第10話
ミストリアの地下深く、華やかなホールとは隔絶された、質素だが磨き上げられた一室。壁一面には巨大な鏡が嵌め込まれ、床には等間隔に精密な線が引かれている。
そこは、シオのような接客補助を担うスタッフが、上流階級の者たちの前で「完璧な役」を演じ切るための、緊張感に満ちた訓練場だった。
今日の指導役は、背筋を伸ばした、初老に近い女性講師であるエレオノーラ。かつて宮廷作法の指南役を務めたという噂もある彼女の顔には、一切の個人的感情が浮かばない。ただ、氷のようにとても冷徹で観察眼に優れた瞳が、鏡に映るシオの一挙手一投足を射抜いている。
「そこ。踵の運びが雑。床を滑るように、音を立てずに。やり直しなさい。」
厳しく、しかし明瞭な声が飛ぶ。僕は無言で頷き、スタート地点に戻ると、再び鏡に向かって歩き出す。貴族の前では、目立たぬよう存在感を消しつつも、求められれば即座に応じられる位置にいなければならない。そのための歩法。失敗は許されないという空気が、何度も繰り返される動作を身体に深く刻み込んでいく。
「お辞儀。相手は侯爵家の御令嬢と想定。若さと好奇心を考慮し、敬意と共に微かな好感を滲ませること。角度、二十五度。三秒維持。」
指示と共に、僕は滑らかに腰を折る。鏡の中の自分が指定された角度と、そして求められたであろう繊細なニュアンスを表現できているか確認する。一、二、三。心の中で数え、ゆっくりと体を起こす。
「……よろしい。次は表情です。コーリ、鏡の前に。」
訓練の核心が始まった。僕は鏡の真正面に立ち、自分の顔を見つめた。
「貴族、特にご婦人方は、あなたのその独特の『雰囲気』に価値を見出すことがあります。ですが、ただ影があるだけでは不快感を与えるだけ。求められているのは、状況と相手に応じた『仮面』の使い分けです。」
エレオノーラは僕の隣に立ち、鏡越しに鋭く告げる。
「まずは基本。『儚さ』を伴った微笑みから。口角を上げる。ただし、目元は緩めすぎないこと。憂いを帯びた、それでいて相手に安心感を与える、触れてはならぬ宝物のような微笑みを。」
(儚い……笑顔……)
僕は意識を集中させ、顔の筋肉を動かそうとする。だが、鏡に映ったのは、引きつったような、どこかぎこちない表情だった。ずっと父親や客の前で浮かべてきた媚びるような笑みとは違う。もっと複雑で、計算された感情の表現。それは僕にとって、あまりにも難易度の高い要求だった。
「違う。それはただの作り笑いだ。感情が読めすぎる。もっと曖昧に、神秘的に。」
マダムの声が、静かに、しかし鋭く響く。
「もっと力を抜きなさい。肩の力を。そして、少しだけ……そう、遠い目をするように。何か大切なものを、ふと思い出したかのような……だが決して感傷的にならない。あくまで演技として。」
抽象的だが的確な指示が続く。僕は眉間に皺を寄せ、何度も試みる。笑おうとすれば目が喜びを帯び、憂いを意識すれば表情が暗く沈む。鏡の中の自分は、まるで糸の切れた操り人形のようだ。
(また、これか……でも、少し違う)
昔の生き延びるために心を殺して表情を作った日々が蘇る。あの頃は、ただ相手の望む役割を演じるだけだった。だが今は違う。これは技術だ。ここで生きていくための、僕自身の武器になり得る。そう思うと、わずかに心が軽くなる気がした。
「コーリ、集中なさい!」
マダムは僕の顎にそっと触れ、僅かに角度を調整する。指先が触れた瞬間、肩が微かに強張ったが、以前ほどの拒絶感はない。割り切ればどうということは無い。
「そう、その目……。少し、寂しさを滲ませて。だが、憐れみを誘うような弱さではない。影の中に光を秘めたような、複雑な輝きを……」
(影の中の光……)
言われた通りに、口角をミリ単位で上げ、視線を落とし、心の中に今も存在する首の落ちる瞬間の記憶ではなく、彼女と過ごした日々の温かさを意識する。悲しみではなく、愛おしさの欠片を瞳に滲ませる。
鏡の中の自分が、ふっと表情を変えたように見えた。
それは、確かに微笑みだった。だけれども陽気さはない。
唇は緩やかに弧を描いているのに、瞳はどこか遠くを見つめ、触れれば壊れてしまいそうな、淡い光と影を宿している。
「…………」
エレオノーラはしばらく無言で、鏡の中の僕と、現実の僕を交互に見比べた。そして、初めてほんの僅かに、評価するような息を吐いた。
「……及第点です。それがあなたの『基本』となる仮面の一つ。ですが、これだけでは足りません。」
彼女は続けた。
「相手が変われば、求められる役割も変わる。時には、無垢で初々しい少年を演じ、庇護欲を掻き立てる必要もあるでしょう。時には、感情を完全に排し、ただ従順なだけの影に徹することも。」
彼女は様々な状況を設定し、僕に指示を出す。
「次は、年の近い、少しやんちゃな男爵子息への対応。もう少し肩の力を抜き、戸惑いと好奇心を混ぜた表情を。」
「次は、猜疑心の強い老侯爵。一切の感情を読み取らせず、完璧な無表情で。」
「次は、芸術を愛する伯爵夫人。知的な憂いと、繊細な感受性を瞳に宿して。」
指示に従い、僕は鏡の前で目まぐるしく表情を変える。初々しい困惑顔、感情のない能面、物憂げな芸術家の顔…。最初はぎこちなかったが、繰り返すうちに、まるで衣装を着替えるように、瞬時に「仮面」を切り替えられるようになっていく。
(すごい…僕にも、できるんだ…)
それは、心を殺していた過去とは違う、明確な技術の習得だった。相手に合わせて札を変えるゲームのような感覚。もちろん、心からの喜びではない。だが、ミストリアという複雑な世界で生き抜くための確かな手応えが、僕の中に生まれつつあった。それぞれの仮面が、僕を守り、僕を活かすための盾であり、武器になる。
「よろしい。飲み込みが早いのは良いことです。」
エレオノーラは、幾分か和らいだ表情で言った。
「ですが、これは始まりに過ぎません。本番は、これらの仮面を完璧に使いこなし、相手の心さえも操れるようになってからです。油断しないように。」
「はい、エレオノーラ様。」
僕は、習得したばかりの従順な仮面を完璧に貼り付け、深くお辞儀をした。鏡には、様々な顔を持つ、新しい僕が映っていた。それはミストリアで生きていくための、冷徹で、しかし確かな一歩だった。
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