第3話 影の囁き

昼下がり、修道院の回廊には柔らかい陽光が差し込み、石造りの床に木漏れ日の斑模様を描いていた。

遠くで小鳥の鳴き声が響き、風がわずかに窓を揺らす。

静寂の中、セリーヌは手元の書物を閉じ、肩をゆっくりと伸ばした。

胸の奥では、アッシュの存在が微かにざわめく。


――なぁ、セリィ。今日は何か面白いこと、起こるか?


「……面白いこと、ねぇ。」

「でも、神様は小さな奇跡をくれるかもしれないわ。」


――小さな奇跡か。なら、俺がちょっと手伝ってやろうか。


「手伝うって、どういう意味?」


アッシュは挑発するように答えた。

その声は、空気の隙間をすり抜け、セリーヌの胸にじんわりと染み込む。

思わず肩を引き、視線を庭に向ける。

子どもたちは無邪気に遊び、笑い声が柔らかく響いている。

しかし胸の奥で感じるアッシュの存在感は影のように広がり、体中に冷たくも熱い感覚を残していた。


――お前、いつも誰かを助けたがるな。危険も顧みず、面白ぇやつだ。


「それは……人として当然のことよ。」

「でも、危険を顧みないって、そんな風に思われるの、少し怖いけど。」


――怖いか。俺が手を出さなきゃ、どうなるか分かんねぇからな。


その瞬間、空気が微かに震え、庭の木々の葉がざわめき、鳥の鳴き声が止まった。

胸の奥で鼓動が早まり、息がわずかに荒くなる。

影の存在が形を変え、視界の端で揺らめいている。

まるで周囲の光が吸い込まれるように、空間がゆがむ感覚があった。

セリーヌは深く息を吸い込み、立ち上がった。

手を胸の前で組み、目を閉じる。


「主よ、どうか恐れを取り去り、真実の光を示してください!」


その瞬間、庭の空気がまるで息をひそめたかのように静止した。

風は止み、葉は揺れず、空間そのものが緊張に満ちた。

セリーヌの胸の奥でアッシュの存在がぐっと濃く重なり、体の隅々にまで影響を及ぼす。

彼女の心臓が跳ねるように鼓動する中、視界の端で黒い影がくっきりと浮かび上がった。

影はただ立っているだけで、周囲の光を吸い込むようにその輪郭をゆらめかせ、赤く光る瞳がセリーヌを捉えた。

冷たくも熱い視線が胸を突き、恐怖が体を凍らせる。

しかし、その一方で、胸の奥に小さな温かさも広がっていた。

アッシュは影の中で、存在の実感を放ちつつ、彼女の祈りに反応していたのだ。


――怖がるな、セリィ。俺がついてる。


その声は耳ではなく、胸の奥に直接響くようだった。

恐怖だけでなく、安心感も混ざる。

影でありながらも、アッシュは祈りの力を確かめ、彼女を揺さぶりつつ守る存在となっていた。

セリーヌは小さく肩を震わせながらも、立ち続け、さらに声を震わせず祈りを続ける。


「主よ……どうか……私の心を、恐れから解き放ち、真実の光を……」


光が彼女の体を貫くように広がり、祭壇の蝋燭の炎のように柔らかく揺れた。

しかしその中心には、影が赤く光り、冷たさを孕んでいる。

胸の奥でアッシュの存在が圧迫感と安堵を同時に与え、息が詰まる。

しかしセリーヌは恐れず、心を集中させた。

祈りの力と共に影を受け入れ、内なる自分と影が交わる瞬間だった。


――やるじゃねぇか、セリィ。お前の祈り、少しだけ認めてやる。


「……アッシュ?」


――俺は影だ。だが、お前の中で生きている以上、俺も試されるのさ。お前の成長を、俺は見届けたい。


胸の奥がじんわり温かくなる。

恐怖だけではなく、信頼や共鳴の感覚も混ざる。

影であるアッシュが、単なる脅威ではなく心の鏡のように感じられる。

祈りが反響するたび、影は形を変え、赤い瞳が揺らめくたび

セリーヌの胸の奥で心拍が共鳴した。

夕暮れ、庭で子どもたちと向き合うセリーヌ。

オレンジ色の光が修道院の壁や床を染める。

アッシュは影のまま佇み、静かに見守る。


――ふふ、面白ぇ奴だ。お前が祈る度に、俺は確かに生きてる。


「あなたも……生きてるのよね。」


――ああ。影だけどな。お前と同じように、俺もここにいる。共に試されながら。


胸の奥で鼓動が高まり、セリーヌは微笑む。

孤独も祈りも影も、すべてがひとつになった瞬間だった。

影の囁きは、恐怖ではなく共鳴となり、彼女を包む光となった。


――……セリィ。お前は強い。俺と一緒に、この世界を見ていけるな。


「ええ、そうね。あなたも、共に……」


二人の声が心の中で重なり、修道院の静寂に溶けていく。

影の存在がもたらす不安と安心、恐怖と信頼。

すべてが混ざり合ったこの午後の庭は、セリーヌにとって忘れられない瞬間となった。

胸の奥で、アッシュと自分の鼓動が静かに調和し、

彼女の祈りは新たな形を帯び始めた。

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