【父との別れ】

 隣のコートで試合をしていた小春と夏美は、ゲームカウント二対一で相手の第二ダブルスを退けた。


「にゃはは。紬と心が隣でめっちゃ注目を集めているからさ、なんか肩身が狭かったよー」


 などと夏美はおどけてみせたが、異常とも言えるその汗のかき方が、どれだけ激戦だったのかを物語っていた。

 それに、謙遜する必要なんかないよ。相手はあの、修栄高校の第二ダブルス。旭川第一にいたころの、あたしのチームメイトなのだから。

 トップシングルスの澤藤先輩は二対〇で敗れ、「主将なのに情けないね。ほんとごめん」とうな垂れていたが、修栄のトップシングルスから一本取りかけていたらしいので胸を張ってほしい。

 長引いた、あたしたちの試合が終わるのを待ってスタートした第二シングルスと第三シングルスの試合は、鈴木先輩が大越さん相手に苦戦する中、第二シングルスの心が姫子にゲームカウント二対一で競り勝った。

 柔VS剛。

 毛色の違うスマッシュを武器にした二人の対戦は、終始苛烈を極めた。

 最後は心の放ったスピンのかかったヘアピンを拾おうとした際に、姫子のラケットがネットに触れる反則|(タッチザネット)によって終了した。

 それまでの熱戦が嘘みたいなあっけない幕切れに、改めて勝負の世界って残酷だなと思う。

 配球に、戦術に、どれだけ気を配ったとしても、集中力が一瞬切れたとたんに流れが変わったり、勝負が決してしまったりするのだ。

 勝負の女神は本当にきまぐれだなってそう思う。

 とにもかくにも、こうして三対一で我々永青高校は修栄高校を退けて――。


 女子、学校対抗優勝、私立永青高校。


 

「ああああああああああああああああッ!」


 これまでの雪辱は晴らしたとばかりに、心が勝ち名乗りを上げた。


「心!」


 小春が、夏美が、普段冷静な澤藤先輩までが奇声を上げて飛び出していく。喜びを爆発させる。心をみんなが取り囲んでもみくちゃにした。

 スタンドに目を向けると紗枝ちゃんが顔を覆って泣いていた。


「大袈裟だよみんな。まだ全国への切符が手に入ったわけでもないのに」


 嘆息したあたしの肩に、コーチがそっと手を置いた。


「コーチ?」

「確かに、仁藤にとってはこの勝利も通過点にすぎないのかもしれないな」

「あ、いや。そういうつもりで言ったわけじゃないんですが」

「俺たちの目標は、もちろん全国大会であり、その頂点だ。ここでの勝利は確かに通過点にすぎない」


 でもな、とコーチが歯を見せてニヒルに笑う。


「栄光に続く道の過程に、確かに存在している通過点だ。通らなければならない道だ。だからさ、その都度喜んでいこうぜ。喜んで喜んで、何度も喜びを爆発させて、全国の頂点でさらにもう一回喜ぼうぜ!」


 行ってこいヒロイン、と背を押され、あたしは駆け出した。


「心!!」

「紬!!」


 心と二人で抱き合った。

 勝ってくれてありがとう心。夢を繋いでくれてありがとう。

 これまでも、そしてこれからもよろしく。


   ◇ ◇ ◇


 試合をすべて終えた翌日、あたしは新千歳空港にいた。

 中国に戻るため、成田空港に旅立つ父を見送るためだ。


「じゃあ、元気でな。紬」

「うん。お父さんも元気で」


 あたしを妊娠したとき、母は現役を退くことを考えたのだという。

 スポーツ界はまだまだ、女性選手が妊娠したり結婚したりすることが祝福される雰囲気ではない。プライベートなど顧みず、スポーツだけに打ち込め、という風潮が根強いのだ。

 だが、母が所属していたチームは、母の妊娠を歓迎してくれた。結婚をしたからプレーのレベルが落ちたとそう言われたくなくて、母も産後はそれまで以上に練習に取り組んだ。


 ――試合を楽しみながら、同時に勝ちにこだわる母のスタイルは、もしかするとこのとき培われたのかもしれない。


 こうして、母は華麗なる現役復帰を果たしたのだが、父の実家の両親はこのことをあまり快く思っていなかった。

 妊娠を契機に、母が引退してくれるものだとばかり思っていたから。

 その後、母が子を持つことに対して慎重な姿勢を貫いていたから。

 たとえそれが、父と母が相談の上決めたことだったとしても。

 長男の嫁なのに、男子の跡取りも作れない。妻でありながら、最低限の務めも果たせていない。

 簡単に言うとこんな感じだ。

 時代錯誤だと思う。本来なら、「子どもがいるだけでありがたい」と思うべきところじゃないのか。

 父が何度そう説明したところで、考えが古臭い舅と姑の態度は軟化しなかったのだという。

 そんな折、父は事業で失敗したことで経営していた会社が倒産。借金を返すためには、取り引きがあった親会社にお世話になるほかなくなった。それから間もなくして、父は海外への赴任を命じられる。背に腹はかえられず、中国への渡航を決断した。

 父がいなくなると、母の遠征時にあたしの面倒を見る人がいなくなる。これに乗じて、父の両親が実家に入るよう母に強要してきた。それが母は嫌だった。自由が効かなくなると直感した。

 母が現役選手であり続けることにも、あたしにバドミントンをやらせることにも、父の両親は反対していたから。

 実家に入るのを母が拒むと、実家との関係が致命的にこじれてしまう。離婚をする以外の道がなくなった、というのが、両親が離婚に至った背景だった。


「父さんが浮気でもしたのかとばかり思っていたよ」


 茶化すみたいにそう言うと、「ひどいなあ。多少険悪になってこそいたが、それでも俺は、薫のことを愛していたんだよ」と父が憮然とした顔で後頭部をかきむしった。

 なるほど。あたしがバドミントンをすることを、父が反対していた理由がそれだったのだと、今さらのように謎が解けた。

 スーツケースを引いて歩き始めた父が、一度だけ振り返る。


「なあ、紬」

「ん、なあに」


 再会したあの日から、初めて見た気すらするその真剣な顔に、思わず居住まいを正した。


「紬が、もし良かったらなんだが、俺と一緒に暮らす気はないか?」

「それは……中国でって意味だよね?」

「そうだな。本当は日本で、と言いたいところだが、今のところいつこっちに戻ってこられるか目処が立たないからな」

「ん~……」


 父はあたしにとって唯一無二の肉親だ。一緒に暮らしたいとはもちろん思う。

 それでも。でも、それでも。

 搭乗手続きが始まって、待合室のソファに座っていた人たちが次々と立ち上がる。


「ありがとう、父さん。気持ちはとても嬉しいよ。あたしも、できることなら父さんと一緒に暮らしたいと思う。でもね」


 一度視線を落としたそのあとで、父の顔をしっかりと見た。


「いつの日か、気持ちがちゃんと固まって、一緒に暮らしたいとお願いする日がくるかもしれないけれど、今は……まだごめんね。あたし、まだこっちでやりたいことが残っているんだ。やらなければならないことが、あるんだ」


 澱みなく答えると、知っていた、とでも言わんばかりに父が微笑を浮かべた。


「ま、そうだよな。頑張れよ、紬。薫の意思は、お前が継いでくれ。あまり応援にはこられないだろうけど、頑張れ」


 うん、と涙を拭ってそう答えた。

 こちらに向かって一度手を振って、それから父が搭乗口をくぐっていく。

 遠ざかっていく懐かしい背中を、唇をかんで見つめていた。

 さようなら、父さん。また、何年もの間会えなくなるかもしれないけれど、たとえ、どんなに遠く離れていたとしても、それでもあたしは、変わることなくあなたの娘です。

 この次出会えたときは、もっと成長した姿を必ず見せるから。

 寂しくも、心憂くもあったけれど、幼い頃に、何も知らないまま父の姿を見送った、あのときみたいな悲壮感はそこにはなかった。

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