【春・13『Kick this spring!』】

 1

 お店の前では、店長さんが大きな箒で掃除をしていた。つい浮かんだ牛久大仏という単語を、頭を振って消す。

「おはよう初芽ちゃん」

「……おはようございます」

 店長さんに改めて深く頭を下げる。

「先日は仕事を無断で欠勤してしまい、大変申し訳ございませんでした」

 わたしの個人的な都合で迷惑を掛けた。しかもたかが感傷で、わたしを拾ってくれた人に迷惑を──

 頭の中で幾つもの影が重なって暗さを増してゆく。

 けれども目を合わせるためにと上げた視線は、どうも穏やかでつぶらな瞳と繋がった。店長さんは笑っていた。

 わたしが出会う人は皆笑っている。

 それを改めて感じることができるわたしは幸福なのだろうなと思った。

「大丈夫だよ、元々お客さんそんなに来ないし」

「……え?」

 励一さんや久善さんには、お店は見えないところで頑張っているから大変だと。

 言っていなかったっけ。

「でも辞めるなら言ってね。見知った子が急にいなくなるのは寂しいから」

 忙しくなくて、人手が足りていて。それでも『寂しいから』と引き留めてもらえるのは嬉しかった。だから背筋を伸ばした。

「ありがとうございます」

 店長さんは満足そうに頷いて、視線を店の奥へと向けた。

「さあ、挨拶は済んだ。人が待ってるよ。今日は貸し切りなんだ」

 店長さんの表情はどうにも嬉しそうだった。

 長い間待っていた忘れ物が、漸く届いたかのような晴れやかな表情。

 それが何に起因するものなのか、訊こうかどうか迷ったけれども、訊いてしまうよりも自分の目で確かめたいと思ったから、最後にもう一度短く頭を下げた。

「……あ、そうだ。初芽ちゃん、座る席なんだけど」


 2

 店内の最奥にある四人掛けのテーブル。

 いつも明るい人たちで賑わっているその卓は、固まったように静かだった。

 聞こえるのは、自分の足音と、穏やかに流れる音楽だけ。

 パーテーションの向こうの席だから、角度のせいで励一さんが先に見えた。

 きちりと結ばれた口元を見て、心臓が止まりそうになる。

 しかし励一さんはわたしに気づいていない様だった。彼の眼差しは、一心に向かいの席へと注がれていた。真剣で、何処か緊張しているような張り詰めた目つきだった。

 その窺うような視線を一身に受けているのは、誰なのだろうと想像する。久善さんか、真月さんのどちらかとも思ったけれども、励一さんがこんなにも険しい視線をあの二人に向けるとは思えないから、違う誰かだと思う。

 店長さんに耳打ちされたとおりに、一つ手前の席へと向かう。抜き足差し足深草兎歩で席に着いた。丁度パーテーションを挟んで、その誰かと背中合わせになる形だった。

 盗み聞きをしているようで生きた心地がしなかった。心臓にうるさいよと軽くノックをする。邪魔することはできないから、黙ったまま、ただ耳を澄ます。

 先に聞こえたのは励一さんの声だった。

「あー……」

 探りを入れるような慎重で低い音。しかし後には何も続かなくって、空白が訪れる。

 長い間を無音が流れる。そうして、

「……久しぶり」

 漸く、ひっそりと、吐き出すように。それは遥かなる重力を背負った言葉だった。きっと、本当に長く顔を合わせていなかったのだろう。

 その人は答えなかった。

 代わりにかちりと、カップを置く音が鳴った。そしてその動作に続くように

「──はじめに」

 低く重い声が響いた。

 大人の、男の人の声だった。

「はじめに、電話が鳴ったとき。会社からだと思った。

 そして取り繕った声で挨拶をすると、知った声がした。

 何を言われるのだろうかと身構えた。どんな文句が、罵詈雑言がと。

 耳を塞ぎたくなった」

 空調の規則的な雑音とは違う。

 微かな震えが、まだらの模様になって声に浮き出ていた。

「だから、この店に来てくれと言われたときも、何をされるのだろうと思った。

 しかし何をされても受け入れようと思っていた。仕方がないことだと思った。

 そして今日。改めて店の前に立って、

 ここが古い友人の店だということに、やっと気づいたそのとき、何よりも驚きと困惑があった。意味がわからなかったから怖かった」

 血の巡りを整えるように声の主は息を吸う。あらゆる回転を否定するように凍った空間が、その重く熱い息に吹かれて目の色を変えた。

「そして……励一が、先に座っていて

 コーヒーが運ばれて来たときになって、やっと。

 やっと、自分が途方もなく恥ずかしい勘違いをしていたことに気づいた」

 食いしばるように堪えるように、その言葉の輪郭は歪んでいた。

 後悔と謝意の針が、幾千、幾億と突き刺さる。

「すまなかった──本当に」

 堅い水滴が琴線を叩く音がした。

 熱を抱いたその水滴は、ふっと乾いて結晶に至った。

 静かで、動きのない世界は、しかし高い温度を湛えていた。湧き上がるような情動が、奔流となって体を巡る。加速する拍動と痺れてゆく末端。

 あらゆる色の感情が、流れとなって渦となって、錆びた鍵穴を埋めてゆく。

 その人が誰なのか、形無き言葉が語る。

 励一さんは今、お父さんと向き合っていた。


 吐ききってから、吸いきって、せき止められていた水分がとめどなく溢れ出す。

「ずっと言えなかった。本当に、立派に育ったと。

 高校二年の夏だった。覚えてる。医大に行きたいと言われた。そのとき泣きそうだった。立派な志だと思った。母さんは喜ぶだろうって。

 でも口には出せなかった。ずっと会話すらしてこなかったのに今更、まともな親にみたいなことを言っても、意味なんて無いと。何も言えなかった。だからせめて黙って、せめて、せめて金のことだけは心配しなくていいようにと働いた。

 言い訳だ。

 震えるくらいに無気力な最悪の言い訳だ。

 俺がこんなことを言えた立場ではないということは誰よりもわかっている。

 ただ、それでも本当に

 謝意と感謝を

 本当に──」

 ぐちゃぐちゃに千切れていた本意が、握力で固まって形を為してゆく。

 その声は途切れ途切れで、気持ちを伝えるには不十分だったかもしれないけれども、その気迫と音程は、たかが耳を欹てているだけの人間の心臓まで揺らしてしまうほどの、大いなる威力を帯びていた。


 3

「誰かに仲良くしろ、とか言われたわけじゃないんだよ」

 お父さんの吐き出すような慟哭とは対称的に、励一さんの声は澄んでいた。

 でも、それはきっと彼の中に関心が無いとか、そういうことではなくて、きっと何度も頭の中で想像したことだったから、少しだけ滑らかにできたような気がした。

「もう子供じゃあるまいし」

 軽く笑って励一さんは続けた。

 二つの歯車が音をたてて震え始める。

「ただ、俺自身にできることを模索したら、とりあえず消化しておかなきゃいけないものがずっとあったことに気づいただけで。まあ俺も正直、もう二度と顔も合わせないんじゃないかって思ってたけど……」

 公園での会話を思い出す。

 まるで怨敵かのようにお父さんのことを語る励一さんは、少しだけ怖かったけれども、振り返って自分のことを責め始めた時、

 少しだけ、迷惑ながら親近感を抱いたのだ。

 謝ることもできなくて、感謝することもできなくて、じゃあプラスマイナスがゼロになってどうでもいいものかと問われれば、そんなわけもない。

 案外真面目な人なんだなと、あの時に感じたのだ。

「何もしなかったのが駄目だったわけで、考えてみれば今までそもそも和解──いやあ、この言葉も気持ち悪いか……普通に話すこともしてこなかったわけで、じゃあ諦めるには早いと思ったんだ」

 進もうとする人の語り口は雄弁だった。

 正面から受けているわけでもないのに気圧されて、また心臓が早くなる。痛くなる。祈るように自然両手は絡まった。今だけは神様にだって縋りたい。

「決して良い親だー、とかお世辞を言うつもりはないけど、俺からもずっと言えなかったことを言いたい。言っていい?」

 そう問いかける彼の語り口は、まるでテストの点を自慢したい少年のようで、何処か楽し気だった。わたしが代わりのように緊張する。

 しかし、その温度を彗と下げて彼は続ける。

 空の瓶みたいに冷たくて、清潔な音がした。

「ありがとうございます」

 短い言葉は青く見えた。

「親父のおかげで俺は今それなりに幸せに生きています……それと沢山迷惑を掛けました。本当にすみませんでした」

 それは励一さんが、ずっとお父さんに伝えられないと言っていた本意で、今しがたお父さんが励一さんに伝えた言葉と一緒だった。

 嗚呼、不器用なのは似るんだなあ、と何故かわたしの頬が熱を持つ。

「そんなことは、」

「あるんだよぉ、少なくとも俺の中には」

 円い器のようなその空間に満ちた、静かで青い感動は、

 しかしウインクをしながら現れた見越し入道の起こした波に揺れて、豪快に音を立てた。

「話終わったあ?」

「うわ出た」

「え、うわ久しぶりだな」

 うわ。

「揃いもそろってうわとはなんだ、うわとは。おい親友よお。話終わったらこっちで話そうぜえ、積もる話しかないだろう」

「あ……いや、しかし」

「いーよ、行けって親父」

 乾いた風のようにすっきりとした調子で励一さんは続ける。

「友達は大事だ。特に、本気で怒ってくれる奴は」

 表情はわからなかったけれども、噛みしめるように、そう語る。

 砂糖のように

 甘く、温かい気持ちが溶けて広がってゆく。


 4

 爪先から髪先まで空気を浸透させるように、

 息を細く吸う、吐く。

 呼吸の往復は、一度で終えると決めていた。決めておかないと、またずっと足踏みをしてしまいそうだから。

 最後の一滴まで、肺を空にするように吐ききって、わたしは席を立つ。

 窓の外を眺め、微笑を携えたまま思索に耽る彼に声を掛ける。

「励一さん」

 彼は平和な面持ちのまま顔を上げ、

 しかしそのまま椅子からずるりと滑り落ちた。


「いたんですか……?」

「ずっと」

「聴いてました……?」

「全部」

「……あの、二時間前なんですけど」

「すみません」

「え! ああ、いやその大丈夫なんですけど、ああ、もっとこうなんというか、いい感じに纏め上げたうえで話したかったんですけど、あれ、ああ、うぅん……」

 先ほどまで雄弁に過去と向き合っていた人の様だろうかと少しだけ訝しみそうになる。

 しかしこの軽く、重力を感じさせない風格もまた、彼の魅力で人を惹きつけ得るのだろうと考えてみると、意外なほどに容易く呑み込めた。

「あーもう……なんで俺ってカッコよくできないんだぁ……」

「そん……」

 励一さんの向かいの席に着く。

 初めてこのお店に来た時と同じ位置だった。

 真正面に励一さんがいて、彼が少しだけ申し訳なさそうにそわそわしていることも含めてあの時と何も変わっていないように思えてしまう。可笑しい。目元が緩んだ。

 あの時と、何も変わっていないように見えるのに、どうして、わたしはこんなにも安らかに落ち着いた心地でいられるのか。

 考えてみると視線は自然に前を向いた。

「励一さん」

「はいっ」

「……わたしを呼んで、どんな話をするつもりだったんですか?」

 予想は付いていたし、外れているつもりもないけれども、訊いた。

 励一さんは姿勢を正して、わたしの目を見る。

 信じたくなる人の視線だった。

「……別に説教しようとか、啓蒙しようだとか、そんな大層な試みはないんです」

 うん、と。

 答えそうになってしまって、慌てて口をきゅっと結ぶ。

「俺にできることってすごく少なくて、でもそんな中で出来ることを探してみようって思った時に、思いついたのが親父とのことでした」

 信念を持った人の声は確かめるように静かだった。

「案ずるより産むが易し、百聞は一見に如かず、なんて昔の賢い人は言ったけれども、だからと言って顔も知らない昔の人の言葉なんて、それこそ百聞にしかならないわけで。だから例えば俺みたいな人間にもでもできたなら初芽さんも元気が出るかなあなんて」

 言って彼は首を傾げる。元気が出たか、言っていて不安になったのだろう。どうして妙なところで失速するのだろう。そんなもの、出たに決まっている。

でも言葉にしなければ、そんな考えは意味も効力も持たないこともわかっていた。

「元気出ました」

「そりゃあよかった」

 口にすること、言葉にすること。文章として空間に音を刻むこと。

 それは、確かに自分がこの空間に根差していたことを示す些細な儀式だった。

 頭の中でずっと、ぐるぐると回遊していた、この感情たちも、みな外の世界で言葉にしなければ、意味を持たない。

 足の裏がむずむずする。進みたくてしょうがない。

「もし、もしもですよ」

 蚊の羽音くらい消極的な様子で励一さんは言った。

「もし、何か良くない結果に終わって、それで初芽さんが泣きそうになったらまた俺に言ってください」

 そして堅く凝っていた相好を崩して、続ける。

「そしたら俺も一緒に泣きます」

「……なにそれ」

 ああもう、笑っていいのかわからないではないか。

 一緒に進んでくれる人。

 一緒に泣いてくれる人。

 出来ても、出来なくても、一緒になって叫んでくれる人。

 隣にそんな人がいてくれて、それでも進めないのならば、今まで受けて来た、全ての出会いと幸福に背を向けることになる。

 わたしは前を向ける人間に育ったんです、と。見上げて呟きたい。

 励一さんの眼差しは澄んでいた。黒曜石のような瞳は光を吸い込んで煌いた。

「はい」

 考えるよりも一瞬先に、喉が鳴くと

 わたしは顔を上げた。





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