第2話 残された手記
身体には多くの酷い傷を負い、地面には大量の血が滲んでいた。血は完全に乾ききっているため、死んでから数時間は経過しているようだ。
幸いなことに、彼女の綺麗な顔には傷一つ付いていなかった。長いまつ毛に、艶やかな白い肌。花弁のような唇。月のように輝く金色の髪と、色褪せた薄紅色の瞳。
彼女の瞳に最後に映ったものはなんだろう。瞳孔が開き、歪んだ表情をしていた。
「……先生! アナスタシア先生!」
コゼットは声を荒らげながら、横たわるアナスタシアに駆け寄り、脈を取る。そして、引きつった顔でテオの方を見た。
「脈が……ないです……」
テオはその場に立ちすくんだまま答える。
「……分かるだろ……そんなの見たら」
目の前の光景に、テオは酷く絶望した。これは夢だ。全部悪い夢。アナスタシアがこんな所で死ぬなんて、信じられない。
「先生! 先生!」
雨音に、コゼットの悲痛な叫び声が混じる。
なぜだ?
テオの頭の中には、疑問ばかりが浮かぶ。
なぜ、アナスタシアはこんな廃工場にいる?
なぜ、アナスタシアは俺たちに何も言わなかった?
なぜ、アナスタシアは死んだ?
分からない。一体彼女は何を考えていたのだろう。
テオはアナスタシアの横にゆっくりと膝を着いた。彼女の頬に手を当てる。氷のように冷たい。本当に、息をしていない。
「どうしてだよ」
アナスタシアに命を救われたあの日から、テオは彼女のためだけに生きようと決めた。彼女のそばにいられるだけでよかったのに、もうそれすら叶わない。
「アナスタシア……」
そう名前を呼んでも、返事は返って来なかった。鈴のような綺麗な声は、もう聞くことはできない。女神のような笑顔をこちらに向けてくれることもない。
もっと早くに彼女を探しにいっていれば、こんな結末を迎えることはなかっただろうか?
後悔ばかりが溢れ出てくる。
「……この傷を見てください、テオ。」
アナスタシアの胸から腹にかけて、三本の深い爪痕のようなものが残っていた。おそらく、それが致命傷のようだ。
「魔物の仕業だろうな」
考えられる選択肢はそれだった。これほどの傷を負わせられるような爪を持っているのは、魔物くらいしかいないだろう。
魔物は凶暴だ。森や廃墟などの人気のない場所を住処とし、度々村や街へ出てきては人々を襲い、田畑を荒らす。姿は犬や鳥、猪などの様々な動物と酷似しており、どの個体も赤い瞳を持っている。おそらく、この廃工場も魔物の住処だったのだろう。
コゼットは深呼吸をして心を落ち着かせたあと、冷静に言葉を発した。
「アナスタシア先生ほどの優秀な魔女なら、魔物を倒すことくらい容易なはずです。実際、これまでに彼女が多くの魔物を一人で倒しているところを見たことがあります」
「……何が言いたいんだ?」
テオは眉を潜めた。
「アナスタシア先生は、本当に《ただ魔物に殺された》》だけなんですか?」
コゼットがそう言い放った瞬間、二人の間に緊張が走った。その緊張の中、彼女は続ける。
「なんでアナスタシア先生は、こんな廃工場にいるんですか? わざわざ雨の日に、こんなところへ来る理由。誰かに呼び出されたんじゃないですか?」
「やめろ。変な想像するな。アナスタシアは魔物に襲われた。ただそれだけだ」
「アナスタシア先生は嵌められたんですよ。先生は魔物がいると知らずに廃墟に呼び出され、そして不意を突かれたとか……」
「黙れ!」
テオは叫んだ。雨の音だけが響く。
アナスタシアは、何者かの悪意によって殺されたっていうのか? いや、そんなはずない。テオはかぶりを振った。アナスタシアは、誰かから反感を買うような人物ではない。人を傷つけるようなことは望まない、心の優しい人だ。馬鹿なことを考えるな、と自分に言い聞かせる。
「すみません。憶測で語っても仕方がないですよね。でも、アナスタシア先生が魔物に負けるなんてありえません。だから、何か魔物に反撃出来なかった理由があったのかもしれませんね」
コゼットはそれ以上は何も言わなかった。
しばらくの沈黙の後、テオは立ち上がった。
「まだ魔物が近くにいるかもしれない。それに、アナスタシアをここに置いておきたくない。行こう、コゼット」
テオはアナスタシアを背負い、傘をコゼットに渡す。
「これ、持っていてくれ」
「はい……」
コゼットは二つの傘をさし、片方に自分が入り、もう片方にテオとアナスタシアを入れ、廃工場を後にした。
✿✿✿
アナスタシアが死んだという事実に、一日経ってもまだ実感が湧かなかった。どうしようもない喪失感に苛まれている。
アナスタシアの遺体は安置所へと運ばれた。医者に診てもらった結果、傷は魔物によるもので間違いないようだった。その爪の痕から、鷲型の魔物の仕業であることが分かった。爪の大きさから、相当大きな個体だと思われた。
その他の複数ある傷を調べた結果、傷の形の種類の違いから、おそらくあの場には少なくとも三体の魔物がいたらしい。
三体の魔物くらい、アナスタシアなら魔法で容易に倒せたはずだ。それなのに、なぜだ。なぜ殺られた? 彼女がそんな失態を犯すはずがない。だって彼女は、誰もが認める優秀な魔女なのだから。疑問ばかりが頭の中をグルグル回る。
医者の所から帰ってきた後、テオとコゼットはアナスタシアの遺品の整理を始めた。といっても、宿に置いてある荷物はそれほど多くはない。
ほとんどがアナスタシアの仕事道具ばかりだ。世界各国で集めたあらゆる薬草が入った木箱。薬の調合の際に使う鍋や保存用の瓶。
「テオ!」
コゼットが声を上げた。
「何か見つけたのか?」
テオはコゼットに近づいた。彼女はアナスタシアの魔道具が入った鞄から、何やら取り出した。
「これ、アナスタシア先生の手記じゃないですか?」
上等そうな革の表紙の本で、留め具が付いている。随分と使い古されているようで、色褪せていた。アナスタシアがこれに何かを書いているところをよく見かけた。
「鍵がかかってます。何重にも封の魔法がかけられていて、これはそう簡単には開きません」
「そうか……」
テオは落胆した。アナスタシアは、この手記を頑なに見せようとしなかった。だから、何か重要なことが書かれているかもしれないと思った。唯一の手がかりで、頼みの綱でもあったのだ。
しかし、鍵がかかっているのなら無理だ。しかも、普通の鍵ではなく、魔法でかけられている。力ずくでこじ開けるのは不可能だ。
「別に、開けられないとは言ってないですよ」
「え?」
コゼットの言葉に、テオは顔を上げた。
「私を誰だと思ってるんですか」
コゼットは険しい目で、テオを見つめる。
そこでテオは思い出した。
「そうか、お前は優秀な魔女の一番弟子だったな」
優秀な魔女の弟子もまた、認めたくはないが優秀な魔女である。
テオがそう言うと、コゼットは満足気に頷いた。
「私が必ず解いてみせます」
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