第11話

 ミストリアでの日々は、緩やかに、しかし確実に僕の日常になりつつあった。アリア様やレミさんたち治癒士チーム、そして少しずつ顔と名前が一致してきたスタッフたち。地下の閉鎖された空間ではあったけれど、スリムリンで過ごした日々に勝るとも劣らない、奇妙な安らぎのようなものが芽生え始めていたのかもしれない。


 エレオノーラ様の厳しい指導で身につけた所作と、相手に合わせて使い分ける仮面は、僕にとって新たな処世術となりつつあった。ちなみにエレオノーラ様は世話焼きガチで、よくしてくれているのは分かるのだが距離感が未だに分からない。


 その仮面の下で、サルサを失った痛みや、拭いきれない過去むかしが完全に消え去ることはない。時折、ふとした瞬間に襲ってくるあいつトラウマに、僕はまだ慣れることができずにいた。


 そんなある日、ミストリアの日常は突如として破られた。


 闘技場から、普段とは明らかに質の違う喧騒と、血の匂いが漂ってきたのだ。貴族たちの歓声や罵声ではない、もっと切迫したスタッフたちの怒鳴り声、そして微かに響く金属音。何かが起こったのだと、肌が粟立つのを感じた。


 程なくして、医務区画に衝撃が走る。スタッフ数人に担がれて運び込まれてきたのは、夥しい量の血に濡れた、かつて人間だったもの、としか言いようのない存在だった。


「おい!早くしろ!こいつを施療室へ!」


「レミ室長!重傷者です!早く!」


 レミさんや他の治癒士たちが慌ただしく動き出す中、僕も反射的に立ち上がる。しかし、すぐにベッケンさんの大きな手が僕の肩を掴んだ。その顔には、いつもの軽口を叩くような余裕はなく、苦々しいものが浮かんでいる。


「久しいなシオ坊、突然で悪いがこいつの担当はお前だ。」


「え…?」


 担架の上でぐったりとしているのは、見たこともない巨躯の男だった。おそらく剣闘士なのだろう。しかし、その状態は惨忍という言葉すら生温い。片脚は膝から下が無残に吹き飛ばされ、急ごしらえの布で雑に縛られているだけ。胸部は鎧ごと陥没しているのか、奇妙な角度に歪み、呼吸に合わせて漏れる空気の音が痛々しい。そして、顔の右半分は潰れ、原型を留めていない。虚ろな眼からは、絶え間なく新鮮な血が流れ落ちている。


「……試合中の事故、ということになっている。」


 ベッケンさんは、低く、何かを押し殺すような声で言った。


「相手は、どこぞの貴族様が連れてきた、とっておきの闘士だそうだ。…暴走したらしい。」


 事故、という言葉に、周囲のスタッフたちの間に一瞬、嫌な沈黙が流れた。誰もが、その言葉の裏にあるものを感じ取っている。加害者は守られ、被害者は見捨てられる。それがミストリアの暗黙のルール。


「こいつは…もう助からねぇかもしれん。」


 ベッケンさんは続ける。


「下手に関わるなって奴らもいる。だが……ここまで酷いと、まともに治せるのは、多分お前だけだ。頼むぞ、シオ坊。」


 その言葉に、僕は息を呑む。僕の治癒能力が規格外であることは、レミさんたちには知られている。この依頼は、僕の能力への期待であると同時に、アリア様からの試練のような響きも感じられた。断る選択肢は、おそらく僕にはない。


「……分かりました。」


 僕は短く答えると、指定された施療室の一室へと向かった。


 部屋の中は、消毒薬と血の匂いが混じり合った独特の空気が満ちていた。中央の寝台には、先ほどの剣闘士が横たえられている。間近で見ると、その巨躯と負わされた傷の対比が、より一層痛ましい。潰れた右目からは未だに血が流れ続け、シーツを赤黒く染めている。吹き飛ばされた脚の断面は、布で覆われているものの、想像を絶する破壊が見て取れた。


 しかし、それ以上に僕を奇妙な感覚に陥らせたのは、男の静けさだった。これほどの重傷を負いながら、彼は呻き声一つ上げない。苦痛に顔を歪めることもなく、ただ虚ろな左目で、シミの浮いた天井をじっと見つめている。まるで、自分の身体に起きている惨状を、他人事のように眺めているかのように。


「……意識は……ありますか?」


 僕は慎重に声をかける。もし意識があるなら、治療への同意と、ある程度の協力が必要だ。だが、男は答えない。ピクリとも動かない。ただ、ほんのわずかに、寝台に投げ出された左手の指先が微かに動いたような気がした。


(意識はある…? それとも、ただの痙攣…?)


 彼の精神状態は分からない。だが、治療をしないわけにはいかない。


 慎重に、男の体に触れないギリギリの位置で魔力を練り上げる。しかし、この状態では正確な損傷具合を把握しきれない。意を決し、僕は負傷した脚の断端を覆う布と、陥没した胸部にそっと手を添えた。魔力を流し込み、内部構造を把握しようとした、その瞬間――。


 ブツン、と


 まるで張り詰めていた糸が切れるような、異様な感覚が僕を襲った。そして、次の瞬間、奔流のようなイメージと感情が、僕の意識の中に叩きつけられた。


(これは…治癒魔法の副作用…!? でも、今使っているのは治癒魔術のはず…なのに、どうして…!?)


 混乱する思考を置き去りにして、男の記憶が、僕自身の記憶であるかのように鮮明に流れ込んでくる。


 雪深い山村の風景。小さな粗末な家。幼い妹の屈託のない笑顔。厳しい冬の寒さの中、乏しい食料を分け合い、身を寄せ合って眠る母親の温もり。貧しいながらも、確かにそこにあったはずの、ささやかな幸せ。


 ――それが、唐突に炎と悲鳴に塗りつぶされる。


 貴族の紋章を掲げた私兵団の襲撃。燃え盛る家々。蹂躙される村人たち。恐怖に泣き叫ぶ妹。


『この娘は賠償として連れて行く』


 冷たく響く男の声。必死に妹を守ろうと飛び出した少年の細い腕が、鈍い音を立ててへし折られる。そして、燃え盛る家の中へと突き落とされる熱と痛み。


 それからの記憶は、色彩を失っていく。


 地下の薄暗い坑道での過酷な労働。血の味。絶えない身体の痛み。無表情な大人たちの顔。そして、何度も何度も繰り返される絶望的な光景、誰も助けてくれなかったという、骨身に染みる無力感。


 その記憶の断片が、僕の中で、別の記憶と激しく混じり合う。


 スリムリンの薄汚い路地裏。血の生暖かい感触。アリア様の冷徹な瞳。バッカーハントの醜悪な笑み。僕を嬲った父の手の感触。ネルケに喉を潰された時の、焼けた金属のような臭い。そして、僕の腕の中で消えていった、サルサの最後の微笑みと悲鳴……。


「うっ……ぁ……」


 頭が割れそうで、息がうまくできない。剣闘士の記憶と僕の記憶が、どちらがどちらのものかも分からなくなり、濁流のように意識を掻き回す。治療に集中しようとしても、思考が定まらない。粉砕された肋骨の構成を視ようとするたびに、脳裏に焼け落ちた故郷の村がフラッシュバックする。潰れた眼窩の奥を探ろうとすれば、連れ去られる妹の叫び声が耳元で響く。


 汗が滝のように背中を伝い、呼吸は浅く、速くなるばかりだ。指先が、意思に反して微かに震え始めた。再生処置のために組み上げていた治癒魔術の歪む。


(……ダメだ…しっかりしろ…僕は、治さなきゃ……)


 自分に言い聞かせる。これは仕事だ。ミストリアでの僕の役割だ。感情に流されてはいけない。


(でも……この人も……僕と同じなんだ……)


 守りたいものを守れなかった無力感。理不尽な暴力によって全てを奪われた絶望。その感情が、痛いほどに伝わってくる。


(……僕は、助けられなかった。サルサを…シャノを……エリさんを……何一つ、誰一人……)


 自己嫌悪が胸を締め付ける。震えが止まらない。治癒魔術の輝きが不安定に明滅する。


 その時だった。混乱した記憶の奔流の中に、一瞬だけ、鮮明なイメージが浮かび上がった。


 それは、貴族の顔。


 今日の試合で、観客席から嘲笑うかのように戦いを見下ろしていた、傲慢そうな若い男の顔だ。確か、有力な上級貴族の息子だったはず。ミストリアではよく見かける顔だ。


 その顔が、剣闘士の記憶の中で、故郷を焼き尽くした炎のイメージと重なる。憎悪が、まるでマグマのように彼の意識の底で煮えたぎっている。


 そして、僕は気づいてしまった。彼の記憶のさらに奥底、虚ろな瞳の裏側に隠された、現在の感情に。


 それは、研ぎ澄まされた刃のような、冷たく、しかし燃えるような強烈な殺意。


『殺す』


『必ず、この手で』


(……この人は、まだ終わってない。まだ……戦ってるんだ。この体で…この傷で…それでも……)


 その揺るぎない復讐心に、僕は息を呑む。彼はただの被害者ではない。絶望の淵で、復讐の炎だけを燃やし続けている戦士なのだ。そして、その炎は、今まさに僕が治療しようとしているこの男を、再び戦場へと駆り立てようとしている。


 サルサの最後の言葉が脳裏をよぎる。


『シオには、人を殺さないで欲しい』


 目の前の男は、復讐のために人を殺そうとしている。 僕の力は、その手助けをすることになるのかもしれない。

 ミストリアの闇。アリア様の真意。剣闘士の秘めたる過去と復讐心。そして、治癒魔術で起こったはずのない、記憶の流入。


 僕は、複雑に絡み合った糸の中心に立たされていることを、予感せずにはいられなかった。震える手を強く握りしめ、僕は再び、目の前の現実に意識を集中させた。今はただ、治癒士としての務めを果たさなければならない。たとえ、その先に何が待ち受けていようとも。

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