虚影の王

月影真

第1話 魔王

木々が鬱蒼と茂る、名もなき森。

 神凪陽翔かんなぎ はるとは、ゆっくりと草をかき分けながら進んでいた。背中に背負った荷には、短刀と水、わずかな食料と薬草だけ。

 誰にも告げず、ただ一人で、森へ来た。


 理由は一つ——“力”が欲しかったからだ。


 この世界には、“異能”と呼ばれる力が存在する。その力は、生まれ持った才能であったり異能が宿っているオーブを使うことで獲得できる。また、その力で、火を操る者、水を呼ぶ者、風に乗る者。そして中には天変地異さえ起こせるものもいた。

 陽翔は、それらすべてを、ただ見ていることしかできなかった。

陽翔には、生まれ持った異能がなかったからだ。


「……俺も、異能がほしい」


 森へ入ることは、町では禁じられていた。中には危険な“魔物”が出るからだ。しかし、陽翔には迷いはなかった。

 幼いころ、自分の目の前で両親が魔物に殺された。——何もできなかった自分の、あの無力感が、今でも心に深く刻まれている。

 だからこそ、強くなりたかった。ただ、その一心で森へ踏み入った。


 昼を過ぎても陽翔は森を進み続けた。地図もなく、方位磁針すらない。足場はぬかるみ、視界は悪く、空腹と疲労が積み重なる。

 だが、引き返すという選択肢はなかった。


 その時——近くで、低く唸るような音がした。


「……ッ!?」


 空気が変わった。森の奥から、黒い影が動いている。

 気づいた時にはもう遅かった。影は四本の脚で地を駆け、陽翔へと一直線に迫ってくる。


 魔物だ。狼に似た姿だが、目は赤く光り、背中には棘のような骨が突き出ている。


 陽翔は魔物に対峙する。心臓が痛むほど鼓動し、足が震える。


「ぐッ…!」


とっさに短刀で防いだ、ある程度のダメージは軽減できたがそれでも腕と背骨を損傷した。陽翔は逃走に切り替え、森の中を無我夢中で走り抜ける。木の枝が頬を裂き、転んで膝を擦りむき、何度も立ち上がった。

 息が荒れ、視界が揺れる。それでも、足を止めることは死を意味した。


 そして——目の前に、異様な建物が現れた。


 それは、黒く、歪んだ石造りの古代遺跡だった。森の中に突然現れるにはあまりに不自然な存在。けれど今の陽翔には、選択肢などなかった。


「頼む、間に合え……!」


 彼はそのまま遺跡の中へと飛び込んだ。中は冷たく、湿った空気が漂う。壁には黒い蔓が這い、天井からは土がこぼれ落ちている。

 明かりはない。ただ、闇だけが広がっていた。


 魔物の咆哮が、すぐ後ろまで迫っていた。


「っ……!」


 陽翔は足を滑らせ、崩れた石段を転がり落ちる。

 体が岩にぶつかり、鋭い痛みが背中を走る。視界が白く染まり、口の中に鉄の味が広がった。


 その時——空間が……いや、世界そのものが、凍りついたように静止した。


 頭の奥に、声が響く。


『……力が、ほしいか?』


「カハッ……誰……だ……?」


『力が欲しいか? 契約するならば、お前に“異能”を授けよう』


「ちから……が……あるなら……ほしい……すべてを凌駕する力が!」


 陽翔の意識が落ちる寸前、胸の奥が灼けるように熱くなった。

 黒い光が体中を駆け巡る。何かが——彼の中に“入り込んで”きた。


 漆黒の空間の中に、男が立っていた。

  黒髪、黒目。背にまとわりつく影は、生き物のように蠢きながら、男の輪郭を形づくっていく。


「我はカゲロウ。かつて、“魔王”と呼ばれた者だ」


 虚ろな意識の中で、陽翔は彼の声を聞いた。

 だが、応答はない。ただ眠るように意識を手放す。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 夜の森は静寂に沈んでいた。

だが、その静寂の奥底に、確かに禍々しい気配がある。


「……千年ぶりか。この肌で空気を感じるのは」


黒き靄のように立ち上る影の中に、漆黒の瞳が二つ、ゆらりと浮かぶ。

それは少年の肉体を媒介として現れた、魔王──カゲロウ。


肺に流れ込むこの冷たい夜気、肌を撫でる風の感触、魔力を満たす大地の鼓動。

全てが懐かしく、そして愉しい。


「さて、まずは……肩慣らしだな」


森の木々を裂きながら、巨躯の魔物が姿を現した。

鋼のような灰色の毛並み、牙は岩すら砕くとされる。かつて幾多の異能者を屠った

Sランクの魔物──《ブラックフェンリル》。


だが、カゲロウは笑う。


「お前のような獣に名があるとは、時代も変わったものだ」


黒狼ブラックフェンリルは警戒しながらも、目の前の存在が「獲物」であることを理解し、唸り声を上げる。

一瞬の後、音すら追いつけぬ速度で襲いかかった──


──が。


「《虚影刃撃きょえいじんげき》──」


その瞬間、地面に流れる影から、鋭く尖った影の刃が飛び出した。

闇の斬撃が、音もなく黒狼の四肢を切り裂き、跳躍の体勢を崩させる。


「鈍いな……力も、気配も……弱い」


黒狼が咆哮する。口から吐き出された漆黒の魔力弾が、森を焼き払う。


──だが。


次の瞬間、狼の首は空を舞っていた。

斬られたことすら気づかぬ速さで、影の刃が喉元を裂いていたのだ。


「……千年の眠りは、思いのほか感覚を鈍らせるものだな。この程度の魔力すら、いまだ手に余るとは」


地に転がる肉の塊、染み広がる血の中に、残された狼の“魂”が現れる。

その魂を、影が吸い上げていく。


「魂すら喰らえぬ者に、存在する価値はない」


影が再びカゲロウの背後に溶け込み、静寂が戻る。


「……さて、次は少しは愉しませてくれる相手が見つかることを祈るばかりだ……

 いや、こやつもなかなかいい才を持っている」


彼の口元に浮かぶのは、千年前と変わらぬ──冷たい愉悦の笑みだった。

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