フキちゃんの彼岸花
野村絽麻子
*
玄関に荷物を降ろすなり母が口を開く。もうずっとずっと昔の母の日に贈ったファンシーな絵柄のエプロンは色味もくすんで、ポケットには桃色の裁縫糸で補修がしてある。
「あらら、昨日来てたらフキちゃんに会えたのに」
「ふきちゃん?」
聞き覚えのない名前だし、なんとなく愛想のない響きから、近所の猫か、犬か、母の俳句仲間の誰かなのだと思った。
母は、眉間に険しい皺を寄せる。
「馬鹿ねアンタ。フキちゃんじゃない」
台所で鍋が吹きこぼれる音がした。飛び上がった母はそのままの勢いで廊下をパタパタと駆けて行く。
「……ふきちゃんって?」
だから、私が引き続きそう呟きながら首を傾げていた事を咎められずに済んだのは、幸いと言っても良かったのかも知れない。
エプロンの後ろのボタンも桃色の刺繍糸で留め直されている。新しいのを買えば良いのにと思う。いっそ、次の母の日に新しく買ってプレゼントしようか。名案かも知れない。問題はそれを半年以上先まで覚えていられるかどうかだ。
「そしたらね、近くまで来たから寄ってみたんです、ってフキちゃんが。全然変わってなくてねぇ」
ダイニングテーブルにキャラクター物の東京バナナの八個入りと、佃島で買った鱈子の佃煮を置く。するとテーブルの菓子盆の中に個包装のカステラが入ってて、ほぉん、と相槌を打ちつつ手が伸びた。これは私の好物だ。
「それ、フキちゃんのお土産」
にひ、と悪戯が成功した子供のような笑みを見せる母に、少しだけ背筋が冷えるのを感じた。
隣町に住む伯父の家に顔を出してくるよう言われ、ぽてぽてと道を歩く。何しろおはぎを詰めたタッパーを待たされたので荷物が重いのだ。
「どうせ伯父さんちでも作ってるって」という抗議は「持って行くことが大事なのよ」というよく分からない理由で一蹴された。三軒隣の上原商店の住宅部分の、軒先に繋がれた犬がフェンス越しに鼻を鳴らすのに笑顔で手を振る。長くなりつつある陽射しが目を焼く。サングラスが欲しいなと思う。
はたして伯父の家に到着すると、似たようなくたびれ具合のエプロンを着けた伯母がにこやかに出迎えた。
「暑かったでしょう」
氷の入ったグラスとタッパーを出してきて、やはりと言うか当然と言うか、中身はおはぎなのだった。
「フキちゃんには会えた?」
先ほど渡したタッパーの中身がおはぎだった事を話題にすら出さず、伯母がそう言う。
「いえ、特には」
何と答えて良いかわからなくなり曖昧な回答をすれば、どっかりと大ぶりのおはぎを手元の皿に乗せられた。私は覚悟を決めると、お箸を手にして取り掛かる。
もっちりした米と水気を多く含んだ小豆のマリアージュ。実はおはぎは嫌いではなくて、恐いのはこの、ほぼ炭水化物のみという構成だ。それにしても。きちんと豆の味がするあんこは甘さがしつこくなくて、実に箸が進む。
「……おいひいです、これ」
「そうよね。それ、フキちゃんがくれたのよ」
ヨモツヘグイという言葉がある。
この世ではない場所で、その場所で煮炊きした食べ物を摂取することだ。それにより戻って来られなくなるという。伯母の家で食べたおはぎは、その言葉を連想させた。
とぼとぼと来た道を歩いて戻る。伯母曰く、昨日ひょっこりと姿を現したフキちゃんは以前とあまり変わらない様子で、集落の馴染みの人のところに顔を出して回っているらしい。
フキちゃんは昔から愛想が良く、器用で、思いやりがある。老人の様子伺いついでに子供たちの世話をして、いつでもどこか楽し気な顔をしていた。若くして結婚し、旦那さんと一緒にこの地に移り住み、あっという間に小さな集落に溶け込んだ。けれど子宝に恵まれず、離縁されて去ったのだ。伯母の話ではその間は十年に満たない。
御多分に漏れず、私もフキちゃんに世話されて育ち、中でもひと際べったりだったという。姉妹か、あるいは誰も口にはしなかったけれど、ともすれば母娘のように。
それなのにフキちゃんのことが記憶からごっそりと抜け落ちているのは、どういう事なのだろうか。
「よぉ、帰ってたのか」
上原商店の前まで戻って来たとき、どこからか声がした。キョロキョロと辺りを見回すが人影はなく、さっきも見かけた犬がお利口そうに座って尻尾を振っているだけだ。よもや犬が。そう思い始めた頃、植込みの死角にしゃがんでいた人物が立ち上がってこちらを見た。
「なんだ、睦月か」
「なんだとは何だ。てか自分ちにいて何が悪いか」
上原商店の次男坊こと睦月は幼馴染の悪友で、今は集落の消防署に勤めている。
しゃがみこんで犬と目線を合わせる。丸く愛くるしいつぶらな瞳の持ち主は数年前から飼い始めたらしい柴犬で、頭を低くして尻尾を振ってみせてから、てとてとてと、と可愛らしい音をさせてこちらへやって来た。手の甲の匂いを嗅がせたあと、犬の顎を撫でる。滑らかな手触りと温かな体温は間違いなく癒しだ。おまけに可愛い。
「今日は非番?」
「そ。なぁ、フキには会えたか?」
どうやら私はよっぽど変な顔をしたらしい。睦月が眉根をさげて、おいおい、と言う。仕方なしに声を出すと知らずため息交じりになった。
「おはぎなら食べたよ」
「エッ、食べたいんだけど」
それでも表情が晴れないのを見てとり、遂には顔を覗き込んでくる。何から話せば適当なのか分からず、しばらく困ってから、犬の耳の後ろを指先で掻いてやる。
つまりは、フキちゃんのことを知らないのだ。そう告げた瞬間は揶揄う表情になったものの、こちらが本気で困っていることを読み取ったのか、そのままいったん口を閉じる。
「……マジで?」
「マジで」
もし忘れているのだとしたら随分と失礼な話だとは思った。明るくて優しくて、働き者で気が利いて、母娘と評されるほどの距離感で甲斐甲斐しく世話を焼き、必要とあらば叱ってくれたフキちゃん。けれど、本当に知らないから困っている。みんなが当たり前にフキちゃんを知っていて、尚且つ、誰もが知っていることを前提として投げかけてくる「フキちゃんには会えた?」。
そう、とても困っているのだ。
犬のおでこに鼻をくっつけて吸うと日向の匂いがした。
「なんかさぁ、アレじゃね? ストレスとか」
「んー」
商店の土間の方から睦月を呼ぶ声がする。睦月は、おー、と商店に向かって返事をしてから再びこちらを振り向いた。
「ま、たらふく食って、ゆっくり風呂に浸かって、よく寝りゃ思い出すって」
「かもね」
服の皺を直しながら立ち上がる。犬がぴすぴすと鼻を鳴らして、私は「また来るよ」とその頭を撫でた。
晩に、夢を見た。
幼い頃よく遊んだ公園に居る夢だ。ブランコを漕いでいる。体を前後に揺らしながら勢いをつけて漕ぐ。高く高く、風が耳元でひゅうと鳴るのが嬉しくて、とにかく懸命に漕ぐ。ふと、ベンチから誰かが見ていることに気が付く。まあるい顔にさらさらの髪。ほろりと綻んだ目元はいまにも蕩けそうに優しくて、私はすぐにそれがフキちゃんだと気が付く。途端に嬉しくなる。手を振ろうとしたのがフキちゃんにはわかり、「こら」と柔らかな声がする。そうは言いつつもフキちゃんは怒っていないのだ。
「手を離したら危ないよ」
「はぁい」
ベンチの空いたスペースに水筒とタッパーが置いてあるのが見える。アレの中はおはぎだ。私は嬉しくなって、ブランコを漕ぐのをやめる。ブランコの揺れがもう少し落ち着いたらぴょんと飛び降りてフキちゃんのところに駆けていくのだ。
ベンチの後ろに彼岸花の赤い色が揺れているのが見える。待ち遠しく風を切る私の耳には、幸せそうなフキちゃんの笑い声が届く。
目が覚めると昼近かった。さすがに寝すぎた。茶の間に降りていくと誰もいなくて、ダイニングテーブルの上にラップをかけて朝食が置かれている。
椅子を引いて座る。ほどなく母がやって来て「お茶飲む?」と聞くのに「うん」と答える。思いついてテーブルの端の菓子盆を覗き込むと昨日買って帰ってきた東京バナナが入っている。
「ねぇ、カステラは?」
「カステラ?」
「もう食べたの?」
不思議そうな顔の母が振り返る。
「アンタ、カステラ買って来たんだっけ?」
「いや、私じゃなくてフキちゃんが買ってきたんでしょ」
テーブルにマグカップが置かれて手を伸ばす。一口飲むと中身は緑茶で、瑞々しい草の香りが鼻を抜ける。
「誰って?」
「いや、だからフキちゃんが昨日……おととい来たって言ってたでしょ」
母は首を傾げた。
「ふきちゃん?」
まさかと思いながら伯母の家に向かう。気の良い伯母は二日続けての訪問に不審な顔もせず出迎えてくれる。
「ちょうど良かった。お芋がたくさんあるの。持ってって」
それを遮るように私は話しかけた。
「おばちゃん、おはぎ、あったよねぇ」
「たくさんあるよ~。それも持ってく?」
フキちゃん、と再び声に出したけれど、掠れてしまって、咳払いをしてから言い直す。
「フキちゃんの作ってくれたおはぎ、あるよね」
「うん? 誰がって?」
「だから、フキちゃん」
伯母はビニール袋にお芋を入れていた動きを止めて、首を傾げて見せる。
「ふきちゃん?」
ビニール袋を下げて歩く。だんだんと陽射しは高くなっていて、だけど夏とは違う斜めからの差し込み方で、やっぱり目が焼けるように明るい。
さっき、上原商店の前で睦月に出くわした。フキちゃんに会ったかと聞けば、睦月はきょとんとして答えた。
「ふきちゃん?」
ぼんやりと歩くうちに公園に足が向く。夢で見た、フキちゃんと一緒にいた公園。幼い頃によく遊びに行った場所だ。
公園には人影がなく、フキちゃんの座っていたベンチの後ろには、夢と同じく真っ赤な彼岸花が静かに揺れている。
まあるい顔。明るい笑顔。大好きなフキちゃんの笑った顔が記憶の中をよぎる。
「フキちゃん……どうして?」
私はもう、どうしようもなく、フキちゃんに会いたくなっている。
フキちゃんの彼岸花 野村絽麻子 @an_and_coffee
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