終わらない黄昏時③

🧚


 眞弓に吸血を始めてきっかり五分で、喜谷さんは部屋の扉をノックした。僕は慌てて身体を拭いて、眞弓は心底嫌そうに舌打ちをしたたところで「入ります」と喜谷さんの声がした。


「大丈夫です」


 僕が言うなり、部屋の扉が開かれる。喜谷さんは先程と同じ調子で僕の目の前まで来て、リコとヒメちゃんもそれに続いた。


「用事は済みましたか」

「は、はい」

「失礼します」


 喜谷さんは手袋をはめ直し、僕の顎に手を当てて、上に持ち上げた。喜谷さんの顔が目と鼻の先まで近づけられ、一瞬心臓が跳ね上がる。後ろで眞弓が立ち上がる音が聞こえたので、僕はそれを右手で制する。眞弓は鼻を鳴らして、またベッドの上に座ったようだった。喜谷さんは僕の顎を掴んで顔を上下左右に動かして、反対側の手で僕の首や頬を触りながら、じっくりと首筋を観察する。眞弓に吸い付かれた傷痕を見ているらしい。喜谷さんは納得するように一息つくと、僕の顎から手を離した。


「村瀬叶斗さん」

「は、はい」

「あなた、吸血鬼に血を与えてどれくらい経ちますか」

「えっと……?」


 僕は頭の中で、眞弓との日々を数える。


「一年以上は」

「先程、私はあなたは元の生活に戻れるという話をしました。それは嘘ではありませんが、そちらの道もまた難しいでしょう、と言わざるをえません。すみません、勘付いてはいたのですが、先にそちらをお伝えすると強制になると思い」

「それは、どうしてですか」

「あなたの身体は吸血鬼、それにリリー・カーネイジ・コールコデット──」


 パンパン、と大きな音を立ててリコが手を叩いた。

 

「リコ!」


 喜谷さんは振り向きこそしないものの、目を細めて一瞬だけ目線をリコの方にチラとやった。


「──とにかく、二体もの魔にあなたほど長い間、血肉を与えた。そんな人間の例を私は過分にしてほとんど存じておりませんが、あなたの身体は人ではあるものの、かなり魔に近い」


 耐性がついてきている、とリコも言っていた。実感はある。僕は普通の人間よりも血の量が多い。椋島や冬夜との戦いでの負傷も、回復が異常に早かった。そもそも、ただでさえ吸血鬼との契約は、人間の身体を改造する。僕は、吸血鬼と契約することは、吸血鬼の家畜になることだと言っていたのを思い出す。


「分かってました」


 だから、僕は正直な言葉を口にした。


「結構。私もそのつもりで、接します」

「ねえ、そこのお子様吸血鬼も血を吸ったんなら、あたしも叶斗からご飯もらいたいんだけど」


 リコがまた後ろから声を張り上げた。リコ、めげないな。ここまで何回、彼女が喜谷さんに無視されたのか、僕は数えていない。というか、これだけ徹底して無視しているなら、僕が気を失っている間はどうしてたんだろう。僕はリコの隣にいるヒメちゃんを見る。ヒメちゃんは僕の視線に気付いて、困ったように苦笑した。


「ヒメちゃんにも、苦労かけたね」

「いやいや、私は特に何も──」

「私とて、魔との対話をしないわけではありません。彼女とも最低限の話はしました。そうでないと、のことも、あなたの処遇も決めることはできません」


 ヒメちゃんの言葉に自分の言葉を被せて、今度は喜谷さんが少しだけ困った顔をする。自分でも、判断に悩んでいるように見えた。喜谷さんは眉間に皺を大きく寄せ、それから元の澄ました顔に戻って、後ろを振り向いた。


「リリー・カーネイジ──」

「リコ」

「──リコ、あなたの見解も私と同じですね?」


 リコは呆れた様子で天を仰ぎ、肩を落とした。


「まあね。叶斗にもちょっと話したよね」

「うん」

「ねー、それよりご飯」


 リコは喜谷さんの目が自身に向いたことをいいことに、喜谷さんの肩にもたれかかった。喜谷さんは鬱陶しそうにリコを手で払う。


「五分でいいですか」

「えー、それはどうだろ」


 何のことかと思ったが、リコの食事のことだ。


「え、どうだろ」


 僕も思わずリコと同じ言葉を口にした。時間は測っていないが、倉庫での決戦前、最後にリコに食事をさせた時はかなり掛かった記憶がある。


「ていうか、リコは僕の意識がない間、どうしてたの?」

「ん? バイトしてた」

「は?」

「いや、最初の数日は我慢してたんだけど無理でさ。そこの堅物眼鏡に、叶斗が無理なら誰か若い男の子を差し出せーって言ったんだけど」

「聞くわけないでしょう」


 喜谷さんが淡々とした様子で言う。ただ、その目にはかなり苛つきが見えた。


「だから、色々交渉はさせてもらって。あ、その時は堅物眼鏡も話聞いてくれたよ。でねー、あたしお店に登録してたからさ」

「お店?」

「うん。えっとね──」

「あー! もう! 分かりました!」


 喜谷さんが、今日一番の大声を上げた。これにはリコもびっくりしたのか、目を瞬かせに ながら、唖然とした様子で喜谷さんを見ている。喜谷さんはヒメちゃんの手を引いて、部屋の出口まで歩いていく。


「終わったら連絡をください。部屋の内線があります。受話器を取ったら、私のところに繋がりますので」


 喜谷さんがベッドの横にあるチェストを指差す。そこには確かに、電話が置いてあった。


「それでは、失礼します」


 喜谷さんは、バタンと勢いよく扉を閉めて、ヒメちゃんと一緒に外へ出て行った。


「……多分、処女だと思うんだよね」

「リコ──」


 僕は嗜めるつもりでリコの名前を呼んだ。リコはわざとらしく舌を出して、コツンと自身の頭を拳で叩いた。なんだそれは。


「ごめんごめん。やー、久々の叶斗だー」

「で、バイトってのは?」

「あー、うん。それねー」


 リコは小さく鼻息をついて、ベッドの縁に勢いをつけて座った。横になっていた体がリコがベッドに乗ったことで少しだけ揺れて、僕は「うっ」と思わず声を出す。


「あ、ほんとごめん」

「いいよ。それで?」

「さっき堅物眼鏡も言ってたけど、あいつらは人に害をなす魔しか相手にしないでしょ」


 リコは何でもない風に言った。


「だからちょっとデリヘルのバイトをねー」

「ああ──」


 何か、変に納得してしまった。少しだけリコに対して距離感を覚えるのには何かある種、自分の未熟さを感じる。


「叶斗たちを襲いに来る前。つまり、あたしがあの雑魚に殺されて、吸血鬼の力失って、あの変態に殺されてからせっかく力貯めたのに萎えるなってなってた時ね」


 リコはつらつらと言葉を紡ぐ。


「あ、面接は秒で受かった」

「だろうね……」

「サキュバスになったのはやむを得ずだったからさー。とりあえずこの新しい身体と力の制御も覚えておきたかったってのもある」

「本音は?」

「あはっ、自分で獲物探すより楽そうだし楽しそうだったから!」


 僕は改めてリコの体をまじまじと見る。彼女を指名したい客は多いだろう。死んで身体を再構築している時にある程度自由は効くみたいなことを、何かの拍子にリコが言ってたなと思い出す。客も好みの女を指名して、リコも食事にありつけて、ウィンウィンというわけだ。


「と、まあ? そんなあたしが叶斗だけのサキュバスになっていたわけです。感想は?」


 相変わらず答えにくいことを聞く。僕はバツが悪くなり、「良いから早く」とリコを急かした。リコは「はーい」わざとらしく敬礼をする。


「あ、叶斗は横になってなよ。まだ立ってるのキツいでしょ」


 リコはそう言って、僕の両肩をぐいっと押す。リコに押し倒される形で僕はベッドに横になる。気付けば下着までずり下ろされている。相変わらず手が早い。リコが僕の性器を咥える。リコのサキュバスとして強制力が、身体中を駆け巡る。ビリビリとした感覚が全身に伝わり、気付けば精を吐いていた。


「あら」


 リコは僕の吐き出した物を飲み込んで、意外そうに言った。


「流石に溜まってたか」

「そうみたい、だね」


 何故だか得も言われぬ悔しさを覚えたが、そのことは口にしなかった。


「リコはこれからどうするの」

「これから?」

「いや、結局僕じゃなくても良いんだろ」


 僕はリコが他の人間を襲うようなことがあれば一大事だと思っていたから、今まではリコとの契約に基づき、彼女に食事を提供していた。けれど、僕が昏睡状態の中、リコが独りで食事を探して、それを喜谷さんもよしとしたと言うのであれば、僕もそこのところに拘る必要はない。キッパリとリコとの関わりを断つことも、選択肢の一つだとは思うが、その場合リコが今みたいにおとなしいままでいるのかは未知数だ。僕は知らなかったけれど、冬夜や喜谷さんの言い草では、リコはかなり古株で、名の通った吸血鬼だったようだ。人の社会に溶け込む術は、当たり前のように持っているんだと思う。


「あたしは叶斗が良いんだけどなー」


 リコはわざとらしく舌なめずりをして、僕の股の間からじっとりと顔を近づけてくる。リコの甘い匂いのする吐息が鼻にかかった。僕は彼女から少しでも距離を取ろうと、ベッドに頭を押し付ける。リコはそんな僕を見て艶かしく笑った。


「ま、でも? 今後どうするかは叶斗次第で」

「──そっか」


 僕はリコの言葉に呆れて溜息をつく。


「うーん、そうだな」


 僕は天井を見上げる。これまで、何かに急かされるように色々なことを決めてきた。けれど今は、色々なことが落ち着いてきている。


「また後でじっくり考える」


 僕はそんな風に、もしかしたら久しぶりに、何も考えずに、情けなくも答えを保留した。


「──あはっ」


 リコは愉快そうに笑い、僕の頬を人差し指でツンと突ついて立ち上がり、ベッドから降りると「じゃあ堅物眼鏡とヒメちゃん呼んでくるねー」と足取り軽やかに部屋から出て行った。

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