神の手
小島蔵人
第1話
覚えているのは原っぱで寝ころんだことだった。近所の遊び仲間が学校へ行ってしまい、一人ぼっちになって裏山へ登ったのだ。住宅が点在し、空き地や畑があったりする中で、百メートルも行くと鬱蒼とした林に囲まれ、さらに奥へ進むと急に開けた原っぱがあった。そこは近所の遊び仲間の秘密の場所だった。探検に行くぞと称してヒロちゃんたち四人に連れて行かれて、この原っぱを見た時はうれしくてはしゃいだものだった。周辺に木陰もあるし、大きな岩が数個転がっていて、その内の一つはテーブルみたいでおもちゃで遊べたし、お菓子を食べたり、その上で寝ることもできた。ただぎりぎりの端っこまで行くと、その下はけっこうな高さの崖となっていた。恐る恐る近寄ってみると、崖下には林があって畑があってその先に民家の屋根が見えた。右手の方にはヒロちゃんやぼくの家、ヒデオちゃんやユキちゃんの家も見えた。
来年から幼稚園にあがるぼくはみんなが帰ってくるまで一人ぼっちだったのだ。ぼくだけ年が離れていた。だからたいていその原っぱで何する訳でもなく過ごすことが多かった。
その時季節は秋だった。小春日和の暖かな日で、屋根の連なる住宅やその先のビル、遠くの港や銀色に輝く海に浮かぶ船をテーブル岩に座り眺めていた。時はゆったり流れ、耳元で虫の羽音が子守歌のように響いた。ぼくはそうするのが当然のようにゴロンと横になり、眠ってしまったのだった。岩の上は心地のよい暖かさだった。
長い時間そうしていたような気がした。たくさんの雲や星々が流れた。夢でも見たのに違いない。突然眩しい光に包まれ、誰かが地中から湧き上がってきた。それはまるで羽毛のような柔らかさでぼくの上に覆いかぶさり、その者の囁きが頭の中で廻った。たくさんの人が崖下へ落ちていった。手のひらが浮かび上がった。それはぼくの心に届き、言われるままに頷いた。『いいよ』ってことばを返した。その者が何かを言った。黒い囁きがあたりを漂いぼくの中に入った。怖くて身体が震えた。でもそのあと、一つの約束をした。そうしないといけない気がした。
目が覚めた。定かでない意識の中で自分が原っぱの岩の上で眠っていたことを思い出した。日はまだ高く、いくらも時間は過ぎていないように思えた。急に心細くなり岩から下りて帰り始めた。あたりの様子が違うのを感じた。あたりは静寂に溢れ、青空と日ざしと木々と原っぱだけだった。でも、誰かに見られている気がした。ふと心を射抜かれた気がした。背後に何かがいる気がした。ぼくは後ろを振り返らずに走り出した。
二年が過ぎた。ぼくは小学校の一年生になった。入学に合わせるように近所の空き地に家が建ち、家族が引っ越してきた。その家には同じ一年生の女の子がいた。ヒロちゃんや兄の健一、ユキちゃん、ヒデオちゃん、とぼくの遊び仲間に加わることになった。ぼくは「村上タカオ。タカちゃんて呼ばれているよ」と自己紹介した。自分と同じ学年の子ができてうれしかったのだ。一番近いヒデオちゃんが三年生だから、いつもみんなから指図されてばかりだった。
だが「サチコっていうの、でもサっちゃんでいいよ」と言ったその子はわがままで自分の思い通りにならないと、さっさと帰ってしまう子だった。そういうところが新鮮でもあったが、自分に到底できないことを押し通してしまうその性格が羨ましくもあり憎くもあった。そんな思いは他の仲間も同じで、ヒロちゃんはあの秘密の場所の原っぱにはサチコは連れて行かない、黙っていろよと言った。
ある日サチコの家の前でユキがサチコといっしょにいるのを見かけた。ユキはやさしい子でぼくから見てもサチコを庇い過ぎると思うことが多かった。またサチコもそんなユキを見下したように命令口調で言うことがあった。ぼくは走って二人のところへ行った。その場面はサチコがユキに数冊のドリルを渡しているところだった。ぼくはそれが宿題のドリルだとすぐにわかった。
「なにしてんだよ」と声をかけるとユキがバツの悪そうな表情になり「なんでもない」と言ってドリルを持って走って帰って行った。
「おまえ、ユキちゃんに宿題やってもらってんだろ」ぼくは睨みつけていた。普段の鬱憤があった。
「言うとくけど」とサチコはなんでもないように言った。「ただじゃないから、お金払ってんだから」
「お金」と驚くぼくにサチコは「一ページ十円払ってる、だからタカちゃんに文句言われるすじあいない、ユキちゃんがそれでやってくれれいるんだから、それでいいじゃない」
ユキの家は父親が病気でなくなり、母親が働いてユキを育てていた。いつも同じ服を着ていたし、給食費が払えてないと聞いたこともあった。
「じゃあ、十円じゃなくてもっと払えよ」と怒鳴ってぼくは家に帰った。サチコの家が裕福なのはわかっていた。家が建って引越しの時は見るからに豪華な応接セットやらピアノやらがあった。
それから三年が過ぎぼくは四年生になった。ヒデオちゃんが六年生でヒロちゃんも健一もユキちゃんも中学生になった。集団登校といっても三人だけで途中から他の町の登校組に合流することになっていた。ぼくはサチコとは仲良くなれず話さなかったし離れていた。でもサチコの家に遊び行くと母親がお菓子やジュースを出してくれておもちゃもいっぱいあって楽しいからと女の子を中心に仲良くする者が多かった。学校でも高価な文房具を持ち、華やかに着飾っている姿がひとめを引く存在だった。
ぼくはクラスの友達と公園で遊ぶことが多く、前みたいに家の周りでヒロちゃんたち仲間と集まることはなくなっていた。三人が中学生になっていたし、ヒデオちゃんがなぜかぼくを避けるようになっていたからだ。家やアパートが建って空き地が少なくなっていたことも一つの要因だった。
夏休みになった。ぼくは一人でいることが多くなった。友達とプールへ行ったり、公園へ行ったり、家族で父方の実家や母方のおばあちゃんに会いに行ったりしたが、他は一人だった。ヒロちゃんもユキちゃんも部活動でいないことが多く、健一も同じだった。
その日は朝から騒がしかった。夏休みの宿題をしていると車の音や人の声、金属の軋みが響いてきた。何事だろうと机を離れ、外へ出てその方へ歩いていくと、トラックが停まり数人の大人たちが立ち話をしていた。秘密の場所のはずの原っぱだった。
「なにがあってるの」と声をかけると、ヒロちゃんのおかあさんがぼくを見て言った。「また遊び場なくなるねぇ」
「え、ここ」と言っているうちに、作業服を着た男たちがトラックから資材を下ろしていった。そして杭が打たれ有刺鉄線がはられて立入禁止の杭が立てられた。
背後から声がした。振り返るとサチコが父親と話しながらこちらへ来ていた。サチコはぼくに気がついたが無視して原っぱの中へスキップしながら入っていった。作業員たちがサチコと父親に挨拶をした。その場にいたヒロちゃんのおかあさんたちも挨拶をしながら「やっぱりですか」と言った。前から話があったみたいで、内容からサチコのおとうさんがこの土地を買ったことがわかった。建設会社を経営していて、ここに二棟のアパートを建てるということだった。
「うちのサチコからいい土地があるよって聞きましてね、来てみたら本当に眺めもいいし、そこそこの広さがあるし、こりゃ買わない訳にはいかないなってですね」
「でもいいんですか、この土地は」と一人のおばちゃんが言った。
「はい知っています、土地の持ち主の方も言ってました、昔いろいろあって売れるなんて思ってなかって、でもそんな昔のこといつまでも言ってもですね、ここはいい土地ですよ」そして原っぱへ行き、作業員たちと話を始めた。
ぼくの中に止めどなく憎しみが湧いていた。ここを秘密の場所と言っているのはぼくだけだった。いつからとなくヒデオちゃんは友達を連れてきて遊んでいたし、サチコも仲良しグループと遊んでいるのを知っていた。でもそれとこれは別だった。もうここで遊べなくなるのだ。
サチコはチラチラとこちらを見ながら原っぱを走り回っていた。「ここはうちの土地なんだね」と言いながら岩に座ったり、置かれた資材を見たりした。それはぼくへの当てつけであることは間違いなかった。
「サチコ、危ないからもう帰ってなさい」と父親が言った。
許すもんか、と思った。あいつがここへ越してきてから全部が悪くなったと思った。あいつなんか死んでしまえばいいと思った。憎悪の目であいつを見た。それは胸の中が苦しくなるくらいで、大きく呼吸しながら噴出して来る憎しみに耐えた。
その時手が動いた。誰かに操られるように右の腕が上がり手のひらで押した。空を切る手のひらに何かを押した感触があった。
原っぱの方から叫び声が聞こえた。作業の邪魔にならないようにこちらへ向かって歩いていたサチコが何かにつまずいたように後ろへつんのめって、五、六歩足が動いて崖の向こうに消えた。
おばさんたちの驚く声が響き、父親がサチコの名前を呼び、作業員たちがあわてて崖っぷちに走り、騒然となった。
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