは安堵か高揚か、世界に自分たった一人という訳ではないのだという歓喜かもしれない。
これが師の言う『星』の原石か。知帆は昂る感情を必死に抑えながら、その音色に耳を傾けていた。
最後のアルペジオが綺麗にきまって、静かで眩しい余韻が残る。アップライトピアノが、グランドピアノに化けたような錯覚を起こす。
考えるよりも先に手を叩いた。少女は、驚いた様子で振り向き、知帆と目が合う。
「貴方、とっても上手いね」
なかなか見つかりにくい人目も照明も浴びづらい場所で、ひとりのピアニストが歌っていた。もっと明るいところで堂々と弾けばいいのにと知帆は思ったが、この少女は誰にも見つかりたくなくてこの場所を選んでいるようにも見えて、何も言わなかった。
「……もしかして、樋谷知帆、さん?」
少女は混乱した様子で名を問う。よもや顔を覚えられているとは。知帆は怖がらせないようにとにこりと笑んで、はじめまして、と右手を差し出した。
国際コンクールや海外のコンサートに出るようになってから、握手をする機会が異様に増えた。それは西洋を中心とした文化圏での重要なコミュニケーションのひとつであるから、当然といえば当然のことだ。
深澤曰く、この眼前の少女は日本とイギリスを行ったり来たりの生活らしい。つまり、英国文化にもある程度慣れているだろう。だから、一先ず手を差し伸べた。
流石に、母の仇(のような存在に思われているかもしれないと深澤は懸念していた)である知帆が相手とはいえど、握手も割愛していきなり手首を切り落としてくるだとか、そんなバイオレンスな少女ではないだろう。
「唐突に現れてごめんね。この大会の審査員をやってる深澤夏生先生に紹介されて、一度貴方に会ってみたかったの」
まさかここで会えるとは思わなかったけど、と付け足す。本当は、一連の舞台が終わって落ち着いた状態で会えたらと考えていたのだ。
「……あの、私、ずっと知帆さんみたいなピアニストになりたいと思って練習してきたんです。褒めていただけて、とても嬉しくて……その、差し出がましいとは分かっているのですが……」
シンシアは、容姿こそ西洋人のそれであるが、日本語は違和感なく流暢で、知帆が普段あまり使わないような言葉まで知っている。
彼女の声はそのまま萎んでいき、俯いてしまった。
どうしたものか、と知帆は首を捻った。
今まで関わってきた業界関係者の殆どが積極性の塊のような性格で、知帆は相手側からグイグイ来られることに慣れていた。ゆえに、奥手な少女を前にして、対応に戸惑っている。
私に、その──と、そこで止まってしまうから、もどかしくなって「いいよ、何でも言って」と物腰柔らかに急かしてしまうのだった。
「……アドバイスを貰えませんか? もっと、上手くなりたいんです。上手くならなきゃ駄目なんです」
一瞬目を瞠った。あんなに美しく歌うのに、何か根源で歪んでいる。その歪みが気になって、しかしそれは心の柔らかいところを暴くことになるのだろうと、その好奇心をしまった。
「もちろん。私でよければ」
知帆は二つ返事で要望に応えた。
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