第36話
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「父さん……俺、記憶喪失なんだってさ……」
お墓の前に立ちすくんでいると、線香の煙がひとすじ、
「皆んな、ひどいよね。俺に黙ってるなんてさ」
きっと俺は、悲しい笑みが自然と浮かんでしまっている。
全てがぼんやりと遠く、不確かで、自分の記憶さえ信じられない。こんな理不尽なことが本当にあるのだろうか。
線香の煙が静かに揺れ、墓石の向こうには海が広がっている。夕焼けに染まった波が穏やかに押し寄せる音が、かすかに耳をくすぐる。
「……ごめん」
声が震えていたため、熱くなる目頭をぐっと歯を食いしばる。泣きたくない。
「もし、父さんとの大事な記憶まで忘れていたら……」
*
「ちょっと待ってくださいっ!」
反射的に声が出た。
車内では、小さくラジオの音声が流れているだけだった。
今日、起こった出来事は聞かせてもらった。そして、このタクシーは鳴海君のお父さんのお墓に向かっているということも。
「鳴海君……お父さんが亡くなったのは、小学三年生の頃だって言ってました」
その言葉に、お母さんの顔に影が落ちる。短い沈黙が続き、深く息をついてから答えてくれる。
「亡くなったのは……中学一年生のときね」
「……でも」
困惑する私を見て、お母さんは小さく首を振った。
「純がバスケットボールを始めたのは小学三年生。その頃は、父親の影響を受けて、朝から晩まで一緒に練習してた」
お母さんは少し視線を落としてから続ける。
「多分だけど……純は、バスケットボールの記憶と一緒に、父親との記憶も失ってるんだと思うの」
——そんなっ⁈
私には、そんな事実を上手に受け止めることができなかった。
どうしてそんなことが……?
バスケを忘れたうえに、お父さんとの思い出まで——。
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……父さん。
無意識にここへ来てしまうのも、何か、忘れたものを探しに、足がこの場所を選んでいるのかもしれない。
「大丈夫……俺は泣かないよ」
目を閉じると、幼い頃の記憶が浮かんだ。
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転んだ膝がひりひりと痛む。幼い自分が泣きながら地面に座り込んでいた。
「嘘泣きだろ?」
父さんの声が耳に届く。手を差し伸べることはせず、じっと涙目の俺を見つめていた。
泣き声を飲み込んで、必死に立ち上がる。膝の汚れをぬぐって顔を上げると、父さんは膝を曲げて目線を合わせ、にかっと笑った。
「よし、よし、純、頑張ったなー」
大きな手が頭をぐしゃっと撫でる。その感触が何よりも嬉しくて、自然と笑みが広がった。
「でもな、純、本当に泣きたいときはいつでも泣いていいんだからなー」
父さんはそう言って、まっすぐ目を見つめた。
「俺がいつだって抱きしめてやるからなっ」
そう言うと、優しく抱きしめた。大きくて温かい腕の中で、安心感に包まれた。
---
記憶が途切れる。
潮風に揺れる線香の煙が、まるで記憶をさらっていくようだ。
「父さん……また来るよ」
*
鳴海君の姿はなかった。
寂しく遠目に映る、お墓の前に立つお母さんの後ろ姿からは、どこか強さもみたいなものも感じ取れた。その向こうに見える海が、沈みゆく太陽の光を受けて輝いている。潮の香りが風に乗って漂い、私の髪を揺らした。
——ここが生まれ育った場所……
そう思うと、少しだけ鳴海君のことを知れたような気がして、何だかうれしかった。
「離れてからそんなに経ってないのかも。線香はまだ消えかけだったから」
お母さんが戻ってきて、ほっとした表情を浮かべながら言った。
「あと、さっき鎌倉の祖母から連絡があったの。やっぱり純はここに来てたみたい。祖父母に顔を見せてから、都内に戻ったって」
「よかった……」
思わず口にしたその言葉に、お母さんも頷いた。
「野々原さん、本当にありがとう」
お母さんがそう言って、優しく微笑む。
「いえ、私は勝手についてきただけですから」
そう答えると、お母さんは少し黙り込んでから口を開いた。
「純ね……二年前、ここに来る途中で事故に遭ったの」
「えっ?」
「あなたのことは、中学生のとき、純からよく話を聞いてたから、ずっと伝えなきゃ、とは思っていたんだけど」
思わず声を上げた私を見て、お母さんは少し言いにくそうに話を続けた。
「そのときね、自転車に乗ってた小学生を助けたらしいの。その子が車に巻き込まれそうになったのを、純がかばって。純も特に目立った外傷もなく、他の人たちにも怪我もなく大きな事故ではなかったんだけど、倒れ込んだときに、純は頭を強くぶつけてしまって……意識を失ったって聞いてる」
適当な言葉を探すけど、私には何も思いつかない。
「情けない話なんだけど、私はそのときアメリカにいて、事故のことを知ったのは、救急隊が名前を聞いて鎌倉の祖父母に連絡をくれたあとで」
お母さんはそう話して、一度深く息をついた。
「鳴海の家は、ここらでは少し知られているから、すぐに身元がわかったって。でも……純はその事故のあと、記憶をなくしてしまった」
鳴海君は大事な試合の前に、お父さんと話したかったのだろうか。
そんなふうに、私は、ただ、彼のことを考えるしかなかった。
「もしかしたら純は……無意識にここへ来て、失くしたものを見つけようとしているのかもしれないわね」
そう言って私を見つめる、その視線には、どこか私に期待するようなものが含まれている気がした。
「水族館へは……どうして?」
突然、訊かれて一瞬戸惑ってしまった。
「えっと……私が誘いました。中学のときに一緒に行ったことがあって、何か思い出してくれるかと思って」
「ありがとう」
お母さんは微笑んでいた。
「もしかして、ベニクラゲ?」
お母さんが笑った瞬間、鳴海君と水族館で過ごした時間が脳裏に浮かんだ。
「……あ、そうです」
「純の父親が水族館が好きでね。よく二人で行ってて。訳のわからないウンチクを垂れながらね」
お母さんの顔からは、遠くにある何かを懐かしんでいるように見えた。かけがえのない思い出の一つをかいつまむように、その大切な一つを私に伝えようとしてくれている。
「何やらクジラの鳴き声にはアルファベットみたいな構造があるのだとか言い出して、もしかしたら人間と話せるかもしれないっとか言ってたりね」
私もその話に、思わず笑みを浮かべてしまう。
「クジラと話すのが二人の夢だとか、ほんと、おかしな親子でしょ?」
お母さんの笑みの中にある、鳴海君とそのお父さんの姿が、私の頭の中にもぼんやりと浮かんだ。
+
家に帰るまでの時間が、こんなにも嫌だと思う気持ちを、窓の外に見える夕焼けのせいにした。
電車の揺れに身を
心配してるだろうな。
俺はどんな顔で会えばいいのか。
今日のことを話すべきか、それとも何もなかったふりをするべきか。どちらを選んだとしても、きっと二人ともまともに話せないだろう。
記憶を失っていることを黙っていた理由。
それがどれだけ重いものであったとしても、俺にはそれを受け入れる準備ができていない。
あまり心配をかけたくないと思う感情が、空っぽな心にじわじわと広がり、出口のない寂しさを強くする。
座席に並ぶ人たちの姿が目に入り、皆んなきちんとした形でそこにいるように見えるのに、自分だけが何か違う気がした。
まるで、色や形が基準から外れて、廃棄される不揃いの野菜みたいに。傷や歪みは、自分ではどうすることもできないのに、価値がないと決めつけられている気分だった。
目を閉じると、夕陽の熱をまぶたに感じ、俺はひっそりと、今日という日にさよならを告げた。
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