第四偏【未来譚】

楽しい話をしようか。


君は朝五時に起きて、いつも通り仕事に行く準備をする。


朝食はインスタントコーヒーとバターを塗った食パンと目玉焼きとベーコン。


特別でもない食事を終えた後、食器を洗い、歯を磨いた。


そして、少しでも仕事のことを考えないでいようと自宅を出る直前までソファに座ってYoutubeを鑑賞した。


家を出る時間になり、重い足取りで玄関に行く。


靴箱の上にある水槽で飼っているメダカに餌をやり、靴紐を結ぶ時間で仕事の気持ちに切り替えようとしたが上手くいかなかった。


負の感情を抱えたまま、牢屋のような冷徹さを纏っているマンションの扉を開けて敷居を跨ぐ。


上の階があるせいで狭まった視界から見える空はこれ以上ないくらいの澄んだ青だったが君の目には灰色に写っていた。


君は仕事で怒られないようにやってはいけないこと、今まで失敗したことを何回も何回も思い出し、復習する。


そして、スマホのメモに書き込んでいたやることリストを見て、一日の段取りを頭の中で構築する。


それらを勤め先に着くまで何周もした。


オフィスに入ると表情筋を働かせ、口角を上げて、他の人の邪魔にならないくらいの声量で挨拶をする。


何人かは視線を君に向けずに会釈をして挨拶を返した。


自分の席に行くと、デスクの上に書類がハードブックほどの厚みで積み重なっているのが目に入る。


君はそれについて何も思わず、席に着き、ただそれらを処理していった。


ミスをしないように一枚一枚、丁寧に丁寧に。


定期的に上司が君の処理済みの書類にミスがないか確認をしに来るけど何もなかったようで、手に取っていた書類を元の場所に戻して他の人の進捗も確認する為に君の席を離れる。


その度、君は静かに安堵をしていた。


昼休憩の時間になるが部署内の全員が席を立つことは無く、鞄から事前に買っていた、もしくは作っていた昼ご飯を取り出して、それを口に入れながら作業を続ける。


もちろん君も皆と同じく、通勤中にコンビニで買った塩おにぎりを取り出して食べながら作業を続けた。


定時近く、机の上に置かれていた書類の処理が全て終わった。


君は背もたれにもたれかかり、頭の中を空っぽにして数十秒間休憩した後、書類の束を上司の席まで持っていき最終確認をしてもらう。


確認の最中、記憶の中で何度も書類のミスがないことを確認して、酷く激しい鼓動を鎮めようとする。


不快な体温の上がり方もする。


数分経って確認を終えた上司から「ミスはなかった」と伝えられてやっと落ち着きを取り戻した。


次の仕事を聞くと少量のデータ入力のみで残業が一時間ちょっとで終わりそうなことに君の心が躍動し始める。


気合を入れて残業に取り組んだ結果、一時間もかからず仕事が終わって深夜前に帰宅することができた。


鞄を適当な場所に置くと、何となく水槽の中を優雅に泳いでいるメダカを観察する。


数分ほど眺めていると水草にメダカの卵が付いているのを発見した。


その瞬間、メダカに対して強い愛着がある訳でもないのに珍しく体が勝手に飛び跳ねるほどに喜んだ。


その日の晩ご飯で君は皮がパリパリで噛むと油が弾けるウインナーを十本食べるという贅沢をする。


というのが、薬の過剰摂取によって命を失った君がもう経験することのない明日の話だよ。


ほら、いつもより楽しいだろ?


今までお疲れ様。また来世。

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