op.1-2

 真白の世界で少女は目を覚ました。澄んだ白雲に覆われた空の下、ふかふかの雪の上で、彼女は仰向けに倒れていた。

 雪の上なのに、冷たくも痛くもない。それに、今は冬ではなくて夏のはずだ。すぐに、これが夢であると気づく。明晰夢には慣れていた。

 少女はえいと勢いをつけて体を起こし、動物のように頭をぶるぶると震わせて髪に付いた雪を降り落とした。昨日はいつもより少し薄着で寝てしまったから、何だか肌寒いのはそのせいかもしれない。

 現在よりずっと幼い容姿で、ぽてぽてと雪の中を進む。想像以上の積雪で、踏み出せば足は深くまで吸い込まれた。靴下が濡れないようにと履いてきた長靴は、残念ながら大雪を前に無力である。

 この夢も、もう何度目だろう。目覚めるまでの移り変わりは毎度変わらず、すっかり慣れた足取りで前進する。

 はたと、現実でこの景色の中にいた頃はまだ、ピアノはおろか音楽自体にあまり興味がなかったなと思い出す。しかし、当時の自分が何に興味・関心を持っていたのかということは、あまり覚えていない。


 天才だの神童だの寵児だのと、景気の良い言葉で担がれてきた。

 そんな樋谷知帆というひとつの音楽の原点は、華やかなサロンでもグランドピアノの置かれた防音室でもスポットライトの下でも誰かの演奏でもなく、この剥き出しの大自然であった。

 雪山で、小学校低学年の児童がたった一人で遭難した──どう見聞きしても絶体絶命の大ピンチだが、生還した本人はけろっとした様子だった。再会したとき、両親が凄く泣いていたのを覚えている。大人も泣くということを初めて知って、少し安心した。

 目を伏せ、当時を思い出す。

 怒っているのか、笑っているのか、悲しんでいるのか、感情がごちゃまぜになってよく分からない声が頭上から降ってきた。両親は一人娘をきつく抱き締め、涙でべとべとの手で頭を撫でまわすものだから髪が四方八方に広がったまま凍りそうだった。

 知帆。よかった。

 彼らはその二言をひたすら繰り返していた。父は事あるごとに必ずその時の話をしてくるから、もうじき耳にタコが出来てしまうに違いない。


 雪山は獰猛だ。いとも容易く命を攫っていく。しかし、この少女はその獰猛さを内包した在り方そのものを繊細だと形容した。

 豪雪の中、頼れる大人どころか誰一人見当たらないのもあって、知帆は幼いながらも生命の危機を本能的に感じ取っていた。辺り一帯の林の中でも一等太いと思われる木の幹に凭れ掛かりながら、悴む手足を必死に擦る。

 テレビでやっていた再現ドラマから、雪山で寝てはいけないという知識を得ていたが、寒さと孤独には勝てず、つい固く目を瞑った。寒い、寂しい。怖い。目を瞑って、どうにか恐怖心から逃れようという、ささやかな抵抗だった。決して、眠くはなかった。

 実際のところ、目を瞑っていたのはほんの数秒のはずだ。視界を遮断してすぐ、彼女の耳は音楽を拾ったのだから。

 吹雪く風の音は何重にも重なって、木々はざわめき、雪の粒がぼとぼとと体に当たって滑り落ちていく。その環境の一連が、少女には今まで聴いてきた何よりも美しい音楽のように思えた。

 母がいつも車内で流している音楽とはまた違う、声のような楽器のような不思議な音色だった。漠然と、直感的に、これもまた音楽なのだと感じ取って、瞬時に理解したのだ。

 彼女はそれに合わせて歌った。特段歌が得意というわけでもなく、年相応の子供らしい歌声であったが、雪山はそれを拒まなかった。

 次第に、知帆は寒さも忘れて甘美な音楽と空間に浸っていく。自分も大自然の一部だと、心の底から感じられた。水彩のように、輪郭がぼやけて境界がなくなっていくような感覚だ。寂しさも恐怖も取り払われて、彼女の心を安堵が満たす。

 傍から見ている人がもしいたとするのなら、明らかに異様な光景だっただろう。狂った子供だと思われたに違いない。だが、そこに傍観者が存在する余地はなかった。この極寒の環境でただ独り、少女だけが吹雪の中で目に見えぬ何かと歌い、共存していた。……そういう意味では、彼女は音楽の神のというよりは、大自然の寵児としたほうが正しいのかもしれない。


 小学時代の回顧もほどほどのところで、白銀の視界に、一筋の橙の何かが視線をよぎる。知帆の関心はすぐにそちらに奪われた。

「手順はやっぱり今まで通りだ。順調、順調……」

 木々の隙間から、斜陽が差している。あんなに白かった林を逆光で真っ黒に染めて、こちらまで伸び来る陽光。その美しさに惹かれた少女は、光の根源の方へと無我夢中で駆けだす。そうかからないうちに林を抜け、平地に辿り着いた。その頃には吹雪も止んでいて、見晴らしも悪くなかった。

 近くには山小屋が建っている。何とか生き延びたのだと安堵しながら見たこの夕日が、今まで見たどんな景色よりも美しかった。これが夢だと理解している今ではもう、見れやしないけれど。


 樋谷知帆がピアノを弾くのは、一番自分に向いている手段で、己の原点となった音楽を求めているからだ。十年以上たった今も安心感と高揚感の入り混じったあの時間が忘れられない。だから弾く。弾きたいから弾くというよりは、弾かなければ自分の音楽はきっと死んでしまう、そんな気がするから。

 樋谷知帆はあの日、音楽と大地に魅せられ、愛し愛された。それからずっと、知帆の耳に入るものは全て、彼女にとっての音楽だ。命の芽吹きも、大地の鼓動も、ただの騒音も、みんな全部そうだ。

 そして、日々音楽に耳を傾ける彼女が奏でた音色は、着実に原点へ近づいている。

 ──大地も生命も音楽。だから私もまた音楽の一部なのです。

 十四の頃の彼女がインタビューの際に放った言葉である。

 人はその様子に次第に畏怖するようになっていく。彼女がどれほどずば抜けた才児であるかを、賞賛の言葉を尽くして語り、喩えて、距離を取るようになる。壇上と客席の間はいつからこれほど遠いものになったのかと、いつだったかの知帆は愕然としたことがある。

 本当に僅かな、けれど確かな、緩やかな変転。

 数多の賞賛の代償と言わんばかりに、いつの間にか彼女さえ枠を宛がわれる。枠よりはハードルと考えた方がいいかもしれない。聴衆はいつも言語化したがる。何もかも言葉で表せるなんて、きっとそんなはずがないのに。知帆はあまり快く思わないが、彼女の意思など彼らには知ったことではない。更新されゆく「樋谷知帆の演奏とはこのようである」という定義を、知帆はその都度飛び越える必要がある。とはいえ、実際のところ、枠を宛がう人たちは知帆が何を弾いても分かったつもりになって喜ぶので、幸い彼女の枷にはならなかった。

 弾けば弾くほど幸せになれるし、聴けば聴くほど幸せになれる。それの、なんと素晴らしいことか。世界中の誰もが音楽を好きになってくれたらいいと思った。大自然を前に、人間はちっぽけな小さき命に過ぎない。音楽に、言語も身分も関係ない。


「──まさか昭正さんが音楽に、ねぇ」


 足元の雪を見つめながら小さく笑んだ。日中、音楽に微塵も興味のなかった彼の善意に甘えてマシンガントークをしていたが、正直、本当に音楽へ関心を持つとは想定外だった。

 人の好い青年だが、曲名を問うてきたときの表情は、気遣いからではなかったのは確かだ。あの瞬間の彼に、昔の自分を見た気がしてならない。

 音楽など全くの門外漢である昭正は、知帆にとって未知な存在に近く、それはそれで面白かった。たまに彼が語る研究の話は難しくて分からないことの方が多かったが、普段は大人しいくせにそういう時だけは熱い語り口で、聞いていて楽しかった。

 自分の思想を押し付けるつもりはなかった。だから、彼の自発的な好奇心に喜ばしく思う。


 ──人間は自然の一部であるから音楽。であれば、人間社会は君にとってオーケストラですね。

 知帆の過去のインタビュー記事を読んで、彼がこのように呟いたことがあった。今でも覚えている。


 雪の森は漠然と広がっている。風景が覚束ない雰囲気なのは、流石は夢と言ったところだろうか。

 広大な白銀に紅差す斜陽、そこから生まれる真黒な影。およそ三色で成り立つ視界で、少女は陽に手を翳した。この夢を見ている間は小学生の姿であるから、伸ばした手は、まだピアノを始める前のぷにぷにとした幼さの残るものだった。

 届きそうだなぁと、そんなはずもないのに、茜色の輪郭さえぼやけて分からないのに、赤子のようなたどたどしさを含む緩慢な動きで陽を遮る。

 あまりにも眩しかった。幼心は、今もずっとあの景色と音色に囚われている。


「……また聴きたい」

 雪山の夢から目覚めて一言目、寝言みたいな独り言を零しながらベッドからずり落ちた。

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