phase2 目的

 私は抜け殻となったヘブンズ・コクーンに寝そべりながらゆったりと微睡む。あるじうしなったまゆは酷く寒く、酷く広い。

 ヘブンズ・コクーンを構成してる素材は、くどいほど明るい白がとても眩しい。それなより空虚による虚しさに拍車をかけている。

 人形の原因不明の失踪から早数日、まだ足取りは掴めていない。このヘブンズ・コクーンから飛び出した後、下層へ飛び降りた……と言う報告を受けているが、身体の損傷具合のことなど考えたくもない。あの人形にどれだけの資金が投入されているのかと。

 瞼を開き、切断された管の断面を観察する。半ば現実逃避も入っているが、もちろん今回の事故インシデントについて究明しないといけない。何故人形がヘブンズ・コクーンを破ったのか、何故まっすぐ外へ向かったのか、何故人形は自由を求めたのか。

 アレは人形だ、人の手で造られた人形ガイノイドだ。感覚の乏しい自分の脚部を触りながら、試案を続ける。今回の事故インシデントで発生した事象は本来あってはならない、起こってはならないのだ。


「人形を回収して、記憶ログを確認しないと、机上デスクでは限界があるな」


 私はヘブンズ・コクーンの中で結論を呟く。目に掛かっていた前髪を中央から分け、私は起き上がる。それと連動して待機状態になっていた車椅子が自動で動く。私が乗りやすいように。

 腕の力だけで車椅子へ乗り、右のひじ掛けにある装置へ触れる。すると安全装置が外れ、車椅子が動き始める。速度は大体、成人男性の駆け足くらい。物の数秒で寝床エンジェル・ネストから作業場ワークスペースへ到着する。見慣れた作業場ワークスペースで私はブラシを手に取る。#BCE1DFのブラシ。私の悲願、作品データ芸術イデア。頬で毛並みを感じながら、私はキーボードへ手を伸ばす。ちゃんと働いてもらわないと。キーボードを打鍵し始める。


 *カタ。


「……あー、あー……」


 何かが倒れる音。

 目を覚まして、瞼を開いて、認識した世界はいつも通りの風景。非日常の塊だった修道服はもう視界にはもういない。

 私はすっかり軽くなった頭を持ち上げようとして途中で力尽きる。日常だ。独りへ戻ってしまったのは残念だが、彼女と約束を交わしていたから仕方がない。

 私は枕元へ腕を伸ばす。何回か空を切った後、指先に固い物が当たる。スマホは定位置に居てくれたみたいだ。私はスマホを手に取り、邪魔なケーブルを引き抜き、ロックを解除する。通知欄には……鬼のような通知数。ここまで病的にメッセージを飛ばしてくるのは、一人しか思い当たらない。私は通知をフリックし、一旦見なかったことにする……したんだけど、お腹の奥がぎゅううっと締まるのを感じる。一度認識するだけで胃の中から何かがこみ上げてくる。

 吐き出すものなんて何もないのに。

 いけない、いけない。お父さんのことを考えちゃって、一気に気分が沈んでしまう。頭の中に常にこびりついている悩みの種を少しでも誤魔化すため、かつて流し見していたSNSのアプリを開く。

 いつか見た光景がまた広がる。かつて一緒に平々凡々な人生を歩んでいた人が、いつの間にか自分の関係値を売りさばくようになり、またキラキラアピールをあれだけやっていた人がタイムラインに載っていなかったり。

 私が過去に作り上げてきたものは、すでに私の手から離れていて、他人は結局のところ、他人なんだなと思い知らされる。私は崩れたものをただただ見続ける。

 他人とちゃんと交友していたのっていつまでだったっけ? いつから私はまた壊れたんだっけ。

 ぼんやりと考えながら、ひたすら画面をスクロールする。最新に、最新に、広告を読み飛ばして、最新に……。無意味に何度も更新し続けていくうち、段々と見慣れないアカウントが増えていく。

 そろそろこんなことやめようとアプリを閉じようとした時、1つの投稿が目に留まる。そこには画像付きで『かみさまありがとう!!』という文言が。


かぁ……」


 その四文字を見ただけでまた胃がきゅうっと締まる。喉が詰まり、息が荒くなる。頭の裏側がチカチカと明滅し、口の中から水分がなくなっていく。

 ヤバい。これはまずい。

 思考がまとまらなくなる。手足が痺れ、お腹が鼓動に合わせて痛みが走る。

 スマホ、どこかへ投げないと。

 いつも通り、嫌なものを遠ざける。次第に動かなくなっていく手をめちゃくちゃに動かして、スマホを落とそうとする。

 と、その時だった。

 画面に1つの通知が浮かぶ。その通知はお父さんからだった。

 声未満の息が肺から漏れる。視線を外そうとしているのに、眼球が動いてくれない。ぐちゃぐちゃの感情のマグマが私の内側をしっちゃかめっちゃかにし、否応なしに私の不調を訴える。

 スマホはピカピカ光り始め、聞こえないはずの音が耳に入り続ける。やっとの思いでスマホから手を離し、耳を塞ぐように枕を耳に強く当てる。遠くにあるはずのスマホの音が私の頭の中で強く響く。その次はバイブレーション、その次はお父さんの声。私には聞こえるはずがないのに。スマホはサイレントモードだし、お父さんはこの人工島にはいない。いないはずなのに、リアルにグロテスクに生々しい音が私の中で鳴り響き続ける。助けを求めたかった。誰でも良い、マルチ商法に落ちた人間でも、私のことを気持ち悪いと言った男子でも、私のことを知って去って行った女子でも良い。私を助けてください。一人の人間に振り回され、続けている私を助けてください。お願いだから……。


 *パタン。


 私は記憶の本を閉じ、眼鏡をかけ直す。

 メリンダ・ワーボイスの屋敷を出てから、幾分か経過したところ。空は段々と太陽の光を失くし、月明りと夜の照明が怪しく輝き始める。私は巷で出回っている新しい薬について調べている。もちろん個人的な理由だ。

 今のところ。誰に協力したとしても詐欺師としてのうまみはない。彼女だったら……恵里衣お姉ちゃんなら、なんだかんだメリンダ・ワーボイスの味方をしてしまうだろう。きっとおそらく。

 私はロジックによる記憶の本を取り出しては、中身を確認せずに捨てる。記憶の本ってのは捨てたい時に限ってなかなか捨てられない。彼女も苦しんでいたのだろうか。はたまたそれすら受け入れていたのだろうか。数年前のあの光景を思い出すたび、私は本を投げ捨てている。そんな一人遊びを繰り返していると、夜の喧騒に混じり、こそこそと動いている影が複数。

 なるほど、メリンダ・ワーボイスから離れすぎない位置で取引か……見つかったらどうするつもりだったのだろうか、策の一つも考えていなさそうだ。

 半ば呆れながら私は影を追う。私が周りを確認してみると、少なくとも三人は私のことを見張っている人間が居る。信用がないのは仕方がない。私は私を監視している人間に軽く手を振り、影を追った。

 道すがら、窓ガラスなどの反射を使って、私は自分自身の格好を確認する。赤毛のパーマ、使い古した茶色のダッフルコート、ガッサガサのジーパン。今私が追いかけている人間を見てみると、それなりのスーツを着込んでいる。ドレスコードがある場所へいくつもりか? それともメンツのためか?

 どちらにせよ、接近するためにはそれなりの姿をしないといけないか。

 私はそう考えながら、ゴミ箱に赤毛のパーマ……のカツラを捨てる。そして道の途中で眠っている酔っぱらいにダッフルコートを渡し、飲み屋の背もたれに引っ掛けてあったジャケットを奪い、歩きながら髪の毛を整える。

 影を追っている途中、たまたま私の近くを歩いていたイカすズボンを穿いていた男性に声を掛ける。


「おにーさん、そのズボン5でどう? ダメ?」

「脱がせてくれるなら……?」

「そういう感じ? じゃあちょっとそこの路地でさ」


 私はレザーパンツを穿いた男性を建物と建物の間、暗がりになっている場所へ連れていき、こめかみに一発、肝臓に二発、鳩尾に一発拳を叩き込む。突然の暴力に男性は何も言わず地面に伏した。

『殴っちゃダメだよ、小夜』

 私は声を無視し。自分の服の中からくしゃくしゃになったお札を取り出す。


「詐欺師にご注意。はい五万円、おにーさんのパンツの中に入れておくから」


 多分聞こえていないだろう男性にそう言い、私はズボンを強奪する。裾をやんわりと合わせ、ベルトをきつくきつく締める。ちょっとちぐはぐだけど暗闇を利用すれば誤魔化せるでしょ。

 私は暗闇から抜け出し、尾行対象を探す。見失う可能性も考えていたが、案外あっさりと見つかる。大の大人が三人揃ってコソコソ動いているので目立って仕方がないのだ。

 誘われているのか?

 と私は一瞬訝しんだが、誘われているんだとしても情報が欲しいと判断し、歩き始める。

 飲み屋の店員の声、騒ぐ酔っぱらいの声、時折始める殴り合いの音と歓声。そんな中、三人の男がとあるバーへ入ったのが見えた。


「エイのハラバイ」


 私は呟き、三人の後をついていき、そのままバーへ入る。ボディーガードのような人間はおらず、入口の扉も開けっ放しだ。

 罠か警戒していないか。

 おそらく前者なんだろうなぁと考えながら、店内へ入る。店の中はさほど広くない。バーカウンターと壁までの距離は椅子を含めて人2人分。巨漢が入れば詰まってしまいそうだ。そんなバーの内装を確認し、監視カメラの位置、店員の配置、インテリアの位置……急いで記憶の本に情報を書き込んでいると、店員の一人が私に接近する。私はにこっと笑顔を向ける。


「おひとりで〜す」

「……こちらへ」


 店員は少々警戒しながら私のことを見ている。店内を見渡す限りあの三人組は見当たらない。この店の事務所のような場所へ行ってしまったのか。

 色々と情報を記憶の本へ書き込みながら、棚にあった酒をサッと確認し、私は適当に酒を注文する。


「テキーラ、ショット〜」

「承りました」


 バーの店員は私の注文を聞き、瓶から直接グラスへ注ぎ始める。それを見た私は背の高い椅子に腰掛けるが、すぐに立ち上がり、バーカウンターの中にあったアイスピックを抜き取り、私に背中を向けている店員の首元へあてる。


「もうちょっとこっそりしないとお客さんにバレちゃうよ〜?」


 私はと笑いながら店員に言う。言われた店員は一瞬震えながら、両手をあげる。お客に出すグラスに薬を盛る……まさかこんな古典的な方法で人を排除しようとしていたなんて。


「別に私は騒ぎたいわけじゃないの。さっさとお酒を飲んでさっさと温まって、女を引っ掛けて寝たいだけなの」

「……大変、失礼いたしました」

「分かればよし」


 私はそう言いながら、店員の後頭部に中指を当て、指の腹で頭皮をなぞる。

 これはあくまでも自分ルール。記憶の本を読み解くための儀式。記憶の本を引き抜き、私は店員の動作を観察する。私に注ごうとしていた薬入りのグラスをそのままゴミ箱へ捨て、新しいグラスを取り出す。


「ちゃんと洗ってね〜」


 私がそう言うと、店員は頷き、そのまま流しで洗い始める。お酒が不味くなってしまうが、これは仕方がない。店員も自分の潔白を証明するために必死のようだし。

 店員の動きを逐一確認する。目線・息遣い・微かな筋肉の動き、すべてを観察する。

 すると手元にあった記憶の本が色づき始める。

 恵里衣お姉ちゃんのとは違い、不完全なこの能力。それでも……これくらいなら。


「今日は大変みたいだね〜、ごめんね〜このバーが見えちゃったからさ」

「はぁ」

「無駄な話をさせないように言われてるっぽいね〜。あ、ライムはいらないよ」

「……っ、あっ、はい」


 観察、修正、観察、修正。次の店員の行動を予測する。


「しっかし、お客様も横暴だねぇ〜。駆けつけ一杯にしてはあまりにも急なお越しだったみたいだね〜」

「…………お待たせいたしました」

「床びっちょびちょで慌てて掃除したのがわかるよ」

「っ」


 店員の視線が泳いだのが見える。すぐに私は茶化すように店員を笑う。


「うそうそ。ピッカピカのいい床じゃん〜」


 私は記憶の本を捲りながら、店員の瞳を覗き込む。瞳の奥にも薄く文字が浮かび上がる。


「怖がらなくてもいいよ。私はキミに危害を加えるつもりはないよ〜」


 彼の瞳の奥には『恐怖』の二文字が浮かぶ上がっている。私に対してなのか、バーの裏方へ『駆けつけ一杯』している人たちのことかはわからないが。

 私は出されたテキーラを一気に飲み干す。熱い液体が食道を通り抜ける。よかった毒はなかったみたいだ。


「んふ。いい感じ。そんでさ、一個だけ教えてもらっていい?」

「……なんでございましょう」

「このお店のお手洗いってどこ? 私ってば近くって」

「…………この奥にあります」

「そう? ありがと〜。あ、あとお代ここに置いてくね〜」


 バーカウンターの上にお金を置きながら、お手洗いへ向かう。この店のレイアウトをしっかりと把握しておきたい。もしかしたら次来たときに正面からの来店ではなく、裏口から……正確には非正規の入口から侵入するかもしれないからだ。

 私は自分の記憶の本に間取りを叩き込みながら、お手洗いへ入ろうとする。

 すると背後から影が差す。

 ビビリのクセに短絡的、か。背後を確認すると、尾行していた男の一人が私に向かって椅子を振り下ろしていた。


『*ごきんっ。』


 なんてね。

 私はバーカウンターの向こう側へ飛び込み、椅子を躱す。バーカウンターの中には店員しかいない。アイスピックを奪った時に尾行していた三人を見逃していたかなと不安になったが、見逃しはなかったみたいだ。

 振り下ろされた椅子は床へ激突し、大きな音を立てる。その隙に私はバーカウンターの上を確認する。カットされたカクテル用の柑橘類が視界に映り、それを手に取る。


「ねずみが!」


 そんな声と共に椅子が横に振るわれる。頭を下げて椅子をやり過ごし、相手の目玉に向かって柑橘類を絞る。勢いよく汁が飛び、目に入る。


「ぬぉぁぁぁぁっ!?」


 さすがに痛かったのか、男は叫び声をあげ、顔を抑えている。次はどこから? そう考えて入り口側を確認すると、天井から梯子が下りていて、そこから男たちが必死に降りていた。

 あー……そう言う感じ? 音に気が付けなかったなぁ。私は油断していた自分を諫めながら、棚に並べられていた酒瓶を一つ掴みそのままぶん投げる。くるくると縦回転しながら一人の頭へぶつかる。重たい音と共に男が梯子から落ちる。

 私はまだ降りていないもう一人へ近づき、梯子から引きずり落とす。そして腰に巻き付けている道具を一つ取り出す。


「ちょっとだけお話しましょ~」


 手に持ったそれはワイヤーで、きゅっーと相談相手にお願いできる道具。


「詐欺師のハグだよ~貴重だよ~」


 *むぎゅ。


「ふぎゅふ」


 自分でもわかるくらいの情けない声が漏れる。久々のバスの混雑を体感し、同時に辟易とする。これが嫌だから私は自転車通学をしていたんだと再認識する。

 スマホを覗くことすら許されないこの空間は下層から中層へ移動できる数少ない交通機関の一つ。下層から学校や職場へ移動する人間でごった返している。

 いくら下層の治安が終わっているとはいえ、交通機関を利用しないことには中層へ行くこともままならないので、利用せざるを得ない。一応ヤク……自警団が居てくれるおかげで、停留所などはある程度の治安が保たれている。


「次は中層ショッピングモール前、下層より安心安全、けれど麻薬とかは売ってないでおなじみ、ボルテックマート」


 そんな車内アナウンスを聞き、少しだけ安心する。ここさえしのげば、乗客が減るためこの苦しみから解放される。

 周りとチラと見る、会社員がよく着ているジャケットより、工場で働いていそうな作業服の人間が目立つ。髪の毛も色とりどりだ。私は……これ以上染める気はない。すでに目立ってるし。

 そういえば音苑はそろそろ髪の毛、染めんのかな。黒がちょびっと見え隠れしているし。


「中層ショッピングモール前、中層ショッピングモール前、お降りのお客さんはさっさと降りてー」


 やる気があるんだかわからないアナウンスが聞こえてくる。そして直後にぷしゅーという何かが抜ける音と、扉が開く音。それからゾロゾロとバスの外へ向かう人たち。やっとすし詰めから開放され、小さくないため息が自然と漏れる。

 こんなもの毎日乗ってられるか。

 そう考えるものの、実際のところ交通費を賄えるほどのお金はない。……いや、正確にはお金はあるのだが、あの自警団からもらったものであり、下手に使えば警察のお世話になりそうで怖い。札の印字くらい控えていてもおかしくないから、使ったあとに追跡……なんてことも全然あり得る。

 今も封筒の中に入れ、私のバッグの奥底、それもポーチの中へ入れている。いつ盗まれてもおかしくないが、いっそのこと誰かに盗んでほしいとも考えてしまっている。まぁ盗まれたら盗まれたで、なんからかの制裁が待っていそうだが。

 いやっ、ほんっとうにどーすんのこれ!?

 と何度も自身へ問いかけてきたが、答えなんて出るわけがない。

 さっさと使ってトンズラ? でもどこへ? 大学もあるのに? 中退? 奨学金どうすんの?

 嫌なことばかりが頭に浮かぶため、私は頭を振って脳内のもやもやを振り落とす。こんなことしてもしつこい悩みのタネは消えるわけもなく。ふと目線を上げてみれば、すでに中層大学の学生のみになっていて、ぼんやりとスマホを眺めていたり、音ゲーだろうか、忙しなくスマホを両手でタップしている人もいる。


「次は大学前〜、在校生も卒業生も留年するキミも〜」


 なんつーこと言うんだ。

 アナウンスに思わず心の中でツッコミを入れていると、バスは大学付近にあるバス停へ停まる。バスの運転自体はアナウンスとは違ってかなり真面目だ。

 私は交通ICカードをかざし、そのままバスの外へ出る。バスのあの独特の匂いはすぐに霧散し、外の新鮮な匂いが鼻の中へ入る。緑と本の匂いが混じったそんな香り。私はもう一度だけ呼吸を整えると、すぐに大学の門を通る。守衛さんが一瞬こちらを見たが、すぐに視線を外す。顔パス……ではないが、どうせ大学施設へ入ろうとすれば、そこで学生証が必要になる。ここではあからさまに怪しい人間を弾いているのだろう。たぶん。

 敷地へ入り、建物の入り口で学生証をかざし、建物の中へ入る。廊下はいつも通り人が多く、あちらこちらで会話が聞こえてくる。生徒や教授の間をすり抜け、目的地へ向かう。向かう先はサークル棟、そこの一室にはきっと少しだけ不機嫌な音苑が待っていることだろう。

 慣れないバス通学だったから遅れた。

 うん、そうしよう。

 本当は自分の不手際で集合時間に遅れたのだが、一応言い訳できる、と思う。

 サークル棟の中を通り、階段を登ったすぐ近く。分厚い鉄の扉に仕切られたそこへ手をかける。予想通りというかいつも通りというか、扉の鍵は開いており、中へ入ることができる。やってと無駄だとはわかっているが、そーっと中へ入る。すると。


「遅い」


 細かい穴だらけの壁に囲まれた部屋、中央には指揮台と電子ピアノが置かれていて、そこにはいつも通り、黒髪が見え隠れし始めてる銀髪が不機嫌そうな顔で私のことを見ている。私は目を伏せ、さらに逸らしながら。


「バス、乗り慣れてなくて」

「どうせ寝坊でしょ」

「そ、そんなこと、ナイヨ?」


 何故だ、普通にバレている。家に監視カメラでも設置されているのか?

 家中をひっくり返そう、そうしよう……と考えていると、音苑が楽譜……のコピーを渡してくる。すでに大量の注意書きが入っているそれは……。


「んげっ、また音変えたの!?」

「うん」

「うんじゃないよ、勘弁してよ〜」

「だから練習するよ。発声練習して」

「ひどいよ音苑〜!」


 私はぶちぶち文句を言いながら荷物をまとめ、発声練習を始める。腹斜筋のトレーニングから、猫のポーズ、それから口角を上げるための練習。

 自分なりの発声練習をしていると、音苑は電子ピアノの電源を入れ、慣れた手つきで鍵盤に指を這わせる。何度見ても気持ち悪いくらい早い。


「変えた箇所から」

「……へぇい」


 彼女は胸ポケットから万年筆っぽいぶっといペンを取り出し、指揮台をペンで叩きリズムを作る。

 ……指揮をとっているところを見ると、どうも音楽の授業を思い出して仕方がない。

 何度か音苑の楽譜に合わせて声を出す。

 音苑と組んで数年ほど、いつもどこか苛立っていて、ずっと何かを追い求めている彼女。楽譜を書いていても、歌詞を書いていても、曲をアップロードしても彼女は納得しない。付き合わされるのは……嫌いではないけど。


「……違う、やっぱあの音の方が」

「やっぱり? 書き直し?」

「やっぱり書き直し」

「そっかぁ。ちょっと粉キメていい?」

「この前みたいに噎せて吐き出さないでよ」

「あれは事故だから……!!」


 私は自分の荷物の中から厳重に守られている銀色の器を取り出す。生薬の力で喉をケアできるごく一般的な商品だ。間違っても違法なものではない。中に入っている小さな匙に粉を乗せ、そのまま口の奥へ放り込む。


「恵里衣」

「んー?」

「ライブ参加したい?」

「んん、やは」

「もう予約入れちゃったけどね」

「んごふ!?」


 吹き出した。ものの見事に。


「はい!? いつよ!?」

「2週間後」

「にしゅ、2週間後!? んな急に!」

「前もってライブに参加させようとすると逃げるじゃん」

「そう、だけど!! 不意打ちがすぎるよ!」


 私は粉まみれになった顔を、持っていたハンカチで拭く。音苑は涼しい顔で楽譜にペンを走らせている。この子はホント……!!


「たまには音苑が歌ってよー! 私ばっかり恥ずかしいじゃん!」

「無理、ヤダ、論外」

「あんでだよぅ!」

「私の歌は……うん、ないない」

「ずっこい!! 決定権を私にも寄越せ!」


 私は荷物をカバンへしまい、今度は箒を探す。確か掃除ロッカーの中にあったはず。ふらふらと私が掃除ロッカーへ向かっていると、音苑が盛大なため息を漏らす。また楽譜をぐしゃぐしゃにすると、紙だらけのゴミ箱に叩き込む。

 今日も荒れてんなー。

 なんて想いながら箒でササッと床を掃除する。いつもいつでもあんな感じだ。作品が完成しようが、他人から評価されようが、いつもあんな感じだ。

 なんでいつも苛ついているのか、一度だけ、たった一度だけ聞いてみたことがある。


『自分が許せないから』


 とのこと。究極の完璧主義なのかはたまた別の理由なのか、今の私には理解できない。


「恵里衣、書き直したから音合わせるよ」

「たまには楽器やりたいよー」

「歌以外何もできないじゃん、恵里衣」

「ひどい!!」


 いや、楽器がてんで駄目なのは事実ではあるが。リコーダーですら挫折した記憶がある。考えながら手を動かすなんて私には不可能だ。楽譜を確認し、目線を上げる、指揮棒代わりのペンを目で追う。

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感情のカンパネラ 霧乃有紗 @ALisaMisty

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