第19話
この日の休日の朝の食堂は、窓がないことを忘れさせるほどの活気に満ちていた。厨房から漂うスープの湯気と焼きたてのパンの香ばしい匂い、他の職員たちの屈託のない談笑、食器が触れ合う軽やかな音。その穏やかな日常の喧騒の中で、シオとサラスは壁際の席で向かい合っていた。
シオのトレーの上にはスープとパン、そしてペイストリー。彼はスプーンを手に取る前に、スープの表面に映り込んだどこか自分の疲れた顔を一瞥し、誰にも気づかれぬよう、すぐにスプーンでかき混ぜてその表情を消した。
対照的に、サラスのトレーにはベーコンエッグにサラダ、山盛りのポテトが乗っている。彼女はシオの簡素な食事と、その後に控えている授業の存在に気づくと、わざとらしく大きな音を立ててスプーンを置き、苛立たしげに足を組み替えた。
「あんた、またそれだけ? そんなんで午後の授業、頭回るわけ?」
その声には、棘があった。シオへの純粋な心配と、彼が自分とは違う特別な存在になっていくことへの寂しさ、そしてわずかな嫉妬が複雑に混じり合っている硝子の棘。相手を傷つけたいわけではない、ただ自分のやりきれなさをぶつける先を探しているだけの、透明で脆い棘だった。
「大丈夫だよ、昼もあるしよゆー」
シオが静かに返すと、サラスは皮肉っぽく笑い、ぷいと顔をそむけた。
「ふーん、せいぜい頑張れば?」
その横顔に一瞬だけ心配そうな色が浮かんだのを、シオは見逃さなかった。だが、彼が何かを言う前に、彼女はもう元の不機嫌な顔に戻っている。シオは何も言い返さず、黙々とパンをスープに浸した。サラスの言葉が、彼の心に小さな、しかし確かな棘のように刺さるのを感じながら。やがて彼が静かに席を立つと、残されたサラスは、空になった彼の食器を複雑な表情でじっと見つめていた。
§
午後の光が届かない地下。古書のインクと紙の匂いが立ち込める薄暗い書斎で、シオはアリアが手配した元宮廷学者の老人、エリアスと一対一で向き合っていた。この人物は、かつて宮廷の権力闘争の闇を目の当たりにし、理想を失ったと噂されている。時折漏らす乾いた咳、資料を指す指先の微かな震えが、彼の歩んできた道のりを物語っている。
「さて、コーリ。今日はこの国がいかにして腐り、そしてミストリアという劇薬がいかにして生まれたか、その根本を解剖していきましょう」
エリアスは、巨大なサマエル王国の地図と複雑な貴族の家系図を広げ、淡々と、しかし辛辣に授業を始めた。
「全ては数代前の王が、自らの権力基盤を固めるために貴族へ安易に徴税権を分け与えたことから始まる。そして生まれたのが『徴税請負制度』という名の病」
彼は具体的な事例を挙げる。
「例えばこのバークリー男爵家。彼らは与えられた徴税権を担保に王都の金貸しから借金を重ね、その返済のために領民から法定の三倍もの税を取り立てた。結果、領地は疲弊し、記録に残っているだけで数十人単位の餓死者が出た。君が身を寄せていたというスリムリンのあのスラムも、元を辿れば、この男爵家と癒着していた当時の役人の失政に行き着く」
エリアスが地図上のスリムリンを指さす。シオは初めて、短い間だがその目で見てきた理不尽が、個人の邪悪さだけでなく、もっと大きな仕組みによって生み出されていたことを知る。
「スラムの貧困も、終わらない小競り合いも、全てはこのシステムの必然。個人の悪意ではなく、構造そのものが病なのです」
エリアスの言葉は、シオの世界の見方を根底から覆した。
授業が核心に触れる。
「そして、この腐敗した国家という死体から生まれたのが、ミストリアです。リンスフォード家と現王が打った、最後の、そして最も危険な賭け…」
エリアスは、ミストリアが貴族たちをギャンブルで破産させ、その富と権力をいかにして回収し、国家に再集中させているのか、その非情なシステムを解説した。そして彼は、壁に飾られた一枚の絵画を指す。
自らの尾を噛み、円環を成す蛇ウロボロスの絵。
その鱗の一枚一枚には、破産した貴族の紋章が微かに刻まれ、その瞳は自らを喰らう悦びと苦痛で濁っているように見えた。
「この絵を描いた宮廷画家は、国の矛盾を痛烈に風刺したとして、舌を抜かれ処刑されたと記録にあります。ミストリアは、この国自身が自らを喰らうことでしか延命できない、悲しき獣なのです。そして我々は、その腹の中にいる」
エリアスは続ける。
「この蛇は、救いを求めて自らを喰らい続ける。だが、その先に待つのは満腹か、それとも喰らうべき己自身すら失った虚無か。我々もまだ、その結末を知らない」
シオは、自分がその劇薬の一部であり、人を癒す力が、結果としてこの巨大な腐敗のサイクルを回すために利用されているという事実を突きつけられた。剣闘士の一件が脳裏を駆け巡る。自分が治したあの男も、この巨大な蛇に喰われた一つの命に過ぎなかったのだ。
ふとサルサの「人を殺さないで」という願いがよぎる。
思わず胸をつかんでしまう。とうに痛みなど失った。なのにどうしてこんなにも痛いのか。分かってはいるけれど理解はしたくない。そんなどうしようもない矛盾。胸の痛みはとても苦しくて悲しくて、押しつぶされてしまいそうなのに。なのにこの痛みが消えるのが嫌で嫌でたまらない。
この痛みは、肉を裂く鋭さも、骨を砕く衝撃もない。ただ、心の奥深く、柔らかな場所に、冷たくて重い楔がじわりと打ち込まれるような、鈍く、それでいて逃れようのない痛みだ。それは、僕の奪われた尊厳。彼女が僕の中に遺していった、最後の温もりの燃え殻。
この痛みが消えることは、サルサが僕の中から完全に消えてしまうようで、彼女の笑顔も、声も、その温もりさえも、ただの記憶の染みになってしまう。それだけは、嫌で嫌で、たまらなくて。
これは彼女が僕にかけた「枷」。僕が道を踏み外すたびに、その枷が魂に食い込み、血の代わりにこの痛みを流させるのだ。ならば、この痛みこそが、僕と彼女を繋ぐ唯一の絆。僕がまだ、彼女の知る僕でいられる証。
だから僕は、この胸の痛みを抱きしめる。苦しくて、息ができなくなりそうでも、この痛みを噛みしめて生きていく。
「………リ、コーリ!大丈夫ですか?そんなに胸をつかんで」
「申し訳ありません。エリアス先生。大丈夫です。」
続けて僕は初めて自らの意思で鋭い質問を投げかけた。
「では、そのシステムの中で、僕に求められている役割は、何ですか?」
その質問に、エリアスは初めて表情を変え、皺の刻まれた口元に満足げな笑みを浮かべた。
「ほう…………」
エリアスはシオを見定めるように見下ろす。
「普通は自分の待遇や安全を問うものだが、君は役割を問うか。良いだろう、君はただの駒ではない、自ら駒を進める資格がある」
授業の終わりを見計らったかのように、アリアが書斎に現れた。シオを挟んで、二人の大人が彼を品定めするように言葉を交わす。
「どうです、エリアス。私の見立ては間違っていなかったでしょう? この子はただの綺麗な器ではない。中身は飢えた獣なのですよ。知識という餌を与えれば、牙を剥く相手さえ自分で見つけ出す」
アリアは、静かな覚悟を瞳に宿すシオに告げる。
「君は、この腐敗の構造を理解した。ならば次は、その中で生きる『人間』を理解しなさい。君のその手は命を繋ぎ止める。だがこれからは、君の言葉で人の心を繋ぎ止め、そして断ち切る術を学びなさい。治癒士であり、詐欺師であれ。聖人であり、悪魔であれ。それがミストリアで生きるということよ」
シオは、アリアとエリアスの二人を見つめる。彼の瞳には、もはや単なる治癒士のそれではなかった。
アリアは微笑み、彼の新たな任務を告げた。彼女は一枚の肖像画をテーブルに置く。そこに描かれていたのは、理知的な瞳と理想に燃える表情をした、一人の若き貴族だった。
「彼の名は、エルムズワース卿。理想に燃える若き改革者であり、ミストリアの秩序を揺るがしかねない、新たな駒。そして、君の次の標的よ」
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