申之丈は白い吐息が後ろへ流れる程に足を早め仙台坂を下っていた。

 澄んだ夜空に月は無く、数多の星がここぞとばかりに瞬いている。

 仙台坂を下り左に折れ善福寺の門の前に着いたが、おのぶとは行き合わなかった。申之丈は一旦立ち止り、「ここで待とうか」とも思ったが、どうせなら花野屋まで迎えに行った方がよいだろうと思い、また足を前に出した。

 暗闇の中、所々に家から漏れ出る灯りがぼんやりと視界に映る。そのぼんやりとした灯りの中を漆黒の影が一瞬横切った。

 申之丈は咄嗟に舞いの「構え」の姿勢をとった。軽く膝を曲げ、胸を張り肘を張り幾分上半身を前に傾け重心をやや前に置き、すぐにでも動き出せる体勢で前方に目を凝らした。闇の中に蠢く影を認めた。

 目と耳に神経を集中させ前方の暗闇で起こっている事を探る。声はしないが争っているような影が見え、地面を動き回る「ざざっ、ざざっ」という足の音が微かに耳に届いた。次の瞬間申之丈は右手で着流しの裾を持ち左手で刀の鞘を握り、体勢は「構え」のまま走りだした。

 目にも止まらぬほどの足運びでしんとした空気を切り裂いて影に向かって疾走した。

 近付くにつれ、一人の男がもう一人を後ろから抱きかかえるようにして抑えつけようとしているように見てとれた。

 抱きかかえられている方は激しく抵抗し声を出そうとしているようであったが、口を塞がれてでもいるのだろうか「うぐ、うう」と言う唸り声を発しているのが聞こえた。

 申之丈は近付きざまに顔の辺りを抑えつけている男の腕をむんずと掴むとその男の背中の方に捻り上げた。

 「痛たたっ」

 抑えつけられていた方は、もう片方の腕を振り解き申之丈の後ろ側へと回り込み、「はぁ、はぁ」と喘いだ。

 申之丈は捻り上げた腕をぐいっと押し放った。男はつんのめり転びそうになったが踏みとどまった。

 「おのぶ殿か?」

 おのぶは清衛門が助けてくれたものだと思ったが、暗闇に見るその後ろ姿の影や、清衛門とは違う声色に躊躇いながらも、「はい」と答えた。

 「暮林でござる」

 「え?」

 「訳はあとで、遠くへ離れていなさい」

 申之丈の目の前には刀を抜き正眼に構えた男が立っていた。

 「暮林だと。おのぶの男か?」

 雅勝は申之丈を睨みつけ言った。

 「だとしたらどうする」

 「切り捨ててくれるわ」

 申之丈は刀の鍔を左手親指でクッと押し上げ右手でスルリと刀を抜いた。そして、「構え」の姿勢をとった。右手に持った刀の切先は地面に向いている。

 「なんだその構えは?」

 見た事の無い構えに雅勝は戸惑ったが、胸から上が隙だらけに見えた。

 こやつは剣の腕はさほどではないとみえる。雅勝は隙だらけの見た事も無い構え方を見て素早く踏み込んで頭に一撃をくらわせてやれると思った。

 雅勝は、じりっ、じりっと間合いを詰めて行った。

 申之丈は微動だにせず、暗闇の中、雅勝の眼の動きを凝視していた。

 雅勝の白眼が幾分大きくなったその刹那、雅勝は柄頭を額の位置ぐらいまで振り上げ、踏み込み様、刀を押し出すように申之丈の頭めがけ振り下ろした。

 申之丈は雅勝の刃が自分の額に当たる寸でのところで右足を左後方へと引き体を半回転させ雅勝の切先をかわした。

 刃は空を切り、雅勝は申之丈の眼前を勢い余って通過した。踏みとどまり体勢を立て直そうとして顔を申之丈に振り向けたその時、チクリと額に痛みが走った。

 申之丈の刃の先端が雅勝の眉間に触れる程度に刺さっていた。

 「ひえっ」雅勝は小さな悲鳴を上げ後ろへと飛び退き尻もちをついた。

 「おぬし、今、死んでおったぞ」

 申之丈は刀を雅勝に向けたままで加えて言った。

 「これ以上おのぶ殿に付きまとうようであれば、次は命は無いものと心得よ」

 雅勝は眉間から鼻へと流れる血を左手で拭い、よろけながら立ち上がり、右手に持った刀を鞘にも納めず、よろよろしながら仙台坂方向へと去って行った。

 「おのぶ殿、怪我はござらぬか?」

 申之丈は少し離れているおのぶに声をかけながら刀を鞘へ収めた。

 「はい。ありがとうございます」

 おのぶの声は少し震えていた。雅勝に襲われてよほどに怖かったのであろう。

 「どうして暮林さまが?」

 「帰る道すがらに話しましょう」

 「はい・・あ」

 おのぶは雅勝と揉み合いになった時に風呂敷包みを落としたことに気が付き、辺りを見回した。暗がりの中風呂敷包みを見つけ拾い上げた。その時、

「なにかしら?」何か別の物も落ちている事に気が付き手に取って見た。

 雅勝が置いて行った柄の付いたぶら提灯であった。

 「あ奴の提灯ではないか?」

 「そうかもしれません」

 「捨て置いたらどうだ」

 「雅勝様の物でしたら、同じ藩の方もお店に時折参りますので、その時にでもお頼みして返してもらうようにします」

 「まあ、おのぶ殿がそうしたいのであれば、そうするがよろしかろう」

 自分を襲った相手だというのに、律儀と言うのかやさしいと言うのか、恐らくその両方なのだろうと申之丈は思った。

 「さあ、帰りましょう」

 促す申之丈におのぶは「はい」と答えた。


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