第40話 赤い洪水

「作戦行動を開始する」


 リヒトはそう告げた後、ダンジョンの入口から突入した。


 周囲の空間が変容する。視界が暗転する。薄闇の中、音も無く着地。


 ダンジョン第一層に到達した。敵の気配は無し。


 静かに呼吸する。

 鼻を突く異臭。粘膜を侵す腐敗臭。


 死臭だ。

 嗅ぎなれたそれには、薬品と思しき刺激臭も混じっていた。


 リノリウムの床の上を征く。割れたガラスの破片を踏みながら、辺りを見回す。


 薄汚れた壁と床。薬や血のシミと、かつて実験に使われたと思しき鋭利な金属器具が散乱している。

 そして、無数に立ち並ぶ檻やガラスケースの中には、例外なく死体が横たわっている。総数はおびただしい数になるだろう。頭部や腹部を切り開かれているものが多いが、中にはヒトから掛け離れた形状の死体も少なくない。


 死後にされたのではない。生前になったのだ。


 使われた薬液の臭いや、遺伝子レベルで変異した血液の臭い、そして死体の様子を見ればわかる。


 人間を魔人にする研究が行われていた。

 頭部を切り開かれていたのは脳を弄って魔術との影響を調べたから、腹部を切り開かれていたのは……繁殖実験のためだろう。魔人化に適した人間をいちから作ろうとしたのか。


 つまるところ、ここは実験場であると同時に『牧場』だったわけだ。


 しかし、なぜ第一層にこの場所を指定したのか。


(万が一にもエレナが一緒にいたら、精神的動揺を誘えるからか? ……いや、単に、侵入されても問題ない場所だからか。より下層には魔人が居るはずだ)


 リヒトは第一層では誰とも出会わぬまま、第二層へと進んだ。




 第二層はエレベーターホールだった。高級ホテルのような内装だったが、リヒトは警戒態勢を取る。


 魔力が空間に満ちている。敵はこの階層に居る。

 周囲を見渡す。エレベーター前の両サイドに置かれた豪奢なソファ。長い廊下、等間隔で配置された風景画。


 視界に異常なし。 

 音に異常なし。臭いに異常なし。ただ大気中の魔力濃度にだけ異常がある。その正体を探ろうとした瞬間。


 突如エレベーターが開き、血のように赤い洪水が溢れ出してきた。飛沫で壁を朱に染めて、絵画もソファも押し流し、赤い濁流が迫りくる。


(魔力の気配はこれのせいか!)


 弾くように床を蹴り、壁を突き破って外へ。眼下には摩天楼の群れ。15階相当の高度から地面へと落ちていくが、問題ない。リヒトの肉体は、自由落下でダメージを負うほど脆くはない。


 問題は他にある。

 血の洪水は既に、街中見渡す限りに広がっていた。


(ビルの壁面を蹴って屋上にでも飛び移り、まずは様子見のための時間稼ぎを──)


 思案するリヒトの真下、地上で波打つ血の海が渦を巻く。と同時に、高波となってリヒトへ襲いかかり、


「マジか!?」


 驚愕の声を上げたリヒトを呑み込むと同時、凝固。映像の再生を停止したかのように微動だにしない。高波は高く持ち上がったまま、液面は細波さざなみを立てたまま、凝固している。


 凝固した液面の上を、杖をついて歩く老人が居た。


「こういう映画あったよね」


 老人は皺だらけの顔に薄笑みを浮かべ、流暢な日本語で語り出す。


「エレベーターホールから溢れ出す血の洪水が印象的な映画。閉鎖中のホテルの中で、作家志望の男がジワジワ狂っていく、みたいなあらすじだった」


 白衣をひるがえし、サンダルでパカパカと足音を鳴らし、曲がり切った腰に見合わぬほどかくしゃくとした足取りで歩み続ける。


「妻と息子と一緒にホテルで過ごしてて……妻が隠れている部屋の壁を主人公が斧で壊して、その割れ目から顔を出すシーンを覚えてる。タイトルは何と言ったかな? 主演がジャック・ニコルソンで、監督はキューブリックだった。なんて名前の作品だったか──と」


 凝固した高波へたどり着いた老人は、見上げながらアゴに手を当てる。


「ふむ。存外──」


 言い終わるより早く、後頭部に違和感。全身の力が抜け、受け身も取れぬまま頭から倒れ込む。


「シャイニングですよ」


 リヒトの声が、老人の頭上から降った。


「映画のタイトル。シャイニング」


「おお、どうもありがとう。ところで、君は私に何をしたんだい?」


「頚椎をちょっと。そんなことより、聞きたいことがあります。……この赤い洪水、貴方のスキルですか?」


「ほう、魔力感知でわかるのかな? その通りだよ」


「さらに質問です。貴方はハスラウたちの協力者ですか?」


「いかにも。『ハスラウ』という表現から察するに、他の構成員が居ることを君は察しているようだね。どのような推理をしたんだい?」


「回答だけしていてください。もうひとつ質問します。第一階層には、人体実験の痕跡が多数残っていました。貴方はアレに関わっていたんですか?」


「ああ。関わるというか、私が主導していたんだよ。ほとんどは徒労に終わったが、悪くないと言えるだけの成果もあった。そうだ! 被検体をいくつか見たんだろう? 変身能力者としての見解を聞きたいな。特に遺伝子変異についての知見は──」


 聞き終えることなく、リヒトは老人の脚を踏み折った。


「無駄口が多い。僕が聞いて、貴方が答える。逆は無い。他の構成員について、知っていることを全て話してください」


 老人は応えない。悲鳴も上げず、汗もかかず、呼吸も心拍も乱れていない。


 不可解。老人は痛みも恐怖も全く感じていないように見える。魔術士にも魔物にも魔人にも、痛覚や心はある。この絶体絶命の状況で、全く動揺しないというのは考えにくい。死を覚悟していてなお、感情は微かに揺らぎ、それが魔力にも現れるはずだが──


 答えを直感したリヒトは唐突に上体を反る。先程まで頭があった空間を弾丸が通過する。遅れて銃声。砲声と呼ぶべきけたたましさと弾丸と音とのタイムラグとに、桁外れの威力と速度を認識する。


(狙撃か!)


 気付いたリヒトに第二弾と第三弾が飛来。リヒトは後方転回を繰り返して全弾を回避し、付近の建造物へと身を隠した。


(弾丸の威力よりも性質が良くない……僕相手に撃ってくるんだ。まず間違いなく何らかの侵襲性があると見るべきだろう)


 そして外の様子をうかがう。


 倒れていた老人が、立ち上がろうとしている。踏み折られた両脚はゲルのようにうねり、やがて元の形を取り戻した。


 老人は杖に両掌を起き、大きく嘆息した。


「興醒めだよ、数合理人くん。なぜ初撃を頚椎を突く程度にとどめた? なぜ追撃を脚を折る程度でやめた? なぜ私を殺さなかった? それは慎重さではないよね。君は、人を殺さぬようにしているね」


 老人の顔は、涙を流さんばかりに歪んでいる。深い失望に、皺だらけの顔をより一層しぼませている。


「これが人の醜さだ。一時の情に流されて非合理的な行動を取る。気を抜くとすぐに安っぽいモラルに取り込まれる。君はこの世界に帰還して呆気なく平和ボケしてしまったようだ。嘆かわしいことだよ。……本当に」


 だから、と笑う。清々しいほど晴れやかな笑顔で。


「私のスキルで君を魔人にしてあげよう! 私のスキルは【万物溶解アルカエスト】。あらゆる物を溶かし同化するナノマシンを生成し操る能力だ。君に同化し、君の【変身】と組み合わせれば、おそらく君は魔人になれる!」


 リヒトが答えるより早く、赤い洪水が建造物へ侵入してきた。上階へと逃げるが、限界があることをリヒトは知っている。


 かと言って外へ逃げれば、リヒトは狙撃弾を撃ち込まれる。


 ナノマシンに触れれば同化される。同化が脳にまで及べばリヒトは敗北する。


「どんな相手にも通じる戦法がある。飽和攻撃と遠距離狙撃だ。洪水に呑み込まれるか、弾丸を撃ち込まれるか、好きな敗因を選ぶといい」


 老人は左手を胸に当て、うやうやしく頭を垂れる。


「申し遅れたね。私の名はジョン・ジョージ・フォン=バウマン。覚えておくといいよ、君を支配する者の名を」






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