子猫(前編)

 その子猫に関わったのは、つまらない自己満足だった。

 元々猫が好きだったわけじゃない。

 

 でも、多分車に挽かれたんだろう。

 事切れている親猫のそばで悲しそうに鳴いている白い子猫を見たとき、私はたまらない衝動に突き動かされて、買い物帰りのエコバッグの中からソーセージを出して、その子猫のそばに置いた。

 そして、親猫の亡骸を抱えると激しく鳴く子猫に笑いかけ、近くの河川敷の岸に穴を掘って埋めた。

 そして手を合わせると、こちらを見たその猫にニッコリと笑いかけて立ち去った。


 馬鹿馬鹿しい。


 心の中で自分自身に吐き捨てるようにつぶやくと、足早にマンションに戻る。


 鍵を開けて中に入り、誰も居ない真っ暗な室内の明かりを点ける。

 そして「ただいま」と、やはり誰も居ない室内に向かって声を出す。


 別に寂しいわけじゃ無い。

 こうしないと、あの子が拗ねちゃうかと思うから。


 私は買い物の荷物を置くと、真っ直ぐ奥の部屋に向かった。

 部屋の中はゴミだらけだから、かき分けて歩くのにも一苦労だ。

 全く……

 生ゴミの匂いも凄いので、ウンザリする。


 そんな不快感を抱えたまま、そこだけは唯一完璧に掃除されている奥の部屋の中の仏壇の前に座る。

 そして、そこに笑顔で映っている写真……1年前に6歳で亡くなった娘、真美に向かって手を合わせる。


 娘を死に追いやったくせにのうのうと生きている私が……


「ただいま、真美」


 ※


 真美が1年前に死んだのは私のせいだ。

 好奇心旺盛で人なつっこい真美。


 真美が産まれて3年で、夫の浮気を知り離婚してからはずっと戦いだった。

 子育てや経済的な問題。

 周囲の目。


 養護施設出身で親の無い私にとって、幼い真美を抱えてシングルマザーとして生きることは、言わば世界との小さな戦争だった。


 お金を稼がなくては親子共々生きていけない。

 生活保護という選択肢もあったが、私は拒否した。

 今思えばくだらないプライドだった。


 養護施設出身では極めて異例の国立大出身という自分のプライドは、私を支える細やかなよすがだった。


「普通の家庭の人たち」に負けたくない。

 私は1人でもこの子と幸せになってみせる。


 そんな思いで歯を食いしばって生きた。

 でも、私はそんな日々でいつしか娘の存在を小さくしていった。


「娘と私の戦い」から「私の戦い」へ。

「娘を幸せにするための戦い」から「私が勝利するための戦い」へ。


 その思いは、娘への苛立ちに変わり……あの日が来た。


 暖かな春の日の土曜日。

 私は朝から持ち帰っていた書類に追われていた。

 期日は迫っており、この仕事が軌道に乗るかどうかで今後の私の立ち位置が変わる。

「私の戦い」に勝てるかも知れない。


 それに夢中になっていた私は、背中にくっついてくる真美に適当な返事をしながら


「ねえ、真美。ごめんね。ママ、今とっても大事なお仕事してるの。悪いけど1人で遊んでて」


 と、ちょっとだけ強めの口調で言った。


 真美は「はあい」とつぶやくように言ったが、すぐにまた私にまとわりついてくる。


「ねえ、ママ! この前、保育園で水たまりが出来てね。それでね。はる君とえりちゃんで遊んでたら、キラキラが帽子みたいだったの! 今度ママにもあげるね……」


 そう言って、真美が飛び跳ねたとき。

 バランスを崩した真美がテーブルの上に倒れ込んだ。

 そして、テーブルの上にあるコーヒーがパソコンの上に……


 それからの事は断片的にしか覚えていない。

 ただ


「帽子が何なの!」

「どうするのよ、これ! 1人で遊んでって言ったでしょ!」

「もう知らない! どこにでも行きなさい」


 と、言った言葉に泣き出した真美が、逃げるように外に出て行き……車のブレーキ音が聞こえた。

 そこまではかろうじて記憶が繋がっている。

 でも、それからはダメだ。


 途切れ途切れに……真美の遺体を見て、葬儀を行い……今、こうして生きている。

 そして、理解させられた。

 

 私は真美のために生きていたんだって。

 あの子を愛してたんだ、って。


 あれだけ嫌がっていた生活保護を今は受けている。

 

 いや、正確には自宅で飢えのため死にかけていた私を、長期欠勤のため様子を見に来ていた上司が発見し、いつの間にかこうなっていた。

 多分、上司が役所に言ってくれたのだろうか?

 いつ退職したんだろう?

 それも分からない。


 ただ強く思っているのは……苦しんで死にたい、と言う事だけだった。

 そのくせ、保護費でスーパーで安い食材を買い、調理し食べている。

 美味しいと思っている。

 そんな自分に激しく失望する。

 

 生きるって、なんでこんなに簡単なんだろう。

 死ぬのってなんでこんなに難しいんだろう。

 

 うっとおしい身体め、頭め!

 なんで生きようとするの? 自分の命くらい、自由に終わらせてよ。


 私は決して真美のいる天国には行けない。

 でも、せめて地獄で苦しむ私を見せてあげたい。

 そうすればあの子も「ざまあみろ」と喜んでくれる。

 

 そう思うのに、自分で自分に与えられる苦しみなんて、せいぜい入浴を拒否して部屋をゴミだらけにすることだけ。

 つくづく根性無しだ。


「ごめんね……駄目なママで」

 

 そうつぶやくと涙が出てくる。


「死んであげることも、苦しんでもあげられない……ゴメンね」


 ※


 そんな私があの子猫に食べ物をあげて母猫を埋葬したのは、ちっぽけな罪滅ぼしだった。

 その姑息さに失笑してしまう。

 

 眠ってる間に心臓が止まってくれたらな……心筋梗塞ならいいな。

 あれって、とっても痛くて苦しいみたいだから、真美も喜んでくれる。


 ネットで「心筋梗塞 なるには」って調べてみようかな……


 ボンヤリする頭でそんな事を考えていると、耳元でにゃあ、と微かに聞こえた気がしたので、私は頭を上げた。


 あの日以来布団で寝ていない。

 いつも床に寝転がって、そのまま眠る。

 当たり前だ。

 自分への快楽なんて、一つでも減らしてやるんだ……

 

 私は周囲を見回すと、リビングの隅に子猫が居た。


 なんで……


 上手く働かない頭の中で、あの時食べ物をあげた子猫と目の前の子猫が重なった。


「あなた……あの時の」


 私の声が聞こえたかのように、子猫は私に近づいてくる。

 そして、にゃあと鳴くと、仏壇で微笑む真美の写真を見た。


「興味ある? 私の娘。可愛い子だったんだよ。うっかりものだけど、良く笑って良く泣く子だった。お絵かきが好きでさ……ソーセージが……好き……で……」


 しゃべりながら涙が出てしまい上手くしゃべれない。

 しゃくり上げながら言う。


「私が……殺したの。私……が……」


 その時、頬にペロリと何かが舐める感触がして、目を開けると子猫が私の涙を舐めていた。 

 その舌の暖かさ、そして瞳の暖かさに……自分の中のダムが壊れた気がした。


「会いたい……あの子に会いたいの! 会ってゴメンね、って言いたい……真美……今度こそ絶対いいママに……なるから、って!」


 子猫はにゃおん、と小さく鳴くとどこかに行ってしまった。

 そうだよね。

 こんな奴のそばに……なんて。


 でも、散々泣いたせいだろうか。

 私は無性に眠くなり、そのままゴミを枕に床に寝転がった。

 

 今夜こそは死ねますように。


 ※


 頬を撫でる感触の心地よさで目覚めた私は、自分の目を疑った。

 そんな……そんな……


 夢……それとも天国……いや、そんな……


 私は呆然としていた。

 ただ、身体が激しく震えている。

 

 目の前で私の頬を撫でているのは……真美だった。

 なぜか産まれたままの姿の真美は、私にニッコリと微笑みかけている。


 夢だ……夢だ……

 触れちゃいけない。

 夢が覚めちゃう……


 でも……でも……


 私は、震える手を真美に伸ばした。

 すると、真美は笑顔のまま私をそっと抱きしめてくれた。

 

 その温もりが私のまるでダムのようにせき止めていた物を壊した。


 私は声を上げて泣くと、真美を抱きしめた。


「ゴメンね……! ママが悪かったの……ゴメンなさい! ゴメンなさい!」


 夢でもいい。気が狂ったのならずっと狂っていよう。

 世界に私たちだけいればいい。


 私は、真美を改めてじっと見た。

 彼女は言葉は一切言わなかったけど、優しく猫の目のようにクルクルと変わる表情を持っていた。

 ああ……あの子もそうだったっけ。


 私は、泥や埃にまみれた真美を見て、頭を撫でた。


「すっかり汚れちゃって……今、お風呂湧かすね」


 もう何ヶ月ぶりか分からないくらいに、バスタブを掃除してお湯を溜める。

 ふと見ると、ゴミだらけの部屋で戸惑っているように見えたので、急いでゴミを片付け始めた。


「ゴメンね、汚い部屋で。すぐ片付けるから」


 それから一緒にお風呂に入って、捨てきれずに取ってあった真美のパジャマを着せる。

 そして、冷蔵庫から食材を出して同じくいつ以来か分からないくらいにコンロに火を点ける。

 あの日以来、食事はコンビニ弁当か惣菜パンばかりだったのだ。


「あなたの好きなハンバーグにするね。待っててね」


 真美は嬉しそうに微笑むと、私にくっついてきた。

 私は火を止めて、今度は真美をしっかりと抱きしめる。

 あの日、出来なかった事。

 あの娘がして欲しかったであろう事をする。


「真美、これからはいつでもギュッっとしてあげる。お話もたっぷり聞かせて。保育園で見たんだよね? キラキラの光の帽子。今度ママと一緒にやってみよっか? 時間はたっぷりあるから、ずっとずっと遊ぼうね」


 真美はコクコク頷くと、私のお腹に頬ずりをした。

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