43 朝日

 平維盛と伊藤忠清率いる、源氏追討軍は近江、美濃、尾張と進むことができた。

 兵数は七万騎にまで達したが、しかし、兵糧の調達の方はうまくいかなかった。

 これには、範頼の指示による、近江、美濃、尾張の源氏たちの妨害もあったが、何よりもこの時、飢饉の足音が聞こえ始めていた。

 養和の飢饉である。

 養和元年(一一八一年)の飢饉であることから、そのような名称で言われるが、その前年の治承四年において、すでに降水量の不足により旱魃が発生し、農作物の収穫が、かなり少なくなっていた。

 西国において。


「米が採れないだと?」


 福原にて留守居役を務める清盛は憮然とした。

 かつて、盤双六を前に、白河法皇が歎いた「天下三不如意」のひとつ、「賀茂川の水」が少ないと聞いていたが、それがまさかこのような災いを呼ぶとは。


「これではますます、東国を押さえる必要がある」


 今のところ、平家の――天下の米どころは北陸である。

 その北陸ですら賄えぬほどの大飢饉が予想される。

 平家の追討軍は、軍事上のほかに、経済上の事情もかかえ、進軍することになった。


 ……そしてその米どころの北陸を脅かす勢力が、実はもう産声を上げていた。



「木曽次郎……」


 最初、その名を聞いた範頼は、おのれの別称「蒲冠者かばのかじゃ」と同じく、信濃の木曽谷に勢力を持つ者かと思った。


「それが、今はちがう」


 甲斐源氏・武田信義がいうには、木曽次郎は上野こうずけ多胡たこ郡に本拠地を移し、源義仲と名乗った、とのことである。


「源、義仲……」


「さよう。この義仲が言うには、わが父は源義賢みなもとのよしかたである、と……」


「大蔵合戦でわが兄・義平が討ち果たした相手、ですな」


 源義賢。

 頼朝や範頼の父、源義朝みなもとのよしともの弟である。

 そして義賢は、義朝と、河内源氏の嫡流というか、勢力を争う相手でもあった。

 たび重なる争いに業を煮やした義朝が、長子である悪源太義平に義賢の居館・大蔵館を急襲させた。

 義賢は討たれたが、その子の義仲は生き残り、木曽谷へと落ちのびた……と武田信義は語った。


「木曽谷で生まれ育った義仲のもとに、以仁王もちひとおうの令旨が持ち込まれ……」


 義仲としては、この以仁王の令旨を利用して、父・義賢の勢力を受け継ぎ回復することをねらったのか、あるいは義朝の子である頼朝への復仇をもくろんだのか、いずれにしろ、おのれの国を作る機会ととらえた。


「信濃の水内郡、市原という地にて、義仲は平家を倒した」


 市原合戦と伝えられるその戦いで敗北した平家方・笠原頼直は越後へ逃げ、それが越後の大豪族・城氏の信濃侵攻を招くのだが、それはまた別の話である。


「その義仲が、今は上野国こうずけのくに多胡郡たこぐんる」


 上野国多胡郡というのは義仲の父・義賢の旧領である。

 義仲がるには、うってつけの場所と言えた。


「この義仲、多胡郡に居るのはいいが、これからまず間違いなく、信濃に出よう」


 木曽で生まれ育ったから、木曽次郎という別称を持つ義仲が、その地縁を活かさぬわけがない。

 これが、海道進出をもくろむ武田信義にとって、悩みの種であった。


「先の信濃の伊那郡に兵を出したのも、このためだ」


 市原合戦は九月七日、武田の信濃出兵は九月十日から十四日にかけてである。

 武田信義としては、源義仲が今は上野にっているとはいえ、いずれ木曽へと兵を進めるのではないかと危惧している。


「木曽に居られると、邪魔だ」


 露骨にそう口にする武田信義は、当年とって五十三歳。

 当時からすると、人生の終盤にさしかかっている。

 そのような年齢に立ち上がったのだ、できるだけ目に見えるかたちで、おのれのおこないの成果が見たかった、守りたかった。


「せっかく海道を制したと思ったら、その背後から──信濃木曽から奪われたら、終わりだ」


 信義は意味ありげに範頼を見やる。

 なんとかしろ、という意味らしい。

 最近は頼朝との連絡つなぎに北条時政の方を使っていると思いきや、こうして範頼を呼んできた理由が、これだった。

 時政は純粋に連絡役に徹している。

 頼朝に余計な口出しやお願いなどしない。

 今や、一大勢力圏を築きつつある頼朝に、そのようなことをしたら、「帰って来ずとも良い。そのまま甲斐にいろ」と言われかねない。


「そこで範頼どの、範頼どのなら、なんとかできるのであろう?」


 露骨な期待のまなざし。

 今の武田信義の目が、まさにそれだ。


「……これは参りましたな」


 頼朝とて、すべての事象を予期して判断しているわけではない。

 当然、予期せぬ事象はある。

 その最たるものが、この源義仲だ。

 しかも義仲は、頼朝や範頼、義円からすると、親の代から敵同士と言っていい。


「さて、どうするか」


 頼朝の今のねらいは、平家の追討軍である。

 使える勢力はなんでも使おうと思っているが、使えない勢力や邪魔者については、特に関心がない。

 今は。


「むむ……」


 範頼としては、義仲への対策はあるが、それを頼朝がかどうかが悩ましいところである。


いいじゃないですか」


 突然、横から、安達盛長の娘・亀が口を出した。

 亀は最前から、侍女然として澄まして座っていたが、ここに来て突如、口を挟んだ。


「これからの甲斐源氏の動きが……どれだけ重要か、


 範頼はあっけに取られていたが、亀がここまで言うのなら、大丈夫なのかもしれないと思い、武田信義に向き直った。

 信義もまたあっけに取られていたが、亀のおかげで範頼が助けられて、ひいては自分も助けられているのを知っているので、傾聴の姿勢を取った。


「では信義さま」


「うむ」


「わが兄・頼朝に木曽次郎義仲のことを申し上げ、坂東の方から押さえてもらいましょう」


「ほう」


 頼朝はこの時、房総を制圧している最中である。

 そして何より、「それはお前の方でやれ」と言われるかもしれない。

 範頼はそれを危惧していたが、長年、頼朝の侍女をしていた亀がそう言うなら、「やれそうだ」と思えた。

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