終わらない黄昏時②

🦇


 眞弓は僕が寝ていた部屋の隣にいた。まだ本調子でない身体を引きずって、リコとヒメちゃんに肩を貸してもらいながら何とか眞弓のそばに行くことができたけれど、眞弓はまだ眠ったままだった。


「眞弓……」


 眞弓の姿を見て、急に涙が溢れて来た。眞弓の四肢は既に再生していた。


「彼女は一日の大半、眠りに費やしていますが、あなたのように昏睡状態にあるわけではありません」


 喜谷さんが、眞弓が横になっているベッドに身を預ける僕を見下ろした。


「最初のうちは起きるとすぐ、血を求めて暴れるので、その度に私が止めていました。当然、息の根を止めることも考えましたが──」


 喜谷さんがそう言うと、リコとヒメちゃんが僕と喜谷さんの間に両腕を開いて立ち塞がる。喜谷さんは小さな微笑みを顔に浮かべて溜息を吐いた。


「このように、彼女達がそうさせてくれないもので。まだ人を襲っていない、それも弱り切っている熊を狩るわけにもいきません。我々が狩るのはあくまで人に害をなす吸血鬼だけです」


 それは、あの人も言っていた理屈だった。改めて、喜谷さんがあの人の弟子なのだということに納得する。


「色々と悩みましたが、起き上がりの彼女に鎮静剤を打ち込み、採血したあなたの血を与えることで、彼女自身に同意を取り、今に至っています」

「口利きしたのはあたしー」


 リコはそう言って、両腕を下に下ろして、腰に手を当てた。


「でもさー、その理屈だとあたしは狩らないとダメじゃない?」


 リコは睨み付けるように喜谷さんを見る。だが、喜谷さんは彼女にすぐには返答しない。喜谷さんは、それでも睨み続けるリコに根負けしたように溜息を吐いて、口を開いた。


「先程も申し上げた通り、あなたがしたのは人殺しではない。吸血鬼退治です。彼女らは、人ではない。ですから、罪を裁かれる存在ですらないのです」


 喜谷さんはチラとリコを見たが、すぐに僕の方に視線を戻した。


「人を噛んだ犬は直ちに殺処分されるわけではありません。再発の恐れがあると判断された時、未然に事故を防ぐ為に処分される。自分勝手な裁量で、人の犬を勝手に殺すのは狂人であって、魔狩りのやることではありません」

「さっきは熊で、今度は犬扱いかよ」


 リコは舌打ちをしたが、喜谷さんが言っているのは、やはりあの人の言っていたのと同じ理屈だった。


「吸血鬼を従える前例はゼロに等しいですが、魔と契約して己の力とする魔狩りは存在します。その魔狩りの使役する魔を勝手に狩る者はいません。そうなれば戦争です。それと同じことですね。……全く、あの人もどこまで考えていたのか」


 喜谷さんの表情がまた一段と険しくなる。やはり、あの人の話題になると冷静ではいられない様子だ。


「あの、聞きたいんですがあの人は──」

「死んでいます」


 喜谷さんはキッパリと、僕の言葉に被せるようにして答えた。


「先生はあなたが退治した吸血鬼──イブラムと我々は呼んでいましたが──に殺されました。彼は吸血鬼で、最大十三体もの肉体に同じ精神を宿していたこともあります」

「──え?」


 世界が凍った心地がした。今、聞き逃してはいけないことを、僕は聞いた気がする。だが、喜谷さんは僕の反応も想定内だったようで、混乱で焦点のボヤける視界の中、喜谷さんは僕の肩に手を置いた。


「とは言え、完全に人格が移植されるばかりではない。先生は奴をずっと追っていました。そんな先生が、あなたの住む町へ赴き、イブラムのうち一体を狩った」


 ──同胞。

 冬夜は眞弓のことをそう言っていた。それは同じ吸血鬼であるというだけの意味ではない。あの時もそんなことを感じた。傲岸不遜な吸血鬼。眞弓と冬夜の雰囲気は、確かに今思うと、似過ぎている程に似ていたと思う。けれど、まさかそんな──?


「それから、その町で吸血鬼に噛まれて吸血鬼になった少女を助けたという話は、私も先生に聞きましたよ。電話で」


 そこで喜谷さんは舌打ちをした。呆然としていた意識が、そのことに驚いて少し整う。


「私が彼女を狩らずにいたのは、師の判断を信じることにしたということでもあります」

「あの、眞弓は──」

「分かりません」


 喜谷さんは変わらず、素早くキッパリと断言する。


「先生があの町で吸血鬼を退治したのは確かです。しかし、以前のイブラムはまだ人格を移植しきる前に先生に狩られた。新宿で冬夜を名乗っていた吸血鬼も、自分の由来について口にはしなかったんですよね? そう聞いています」

「あたしが言ったー」

「ですから──」


 喜谷さんはリコの言葉をまた無視して、話を続ける。リコは目を見開いて喜谷さんを睨み付けたが、隣にいたヒメちゃんに「まあまあ」と嗜められて深呼吸をして、僕の横に座った。ヒメちゃんもそれに合わせて僕の隣、リコが座ったのと反対側に座る。


「彼が死んだ今、何も分からないとしか言いようがありません。彼女がイブラムによって吸血鬼になったのか、それすらもです」

「いやー、あいつは違うでしょ」


 リコが腕を組み、膝と肘を合わせて頬杖をつく。


「だったらあたしが気付くと思うよー。あたしはあの冬夜とか言う奴に一度、殺されてる。あいつがあんたらの言うイブラムで、しかもコピー失敗してんなーってのにはあたしも気付いてた。けど、あの雑魚にそんなことなーんも感じなかったのよ、あたしは」


 リコはチラリと僕の顔を横目で見る。多分、今のは喜谷さんにではなく、僕に向けて言った言葉だ。気にすることはないと、リコは言ってくれているのだ。僕はゆっくりと息を吐き出した。その通りだ。それに、僕は彼女に直接言っただろ。僕にとって、眞弓は眞弓でしかないのだと──。


「……貴様、何をしている」


 その言葉に、僕らは一斉に振り向いた。ベッドで横になったままではあるが、眞弓の目が薄らと開き、僕の方に視線を彷徨わせている。


「起きた、のか」

「うん。おはよう、眞弓」

「はっ、だからか。いつになく部屋が賑やかだと思ったわ」


 眞弓は顔を顰めながら、上体を起き上がらせた。僕は眞弓の目を見る。眞弓は怪訝そうに僕を見返した。今、僕と話しているのは傲岸不遜な吸血鬼、その人格だ。

 ──けれど、僕は思い出す。あの時、眞弓が四肢を失い、リコが冬夜を頭を踏み潰した後に僕を見つめていた時の彼女は、かつての眞弓のものではなかったか。僕の目から、また涙が流れた。自分の涙が目に染みて、両目を擦る。


「ごめん、ちょっと二人にさせて」

「五分だけです」


 喜谷さんは部屋にあった壁掛け時計を見て、淡々とそれだけ言って踵を返した。


「桜木緋芽さん、あなたは私の隣に」

「あ。は、はいっ」


 ヒメちゃんは急いでベッドから立ち上がり、僕に手を振って喜谷さんについて部屋の外に出て行った。リコは一瞬、渋った顔をしたが、仕方ないと声に出して呟いて、ヒメちゃんと同じように僕らに手を振ってから部屋を出て、扉を閉めた。


「眞弓、良かった。生きてた」

「俺が死ぬはずなかろうに」


 眞弓は未だ怪訝そうな顔で僕を見ている。けれどすぐ、僕のなくなった左腕を見て少し涙目になって、それを誤魔化すようにギュッと目を瞑った。彼女はそのまま僕から顔を背けて、窓を方を見る。


「お前が生きていて良かった」

「僕が死ぬわけにはいかないだろ」

「はっ! その通りだ」

「でも、眞弓みたいに元通りってわけにはいかないや」

「脆弱な人間の肉体だ。仕方あるまいよ」

「眞弓、喉乾いたろ」


 僕の言葉に、眞弓は振り向く。その目はまだ少し、潤んでいるように見える。

 ──この目の向こう側に、もう一人いる。今までそう信じていた。けれど今は確信する。あの時に僕の名前を呼んだ彼女も、今僕の目の前にいる傲岸不遜な吸血鬼の彼女も、どちらも彼女だ。


「僕が寝てる間、ずっと我慢させただろ」


 僕は眞弓に首を差し出す。眞弓は躊躇することなく、僕の身体に腕を絡ませて、首筋に噛み付いた。もう痛みには慣れた。ジュルジュルと吸い付く音が耳に響く。横目で眞弓を見る。眞弓の眼は血走っている。僕の首に夢中でしゃぶり付くその様子はやはり、赤ん坊みたいだな、と思う。時折、眞弓の口から吐息が漏れる。彼女の口から吐き出される、金属臭のする息が僕の鼻を刺激する。その臭いを心地良く感じる自分がいた。暫くの間、眞弓は口から唾液を零しながら、僕のうなじに吸い付き続けた。血が吸われて、意識がすうっと遠のくようなこの感覚には、正直段々と癖になっている。

 ぷはぁ、と息を吐く声と共に、眞弓の口が僕の首から離れる。彼女の唇の箸から、血と唾液が混じったピンク色の液体が流れていく。僕はその液体を指で拭き取って、彼女の唇に自分の唇を重ね合わせる。眞弓はそれに抗うこともなく、僕の血に続いて口の中で唾液を吸い付くように舌にしゃぶり付く。僕は彼女の手を握る。僕の方から彼女の手に指を絡ませると、彼女の方も僕に応えて、指と指が絡み合う。


「愚か者めが」


 どちらともなく唇を離すと、眞弓が口を拭いながら言う。彼女の言葉に、僕は頷く。そこではたと気付いた。そういえば、ペンダントはどうしたっけ。いつから持っていないか思い出せない。


「どうした?」

「いや、何でもない」


 僕は眞弓の瞳を見つめる。その眼は深く、飲み込まれそうな深淵。けれど僕は、そこから逃れようなんて気は毛頭ない。


「魔狩りにならないかって言われたよ」

「そうか」


 眞弓は別段驚く様子もない。もしかしたら、眞弓も聞いていたのかもしれない。


「もしそうなっても、ついてきてくれる?」

「はッ!」


 眞弓は、さもおかしそうに笑う


「それはこちらのセリフだ。貴様はそうなっても、俺に追従するのであろうな」

「もちろん」

「ならば好きにするが良い。俺は貴様から、離れんぞ」


 傲岸不遜な彼女はそうやって、不敵に笑う。僕もそれに笑い返す。我慢しきれず、お互い高らかに。二人きりの部屋の中、僕と彼女の笑い声が静かに響いた。

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