【冬・3『溺れるほどの幸福を』】

 1

 徒労を終え、自己満足にぐちゃりと浸る。

 痛めつけた身体に冬が沁みてゆく。

 季節にそぐわない程に噴き出した汗が、額の上で似た音をたてて滲んだ。汚物のような魂の入れ物は相応の音をたてる。

 姿の見えない誰かへの奉仕活動は、最早僕の生きる意味となっていた。

 しかし生きる意味が、生きる価値で、生きるための希望なのかと問われれば、僕は何も言わず、塞いだ口の中で舌を噛み千切るだろう。

 わかりきっていることを訊かれる程、煩わしいものもそうは無い。

 それなのに僕は同じことを何度も自分に問いかける。頭が悪いからだ。悔恨を改善と同義だと思い込んでいるほど頭が悪いから、僕の世界は好転しない。

 何故こんなことになってしまったのだろうか。

 その答えを、僕はとっくに知っている。


 2

 眩暈と共に立ち上がる。目を擦ると外はもう随分と明るくなっていた。窓から中庭の時計を見ると、時刻は既に正午の線を越えていた。慣れない修理作業に時間を取られ過ぎた。

 最近、院内で扉や引き出しがよく壊れている。

 壊されていると言う方が正しいかもしれない。被害に遭う部屋の入院患者のほとんどは、おじいさんおばあさんだった。

「気に食わない」

 目が合った瞬間、必要のない世間話を仕掛けてくる面倒さは確かにあるが、手伝いをすると必ず飴やせんべいをくれる良い人たちなのだ。

 きっと、孫や子供に会えない寂しさで空いてしまった穴を、別の何かで埋めたいのだろう。

 槌を振り上げる。

 誰かに会いたいという気持ちを利用するのは許されることではない。

 槌を振り下す。

 頭に巻いたタオルを解き、汗を拭き取りながら一人憤る。

 叩き潰した指先にできた血豆が黒く変色し始めていた。


 自室の扉に手を掛け、そしてそのまま停止する。部屋の番号を確認する。

 二百二十四号室。間違いない。僕がお世話になっている部屋だ。

 ならば何故、部屋からきゃあきゃあと猿のような叫び声が聞こえるのだろう。

「あ、夕さんお帰んなさーい。なんでトンカチ持ってんです?」

「その子ザルたちはなんだ」

「あっ、ひどい! こんなに可愛いのに、ねー?」

 眼を尖らせ、夏夜は黒髪の童女に頬ずりをする。

「むぇー」

 羊の赤ん坊のような泣き声を上げ、くすぐったそうに笑う。そんな童女に何かを感じたのか、夏夜の頬を擦り付ける速度が早回しのように加速した。

「かわいい……へへ……へへへへへ……」

 気持ち悪いなぁ。

 自分以外に嫌悪感を向けたのは心底久しぶりだった。新鮮な感情を強制的に僕に植え付けてくれる彼女は、言ってみれば僕に新しい世界を見せてくれるわけで、もしかしたら素晴らしい人間であると表することができるのかもしれない。

 そんなことを考えている間も延々と、世紀末の笑い声をぐへへと喉から漏らしている夏夜に流石に童女も辟易し始めた様子だった。小さな口元がすっぱいものを食べたかのように歪んでいる。

 世の中には可愛いものに対して、「かわいい~」とリアクションを取る自分自身を可愛いと思い込み、一過性のコンテンツとして消費する不届き者が存在するらしい。

「がわい……へへ、おっほほ……」

 しかし自己を可愛らしく庇護欲を誘わせる存在だと周知させたいのであれば、このような醜悪な捕食者の如き反応を世界に発信する必要はないだろう。童女の表情がついに軋む。周囲の獰猛な子ザルたちも手が出ている。足が出ている。頭突きが出る。平手が出る。岩盤にへばりつく平貝を剥がすが如く、小さな手を熊手のように果敢に突き立てる。

 しかし果たして夏夜は動じなかった。正気を失うという表現を、生きているうちに、しかも知人に対して使うとは思わなかった。思いたくなかった。認識を改めよう、今の彼女は恥人である。

 その様は傍観者の視点からしても苦痛だった。何せここは僕の病室なのだ。目にゴミが入ったようなものである。

「おい夏夜」

 ぬるりと妖怪が振り向いた。生気の宿らない瞳が虚ろに揺れる。本当に怖い。

「……その子はどうやら疲れたようだ。可愛がられるのも嬉しそうだったが、その子のことを考えるならば一度離れた方が良いだろう」

 よだれを口の端から垂らしかけた夏夜はハッと半分閉じていた目をかっぴらき、そそくさと童女から離れ、僕の隣の壁に倒れ込むようにもたれかかる。あぶない。唾液がそのまま垂れていたら今日は野宿になるところだった。

「あっぶねえ……わたしが可愛くなかったら犯罪でしたよ」

 一々他人の癪に障ることを言わないと気が済まないというのは大層生き辛く見えた。

 頬を上気させ、はぁはぁと息を正す夏夜を見ていると、自然目元が不快な方角へと歪んでゆく。人間の顔面に鬼門を現出させる才覚というものは国家転覆以外に使い道はなかろう。コイツはこのまま可燃ごみにでも出した方が世の為人の為子供の為心の安寧の為になるのではないかというそれなりに邪悪かつそれなりに妥当な気がする思考が足元から這い上がってくる。これ以上この痴人を見ていると何かが痒くなりそうだった。視線を逃がす。

 数分ぶりの友人との再会を喜ぶかのように子ザルたちは、肩を寄せ合い各々の健闘をたたえ合っていた。友人の為にあの醜悪なる捕食者に挑んだ小さな勇者たちは、もはや悪魔ではなかった。讃えよう。青くも素晴らしい勇気を。

 微笑ましい光景に目を焼かれていると、その中の一人が僕に向けて言った。

「ありがとう鳥ヒーロー」

 なんだその居酒屋みたいな呼称は。悪口だろうか。多分悪口だろう。なんだこの野郎と眉間にしわを寄せてみる。するとどうにも少年に見覚えがあるような気がした。

 そして思い出す。

「ああ、鳥を木の上に返した時の……」

 キラキラと輝く視線で僕を照らしていた少年である。そしてその眩しさに負けて僕は木から落ち、脇腹を打撲した。

「鳥ヒーロー……ぷ」

 横槍のように嘲笑するような声が聞こえた。何故嗤う。この少年のネーミングセンスは、そりゃあ現役の中学二年生からすれば、少々中々に稚拙に感じてしまうものなのかもしれないが、それにしたって人の独創性の芽を摘むようなことはしてはいけない。いいじゃないか、琵琶湖飛び込み選手権みたいで。

「夕さんがヒーロー……ふ」

 嗤われていたのは少年ではなかった。ならばまあいい。お前は後だ。

「……その、鳥ヒーローって呼び方は止めてくれ」

「なんで?」

 その純朴な瞳にうるせえ黙れと言えるほど心荒んでいるわけではない。どう返したものかと逡巡する僕を見て夏夜がけらけらと笑う。うるせえ黙れ。

「正義のヒーローは正体を隠すものだ」

「くっふー!」

 吹き出すな。汚いから。


 つかれた。

 人との会話とは、こんなにも疲れるものだっただろうか。

 タカが幼児の腕力、などと侮っていたこの身に叩き込まれたのは、加減を知らない全力だった。やめろ口に指を突っ込むな耳を掴むな髪を引っ張るな。

 子供の小さな手は無理に振り払えばそのままブツリと取れてしまいそうで、なかなか外せない。纏わりつく少年に『いっつもあんなことしてるの?』と聞かれた時にはバカにされているのかどうか判断するのに時間がかかった。自分自身がバカなことをしているとわかっているからだ。

 何か一言とマスコミの様に迫ってくる子供たちを、ええいあっちへ行けと放り投げられるほど人心を失っているつもりはない。何を述べれば人生の足しになるだろうと一頻り考えた後、一つの常識を思い出した。

 僕には身についていないけれども、大事な教養だ。

 この子たちは僕をまるで善人のように扱ってくれるが、純粋な子供には絶対に、僕の真似などして欲しくない。ナメクジの如き湿度を伴った生存の跡に続いては、何に寄生されるかわかったものではない。

 どうかこの子たちの幸福へと繋がってくれと願いながら言葉を吐く。

「もし君たちが、困っている誰かを見つけたら、自分以外の誰かに頼ろう。そうして、いつか君たち自身が成長して強くなったら、誰かに頼られた時に助けてあげてくれ」

 人間が一人で出来ることには限りがある。頼れる人間がいるうちに甘えておくべきだ。

「まず自分自身を守れなきゃ、誰も助けられないから」

 少年少女たちにばいばいと手を振って、飛び込むように定位置の壁にもたれかかる。隣の夏夜はまだ、けたけたと笑っていた。

「そんなに面白いか?」

「ええ、割腹ものです」

 せめて腹筋を割れ。

 僕の熱い視線に気づいた夏夜は続けて言った。

「なんスか鳥ヒーロー……っふ」

 夏夜の目は三日月型に歪んでいた。

 自分意外に嫌悪感を向けたのは、割と直近にあった。なんなら連続していると言っていい。それが例え新鮮な感情だとしても、連続的かつ強制的に植え付けてられれば、そこには新しい世界を見せてくれる感動よりも先にこいつ殴りたいなという衝動が勝りそうになる。

 しかし司法制度の整った現代社会においては先に手を出した方が悪人である。脳味噌が痒くなるような焦燥を押さえつけるためにへへへと笑う。

「え。何笑ってんですキモ」

「このガァキ……」

「子供に向かってガキとか言っちゃダメですって。もー子供なんだから」

 何を言っても無意味だと悟った瞬間にエンジンが切れるように気力が絶えた。

 しかしそんな心情など一切意に介することはなく、正反対の道を行くように子供たちはバタバタと遊び始める。嗚呼まさか、人生において近所の猿山を探さねばならない日が来るとは思わなかった。やはり人生何が起こるかわからない。だから怖いのだ。

 一人は椅子に座ってせんべいをかじりながらゲームを始め、鳥ヒーローファンはベッドの上で跳ねまわりながらせんべいをかじり、童女はもう一人の女の子と一緒に部屋の全ての引き出しを開けながらせんべいをかじっていた。

 なるほど犯人はお前らか。そりゃあおじいちゃんおばあちゃんも訴えないわけだ。

「いやー可愛いですよねぇこども」

 そうこどもが呟いた。

「わたし保育園の先生になろっかなぁ……」

「夢を見るのはいいことだな」

 可愛がるあまり罪を犯さなければいいのだが。

「いや、というか君」

「なんです?」

「……いや、なんでもない。呼んだだけだ」

 言いかけて止めた。口に出すはずだった言葉が、存在しない部位で空回りする。

「なんでそんなめんどくさい彼女みたいなことを……?」あーなんだこいつうぜえ。

 妹が生まれるんじゃないのかと言いかけた。

 このことに関しては鳴海先生に口止めされていた。曰く夏夜には、何の気兼ねもなく相談できる誰かが必要らしい。

 何も知らない他人にならば、目と耳が付いただけの壁や障子にならば、何でも話せるわけだからメンタルのケアになるのだろう。僕は彼女にとってのサンドバックやお人形のような立ち位置であることが求められるのだ。

 僕は彼女のことを何も知らず、彼女も僕のことを何も知らない。

 それでいい。それがいい。

 僕は、自分の事情を他人に話そうなんて、きっと一生思わない。他人に自分の不幸と愚行を見せつけて、何かが好転するなんて思い上がっているほど、僕は馬鹿ではない。

 だから個人の認識という最も曖昧で、かつ対人関係においては最も重要であるはずの要素が、僕たちの間には欠如している。その曖昧さが、この関係を円滑に延長しているというのは奇妙な感覚だった。

 その後ゲーミング少年に誘われて一緒にゲームをした。乗り気ではなかったのだが、あまりに熱烈に誘われるものだからしょうがなく付き合ってやることにした。対戦ゲームだったので操作方法を教えてもらい、キャラクターを選択し、ステージを選択する。まあいっちょ軽く揉んでやるかと肩を回した。

 十五敗した。一回も勝てなかった。なんだこのクソゲー。


 3

 存分に遊んで疲れ果てたのか、こどもたちは陽だまりの中で粘度の高いよだれを垂らして塊になって眠り始めた。

 今日は床で寝よう。

「十一月七日。院の周りの掃除、ゴミ捨て、草むしり……長っ、なにこれ気持ち悪」

 罵倒が飛んできたので嬉々としてそちらへ首を向けると、夏夜が僕のノートを開いて口元を引きつらせていた。引き出しを子供たちに開けられた時、床にでも落ちたのだろう。

「どこからどう見ても日記だろう」

「どっからどう見たって日記じゃありませんよコレ。中身すっかすかですもん」

「毎日全行埋めている」

 それだけが生き甲斐なのだからそこを欠かしたことは無い。

「そうじゃなくてコレ、楽しいとか嬉しいとか美味しいとか何も書いてないじゃないですか。こんなもん日記じゃありませんよ」

「……おう」

 何も言い返せなくなると人間思考が凍るものである。

「読んでたらノイローゼになりそう……ぺっぺっ」

 ほこりを払うように日記帳に平手をかます。薄っぺらい僕の生き甲斐が軽く弾かれた。

「もっと人に頼ること覚えましょうよ。こどもたちにはあーんなカッコつけたこと言ってたくせに、自分が守れてないんじゃ示しが付きません」

 言って夏夜は「あ、別にカッコ付いてなかったか」と呟く。やめろ思い出すな。正義のヒーローはさっさと人の記憶から消えた方が都合が良いのだ。

「君が言うと説得力が違うな」

「ふ。まあわたしは? 自立してますし? 人に頼らずとも生きていけているのでそう思われるのも致し方ないしなんならやぶさかでもありません」

『いや人に頼り切ってるから』と言いそうになって、すんでのところで押し止めた。

 衝動的な一言で生まれる軋轢など誰の得にもなりはしない。代わりにそうだねぇと気の抜けた返事を放り投げた。

 対して夏夜は得意げだった。やはりこどもだ。

 確かにバイトをして、一人で寝て、自分だけの人間関係を構築している自分を自立した大人だと錯覚するのは無理もないし、そういった成長を望むお年頃なのだろう。

 だけど彼女は知らない。

 両親が、自分の居場所、行動を全て知っていることを。知ったうえで、野放しにしていることを。

 その手引きをしているのが鳴海先生であることを。そして僕ですら君にそれを黙っていることを。

 君はただ愛されているだけだ。温かい巣箱の中で大切に、囲われているだけだ。

 それは悪いことではない。その巣箱は善意で作られたものなのだ。君のために、周りの大人が、身勝手な子供のわがままに付き合ってくれている。

 暮石夏夜は恵まれている。

 恵まれているからこそ、彼女は身勝手で楽しい日々を自由に過ごしている。

 しかし巣箱からは、いつか飛び立たねばならない。

 何時かきっと、小鳥である君を導いてくれる誰かが現れる。

 その日までどうか幸せに。何も知らずにどうか、噛みしめていて欲しい。

 嵐が訪れるその時に

 縋れるものが、何も無くなってしまうから。





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