第2話 神の選択

朝の冷たい光が薄く修道院の窓を満たす。

まだ夜の名残が回廊に漂い、石の床は冷たく、吐息が白く立ち上る。

セリーヌは目を覚ました。

胸の奥で、昨夜眠りにつく前にかすかに感じ“もうひとつの鼓動”がゆっくりと呼吸に合わせて震えている。

――あれは……夢ではなかったのかもしれない。

硬い寝台の上で背筋を伸ばし、両手を胸の前で組む。

いつもの祈りを口にしようとしたが、言葉は喉で詰まった。

胸の奥の鼓動が、静かにだが確かに存在感を示している。

それは、ただの身体の感覚ではなく、何か“別の存在”が彼女の中にあるかのようだった。


「……今日も、祈ります。」


小さな声が石の壁に反響する。

祈ることは日常の一部であり、呼吸と同じように自然な行為だ。

だが、今の祈りはいつもと違う。

胸の奥の不思議な鼓動が、彼女の言葉に反応するように微かに速くなる。

庭に出ると、孤児院の子どもたちが集まり、セリーヌを待っていた。

小さな手が彼女の指を握り、笑顔を向ける。

その笑顔に、セリーヌは安堵するが、同時に胸の奥の鼓動を意識せずにはいられなかった。

――誰かが、私の中で生きている……?

子どもたちに文字を教え、簡単な計算を教えながらもその疑問は消えなかった。

昼が過ぎ夕方の祈りの前、セリーヌは静かに大聖堂の片隅に膝をついた。

蝋燭の炎が揺れ、空気は澄み渡る。

祈ると、鼓動がさらに大きくなるように感じる。


――神様……これは、何なのでしょう。


その夜、祭壇の前でひとり祈りを続けていると、

空間の奥から冷たくも澄んだ声が響いた。


――セリーヌ。


その声は頭の奥底に直接触れるようで、

身体のどこにも共鳴し、背筋が凍る。


「……神様……ですか?」


――我が娘よ。汝の祈りは深く純真であり、他者を思う慈愛に満ちている。

――しかし、その全てを赦す心は、本当に清らかなのか。


光が祭壇を満たす。

白銀ではなく、温かさと冷たさが交錯する光。

その中心に黒い靄のような影が揺らめき、赤く光る瞳がセリーヌを貫いた。


――これが試練だ。恐れるな。しかし拒むことは許されぬ。拒めば、汝の心は永遠の闇に閉ざされる。


セリーヌは息を吸い込み、静かに答えた。


「……神よ。私は受け入れます。影にも光を見出します。」


光が胸を貫き、体が焼けるような熱に包まれた。

視界が反転し、思考は白に塗り潰される。

気がつくと、知らぬ場所にいた。

冷たくも澄んだ静寂が、全てを包み込む。


――……ここは……どこだ?


「……あなた、誰?」


――俺か? 俺はお前の中にいる。影だ。神が作った試練の一部、だが俺自身の意思もある。


恐怖と不安が入り混じる。

しかし、その声には悪意はなく、孤独だけが漂っている。


「あなたには……名前がないの?」


――必要ねぇよ。俺はお前の影だから。


「でも、影にも名前があった方がいいと思うの。」


セリーヌは静かに考え、そっと言った。


「灰のように見えても火を宿す……“アシュワース”。でも長すぎるから、アッシュと呼ぶね。」


――勝手に決めるな。


「気に入らなかった?」


――……いや、悪くねぇ。


アッシュは少し笑い、警告めいた声を続けた。


――お前、異常だな。自分の中に化け物がいるのに平気で話しかけてくる。


「化け物じゃない。あなたも生きているでしょう?」


――“生きてる”のかもわからねぇ。でも一つ言える。俺はお前とは分かり合えねぇ。


――お前は祈る。俺は壊す。それだけの違いだ。


セリーヌは微笑んだ。


「だったら、壊すことも祈りの一部になるかもしれないね。」


――……は? 本気で言ってんのか。


「本気よ。神はすべてをお造りになった。あなたも、その一部。」


アッシュは黙り込み、胸の奥で微かに存在を響かせる。

日々が過ぎ、セリーヌの祈りや奉仕は続く。

アッシュは胸の奥で息づき、日常に影を落とす。


――また祈ってんのか。退屈しねぇな。


「退屈なんてしないわ。祈りは心の栄養なの。」


――飯食って寝る方が栄養だろ。


「ふふ、あなたの方が現実的ね。」


――現実を見なきゃ死ぬからな。


庭で子どもたちに文字を教えると、アッシュは問いかける。


――セリィ、本当に神を信じてるのか?


「ええ。」


――じゃあ、神はいつお前を助けた?


言葉は鋭く、しかし突き放すようでもあった。

セリーヌはその問いにしばらく黙り、視線を落とす。

神が直接手を差し伸べたことは一度もない。

だからといって、信じる心が消えたわけではない。

ただ、孤独を思い出す瞬間、祈りの意味が揺らぐ。

孤児だった彼女を救ったのは神ではなく、修道院の人々。

しかしセリーヌは言う。


「祈ることで、自分を失わずにいられたから、助けられたの。」


――……そんなもんか。


「あなたは違うの?」


――俺は……祈ったことねぇ。祈る意味も知らねぇ。


「だったら、教えてあげる。祈りってね……」


言葉を紡ごうとした瞬間、廊下の奥から物音がした。

小さな悲鳴とともに倒れた修道女の姿が見える。

セリーヌは一瞬で駆け寄り、手を差し伸べた。


「大丈夫、すぐに……!」


――おい、無理すんなよセリィ。


「この人を放っておけないの。」


心の奥の小さな祈りが、現実の行動となる。

冷たい布で額を押さえ、 静かに手を握り、呼吸を整える。

小さな命を守ること、それが彼女の信仰の形であり、神への奉仕だった。

夜、寝室で布団に横たわると、アッシュが囁く。


――……お前、変な奴だな。


「ふふ、今さら?」


――いや、本気で思う。俺なら、他人放っておく。


「でもあなたは優しいよ、アッシュ。」


――は? なんでそうなるんだよ。


「心配してくれるから。」


アッシュは答えず、胸の奥で静かに響く。

その存在は、恐怖でありながらも確かな支えとなった。

翌朝も、セリーヌは変わらず目を覚ます。

庭の子どもたち、廊下の冷たい石畳、朝の鐘の響き。

すべてがいつも通りであり、すべてが少しだけ違っていた。

胸の奥の影は、確かにそこに生きていて、静かに彼女を見つめている。


――なぁ、セリィ。今日も祈るんだろ?


「ええ、もちろん。祈ることが私のすべてだから。」


――ふん、俺は別に信じねぇけどな。


「それでも、あなたも……ここにいるでしょ?」


影と祈り、孤独と共存。

セリーヌは微笑み、静かに目を閉じる。

胸の奥の小さな鼓動が、今日も確かに生きていることを教えてくれた。

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