第12話

 濁流のような記憶の奔流から、シオはゆっくりと意識を引き剥がした。目の前の現実は、先ほどまで見ていた鮮烈な過去とは打って変わって、重く、静まり返っている。消毒薬と血の匂いが混じり合う施療室。中央の寝台に横たわる巨大な剣闘士。


 シオは無意識に握っていた男の手をそっと離す。その手は驚くほど冷たい。表情は虚ろなままだ。しかし、シオには分かっていた。あの激しい記憶流入で感じ取ってしまったのだ。この静かな肉体の奥底で、今もなお赤黒い憎悪の炎が、消えることなく燃え続けていることを。


 治癒魔術は続けている。砕けた肋骨は再構成され、潰れた眼窩を満たしていた血の塊も取り除かれつつある。だが、シオ自身の内心の動揺が、魔術の制御を時折不安定に揺らがせた。


(……僕はこの人を治して、どうするんだろうか……?)


 シオは自問する。その問いに答えはない。


(憎しみに囚われた魂に、もう一度、人を殺すための力を与えるのか? サルサは……人を殺さないで欲しいと言ったのに……)


 その時、施療室の扉が静かに開き、治癒班の同僚であるクリムが顔を覗かせた。彼女は赤毛のポニーテールを揺らしながら、心配そうに寝台の男とシオを見比べる。


「シオ君、どう? 進んでる? あの人、かなり危ないって話だったけど……すごい出血だったんでしょ?」


「……大丈夫です。もう峠は越えましたから」


 シオは努めて平静を装って答える。だが、声は微かに掠れ、クリムに向けた目は隠しきれないほど揺れていた。


 クリムはそのシオの様子と、目の前の寝台で起きている信じがたいレベルの回復速度を見て、内心で息を呑む。アリア様やレミ室長がこの子を特別扱いするわけだ。噂以上の、まさに規格外の才能。しかし、同時にシオの表情に浮かぶ深い苦悩の色も見逃さなかった。


(……何か、あったのかな。きっと、この人……錯乱して酷いことでも口走ったのかも……)


 そう推測したクリムは、あえて深くは追求せず、肩をすくめる。


「そっか。なら良かった。無理しないでね、交代が必要ならすぐに言ってよ」


 そう言い残し、部屋を出る直前、クリムは誰にも聞こえないような小声で呟いた。


「優しすぎるねシオ君………。さて……これは報告した方がいいのか、そうじゃないのか……」


 一人残されたシオは、再び剣闘士の胸部にそっと手を置いた。掌から流れる温かい魔力が、男の生命を繋ぎ止めていく。だが、シオ自身の心は冷たく沈んでいた。


(こんなことで悩む権利なんて……僕には無い。散々、人を傷つけて、見殺しにして……自分の手だって汚れてるくせに……。無い、けど……それでも……)


 サルサの最後の笑顔が、脳裏をよぎっては消える。


 記憶の中で見た、まだ少年だった頃の剣闘士の姿が、今のこの男と重ならない。あの頃の彼は、家族を守るため、生きるために必死だった。その瞳には恐怖と共に、守るべきものへの強い意志があった。だが、今の彼は違う。憎悪と復讐心だけが、彼を生かしているように見えた。誰かを守るためではなく、誰かを壊すためだけに。


 それでも、手は止められない。止めない。今、目の前にあるのは、ミストリアの駒だとか、復讐者だとかいう以前に、消えかかっている一つの命だ。シオは、その命を手放すことを、自分自身に許せなかった。


 躊躇いが、魔力の流れを一瞬乱す。まるでシオ自身の葛藤を映すかのように、微かな拒絶反応を示した。ビリッとした鋭い感覚が、身体の中心を駆け抜ける。


「……っ……そんなの、関係ない……」


 シオは苦しげに息を吐き、奥歯を噛みしめる。


「死なせないって……僕が、決めたんだから……!」


 そうだ、決めたのだ。この男が誰であろうと、何をしようとしているかを知ってしまった上で、それでも治すと。


 シオは知っている。この剣闘士が、あの貴族、観客席で傲慢な笑みを浮かべていた男を、このミストリアで殺そうとしていることを。そして、その背後にはアリア様たちの何かしらの思惑があることも薄々感づいている。


 報告すべきか? いや……。


(……僕が言ったところで、どうなる? きっと、アリア様たちは別の方法で彼を利用する。彼が復讐を果たそうとすれば止められ、また別の戦いに無理やり駆り出され、結局は使い潰されて死ぬんだ。だったら……)


 シオの思考は、冷徹な結論に至る。


(だったら、僕は黙って治す。未来の可能性より、いま、この目の前にある命を救うことだけを選ぶ。それしか、今の僕にはできない)


 それは見なかったことにするという諦めや逃避ではなかった。見てしまった上で、それでも治すという、重い、沈黙の選択だった。サルサの願いに背くかもしれない、未来の悲劇を生むかもしれない。それでも選ぶのだと。


 『もどきの癖に』


 そんな声が聞こえた気がした。いいじゃないもどきでも。それでも自分にはこれしかできないのだから。


 シオは自分の手が全く震えていないことに気がついた。


 昔の自分なら、きっと迷い、悩み、何が正しいのか分からずに立ち尽くしていただろう。だが、今は違う。答えが見つからなくても、正しいかどうかわからなくても、ただ動くことを選んでいる。


(……誰かを助けるって……綺麗なものだけじゃない。こんなに苦しくて……気持ちよくなんかないんだな……)


 初めて抱く、複雑な感情だった。自己満足ではない、義務感だけでもない。ただ、目の前の命に対する、歪かもしれないが、確かな責任感。


 やがて、最後の神経が繋がり、欠損した部位の皮膚が完全に閉じられる。シオは深く息を吐き、魔術の行使を終えた。寝台の男の呼吸は、先ほどまでの浅く苦しげなものから、深く穏やかなものへと変わっている。


 そして、ほんのわずかに、男の瞼が震え、虚ろだった左目が、ゆっくりと開かれた。その瞳には、まだ憎悪の色が宿っていたが、同時に、微かな生への光も灯っているように、シオには見えた。

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