第8話 黎明の赦し

夜明けの光が、瓦礫と化した修道院を淡く染めていた。

焦げた香の匂いがまだ漂い、崩れた柱の影で鳥たちが静かに鳴く。

昨日の惨劇が夢であったかのように――しかし、その夢は、痛みを残して現実を刻んでいた。

セリィは、祭壇の前に膝をついていた。

両手には、割れたロザリオ。

血に濡れた珠の一つ一つを指先でなぞりながら、彼女は静かに息を吐いた。


「……アッシュ、起きてる?」


胸の奥から、掠れた声が応じた。


――ああ。……まさか、まだ生きてるとは思わなかったけどな。


「生きてるって言葉、こんなに重かったかしら。」


――お前が勝手に重くしてんだろ。

  ……けど、あの時は、ああするしかなかった。俺も、少しは後悔してる。


セリィは目を伏せた。

脳裏に、昨夜の光景が浮かぶ。

燃え落ちる聖堂、神の炎、そしてそれを押し返す黒い影。

審問官たちの恐怖に満ちた眼差しと――修道女たちの震える声。


「セリーヌ、アレは何? ……あなた、どうして――」


その問いに、何も返せなかった。

誰もが見たのだ。

彼女の背に広がった“黒い翼”を。

そしてその影の中で、確かに“彼”が動いたことを。


「……アッシュ、あの人たちは私を怖がってる。」


――そりゃそうだろ。

  お前の中には“俺”がいる。神様が嫌う影そのものだ。


「……でも、あなたは違う。私にとっては、“影”なんかじゃない。」


――……セリィ。お前さ、いつもそう言うけどさ。

  本気で言ってんのか? 俺は神の敵だぞ。

  お前が神に背いた理由が、俺なんだぞ。


セリィは少し黙り、そっと胸に手を当てた。


「神は、私に“もう一度のチャンス”をくれたの。

でも――そのチャンスって、“あなたを捨てる機会”じゃない気がするの。」


――……どういう意味だ。


「だって、神様が沈黙していた間、私を支えてくれたのはあなたよ。

もし神様が本当に“私を見放していなかった”なら、

きっとこの出会いにも、意味があるはず。」


――……都合のいい解釈だな。


「そうね。でも、信じたいの。

神様が何を考えているとしても、私は“私の信じたい形”で信じる。」


セリィは微笑んだ。

それはどこか儚く、それでいて、確かな決意の光を帯びていた。

瓦礫の間から差し込む光が、彼女の髪に金色の縁を描く。

その輝きは、もはや“神の子”のそれではない。

血と灰に塗れながらも――なお祈る“人間”の光だった。

日が昇る頃、修道院の生き残りたちが集まった。

皆、疲れきった表情をしている。

その中で、院長の老女がセリィに声をかけた。


「セリーヌ……あの夜のことを、わたしたちは……見なかったことにする。

神の奇跡か、悪夢か……わからないけれど、あなたの中に“まだ光がある”と信じたい。」


セリィは言葉を詰まらせた。

何かを言い返そうとしたが、老女は静かに首を振る。


「ただひとつだけ――これから先、あなたがどんな道を選んでも、

それが“人を救うための選択”であることを祈っている。」


涙が滲んだ。

セリィは深く頭を下げ、静かに答えた。


「……ありがとうございます。

 でも、もう私は“祈るだけの人間”ではいられません。

 私の手で、救います。光も、影も――すべて。」


その背後で、アッシュの声が小さく笑った。


――へぇ。言うじゃねぇか。

  じゃあ、次の試練に備えるか? どうせ“神のチャンス”ってやつ、

  素直なもんじゃねぇだろ。


「ええ。……試練なら、望むところよ。」


遠く、鐘が鳴った。

その音は、修道院の崩れた壁を越えて、空へと昇っていく。

灰色の空の下で、セリィは立ち上がる。

その瞳には、神への恐れでも、信仰でもない――“選択した者の光”が宿っていた。

そして、心の奥でアッシュが静かに囁く。


――セリィ。……お前の選んだ道、見届けてやるよ。


 俺も、もう逃げねぇ。

セリィは微笑み、指先に残る灰をそっと握りしめた。

それは、過去の痛みであり、これから咲かせる願いの種でもあった。

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