第15話

 剣闘士の回復は、シオ自身の目から見ても異常なほど早かった。施療室から、ミストリアの地下深くにある簡素な個室に移されてからも、その勢いは衰えない。シオはアリア様の指示通り、表向きは経過観察として、日に一度、彼の部屋を訪れた。


 再生された脚は日に日に関節の可動域を取り戻し、胸の傷も完全に癒え、呼吸は深く力強いものになっていた。右の眼窩は閉じられたままだが、隻眼となった左の瞳には、以前の虚ろさの代わりに、氷のように冷たく、硬質な光が宿り続けていた。彼はほとんど言葉を発しない。シオが差し出す食事を黙々と受け取り、治療や検査にも無抵抗に従う。だが、その静けさは、嵐の前の不気味な静けさに似ていた。


 シオは、この男の内に滾る殺意を、肌で感じずにはいられなかった。記録用紙に書き留める短い時間でさえ、彼の呼吸、視線の僅かな動き、硬く握りしめられた拳の中に、揺るぎない復讐の意志が凝縮されているのを感じ取る。その度に、サルサの


「人を殺さないで欲しい」


 という優しい声が、罪悪感と共に胸を締め付けた。僕はこの手で、人を殺すための刃を、再び研ぎ澄ませているのではないか。その思いが、鉛のように重くのしかかる。


 ある夜、シオが見回りのルートを少しだけ外れて彼の部屋の前を通りかかった時、扉の隙間から微かな物音が聞こえた。息を殺して聞き耳を立てると、それは規則的な打撃音と、荒い息遣いだった。リハビリだ。だが、その音には尋常ではない集中力と、何かを破壊せずにはいられないような衝動が込められているように感じられた。シオは言葉では表せない恐怖を覚え、何も言わずその場を立ち去った。翌日、彼の部屋を訪れると、壁の一部に微かなひび割れが増えていることに気づいたが、もちろん指摘はしなかった。また別の日には、ベッケンと思しき大柄な影が、剣闘士の部屋から足早に出てくるのを見かけた。彼らは何を話していたのだろうか。標的の貴族の、動きについてだろうか。あるいは、決行の時についてか。


 § § §


 その「時」は、予想よりも早く、そして唐突に訪れた。ミストリアの中でも特に豪華な装飾が施された、最上級のVIPのみが招かれるというプライベート・ラウンジ。煌びやかなシャンデリアの下、着飾った貴族たちが、高価な酒と退廃的な娯楽に興じている。今宵は、王国でも有数の影響力を持つ侯爵家が主催する、内々の祝宴なのだという。


 シオはいつものように壁際に影のように控えていた。万一のための治癒士、それが、今夜のアリア様から与えられた彼の役割だった。だが、会場に漂う異様なまでの熱気と、貴族たちの賭けに興じる声を聞きながら、シオはこの場の真の目的を察していた。あの剣闘士の標的。記憶の中で見た、傲慢そうな笑みを浮かべる若い貴族の姿が、招待客の中にあったからだ。


 着飾った令嬢たちの扇がひらめき、男たちの低い笑い声が響く。賭けの対象は、中央に設けられた小さな舞台で行われる余興だ。珍しい魔獣同士の戦いや、異国の踊り子たちの舞に彼らの目は向けられている。しかし、本当の見世物は、まだ始まっていない。アリア様は、主催者である侯爵と談笑しながらも、その紫の瞳は常に会場全体を冷静に観察している。そして、シオのいる方向へ、ほんの一瞬だけ、合図とも取れる視線を送った。


(……始まる)


 シオは息を呑む。これから起こるであろう惨劇の、冷たい予感が背筋を走った。


 祝宴が最高潮に達したかのように見えた瞬間、それは起こった。ラウンジの巨大な扉の一つが、何の前触れもなく内側から弾け飛んだのだ。悲鳴と驚愕の声が上がる中、扉の残骸の中から姿を現したのは、あの剣闘士だった。以前の闘技場での姿とは違い、質素だが動きやすい服を身に着け、その手には何も持っていない。だが、その全身から放たれる殺気は、会場の空気を一瞬で凍りつかせた。


 護衛の騎士たちが咄嗟に剣を抜くが、彼らは剣闘士の敵ではなかった。屈強な脚が床を蹴り、巨躯が信じられない速度で駆ける。まるで、長年待ち望んだ獲物へと一直線に向かう飢えた獣のように。彼の目標はただ一人、招待客の中心で、驚きと怒りに顔を歪ませている、あの若い貴族。


「な、何やつ!」


「警備は何をしている!」


 貴族の怒鳴り声と、周囲の騎士たちの動きは、しかし剣闘士の前ではあまりにも遅すぎた。彼は騎士たちの剣を紙一重で躱し、あるいはその屈強な腕で弾き飛ばしながら、一直線に標的へと突き進む。その動きには、憎悪に曇った狂気ではなく、目的のためだけに最適化された、恐ろしいほどの合理性と効率性があった。


 そして、ついに標的の目の前へ。若い貴族は恐怖に引きつった顔で腰の飾り剣に手をかけようとするが、それよりも早く、剣闘士の巨大な拳が振り抜かれた。ゴッ、という鈍い音。それは骨が砕ける音か、肉が潰れる音か。貴族は声もなく吹き飛び、壁に叩きつけられて崩れ落ちた。ピクリとも動かない。おそらく、即死だったのだろう。


 シオは、壁際で息を詰めて、その全てを見ていた。人の命が、長年の憎悪によって、あまりにもあっけなく、そして無慈悲に奪われる瞬間を。


 混乱の中、剣闘士はただ一人、その場に立ち尽くしていた。彼は自分の拳を見つめる。先ほどまで標的の血が付着していたであろうその拳を。そして、ゆっくりと床に崩れ落ちた若い貴族の亡骸へと視線を移す。


 だが、その隻眼に、達成感の色はなかった。歓喜も、安堵も、憎悪の残滓さえも。あれほどまでに彼を突き動かしていたはずの燃えるような感情は、復讐が遂げられた瞬間に、まるで燃料を使い果たしたかのように消え去っていた。代わりにそこにあったのは、ただ、どこまでも深く、冷たい虚無だった。


 彼は武器を下ろす動作すらしない。ただ、立ち尽くし、自分の内側で何かが決定的に終わってしまったことを、呆然と受け入れているかのようだった。長年、彼の存在そのものを定義し、支えてきた憎悪という柱が崩れ落ちた今、彼の魂は、ただの空っぽの器になってしまったのだ。


 シオは、その空虚な瞳を見て、言葉を失った。これが、復讐の果てにあるものなのか。自分が繋ぎ止めた命は、結局、この虚無にたどり着くためだけに残されていたというのか。胸の奥が、冷たく締め付けられるような感覚に襲われた。


(これすらも最初から決められていた余興なのだろう)


 貴族の反応を見ればそれは一目瞭然。アリア様の言った「駒」。使い終われば、こうして静かに盤上から取り除かれる。それがミストリアのやり方なのだ。彼に何が待ち受けているのか、想像はできたが、シオには何もできない。


 いつの間にか、ラウンジの喧騒は遠のき、シオは気づけば医務室の硬い寝台に腰掛けていた。仮眠を取るように言われたのだろうか。記憶が曖昧だった。目の前には、先ほどの光景が繰り返し再生される。


 助けた命。遂げられた復讐。その果てにある、虚無と死。


(サルサ……僕は……)


 彼女の最後の願いが、耳元で囁くように響く。


「人を殺さないで」


(僕は、殺さなかった。でも……この手は、殺すための力を与えてしまった……)


 治癒とは、何なのだろう。命を繋ぎ止めることは、必ずしも救いではないのかもしれない。時には、破滅への道を開く手助けにすら、なってしまうのではないか。ミストリアという場所では、純粋な善意や倫理など、何の価値も持たないのかもしれない。


(僕は……一体、何のために……)


 答えは、まだ見つからない。ただ、胸の奥に、これまで感じたことのない種類の、重く、そして冷たい痛みが刻まれたことだけは、確かだった。それは、誰かの死を悼む悲しみとは違う。自分の選択と、その結果に対する、消えることのない問いかけ。

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