魔の呼び声③

「リリー……」


 掠れた声で、僕は思わず呟いた。リコは咄嗟に、彼女の肩に顎を乗せた状態の僕を睨みつけた。


「だーかーら! あたしはリコ! あなたの可愛い可愛いサキュバスのリコちゃん。おわかり?」

「ヒメちゃんは?」


 リコの名前のことも気になるが、それよりも何故彼女がここにいるか、だ。リコは自分の言葉を無視されたことにムッとした顔をしたが、僕の発した問いかけに、目を細めた。けれど、すぐに微笑みを浮かべて、僕の髪の毛を頭の上から手でくしゃりと鷲掴みにして頭を揺らした。


「大丈夫。あの子はちゃんと安全なとこにいるから」


 僕はリコの目を見つめる。


「ホント、だね?」

「うん、信じて」


 リコは力強い眼差しで僕を見つめて、頷いた。この倉庫に来る前に、家で僕に見せた時と同じ、慈愛に満ちた瞳だと思った。


「分かった。信じる」


 僕は言いながらも、さっき見せられた火事を思い出してしまい、その記憶を掻き消すつもりで、かぶりを振った。リコがそう言うなら、そうなのだろう。今は、そう信じる他ない。

 カツン、と倉庫に足音が響いた。冬夜が嬉しそうに笑いながら、僕らの方に両手を広げて近付いてきていた。リコは心底うんざりした顔で舌打ちをする。


「あんたはあたしに近付くな、変態」


 ピシャン、と何かを叩く高い音が倉庫内に響いた。見ると、リコの手には鞭のようなものが握られていた。鞭は金属のようにキラキラと光り輝いていて、その先に血がべったりと付着している。この鞭で床を叩いたのか。僕は、さっき冬夜の肩を抉ったのは、これなのだと自然に理解する。


「リリー。オレは君が──」

「だから、いつまで寝転がってないでぶちかませ雑魚!」


 冬夜のことを完全に無視して、リコが叫んだ。流石に冬夜も笑顔を解き、目元をピクリと動かす。リコは僕を背負ったまま、もう一度床を蹴って更に冬夜から離れた。

 ──その瞬間、目の前に風が吹いた。

 眞弓が冬夜に蹴りを入れていた。頭からは血が流れていて、血で片目を塞がっている。咄嗟のことにも関わらず、冬夜は眞弓の攻撃を腕で防いでいた。リコはその隙にくるりと方向転換をして、倉庫の出口に向かって走り出す。眞弓と冬夜が遠ざかっていく。


「リコ、あいつのこと知ってるの」

「あたし、あいつに一回殺されたの」


 リコは走りながら、僕の問いに端的に答えた。


「力なくして焦って、あんたの町で人襲ってたのはそのせい。その話は後!」


 リコの体から汗がびっしょりと噴き出しているのが、しがみついているせいで分かる。それがあの燃え盛っていた家から僕らを急いで追ってきたからなのか、それとも冬夜に対する緊張や恐怖故なのか。そのどちらともか。


「その女を逃すな!」


 冬夜が、眞弓の蹴りを腕で防ぎながらも叫んだ。倉庫の出入り口の扉が開く。外からゾロゾロと男達が入ってくる。さっき眞弓が倒した人数よりも多い。どこにいたんだ、こんな大人数。最後に入って来た一人がカードのようなものを扉のノブ近くにかざした。ガチャリという鍵の閉まる音がする。


「くっそ!」


 リコはその場で足を止める。さっき僕らが相手にした奴らと同じように、各々が金属バットやナイフ、警棒などの武器を手に持っている。全員の目が不自然に赤く染まっているのも、同じだ。


「あー、もう!」


 リコが苛々しながら頭を掻きむしった。


「見境なしかよ、あの変態!」

「あれ、吸血鬼化してる?」


 リコが首を横に振った。


「いや、あれは一方的に血を分けて傀儡にしてるだけ。それで稀に自ら吸血鬼化しちゃう奴とかも中にはいるんだけど……」


 リコはチラリと冬夜の方を見る。


「大抵はその場限りで力が底上げされるだけ。君があの雑魚と交わしてる契約とも違う」

「そう」


 僕は深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。


「リコ、僕のこと降ろして」

「はあ!?」


 リコが信じられない物を見る目付きで僕を睨みつけた。あまりの迫力に僕は一瞬怯んだが、唾を飲み込んで心を落ち着かせる。


「あれならさっき戦った。何とかできる」

「何とかって」


 リコは悲しげな目をして、僕の手首の方を見た。


「叶斗、その腕じゃ……」

「大丈夫。もう、治ってる」


 僕は手首を失った方の腕を持ち上げた。血は既に止まっていた。前にあの人にも聞いたように、僕は吸血鬼でこそないものの体は普通の人間とは違っている。眞弓との契約がこんな形で役に立つとは、思っていなかったけど。それでもリコは納得がいかないように唸る。


「……でも」


 リコの目の前に、倉庫に入ってきた男達が走り寄って来た。リコは床を垂直に蹴り、跳び上がる。僕はリコの背中に回している腕の力をギュッと強めてしがみつく。リコはそのまま自由落下をして、リコの踵が男二人の脳天に直撃した。重力によって強い打撃を加えられた二人は、どさりとその場に倒れた。それからリコは僕の背中に回した手を離す。


「ありがとう」


 僕はリコの背中から降りる。足元がふらついたのをリコが腰に手を回して支えてくれた。その間にも男達の襲撃は当然止むことなく、リコに向かって一人が金属バットを振り上げて、また別の一人がリコにナイフを向けて突撃する。リコは大きく体を捻って一回転し、手を強く蹴り付けて武器を落としてから、一人一人の顔面を殴り付けた。更にもう一人が遠くから手にした銃のような武器をリコに向ける。銃口から高速で矢が放たれたが、リコはそれを間一髪で避けた。僕はリコをそっと押し除けて、一人で立つ。リコが心配そうに僕の顔を覗き込んだ。


「やっぱりちょっと厳しいんじゃ──」


 リコが言い終わるより先に、僕は大きく息を吐く。まだ自由に動く右手で床に落ちた金属バットを拾い上げ、ぶん投げた。投げたバットはくるくると回転して弧を描くように飛んで、さっきリコに銃口を向けた男の額に当たる。男はその場に背中から倒れて、起き上がらなくなった。


「……分かった」


 リコは諦めたように溜息をついて、床を蹴る。決断が早い。リコはまだ後ろの方で攻撃を渋っている様子の男達に近付く。それから大きく息を吸って、目を見開いた。


「──眠れ」


 リコが静かに、しかし厳かな調子でそう口にする。男達の動きが止まる。そのうちの何人かが電池切れになったロボットみたいにバタバタと倒れた。リコはまた舌打ちをして、倒れなかった数人の男達の首元に向かって回し蹴りを入れた。リコの催眠と冬夜の支配が抗っている、といったところか。僕もリコに初めて襲われた時はなす術もきったが、二度目に襲われた時はリコの支配を振り払えた。今夜、リコが食事をした時にも言っていたように、魔の干渉を何度も受けた人間はある程度の免疫みたいなものがつくのだろう。


「そっちは任せたから!」


 リコは、残る男達を一人ずつ相手取っていた。流石に全員がリコの攻撃一発で沈むような奴らばかりではないようで、冬夜ほどとは言わなくとも、リコの攻撃をうまく反射して防いでいる。あれらを相手にしていたら、こちらを気にする余裕はなさそうだ。僕は金属バットを握り直す。それからこの倒れた男の服をナイフで切り取って、右手と口を使いながら、服の切れ端で僕の手と金属バットを固定した。突貫だからそんな長持ちはしないだろうけれど、これでしばらくの間は握力をそんなに気にせずにバットを振り回せる。手首の出血は止まっているとは言え、無理矢理に地面を踏みしめると、頭痛や吐き気が襲ってくる。目眩もする。けれど、リコに大丈夫と言った。リコもそれを信じてくれた。

 ──であるならば。意地でも立ち続けずにはいられない。

 僕は腕を振り回す。握力が心許ない分、リコがやっているように、遠心力を利用して敵に得物を当てる。ガンという鈍い音と共に、こちらに向かってくる敵の頭に金属バットがぶち当たる。一人、二人と攻撃を加える。だが、向こうももう、ただやられるばかりではない。僕の力任せの攻撃をいなし、武器を振り上げ、下ろす。僕は構うことなく、無我夢中で金属バットを振り回した。死角から何かが僕の腕に力を加えた。左腕が出血している。左肩の辺りに、ざっくりと切り傷がある。見ると、涎を垂らしてナイフを振り回す男がそこにいる。僕は咄嗟に左脚でそいつの腹を蹴ろうとする。男はナイフをこちらに投げた。男の投げたナイフが僕の頬を擦る。鋭い痛みが、全身を痺れさせる。男を蹴り上げようとした脚を、その男に捕まれて逆に脛に膝打ちを入れられた。


「ぐ……ッ!」


 僕は思わず痛みで呻き声を漏らす。痛みがまた全身にまわる。脚の感覚がない。骨が折れたかもしれない。辛うじて倒れずにいた僕の首を、男が掴んだ。男の手が僕の首を絞める。頭が朦朧とする。


「このッ! ざけんなッ!」


 リコの怒りに満ちた声と共に、僕の肺にいっきに空気が入って咽せた。


「叶斗! 生きてる!?」

「なん、とか……」


 僕は片脚では自分の体を支えきれなくなって、左肩のほうから横向きにどさりと床に倒れた。その衝撃で右手に縛り付けていた金属バットが、カランと音を立てて床に落ちた。リコはそんな僕のもとに寄ってきて、額に手を当てた。


「これで全員……」


 リコは息遣いを荒くしていた。リコの額からも血が流れていた。目の焦点も合っていない。僕は倉庫の出入り口を見る。男達が重なりあって倒れていた。


「流石……」

「ここを、出なきゃ。あの雑魚の邪魔に──」


 言って、リコの目が見開かれる。そして彼女は口を開けたまま一点を見つめていた。彼女の視線の先に誰がいるのか、僕は知っている。


「眞弓!」


 僕は右腕で体を何とか持ち上げる。リコの視線の先に、僕も目を向けて、その現実を直視する。


「眞弓……」


 そこにいたのは、床に撒かれた血飛沫の真ん中に倒れている眞弓だった。その目はどこも見ていない。僕は思わず目を瞑った。今目の前で見た物を、見ていたくなかった。

 眞弓の四肢が、辺りに散らばっている。血溜まりの中で倒れている眞弓の胸からドボドボと血が流れ続けているのを見て、僕の視界がぐらついた。


「あ、ああ……」


 見たくない。こんな光景は、見たくない。


「ふ、ふ。手こずったな」


 冬夜が笑いを漏らす。冬夜の方もまた、右腕がなかった。冬夜は床に落ちたリコの右脚を拾った。冬夜は、その右脚の雑に引き千切られた後のある断面を舐めて、恍惚とした表情をして身震いした。僕とリコが冬夜のけしかけた傀儡を相手にしている間、向こうはお互いの身体を文字通り削りあいながら、死闘を繰り広げていた。

 ──そして眞弓は、負けた。


「は、は。楽しかったぞ、同胞よ。名前は……ついぞ、お前の口からは聞けなかったが」


 冬夜が急にぐるんと首を回して、僕の方を向いた。彼は手に持っていた眞弓の脚をゴミでも捨てるかのように放り投げる。冬夜の冷たい視線が、僕の心臓を射抜くように捉えた。カツンカツン、と己の存在を誇示するように足音を響かせて、冬夜が僕に近付いた。


「ふざけんな、この変態……ッ」


 リコが僕を守るように、冬夜に立ち塞がった。冬夜は興味深そうにリコの頭から爪先までに視線を動かして、また笑みを溢した。


「リリー」

「懲りないな、お前」

「臭いが昔より弱い。サキュバスと言っていたか? 魔の力を落としたか」

「あんたに散々殺されたからね」


 リコが近付いてくる冬夜の足に向けて唾を吐いた。リコの唾が冬夜の靴に命中する。冬夜はそれでも楽しそうに笑っている。


「興味深い。その力、少しオレに奮ってみせてくれないか」

「お断りだ、バーカ!」


 リコが冬夜に向けてそう言った瞬間、冬夜は左手でリコの頬を叩いた。リコは冬夜に叩かれた勢いのまま、その場に倒れる。冬夜はそれを見て、笑いを堪えきれずにいる。彼は口元から笑い声を漏らしながら、リコの腕を踏み潰した。


「あ、ああああ!!」


 リコの悲鳴が倉庫の壁に反響してこだまする。冬夜は変わらず愉悦に塗れた表情をして、自身の口元を抑えて、リコの反対側の腕も踏み潰した。またリコの悲鳴が上がる。僕はリコから目を逸らして、眞弓を見る。眞弓の胸からはまだ血が溢れている。流れ出る血と共に小刻みに身体を震わせていた。あの様子では、彼女に意識があるようには見えない。


「リリー、ああリリー・カーネイジ・コールデコット」

「マジで、キモい」


 冬夜がリコの頭を蹴った。リコは呻き声を上げる。冬夜は、リコが痛みを堪えるように呻き声を上げ続けているのをよそに、床に倒れたままの僕の目の前にしゃがんだ。


「君はさっき、名前を呼んでいたな。眞弓、と」


 冬夜が僕の顎に手を当てて、僕の目線の先に彼の顔が来るようにする。


「それが彼女の名前か?」


 僕は答えなかった。こんな奴の問い掛けに答える義理なんてない。


「ふむ……オレの手下共を相手取ったその膂力は褒めてやろう。だが、やはり同胞ではないな」


 冬夜が僕の目を覗き込む。彼の目はしばらく僕をまじまじと興味深げに見ていたが、すぐに興味をなくしたようで、ふんと小さく鼻息を漏らした。


「やはり、ただの餌か。血を与えられているわけでもない」


 冬夜は溜息をつく。眞弓やリコのような、自分と同じ魔以外に興味はないらしい。ここに来たばかりの時も、こいつは眞弓のことばかり見ていた。眞弓が椋島を殺したと聞いて、眞弓との戦いを楽しめると踏んでいたようだった──。


「だが、リリーも眞弓も気に入っていた餌だと言うなら、それだけ君の血は美味ということなのかな」


 お前が眞弓の名前を軽々しく口にするな。そう思って頭に血が上る。

 ──だが、待て。僕は荒々しく息を吐く。待て。こいつはずっと、僕のことを軽くみている。それに、こいつは気付いていない。

 椋島を殺したのは僕だ。けれど、それをこいつは知らない。こいつさっきから僕を、眞弓が連れてきた非常食くらいにしか見ていないんじゃないか──?


 僕は右手を、自身の鞄の中に入れる。そこにはまだ、鉄杭がある。僕はホッと胸を撫で下ろすが、冬夜はそんな僕の様子を気にもしない。


「同胞がそこまで気に入っている餌ならば、オレも楽しめるか。待て、眞弓の餌を勝手に貰ったら彼女は怒るか? ふ、オレには関係ないことだが」


 そんな風に笑いを漏らす冬夜を見て、僕もまた思わず笑ってしまい、ふっと鼻息を鳴らした。どこかで聞いたような台詞だな、と思う。リコに最初に襲われそうになった時も、彼女はそんな風に言っていたな。


「さて、食事の時間だ。首を差し出せ」


 冬夜の言葉に、どくんと僕の心臓が大きく跳ねた。吸血鬼の言葉による強制だ。だが、僕の体は動かない。僕は首を動かすより先に、鞄の中に入れたままの手を動かして、鉄杭を握った。

 ──動く。問題なく、体が動く。

 僕は自分から首を逸らして、冬夜に向けた。あまりに慣れた動作。冬夜は満足げに首を小刻みに縦に振った。


「良い子だ。では、いただくとしよう」


 それから冬夜は大きく口を開ける。冬夜の息が、僕の鼻先にかかる。ドブみたいな臭いだ。僕は思わず顔を歪ませる。冬夜が僕の首に食い付く。彼の牙が僕の肌に触れて、チクリとしたものを感じるが、こんなもの痛みでもなんでもない。

 ──僕は鞄の中の鉄杭を握り直す。


「僕の血は、眞弓の物だ」


 僕は力を込めて、そう口にする。冬夜が怪訝そうに額に皺を寄せた。その隙を見逃さない。僕は鞄の中から鉄杭を取り出して、冬夜の背中側から心臓目掛けて、鉄杭を彼の体に突き刺した。

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